「礼拝メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2021/6/6 創立98周年記念特別礼拝 岸義紘先生「ろばの子に乗る奇跡」

聖書箇所 マタイによる福音書第21章1節~11節 

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

イエスはエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエス」と言った。

2021年5月30日礼拝メッセージ

朝位フミ子牧師

讃美歌294番 1みめぐみゆたけき 主の手にひかれて この世に旅路を 歩むぞうれしき たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ みあとをゆくこそ こよなきさちなれ 4世の旅はてなば 死のかわなみをも 恐れず越えゆかん みたすけたのみて たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ みあとをゆくこそ こよなきさちなれ

主題「キリストによる一致」2021・5・30説教要旨

                      朝位フミ子

エフェソ人への手紙について、主イエスの使徒パウロからという

書き出しで始まっています。さて、本書はフィリポ、コロサイ、フィレモンへの手紙

と共に「獄中書簡」と呼ばれてきましたが、この手紙はこの2年の間に、ローマにおいて

書かれたものです。多くの入獄経験をして、福音のために大使の役を果たすことが出来

たのは、ローマでカイザリヤの裁判を待っていた期間であった。といいます。

本論

本日は、エフェソ人への手紙2章11~22節を「キリストによる一致」と題して、主イエス・キリストが異邦人をどのように救いに導き、ユダヤ人と一致させたかを学びましょう。

これを3つに分けてお話をしたいと思います。

Ⅰは2・11~12 かつてのユダヤ人と異邦人との関係

Ⅱは2・13~18 キリストによる和解

Ⅲは2・19~22 神の家族と住まい

Ⅰはかってのユダヤ人と異邦人との関係 2・11~12、11節からいよいよエフェソへの手紙の大テーマの1つ、ユダヤ人と異邦人との問題が展開されています。

  1. 異邦人は無割礼の者と呼ばれていた。
  2. 異邦人はメシヤの希望を持っていなかった。
  3. 異邦人はイスラエル人の社会から除け者にされていた。
  4. 異邦人は約束されたいろいろな契約には縁がなかった。
  5. 異邦人はこの世の中で希望もなく神もない者であった。

確かに、異邦人は神なき者であったために、キリストが来られるまで、絶望を味わっていた。

 Ⅱキリストによる和解2・13~18

13節から、異邦人は「キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となりました。一挙に「霊的な神の国」に近づけられ、救い主の祝福の中に入れられたのです。キリストという一人格の出現によって異邦人もユダヤ人も手を取り合うことができたのです。14節に「キリストは私達の平和であります。」

パウロはユダヤ人と異邦人が1つとなり、敵意が平和になったと主張しています。

それはキリスト御自身が十字架上で身代わりとして献げて下さったからです。

「隔ての壁」とは、神殿の境内地の中で、ユダヤ人と異邦人とを分け隔てたシンボルだったのです。キリストによって打ち壊されたのです。

 Ⅲ神の家族と住まい。2・19~22

19節(1)今や異邦人は、ユダヤ人と同じように神の聖なる民の中に含まれた。

(2)異邦人は、部外者であったけれども、今や「同じ信仰」によって神の家

    族に加わったのです。      

 (3)建物です。パウロは、建物の土台は「使徒」と「預言者」である。

教会とは建物の1部分で、キリストは教会を建築する石です。全教会の隅のかしら石はキリストです。

建物は、大きく成長し、建物の中には、神がお住まいになることが出来るように。

結論

 教会の一致は、キリストから来るのです。神と和解した私達は、恐れなく神に近づいて行くことが出来るのです。

私達は色々な所から集まって、教会を形成しています。

神の家族ですからお互いに愛をもってキリストにある一致を基礎として、努めようではありませんか。

初代教会の誕生 2021/5/23 礼拝メッセージ

聖歌539 1見ゆるところによらずして 信仰によりて歩むべし 何をも見ずまた聞かずとも 神のみ約束にたち 歩めよ信仰により 歩め歩め疑わで 歩めよ信仰により 見ゆるとこにはよらで 3おのが清きを持てちこう エホバの神はまことなり そのみことばを信ずるものに なしあたわぬことあらじ 歩めよ信仰により 歩め歩め疑わで 歩めよ信仰により 見ゆるとこにはよらで

説教 朝位真士

「思い煩わないでほしい」2021・5・16説教要旨

讃美歌354番 1 かいぬしわが主よ まようわれらに 若草の野辺に 導きたまえ 我らを守りて 養いたまえ 我らは主のもの 主にあがなわる 1 みいつくしみをば 我らに満たし 今よりみ旨を なさしめたまえ 我らをあわれむ み恵みふかし 我らは主のもの 主をのみ愛す

朝位真士

今日は1コリント7・25~40節を通して聖書を学んで行きましょう。この7・25~28節は召され時の身分にとどまるべき事。29~35節このような意見を生じるパウロの意見。36~38節処女である娘を持つ父に対する注意。39~40節寡婦の再婚について。と分類することができます。パウロは結婚に関して、キリストの再臨がすでに近づき、世の終わりの危機が迫っているから、結婚している者はそのままの状態におり、していない者は結婚しないでいる方が良いという。つまり今の状態を保つようにと勧めているのである。パウロの現状維持の勧めとして次の3つのことが挙げられます。

1つは、 1コリント7・25~40節を見て下さい。とくに25~35節に3つのことが述べられていま結婚は苦難に種となるからであります。28節を見て下さい。2つは時が縮まっています。29から31節を見て下さい。世の終末は間近であります。それゆえキリスト者はいたずらに地上生活に執着してはならない。結婚も、商売も、社会生活も、悲しみも、喜びも、これらすべてのものは過ぎ去る一時的なもので、ある。天に国籍を持つキリスト者は(フィリプ3・20)、こうした地上の生活に心を奪われて永遠なるものを忘れてはならないのであります。3つは、主を喜ばせるためであります。(32~34)とくに思い煩わないで欲しいといつています。つまるとこる、主を第一とする生活を送るのは独身でいるのが良いとゆうのがパウロの主張です。次に36~40節をもう1度見て下さい。ここではただ主にあってということが語られています。しつかりと自分の信仰的立場を表明した上で、信仰を保持できるようにことを運ばなくてはなりません。このパウロの意見は、彼の意見として述べられたもので、決して勝手なものではなく、神の霊に導かれたものであるという信念があった。

キリスト者にとって結婚は人生最大の目的ではありません。キリスト者は、結婚することによって独身でいるよりも多く主に栄光を帰することが出来る場合に結婚するのであります。結婚することによって主にたいする奉仕を少しでも支障がでる可能性があれば結婚すべきではない。その厳しさを是非私達の内にも育てたいのであります。救われて神のものとなったキリスト者どうしの結婚は、互いに協力し合い、その生活をもって神の栄光を現わし、信仰を次の世代に受け継ぐ者でなければならないと思います。それゆえキリスト者の結婚は、結婚それ自体ではなく、結婚によって築かれた家庭を神の栄光にために用いることが究極の目的なのです。したがって結婚は、1人で神を讃美していた人が、2人で、神を讃美するようになることであります。次の世代の誕生によって今度は親子で神を讃美するようになることであります。キリスト者にとっては、親子で、神を讃美することが子供も誕生の第1の目的であることも大切であります。

結び

今日はこの7章全体のまとめとして結婚問題について「思い煩わないでほしい」とパウロは結論づけています。とくに結婚問題。これは私たちの信仰生活に大いに影響があります。結婚されたことによって神様の御用が出来た方もおられますし、また結婚されたことによって信仰から離れたかたも多くおられます。それは個々人の主との関係が大切だと思います。勿論、1時的に信仰から離れた方も晩年教会に戻られて、信仰復興されたかたもおられます。全ては神様にお任せすることが必要です。信者の生活は、ひたすら主を喜ばせ、主に仕えてゆく者でなければならない。結婚されている方は往々にして、家庭を第一にするが余り、とくにこの世の様々なことに思い煩うのであります。そうして、ややもすると、信仰と家庭が両立しなくなるおそれがあります。そして「心が分かれる」、そこに精神の統一がなくなり、思い乱れてきます。マタイ6・25~34節p10マタイ11・28~30節p21、フィリピ4・6~7p366を見て下さい。またルカ10・41~42節p127ご覧ください。

1コリント7・39~40節を見て下さい。バークレーは「ギリシアの賢者プルタルコスは「結婚は夫婦が同じ宗教を信じていなければ、幸福なものにはなりえない」と。最高の愛は、2人が愛し合い、その愛がキリストへの共通の愛によってきよめられたときに、実現されるのだ。そのとき2人は単に生活を共にするだけでなく、祈りを共にするからであり、また生活と愛とが結びついて絶えざる礼拝となるからです。」と語っています。

「神の定めた生き方」2021・5・9説教要旨

                    朝位真士

今日は1コリント7・17~24節を通して聖書を学んで行きましょう。この17~24節は召された時の身分にとどまるべき事を語っています。17節の「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」との言葉を受けて、結婚問題から転じて信者の身分問題を挿入したものである。かれは奴隷制度の禁止という社会問題よりも、(各自は、召されたままの状態にとどまって)(召された状態ままで、神のみまえにいるべきである)と(20,24)、個人の魂の問題を力説する。彼はここまではやかましい割礼問題にも超越しているように(18,19)、奴隷制度の善悪にふれずに、いかなる境遇のなかにあっても主との関係を意識して(23,主の血によって買い取られた身分であるから)、

聖徒らしく神と共に、神の御前に生活すべきことを勧める(1ペテロ2・18~20)。私達はどのような身分であっても、この心得が必要である。

1コリント7・17~24節を見て下さい。コリント教会の人々は、夫婦のきずなの問題のほかに、社会的身分においても何かしなければならないと思い込んで、騒いでいたようであります。そこで19,20,24節を見て下さい。人間はやたらに騒いで、結局は有害無益に終わることがよくあります。だから21節をご覧下さい。と言うパウロの一見無批判的な言葉に対して不満を感じる人も多いと思います。しかしパウロのやり方は、巨大な氷山を崩そうとして必死につるはしを振りかざしてすぐに疲弊してしまうのではなく、太陽の熱で静かにしかし根本的に溶かし去る道なのです。(ピレモン16~17)p399もう1度17節をみてください。20節も見て下さい。神から賜ったものとしてそこに使命を自覚して生きるべきであります。キリスト者は、毎日の平凡な生活の中に、神の栄光を現わすことです・すなわち、神の御旨に従って「歩む」ことです。私達はキリストの奴隷です。すべてをキリストの御心に服従して生活する。だからキリスト教会においては全てが平等です。お金持ち、貧しいひとも、教養のある人も、ない人の老人も若者も子供も大人も神の前では平等です。すべてのキリスト者は、キリストの尊い贖いの血で「買いとられた」者であります。(1ペテロ1・18~19)p429もはや罪という古い主人の下にはいないのです。新しい主イエス・キリストに仕えて生きなければなりません。そしてキリストに仕え、キリストのものとなりきることが、霊的に自由に徹することであります。(ガラ5・1,13)p349

結び

もう1度7・17~24節を見て下さい。最後の24節は17節以下の精神をもう1度総括してみたのであります。キリスト者は、強いて外的変化を求めず、召されたままの状態でいなさいといっています。ただ大事な事は、「神の御前にいる」という心がけと態度であります。これさえあれば、どんな境遇に中にも、処することが出来ます。

フィリピ4・10~13節見て下さい。p366

ウイリアムバークレーこのコリント教会ここの箇所7・17~24節を召されたままの状態で神に仕える事と言っています。「今ある状態でキリスト者たれ」と言っています。パウロは、キリスト教の機能は人に新しい生活を与えることではなく、彼の古い生活を新しくすることであると言っています。キリスト者はキリストに買いとられたもの、従ってキリストの個人的所有物である。だから人間的身分はなんであれ、彼は全ての人間から自由である。今や

彼はイエス・キリストの所有物なのだから。どんなに卑しい仕事でも、もはや人のためにするのではなく、キリストのためにするのであります。

「平和な生活を送りなさい」2021・5・2説教要旨

 朝位 真士

今日は1コリント7・1~16節を学んで行きましょう。この7章全体は結婚者と独身者。神の前に生活の必要。分解1~9結婚および夫婦生活に関するパウロの勧め。10~11既婚者に対して、離婚してはならないとの主の御命令。12~17未信者の配偶を持つ者の離婚問題。18~24召された時の身分にとどまること。25~28未婚者の結婚に関するパウロの意見。29~35このような意見の生じるパウロの見解。社会の変換と結婚生活の煩雑さ。36~38処女である娘を持つ父に対する注意。39~40寡婦の再婚について。この7章は結婚問題について聖書の中で最も明白にしるされた聖書の箇所であります。神がエデンの園で制定されたことであり、キリストもカナにおいて結婚の宴に臨席してこれを祝福された。結婚は厳粛な礼典であり、夫婦生活は神聖な関係である。パウロはこれをキリストと教会の関係になぞらえて(エペソ5・21~33)、ヘブル人への手紙の記者も、『すべての人は、結婚を重んずべきである』(へブル13・4)。ところが7章ではむしろ独身を推奨するかのように見えるのは、主の再臨が近づいていることを信ずるゆえに、この世のことにとらわれず(29~31)、結婚生活の煩雑さを避けて(余念なく主に奉仕させたい)からであり、(32~35)、更にまた、更にまた、再臨の前に患難時代のあることを知る故に、そのとき家庭の係累のあるものはさらにその患難が増すことを思って(26~28)、パウロの意見を述べたのであります。パウロ自身は独身生活で主のために精進しており、出来れば彼らも主のためにそのような生涯を送るようにと願い(35)、むしろ独身を推奨したのであります。

1コリント7章1~16節を見て下さい。コリント教会は、形成後の日も浅く、未だ教会の固定した慣習もなかった。それで何かの事件にぶつかると、問題をどう処理したらよいかわからないということがかなりありました。パウロは、そうした具体的な問題に対して、またきわめて具体的な解答を与えています。この7章は結婚問題を語っています。ここでは結婚の原理のことよりも、いろんな事態に直面して、実際にどう対処したらいいか、と言う問題であった。例えば、独身の状態はどうであるか。離婚は絶体にいけないのか。夫婦の片方が未信者の場合はどうすればよいか。処女や寡婦の結婚についてはどうか。そうしたことについて、コリント教会はパウロの意見を求めた。パウロは、これに対して、コリントという特殊の土地を考慮にいれながら、答えています。1~7節をもう1度見て下さい。キリストの再臨は近い。できれば、独身でいたほうが身軽であります。パウロの結婚の意義に関する教えはきわめて厳かであり、コロサイ3・18~25,エペソ5・22~23などに見られます。人にはそれぞれの異なった賜物がある。要はそうした場所で、そうした時代に、どうすることが、主の道を守るのに最もよいかということであり、各人がそれぞれ決定しなければならないことであります。8~16節を見て下さい。15節を見て下さい。やむを得ず、離婚が認められる。その理由として、第1には、神が信者を召されたのは心の平和を得させるためであったからである。離れ去った相手と、無理に結ばれていかねばならないとすれば、平和はいつも失われる。第2の理由は、とうてい相手を信仰に導く可能性がないからであります。未信者と生活している信者は、相手を信仰に導き、救いに入れることが義務とされた。しかし、そうして相手に対して、その確信がもてるか。なかなか困難である。その確信が持てないならば、安価な感傷にふけって、いつまでも自分を苦しめる必要はありませんとパウロは語っています。

結び

この1~7節は男性と女性、夫と妻、独身であれ結婚するのであれ、いずれにしても主に従っていくことを進めています。マタイ19・11~12節見て下さい。p367。8~9未婚者と寡婦、7・10~11節結婚した人々に。7・12~16節を見て下さい。配偶者が未信者の場合の離婚。この論法の問題点は、1・結婚してから導くというが、その相手が救われる保証はない。救いは主のみ業であります。御言葉に従わないでいて、主に期待するのは虫がよすぎる。2・結婚してから信者でない相手が救われたという例は確かにあるし、それは素晴らしいことであるが、保証がありません。バークレーこのコリント教会がパウロに相談してきた問題を整理してみると、1~2クリスチャンは結婚すべきではないと考える人々への勧告。3~7すでに結婚している者もおたがい性関係を一切断つべきだと主張する人々への勧告。8~9未婚者および未亡人への勧告。10~11既婚者は離婚すべきだと考える人々への勧告。12~17夫婦の一方がクリスチャンであり、他方が未信者である場合、その結婚は解消されるべきだと考える人々への勧告。

「神の栄光をあらわしなさい」2021・4・25説教要旨

朝位真士

 今日は1コリント6章12~20節を学んでいきましょう。この6章12~20節は3つに分類されます。12節肝要な原理。13~18節きよくあるべき勧め。19~20節私達の身分と肉体の神聖。6章の後半および7章は、肉欲について特に警戒しなければならない彼らに、肉体と結婚の神聖さをといたものであります。肉体はきよめられ義とされたものであるからきよく(9~12)、主のものであるからきよく(13~18)、聖霊の宮たるものであるからきよい(19~20)と説く、食欲も性欲も、それ自身は罪ではなく、神がお与えになった本能であるが、それに支配されてはならない(12)。この体は義の器として主に奉仕するため(13)、また聖霊の宮として主を宿し、からだをもって主の栄光を現わすためである(19~20)。

(主はからだのためである)(13)。キリストは私達の魂を救うだけでなく、からだをもいやし、また再臨の時にはこのからだをあがなって栄化をさせて下さる。キリスト者のからだはこのように尊いものであり、現在においても(キリストの肢体)であるゆえに(15)、淫行によりこの特権を失って遊女と一体となることなく、主と結合して(主と1つの霊になる)べきであります。(16~17)。私達は金や銀でなく、キリストの尊い血によって買い取られた奴隷であるから、身をもって神に奉仕し、ただ神の栄光を現わすために生活すべきであります(19~20。このからだをどのように用いるかによって、きよい生活を送るか不潔に陥るかがきまる。わたしたちはこの体を「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として」神にささげ、(ローマ12・1)、こうして聖霊の宮とされ、聖霊の内住を体験し、この体をもって神の栄光をあらわすべきであります。

1コリント6・12~20節を見て下さい。福音は人に自由を得させる。すなわち、罪から解放する。しかし、ギリシャ人の中には、この自由をはきちがえをしている者もいた。そして、何でも」自由である、といっていろいろの不義をあえて犯していた。その中でも、不品行は、大きな問題であった。だから、ここではそれを取りあげて、福音の自由がいかに道徳的に制限のあるものであるかを明らかにする。パウロは、キリスト者は何物にも拘束されない、いわゆる、キリスト者の自由を与えられているからであります。しかし、この自由は放縦ではない。それは喜んで自らを、他のために拘束する自由である。高い道徳的原理のためには、その「全て赦されている」ことが、条件づけられ、制限されるのであります。自由はよいことである、しかし、それは勝手であってはならない。それが、他人の「益になる」かどうか、常に反省されなければならない。何でも許されている。だが、それを正しく「支配」しているかどうか。それに捕らえられ、その奴隷となるならば、そこに災いは始まる。食欲でも、性欲でも、それ自体は許されている。悪いものではありません。しかしそれらを濫用し、その奴隷となるならば、醜い生活とならざるをえません。それは実に「主のために存在」そしてまたするものであります。そしてまた「主はからだのため」にあるという。主は実に、この身をも、あがなわれる。そして、わたしたちが生きるのは、ただ主のためである。わたしたちはこの身をもって、主の栄光を現わさなければなりません。ここに、私達が、不品行を戒めなければならない第一の理由があります。主への奉仕のためにこそ、このからだを、用いるべきであります。ここに、不品行をしてはならない第二の理由があります。15節をもう1度見て下さい。キリストは教会の首であり、信徒はそのからだの肢体である。人は、キリストと結合して聖化され、遊女と結合して、滅びる。ここに不品行を慎まなければならない第三の理由があります。引用された聖句は創世2・24からであります。キリストも、結婚のことを説くにあたり、マタイ19章、マルコ10章が用いられた。19~20節をもう1度みてください。人の体は、聖霊の宿る、宮であるという。教会が神の宮であるだけでなく、ひとり、1人が神の宮である。この体は聖霊の宮である。これをけがす不品行を、あえてしてはならない理由があります。私達は、罪と滅びから、キリストの血という価をもって買い取られたものであります。わたしたちは、積極的に、この体を、神の栄光のために献げなければならない。

結び

もう1度1コリント6章12~20節を見て下さい。わたしたちは不品行の誘惑に弱いものであります。あの怪力サムソンにしても(士師16章)p409、あの信仰深いダビデにしても(サムエル記下11章)p495、不品行の前にもろくも敗北した。わたしたちも他の罪に対しては戦うことが出来ても、不品行からは逃走するのが1番賢明であります。エジプトの総理大臣にまでなったヨセフは、かって奴隷の身分であった時にも、その女主人の誘惑から見事に逃れ、姦淫の罪を犯さなかったのであります。キリスト者はキリストによって罪を贖われた者であります。だからパウロが「あなた方は、代価を払って買い取られたのです」(20)。

むしろ「自分のからだをもって、神の栄光を現わす」ことであります(20、ローマ12・1,

フィリピ1・20)

わたしたちは毎日主の祈りを唱えていますがこの祈りを惰性で祈るのではなく、真剣にいのりたいものであります。

「恵みによって救われた」2021・4・18説教要旨

朝位 真士

この6章は聖徒と訴訟。肉体の神聖。聖霊の宮。1~8聖徒間の訴訟を嘆く。9~10神の国を継ぐことの出来ない不義に対する非難。11恵みによって救われた身分。12寛容な原理13~18きよくあるべき勧め。19~20私達の身分と肉体の神聖。6章の前半は訴訟に関する譴責(悪い行いや過失などをいましめて責める事)(1~8)、後半は淫行に関する譴責(9~20)。聖徒たる者はやがてきたるべき時代において世を裁く(支配する)者であり、(2)マタイ19・28)、更にまた天使もさばくべきものである(3)。このような権利を持つ者同志が訴訟事件を引き起こして未信者の裁判を受けるとは、非常な心得違いである。キリスト者たる者は法律の前に争う問うことは、世の人々にキリスト教を嘲笑させることである。異教徒の裁判官の前にこの世のつまらない事柄を持ち出すのは、キリスト者としての真の威厳を忘れさせることである。教会内で解決することが出来ずに、不信者の前に持ち出すこと自体よくない。互いに訴え合うのは間違っている。むしろ、かえって不義を受け、だまされるほうがよい(7)。十字架の主に従う者は、忍んで不義を受けるべきで、権利放棄、無抵抗、忍従こそ、聖徒らしい麗しい態度である。キリスト者の美徳である(へブ10・34、マタイ5・39~41)。

1コリント6章1~11節を見て下さい。彼はローマ13章に、世の中を統治する権威に、服従すべきであることを教えています。社会の公正(絶体的なものではないが)を保つ為に裁判も必要であろう。だからパウロは、全ての訴訟を否認していない。ただ彼が極力拒むのは、信者同志の訴訟である。この係争は兄弟愛によって解決し、それが出来ない時は、教会の指導者たちのあっせんで解決されるべきであります。より高い,より正しい道徳を教会は、持っているはずである、それに信者同志のごたごたを、この世のものにさばいてもらわなければならないとすれば、それは恥以外の何物でもない。教会員間の不和、不義、不実を天下に公表する結果となる。こうして、「訴え合うこと」自体が、教会員一同の「敗北」なのである。6・7~11節をもう1度見て下さい。ここでは10個の不義が数えられています。偶像礼拝と性的不道徳と経済上の不法である。その中でも、性の乱れに関するものが多いのは、特にコリントにそうした危険が多くあったからであろう。この十個の不法は、全てコリント教会の中に、あったとは考えられない。しかし。あるものはすでに教会の中に入り、他のものも侵入する恐れがあった。「神の国を継ぐ」のは、神の子とされた信者の最大の特権である。教会の道徳的郭清がいかに必要であるか。キリスト教が、真に成功するか失敗するかの分かれ目は、ここにあるとパウロは考えていたようであります。コリント人は知識を誇り、福音を理論として理解し、これを知的に表現することによって、一種の自己陶酔にかかっていた。これで神の国を継ぐことが出来ると思いこんでいた。それは間違いであります。福音はもつと具体的な事実であります。生活に具現する真理である。今日もコリント流の信者が多いことでしょう。「あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなた方は、主イエス・キリストの名によつて、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義となれたのである」ルターの小教理問答書には、「洗礼は罪のゆるしをもたらし、死と悪魔から救い出し」といい、また「わたしどものうちにある古いアダムが、日ごとの悔いとざんげによって、あらゆる罪と邪悪と共に溺れ死に、そして新しい人が日毎に現れ、またよみがえる、神の御前に永遠に義と純潔を持って生きるようになること」といっています。すなわち、洗礼は信者の生涯に一線をかくすることであります。この線に立って、過去の罪の生涯を清算し、将来を望んでは、神のよみされる新しい生涯に踏み出すことであります。コリントの人々も、このような洗礼をうけたのであります。そうだとすれば,旧態以前とした生活に、甘んじてはならないはずであります。(ローマ6・4、ガラ3・27,2・20)

結び

もう1度6・7~11節を見て下さい。2テモテ4・2節を見て下さい。キリスト者は寛容を尽くして、過ちを犯している者を責めると言う大切な使命を負っている。さらに8~9節更に彼は神の国を相続できなくなる罪を列挙して、警鐘をならしています。最後にパウロは、主イエス・キリストの御名と神の御霊に洗われ、聖なる者とされ、義と認められた兄弟達がいることを感謝している。

「主イエスの力をもって」2021年4月11日説教要旨

朝位 真士

今日は1コリント5章1~13節から聖書を学んで行きましょう。米田豊先生は5章全体を教会の腐敗。過越の子羊の救い。パン種を除くことと語っています。1~5節姦淫者とそれに対する使徒の位置。6~8節パン種を除くこと。9~13節教会郭清の命令。と分解しています。当時の道徳がいかに腐敗していたかを知るべきであります。教会の中に姦淫その他信者として成すべきでない事をして罪を犯す者があるなら、その人を破門にし、絶交すべきである。(11,13)。この点に寛大であることは、教会腐敗の原因であります。キリスト者の自由を機会として肉欲(ガラ5・13)、神の恵みを放縦な生活に変える者達は、恐るべきパン種である。周囲に悪い感化を及ぼし、(少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませる(6)、教会の神聖を保つために、異性間の交際に罪や汚れが入らないように、特に注意しなければならない。教会は選ばれた者の集会で、キリストの花嫁たるべき者であります。十字架の血によってきよめられ、きよく保たれるべきであります。(エペソ5・25~26)。縁民イスラエルが堕落したのも、異邦人とおn姦淫のためであつた(民25・1)。初代教会においても、悪魔のねらったのはこの点であった。

1コリント5章1~13節を見て下さい。p304パウロはここで、昔の過越祭のことを例に引き、信者がきよくあるべきことを説き勧める。パン種は少しでもあれば直ちに膨れる者である。(マタイ13・35)。罪もそのように、少しの罪でも伝染し蔓延して、全体を腐敗させる。教会には罪と腐敗があってはならない。過越の祭の間は種入れぬパンを食べたが、過越の子羊が予表するキリストの血によって、救われた私達は、私達の心、生涯、家庭、また教会に、少しのパン種が残らないように、全く清められなくてはならない。7節をみてください。すなわち信者は皆、資格としては「キリストにあって清められた」者であるから、(1,2)肉の力すなわち罪の性質を全くきよめられて(古いパン種を取り除いて)教会が新しい群れ(かたまり)とならなければならない。(7)。昔、過越の子羊の血によって民が救われたように、私達は屠られたキリストの血によって救われた者であるから、罪からきよめられてきよい生涯を送らなければならない。それは主イエスの力をもって、させて頂きます。つまり聖霊の力であります。この5章ではコリント教会では不信者の間にもないような不道徳が行われていたのであります。この5章1~13節は不品行の問題が語られています。1~5節事件とその処置が述べられています。そして6~8節で教会に対する勧めがパン種のたとえを用いて語っています。そして9~13節では教会の内と外でパウロが語りたかったのは11節ということであります。教会外の人は神が裁かれるのであります。

結び

ここに3種類の罪が挙げられています。第1は不品行で、性的な罪である。第2は、貪欲や略奪で、経済上の罪である。生き馬の目を抜くような、コリントのような商業都市では、こうした経済上の犯罪も多かったと思われます。第3は偶像礼拝で、宗教上の罪である。第1は肉欲からくるものであります。第2は所有欲から来るものであります。第3は、迷妄から来るものであります。信仰に入っても、こうした民族的習性はすぐに抜けず、時には信者同志の間に、問題が起こるものでありました。そのような時に、どういう態度を取るべきか、それを明らかにするのがこの5章であります。以上3つの根本的罪は、人間が犯す3つの方向をしめしています。第1は不品行の罪は自分自身に対する罪であります。第2は貪欲的、略奪的罪は、私達隣人及び同胞に対する罪であります。それは人間を、助け合う兄弟とみないで、あくまでも利用すべき相手と見る。それは、私達が神を愛している唯一の証拠は、自分を愛するように隣人を愛することであります。そのことを忘れています。

第3は、偶像崇拝の罪は神に対する罪であります。それは事物として神の地位を略奪する罪であります。そしてパウロは13節で申命紀17・7節及び24章7節から引用しています。生まれたばかりの教会を、これをおびやかすこの世の汚染から守りたいという牧者パウロの願いであります。

「イースター(復活節)の喜び」2021・4・4説教要旨

朝位真士

2021度のイースター(復活節)礼拝を迎えることが出来て感謝です。キリストの復活は、奇跡と呼ばれる『不思議な御業』とちがい、キリストの神性と人性に関する秘儀である。それゆえ、それは、人間の理性が討議をする問題ではなく、人がそれを信仰する事柄である。復活についてはただ1つの説教がある。それは、『信ぜよ』ということである。復活について、パウロは、「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり」第1コリ15・17)と語っている。それゆえ、ルターが語るように、「キリストの復活を否定する者は、同時に福音の全体と、キリストについて語られる全体を否定する」ということになる。キリストの復活は、キリスト者の信仰の中に、巨大な文字で書き込まれていなければならない。キリスト教義学は、復活を単独の出来事としてではなく、キリスト教の全体にかかわる事柄として重視している。アルトハウスは、これについて、「復活の証言は、単に復活としてのみではなく、他の事柄とのかかわりにおいて力をもっている」と語っている。これは終末という者が、単に、終わりの事柄として孤立して考えられるのではなく、あらゆる(現在)にかかわるものとしてうけとめられるのと同様である。

今日のマタイ28・1~10節を見て下さい。平行記事マコ16・1~8、ルカ24・1~12、ヨハネ20・1~10に記されています。ここでは復活された主イエス様が記されています。復活への信仰と歓喜が内村鑑三の詩「天地を揺らぐラッパの声に更生るらむ春の曙」中に溢れでている。復活は大きな驚きをともなう喜びへの爆発である。復活は決して『終わり』の事柄ではない。ここから、新しい希望の芽が生まれるのである。ヴェルナー・エラートは、「キリストの復活は新しいエオン(神によってつくり与えられる人間の情況とその時代)の開始である」と述べているが復活をまことによく表現した言葉である。今日のところでは安息日が終わってマグダラのマリヤとほかのマリヤが最初に復活の福音を耳にし、最初に復活の福音の主を拝することの出来た者は、主の十字架を目撃し、主の墓に向かって絶望してすわっていた女たちである。2~3節を見て下さい。この有様をみた見張りのローマ兵たちは恐怖の余り震えあがった。5節『恐れることはない』この言葉は4節、5節、8節、10節に語られています。この言葉はなんと慈愛に満ちた深い言葉であろうか。この言葉は、主の使いは、主の御誕生日に野辺の羊飼いたちにも語っている。(ルカ2・8~10節)もう1度マタイ28・5~7節を見て下さい。この単純な言葉は、全世界の人間の情況を変えることが出来るほどの巨大な出来事を意味している。イエス様の3日目の黄泉がえりについては、ペテロのキリスト告白以来(マタイ16・21)、何回も弟子たちに語られている。もう1度8節を見て下さい。主イエスの墓の前に座った時の心の暗さと、今の喜びは何と違うことであろう。マリヤたちは、主の使いの言葉を、いわば「見ないで信じた」のである。9節~10節を見て下さい。イエスは彼女たちに出会って、この信仰ある婦人たちは、主イエスの復活を初めて聞いたばかりか、目を持って復活の主イエスを拝する最初の人となった。み足を抱いて拝したことの中には、当時のラビに対する尊敬の心を持つ以上の愛の感動があった。

結び

 もう1度マタイ28・1~10節を見て下さい。聖書ほど「驚き」について語っている書物は、他にありません。その「驚き」には、いつも「喜び」が伴っていました。聖書の語る「驚き」の中で「最大の驚き」は何でしょうか。それはイースターの出来事です。わたしたちの人生において『恐れる要素』は多くありますが、今日の復活の記事を通して『恐れることはない』といわれた。これは2021年度最初のメツセージにふさわしい説教ではないでしょうか。この年教会においても個々人においても社会においても恐れる出来事を経験されると思いますが『恐れることはない』と主イエスはいつも共にいてくださり語つてくださいます。ハレルヤ!