「礼拝メッセージ」カテゴリーアーカイブ

「神は平和の神である」2021・9・12説教要旨

朝位真士

 今日は1コリント14・20節から40節を通して聖書を学んで行きましょう。この20~25節異言や預言を語る目的と結果。26~33公会の秩序。34~35公会における婦人の心得。26~40結論的勧め。となっています。そして26節以下に、2つの要点があります。この2つはまた、14章の2つの中心点でもあります。その1つは(すべては徳を高めるためにすべきであります)(26)徳を高めるとは、家を建て上げるように、教会また信者個人の恵みを増進させつことで、14章にはこの言葉が多く用いられています(3、4、5、12、17,26)。

もう1つは40節「すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」とあります。異言を語るものがしばしば熱狂的に興奮し、公会の秩序を乱すことがあり、また婦人が集会中におしゃべりしたので、特にその事を戒めたのであります。(34)。ここで今日の主題である「神は無秩序の神ではなく、平和の神である(33)。秩序を重んじなければならない。(34節)は婦人の伝道を禁じたのではありません。旧約にも、新約にも婦人の預言者がいました。

 1コリント14・20~40節を見て下さい。「兄弟たちよ」もう1度改めて呼びかける。ものの考え方では、何が教会を益することに役立つかを、充分よく考えてことを運んでもらいたいとパウロは語っています。21節はイザヤ28・11~12からである。旧約のそのままでないのは、多分パウロがギリシャ語訳を用い、しかも記憶によって自由に引用したからでありましょう。このように、異言は信者のためではなく、未信者のためのしるしであるが、預言は未信者のためでなく、信者のためのしるしである。パウロは、預言が異言にまさることを述べた後で、そのことに関して礼拝全体はどうあるべきかを語っています26~33節を見て下さい。コリントの教会は、聖霊に導かれて、各自が思い思いに「讃美したり、教えたり、黙示を話たり、異言を話たり、解き明かしたり」(26)するものであった。預言する者は、感情のおもむくままに長い話をして、人に迷惑をかけ、それを意にかえさなくなりがちであります。それはキリスト者として不健全な状態であります。預言する者は、自分の霊を自分の知力と意思で統制しなければなりません。預言はいわゆる神がかりとは違い。節度を失った熱狂ではありません。預言は正常な精神によってなされるべきであります。「それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです」(33)。私達の信じる神は「平和の神」であり、秩序を愛する神であります。その神の子である私達は、神の嫌われることをすべきではありません。33~40節を見て下さい。ここでは女性にふさわしくということが語られています。

パウロは、これらの事を主イエス・キリストの使徒として、主かえあの命令によってなしたことを、それもことごとく正しい判断を下したことを述べています。最後にパウロは繰り返して、「預言することを熱心に求めなさい」と勧め(37)、また異言を話すことも禁じてはいけません」(39)と教えています。異言も聖霊の賜物である以上、それを排斥すべきではない。ただし、礼拝の秩序を乱さないように40節「すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい」という一文を各自肝に銘じなければならない。それが集会におけるほかならない愛の原則なのです。

結び

今日の主題テーマ「神は平和の神である」神は無秩序の神ではなく、平和の神である。

秩序をなくして喧騒を極めるような集会であるならば、どんなにそれが熱心に行われても、決して教会の徳を高めない。だから一切の集会は秩序を維持しなければならない。その根本理由は、実に私達の信じる神こそ「平和の神」であり、秩序を愛される方であります。神は乱れの神ではない。その造られた世界にも、乱れない法則があり、」整然とした秩序があります。それを御自分の意思と目的に従って正しく導かれます。こうして神は混乱と喧騒を何より嫌われる方であります。もう1度40節を見て下さい。この句は、教会の実際問題について、今までいろいろと教えてきた言葉の結びの言葉であります。預言を求め、異言も認める、しかし、すべてのことが極端に流れず、常軌を逸せず、秩序正しく行われなければならないという。教会秩序の維持こそ。パウロが、強く望むところであります。私達が、現在行っている公同礼拝も、「適宜にかつ秩序ただして」行われているかどうか、常に省みなければなりません。霊的であると思われている礼拝は、ややもすると、熱狂と無秩序がみられる。

他方秩序と静粛をもって行われる礼拝には、はつらつとした聖霊の力が欠けて、ただ機械的に千変一律に行われているような感じがする。霊の賜物が十分生かされて、活気に溢れ、しかも厳粛にして順序正しい礼拝がすべての教会で持たれたいものであります。

「愛を追い求めよ」2021・9・5説教要旨

朝位真士

今日は1コリント14章1~19節を通して聖書を学んで行きましょう。この14章全体は奉仕のための賜物。徳を高め、秩序を保つこと。分解1~5預言の賜物を慕うべきこと。6~19異言を語る者の心得。20~25異言や預言を語る目的と結果。26~33公会の秩序。

34~35公会における婦人の心得。36~40結論的勧め。となつて、この14章は、12章から続いて、霊の賜物の問題に関して述べたもので、(13章は最上の賜物とも言うべき愛について述べている)、主に異言の事について述べています。異言と預言の賜物を比較し、むしろ預言の賜物を慕うべきであること(1~5)、異言を解く者がなければ教会の徳を高めないこと(6~19)、異言は未信者のためのもので、解く者がなければかえって人をつまずかせるが、預言は未信者に罪の自覚を与えること(20~25)、集会においておのおの自分に与えられた賜物によって奉仕する時秩序を乱さず、異言を語る者は、それを解く者がいない時は黙っているべきこと、預言を語る者も、他の者が啓示を受けた場合には初めは黙るべきこと(26~33)を告げ、ついでに、婦人は公会の席では黙っていなければならないことを命じる34,35)。

 聖書1コリント14章1~19節を見て下さい。まず初めに(愛を追い求める)べきことを語っています(1)。これは賜物というよりも、むしろ恵みそのもので、賜物というならば、第一かつ最上のものであります。私達は働きよりもまず品性を、奉仕のことよりもまず霊性のことを考え、そのためにまず愛を追い求めるべきであるが、次には、進んで教会の徳を高め、奉仕に成功するために、種々の賜物を熱心に求めるべきであります。賜物は神のみこころのままに与えられるものでありますが(12・11)、またむさぼるように熱心に祈り求めるべきであります。しかしそれは自分の成功、自分の名誉のためではなく、(教会の徳を高め)(12)、主の御栄光を更に現わすためであります。この意味においてパウロは、異言を語るよりも預言することを求めるように、特に勧めています。異言を語って、いかにもすぐれた賜物を持っているように人には見えても、それを解く賜物がなければ、信者の徳を高めることはありません。預言とは、ここでは未来のことを言うこととは限らず、神の霊感によって

福音を語ることで、あるいは勧め、それによって人の徳を高める(3)。言い換えれば、

これは伝道すること、説教することであります。(教会の徳を高めるために)、この賜物を求め、また豊かであることを願うべきであります(12)。異言は最初その時代に神の力のわざを表すために特別に与えられたものでありますが、当時コリントの教会には、異言の賜物を持つ者がいましたが、その異言なる者は、ペンテコステの日に弟子たちが聖霊を受けた時に語った異言とは異なったもののようであります。それは会衆に理解されず、そのために集会が混乱する傾向がありました。それゆえパウロは、異言を全く禁ずるのではありませんが、むしろ預言すべきことを勧め、集会の秩序を乱さないように警告しています(39,40)。様々な賜物は、(教会の徳を高める)ためのものであります(12,26)。パウロがここで預言を勧めるのも、教会の徳を高めるためで(3,4)異言を解くことができなければ人の徳を高めないので、やめたほうがよいと言うのであります(5,6,23)パウロは異言の賜物を持っていながら、それを用い無かった(18,19)。私達の奉仕は、ただ教会の徳や、人の徳を高めるためのもので、そのためにこそ賜物を用いるべきであります。自分の特別の力を人に知らせるためであってはなりません。かえって人に譲る謙遜な態度が必要であります。

結び

もう1度1~19節を見て下さい。賜物としての愛について語ったパウロは、もう1度霊の賜物について語り、14章では主に預言と異言を取り上げ、これに関連して教会内における秩序について注意を促しています。愛の賛歌の13章と復活の喜びを歌う15章とが2つの天にそびえる巨峰であるといえば、この14章は峰と峰との間につつましく伏している谷のようなものであります。もう1度14章の1節を見て下さい。「愛を追い求めなさい」13章の結論をここにもつてきています。霊の賜物を生かすものは実に愛であります。だからこれを追い求めなければなりません。そして、預言する者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰める。異言を語る者は自分だけの徳を高める、預言をする者は教会の徳を高める。そして霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊にいただくように励みなさい。教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちを教えるために、むしろ5つの知性によって人によくわかる言葉を5つ述べて人を教えるほうが、はるかに尊いことであります。ここでまとめますと14・1~6預言は異言にまさる。預言も異言愛を規準として、すべての問題の結論を出そうとしています。14・7~11異言の欠陥。14・12~19教会の徳を高めるパウロは賜物により頼まず、教会の徳を高める事が第一として行動したのであります。結論は13章の愛によって全てのことをなすのであります、そして

すべてが神の栄光のためにすべきであり事を結論づけています。

「愛の讃歌」2021・8・29説教要旨

朝位真士

今日は1コリント13章全体より聖書を学んで行きましょう。ここでは最上の賜物である愛。愛の分析と価値分解は最上の賜物である愛。1-3愛の賜物は無益であること(愛の必要)4-7愛の性質8-12愛の最も優れた者である理由(愛の永続性)13最も大いなる愛。と分解しています。

1コリント13章1~13節を見て下さい。この愛は人情の愛ではなく、神の愛である。ただ一片の感情の愛ではなく、行為において表れるべきものであります。太陽の光線をプリズムによって分析すると美しい七色が現れるとうに、ここでこの愛を分析して、その特質を示す(4―7)。あるいは積極的面から、また消極的面から示していますが、その1つ1つは、私達がそれに照らして自分の心と生涯を反省する鏡であります。この愛は、修業によって得られるものではなく、聖霊によって与えられる神の愛で(ローマ5・5)、この愛の色々な行為は御霊の結ぶ実であるということに注意すべきであります(ガラテヤ5・22~23)。これは祈り求めるべき神の賜物で、知識にも預言にも勝って価値あるものであります(8)信仰と望みと愛との三つは、キリスト者生活の三原則であります。ドラモンド博士は、「世界最大のものは愛である」と言われた。実に愛は神の性質であります。キリスト教の神髄は愛である。これはまた、キリスト教の目的、またいのちであるとも言えます。愛がなければキリスト教はありません。私達の行動はすべて愛の動機によらなければ、神の御前になんの益もない。パウロここに、愛とは何か、その性質を述べておりますが、要するに、愛とはいつさいの悪を行わないもの、しかしそれだけでは満足しないで、更に進んですべての善を行う者であります。1-3節を見て下さい。「律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」ということの一句に尽きる」(ガラ5・14)。これは12・31と言ったゆえんであります。ある教師がこの13章を3度読んで反省し熟思したいと言われた「1度読んでこの愛が自分のうちにあるかどうかどうかを考え、2度読んで主がこの愛をもって私達を愛されたことを思い、3度よんで信じる者に聖霊によってこの神の愛が注がれることを信じなさい」と、言われた。きよめられ、聖霊に満たされる時に、この愛が全うされるのであります。

結び

この13章は有名な愛の讃歌であります。よく結婚式の時に司式する者が引用する処であります。パウロは、信者の求めるべき最もすぐれた道として、愛を推奨する。「愛を追い求めなさい」と14・1にも勧告しています。コリント人は知識の賜物を特に重んじました。しかしそれはややもすると、人をして高慢にすることがあります。そして、そこから、分争が起こるしかし、愛は、そうではありません。すべてを結びつけます。愛は誰でも持ち得ます。そして愛は、全ての賜物によい方向づけをなし、一切の働きに動機づけをするという意味において、他のどの賜物よりも偉大であり、また永続的であります。他の賜物は、それが愛によって活用される時にのみ善となり、神に栄え、人には喜びとなる。だから「尊いのは愛によって働く信仰だけである」(ガラ5・6)と言うことが出来ます。私達が、神に他の賜物を求める場合も、愛の理由によるので無ければ、祝福はありません。まことに、信仰が土台であれば、愛はその上層建築である。信仰が根であれば、愛は花である。本当の信仰のあるところには、必ず愛の内容がなくてはならない。愛がなければ、どのような強固な信念も、またどのような人目をそばだたせる事業も、一切空しい。このゆえにすべての信者が、まずどの賜物よりも愛を慕い、愛を求めるべきであります。パウロはこうした愛を思い、愛について語ろうとした時、こころはおのずから高鳴って1つの歌となった。こうして、ここに、この愛の讃歌が生まれたのであります。1-3総論ともいうべく、4-7は愛の各論であり、8以下はその結論であります。最後にもう1度13章13節を見て下さい。信仰と希望と愛の3つを並べることは、パウロの特徴であります。第1テサロ二ケ1・3「信仰の働き、愛の労苦、キリストに対する望み」、私達は、主の再臨の時においても、なお主を信じ、なお主を望み、なお主を愛するでありましょう。来世もまた信仰と希望と愛の生活であります。こうして、この3つは、神と共に永遠であります。しかし「このうち最も大いなるものは愛である」何故でしょうか。信仰こそ根源であり、信仰から希望もうまれ、愛も出てくるのが、キリスト教の教えです。愛は、信仰や希望に比べて、直接神の一番深い属性に通じ、そして一番包括的でもあります。「信仰」は地から養分を吸い上げる根であって、イエス・キリストに結び

ついて命を得る。「希望」は成長し、その命によって伸びていく枝であり、神の永遠の栄光にあずかる望みである。「愛」は、その枝が結ぶ実であり、キリストを通して神から与えられる賜物であります。また聖霊の実はガラテヤ5・22-23p350「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という9つの聖霊の果実であります。