「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2025/10/12 週報メッセージ

十字架を潜って

川﨑 信二 

桜ケ丘教会は、外の通路の屋根に赤い十字架が横たわっている。その十字架をくぐると会堂の入り口にたどり着く。私たちの救いのために主は十字架で血を流され、死んでくださった。そのイエスの体を通って神の御国へと招かれる構造となっている。立っている十字架でなく、横になっている赤い十字架を見ると「主イエスの死」を連想させられる。主イエスの死を通ることは、主イエスの復活に与ることにほかならない。信じて、潜りたいものだ。

 三重県の某教会が30年ほど前に会堂を建築された。玄関は広く、誰でも、どんな人でも多くの人が入れるような造りとなっている。靴を脱ぎ、スリッパを履いて横長のロビーを歩いてゆくと段々と妙な気分になってくる。

通路が少しずつ狭くなっていくので圧迫感というか、何か落ち着かない気持ちになるのだ。奥の、最も狭くなっているところに細い扉があり、それを開けると礼拝堂が広がっていて、まさに天国のような空間が目に飛び込んでくる。

 上から見ると、「X」(クロス)の形をしていて、真ん中の交差しているところは点のように細い。点は一人。一人だけが十字架の死を経験された。主イエスの言葉を思い出す。

 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。

しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13、14)

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

(ヨハネ14.6)

弟子たちや多くの人がイエスさまと共に歩いてきた。しかし、ゴルゴタの丘には誰も着いて来られなかった。主イエスお一人が十字架の裁きを受け、救いを全うされた。

私たちは信じて、主の後に続き、十字架の門を通って、さらに信仰をもってその扉を開けたいものである。

そこには永遠の主、輝くイエスがおられ、手を広げて待っていてくださる。

2025/10/5 週報メッセージ

世界聖餐日 世界宣教日

川﨑 信二 

小林昭博氏(酪農学園大学教授)が次のように述べています。

「日本基督教団は10月の第1日曜日を『世界聖餐日・世界宣教の日』に定めています。前者は1930年代にアメリカの長老派教会で始まり、1940年にアメリカ全体に広まったエキュメニカルな運動であり、現在はカトリックとプロテスタント諸教派が相互の違いや多様性を認め合い、分断や対立から一致へと向かう超教派運動として世界中で行われています。後者は戦後に教団が世界聖餐日を採用するに当たり、世界の教会の一致の証として世界宣教のために協力し合うことを目的として定められ、現在は海外で働く宣教師やアジア圏から教団関係学校に留学している学生を覚える日になっています。教団は聖餐理解や宣教理解をめぐって対立や分断が続いていますが、その本来の精神に立ち返り、合同教会として相互の違いや多様性を認め合う世界聖餐日・世界宣教の日が実現するように願っています。」

 「教団は聖餐理解や宣教理解をめぐって対立や分断が続いています」という文言は「聖餐理解の違い」が世界宣教を妨げている、とも受け取れる矛盾した言葉にも思えます。

 私たちが最も大事にしていることが、対立の火種になるというのです。悲しいことです。

最も大事にしているキリストの十字架による救い。その恵みを想起する聖餐。その聖餐理解が違うことによる分断。互いに譲れない問題だけに深刻です。

さらに、カトリックとプロテスタントの大きな違いも聖餐理解なのです。カトリックのミサと私たちの礼拝が合同で行えないのは、聖餐の考え方が異なるからです。

紙面の関係で詳細は書けませんが、「祈り」では一致できるのです。それで世界祈祷日が生まれ、共に祈る時が設けられています。違いを強調し、互いに裁き合う前に一致できるところで一致する。

各派の伝統を越えて共に祈ることが世界宣教には必要であり、それがキリストの「一つの体」を世に証する第一歩となるのではないでしょうか。

2025/9/28 週報メッセージ

教会の交わり(コリント二1:10〜17)

川﨑 理子 

パウロは「クロエの家の人たち」⑾ からコリントの教会に起こっている問題を知らされました。それはコリント教会で派閥が生まれ、「パウロ派」「アポロ派」「ケファ派」「キリスト派」というように、分裂の危機にありました。

「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」⑽ とパウロは勧め、また「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」⒀ と嘆いてもいます。

「仲たがい」は「破れ」(スキスマ)を意味し、さらに「分裂」(シスマ)に進んでいく深刻な状態を指します。パウロは直ぐに手紙を書いて、一致して歩むようにと説きました。

では、「教会」は何によって一つとなるのでしょうか。教会が一つであるのはキリストが一人である、ということです。教会はキリストの体です。分けることはできません。

世の組織とは違います。教会における一致は、よく話し合い、お互いに譲り合い、妥協し合うところに生まれるものではないのです。人と人が折り合いをつけることではなく、一人の方、主イエス・キリストに固く結びつくものなのです。つまり、キリストによる一致、それが教会です。人間の考え、好き嫌いで仲間をつくり、一つになろうとするところにこそ、分裂や対立が生まれるのです。

先に「キリスト派」という言葉が出てきましたが、それは名ばかりで、キリストの名前を使って自己実現をはかろうと、自分達こそ「主」になろうとする者のことです。分断する教会をさらに掻き乱すので、他の教派よりもやっかいなグループでした。自分達が「主」ではなく、イエスこそ我が救い主です。

「パウロはあなたがたのために十字架につけられたのですか」⒀ パウロが見つめているのは「十字架につけられた主イエス」のみです。アポロもケファも私達の救い主にはなり得ないのです。

「教会の交わり」は、十字架の主を見つめることから始まります。罪の赦しによって、自虐的にならず、人を裁かず、一つ思いになって、同じ希望に生きることができるのです。

2025/9/21 週報メッセージ

年長者お一人ひとりをおぼえて

川﨑 信二 

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。 (Ⅱコリント4:16)

 教会における、いわゆる敬老祝事は日本基督教団の教会暦にはありませんし、行事暦にも記載がありません。

それでも9月の礼拝後に祝賀会をする教会はあります。礼拝の中で祝福式や祈りの時を持つ教会もあります。

桜ケ丘教会では先週、礼拝に於いて「年長者のための祈り」を主の前に捧げました。75歳以上を年長者として、教会員・客員・求道者、12名の年長者をおぼえて祈りました。礼拝に与れない年長の方々、病院等で過ごしておられる方々の霊肉が守られますよう共に祈ってゆきたいと思います。

日本同盟基督教団の式文に以下記されています。

「長寿を全うすることは、神の祝福です。『白髪は栄えの冠である。正しく生きることによってそれが得られる』(箴言16章31節)とあるように、教会に年長者が与えられていることは神の恵みです。本人にとっては深い感謝であり、若人にとっては大きな励ましです。したがって、教会において年長者をおぼえて祈ることは意義があります。」

「その日は主にのみ知られている。そのときは昼もなければ夜もない。夕べになっても光がある。」 ゼカリヤ14:17

祈祷 恵み深い父なる神様、敬愛する先輩方が、あなたの深いご摂理によってこの世に生を受けてから、長年の間御手のうちに守り導いてくださいましたことを心から感謝いたします。その間多くの喜びや悲しみの経験をさせてくださいましたが、特にその人生の途上で、信仰告白し救いにあずかることができましたことを心からお礼申し上げます。その生涯の中で、多くの知人、友人、肉親がこの世を去って行きましたが、全能者なるあなたが、この兄弟姉妹を病いや災いから守って、きょうまで支えてくださいましたことを心から感謝いたします。

願わくは、主よ、これから後この地上において生を許されている間、神の恵みと保護を与えて、信仰を深め、神の栄光をあらわす者としてください。

そのために聖霊の力を与えてくださいますように、心からお願いいします。

主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

アーメン

2025/9/14 週報メッセージ

「執り成す」

川﨑理子 

9月は、毎年忘れることができない、二人の女性の事を思い出します。一人は、22年前に天へ逝った母です。母の最期は眠るようでした。当日留学していた弟一家が、間に合うように「お母さん天国へ行くのもう少し待っていてね」と祈りましたが、叶いませんでした。母は、よく手紙を書いてくれました。病後はリハビリも兼ねて「御言葉」を中心に「教会」「教会員」の為に「毎日祈ってるから」と、必ず最後には、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」Ⅰコリント13:13 と書いてありました。

 もう一人の方は、伝道師時代に三ヶ月お宅に泊めて頂いた当時80歳の女性です。朝晩食事を共にし、榎本保郎先生著「旧約、新約1日一章」を用いてのデボーションは、本当に恵みのひとときでありました。まずは、自らの為に、そして、私、牧師、役員、教会員、求道者、家族の為に、祈りは続きます。最後は必ず「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」ローマ8:28の御言葉で終えていました。

 この方は私の誕生日には、早朝に電話かけてくださり、二人の子供の誕生日にも「祈ってますよ〜起きてる?」「この電話で起きました(笑)」「あらー」と、必ず私が、キツイなというタイミングでした。今思うと、神様が執り成してくださったのだと分かります。

「とりなす」=「執り成す」は、よいようにはからう。もめ事等の中に立っておさまりがつくようにする。なだめて機嫌よくさせるという意味です。私にとって、二人の女性は主の愛に満たされて「執り成し」の業「祈り」を教えてくれた信仰の先輩です。

 イエス・キリストは私の、私達の罪の為に十字架にかかり血を流して身代わりとなられました。十字架につけられた時に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」ルカ23:43と、神と、人間との執り成してとして十字架で、愛を示して下さいました。

永遠の命に至る道を示された私達は、恐れや不安から解き放たれて、復活の命に生きることができます。

2025/9/7 週報メッセージ

塩気のなくなった塩

川﨑 信二 

「自分自身のうちに塩を持ちなさい」(マルコ9;50)  

主イエスの時代、塩は既に防腐剤として用いられていた。毎日暑い日が続くと食物は傷み腐りやすくなる。冷蔵庫のない時代に保存する知恵があったとは驚きである。

 塩を畑に撒くと野菜が豊かに実る。主イエスは弟子たちに「あなたがたは地の塩である。」と言われた(マタイ5:13)。よく「世の腐敗を清めるクリスチャンの務め」と解釈される。「自分の存在が周囲のものを育て、世に影響力を及ぼすクリスチャンになる勧め」と理解されてきた箇所でもある。決してそれは悪いことではない。

 しかし、「塩」自身に塩気や塩味がなければ地上の人々を清めることはできない。つまり自分自身が清められていなければ周囲を清めることはできない、ということである。

かつて、ホーリネスの群委員長が「我等は日本基督教団を清める良心となろう」と言われたことがある。その言葉の背景には日本基督教団への批判があり、その健全化を心から願う祈りが込められていた。

けれども、見方をかえると「教団は汚れているが私たちは清い」というふうに誤解されやすい言葉でもある。

その頃、ホ群の内部では教団を離脱するか留まるか、で揉めていた時期であり、結局は分裂して、幾つかの教会が日本基督教団を出て、新たな教派を設立することになった。

教団に留まった私たちも「新生ホ群」という旗印をかかげ、再生の道を歩むことになった。教団を清めるどころか、むしろ分裂騒ぎで教団に迷惑をかけた、という反省が当時あったであろうか。「教団の良心」になる前に、私は本当に良心なのか、塩なのか、世の光なのか、を問わなければならない。

 私たち自身には罪はあっても、人を清める力などない。聖なる方は「わたしは聖である」(レビ記)と言われた主ご自身だけである。その聖の中に私たちも入れて頂ける。それがホーリネス。聖であるキリストを伝えることが「地の塩」であり、そのキリストがこの罪深い私の中に内住してくださる。それがホーリネスの恵みであると思う。

 「塩」は十字架にかけられた主ご自身のことなのです。

2025/8/31 週報メッセージ

そして、今(使徒20:25〜38)

川﨑 理子

「……あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることはないとわたしには分かっています。」(25)

 エフェソの人々へのパウロの遺言(決別説教)が書かれています。

 「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。」(28)

 パウロは「教会とは何か」を語ります。教会とは「神が御子の血によってご自分のものとなさった」のが神の教会なのです。

 「教会」とは、建物のことではなく、十字架で血を流された主イエス・キリストを神として礼拝する者達の群れです。「教会」は父・子・聖霊との神の交わりの中に入れられた集まりです。つまり「教会は神のもの」です。一人一人が神に愛されているのです。

 しかし、教会には「残虐な狼が」が入り込んでくる危険性があります。異なる教えや偽教師が教会を荒らし、その教えに惑わされ、心変わりをしてしまう信者も出てくるというのです(29,30)。

 教会の現実、人間の弱さをパウロはよく知っています。だからこそ、別れる前にきちんと警告しているのです。

 大事な事を「3年間教え」(31)続けてきました。「悔い改めとイエスへの信仰」(21)、「神の恵み」(24)、「御国」(25)、「神の計画」(27)についてです。教会は「神のもの」。後に続く私達にこの福音が委ねられ、神から伝道の業を託されています。長老(指導者)や信者にしっかりと受け継ぎ、主イエスの救いを語り続ける使命に生きるようにとパウロは遺言を残したのです。

 「そして、今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」(32)

 「造りあげる」とは教会堂のことではなく、信仰の共同体を「建てる」ことです。主イエスが教会を建てあげてくださいます。

 私達はその恵みを受け継ぎ、主の委託に応えてゆきたいものです。

2025/8/24 週報メッセージ

力を捨てよ

川﨑 信二 

「主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。

『力を捨てよ、知れ。わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。』」 詩編46編

 この箇所は、武力に依り頼むのか、それとも平和の主に依り頼むのか。主を見上げ、主に祈ろう、という主題が込められています。当時、イスラエルは王制度を敷き、軍隊を持って敵の攻撃から自国を守ろうとしていました。現代のイスラエルと同じく、周囲の国々との緊張関係が絶えませんでした。弱小国がとるべき道は、大国に屈し従属するか、隣国と協定を結んで大国に反抗するか、中立政策をとるか、極めて難しいかじ取りを迫られていました。

 周辺国の軍事環境によって政策が見直されていく。今の日本において、中国やロシア、北朝鮮の軍事力強化によって、わが国の防衛姿勢を変えなければ周辺国に太刀打ちできない、と考える人たちが増えています。

 日本は島国ですが、今は海を越えてミサイルが飛んでくる時代です。軍事防衛に関しては意見が分かれます。当時の聖書の時代を見つめながら、私たちキリスト者が平和を覚えてどのように生きるか、を考えたいと思います。

 預言者イザヤが主張したのは、政策ではなく、先ず神に頼ることです。2章4節に具体的な戦略が示されています。

「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」

 人を殺す武具ではなく、農作業の道具。つまり、命を生み出ものです。私たちは、主の教えを学び、戦いのことは二度と学ばないようにしたい、と願わされます。

 主イエスの時代に、人々は「イエスに政治的な指導者となってもらって、ローマ帝国を屈服させてほしい」と願っていました。けれども主イエスは愛の道を選ばれ、十字架の死を遂げてくださいました。この犠牲の死こそ、救いと平和の道なのです。

2025/8/17 週報メッセージ

祈 り (マタイによる福音書6:6〜13)

川﨑 理子 

「祈り」とは、いったい何でしょうか? 祈りとは「神様との対話」と言う人もいますし、「願いごとを述べること」「感謝すること」「賛美すること」と言う人もいます。

 イエスは弟子たちの「わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11:1)との願いに応えてこう言われます。

「奥まった部屋」で「隠れたところにおられる」神に祈りなさい(マタイ6:6)。人前でなく、誰も見ていない所で、全てを神に集中して祈りなさい、と勧めているのです。  

まさに「くどくど祈る」姿は人を意識した偽善であり、「彼らのまねをしてはならない」(マタイ6:7)と主は忠告されるのです。

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6:8)と言われた上で、あえて「こう祈りなさい」と「主の祈り」を教えてくださったのです。

主の祈りは週報に記載されています。聖書では「天におられる父よ」という訳で始まります。「父よ」という呼びかけは「アッバ」と言い、子供が「お父ちゃん!」と話しかける時の言葉です。これは、神様が私達と親密な関係になってくださったことを意味します。子なるイエス様が心の底から信頼している父への呼び方は、私達にも神を「お父さん」と呼ばせていただける恵みを示しています。

この呼びかけが祈りです。神様と私達は親子です。イエス様のとりなしによって、神の子とさせていただいたのです。なんと幸いなことでしょう。子どもの全てを知り尽くしておられる父なる神様に向って祈ることができるようになったのです。

親しい呼びかけのあと、「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心が行なわれますように」と、神による救いの完成を祈ります。後半は、私達の祈りです。

「必要な糧を今日与えてください」「わたしたちの負い目を赦してください」「誘惑に遭わせず」「悪いものから救ってください……」。

「主の祈り」はイエス様が「こう祈りなさい」と教えくださった祈りです。

私達に近づき、親しくなってくださった神の呼びかけに応えて「アーメン」と主を賛美しましょう。