「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2025/6/29 週報メッセージ

ホーリネス弾圧事件を覚える

川﨑 信二 

『桜ケ丘教会創立100周年記念誌』の歴史の中でも記載されていますが、1942年6月26日の早朝、ホーリネス系の教職者96名が一斉に逮捕され(第一次検挙)、1943年2月にも追検挙が行われて、合計134人が逮捕された出来事のことをホーリネス弾圧事件と呼びます。

詳細は、日本基督教団に併合された私たちのルーツである第6部(旧日本聖教会)が60人、第9部(旧きよめ教会)が62人、教団に加わらず宗教結社を貫いた東洋宣教会きよめ教会が12人の検挙されました(検挙者のうち75名が起訴、7名が殉死)。逮捕は治安維持法(1925制定)違反によるもので、これは社会主義運動や労働運動をとりしまる法律でしたが、後に天皇を中心とする国体を否定する行動にも適用され、処罰に死刑も加わる悪法となりました。

 1943年4月宗教団体法及び宗教結社禁止令により上記の教会は解散を命じられ、当時の桜ケ丘教会も礼拝できない状況となりました。ホーリネス系教会にのみ処分が下され、教団の統理者からもホーリネス系教師の謹慎が命じられました。教団は政府の方針を歓迎し、6部と9部の教会を切り捨てることを受け入れたのです。教団の幹部〇〇主事は「彼らの熱狂的信仰は我々教団では手の下しようもないくらい気違いじみているため、これを御当局において処断して下さったことは教団にとり幸いであった」と述べています。「熱狂的」と見られた教理は「再臨信仰」でした。主イエスが王として来ることを待ち望むことが、天皇の国体を否定する教えと見なされたようです。

 もちろん誤解ですし、弾圧容疑の口実に使われたような気がします。私たちは聖書に示されている主イエスの「再臨信仰」を生きる根拠としています。

「あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」 (イエスの言/マタイ24:44)。

「イエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒1:11)。

またパウロもⅠコリント15:23で主の再臨をはっきりと教えています。

 教団信仰告白や使徒信条においても、しかりです。

 国家といえど、教団の指導者といえど、この信仰を私たちから取り去ることはできないのです。

2025/6/22 週報メッセージ

「キリストの恵み」    川﨑 理子

エフェソの信徒への手紙1章4〜14節

この手紙の受け取り手は、信仰を与えられている2代目または3代目のキリスト者たちです。同じアジア州にあるガラテヤ教会が問題にした危険性はこの書には出てきません。ガラテヤ教会ではユダヤ人キリスト者による「割礼」の強制や律法のこだわりによる「異なる福音」といった問題が山積していました。

エフェソの一群はガラテヤと同じく使徒パウロの伝道によって成立した教会でしたが、別の危険に直面していました。初期に立てられたガラテヤ教会よりは律法の面では落ち着いていたのですが、時を経て、2代目、3代目の時代に新たな問題が出始めていたのです。

それは、黙示録の言葉にあります。

「あなたは初めの頃の愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めの頃の行いに立ち戻れ。」(ヨハネの黙示録2:4〜5)

時と共に初心まで忘れてしまったのです。当時小アジアの各教会は相異なる誤った教えによる分裂が生じていました。それはユダヤ人(内側)の問題よりも外部からの悪影響によるものでした。そのために「初めの愛が冷めて」「礼拝に参加する熱意が弱まり」さらに「生ぬるさ」があふれていました。

そこでパウロは「わたしたちの主イエス・キリストの父である神はほめたたえられますように」⑶ と勧めたのです。

神がどれだけ私たちを祝福してくださったのか。「イエス・キリストによって神の子としてくださった」⑷ 「御子による血の贖いによる罪の赦し」⑺ 「約束された聖霊を受け継ぐ」⑾ 「聖霊で証印」⒀ 「御国の保証」⒁……。数えきれない恵みを頂いているのに「離れて」しまったのです。

レジで「今カードをお作りいただきますとこの商品の割引きと、さらにポイントもつきます」と言われたことがあります。そんな面倒なことをしなくても「神の愛」と「祝福」は一方的に与えられています。全ての人に!

こんな素晴らしい恵みを拒否するなんてもったいない。だから、キリストの「はじめの愛」から離れないで、主をほめたたえつつ歩みましょう! アーメン

2025/6/1 週報メッセージ

創立記念日をおぼえて

川﨑 信二 

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。

ヨハネ15:5

桜ケ丘教会は1923年(大正12年)6月1日、初代牧師である坂井康祐福音使が東京府駒澤村世田谷新町の自宅で開拓伝道を開始したことで始まりました。

1924年、東洋宣教会ホーリネス教會第6回年会にて板井康祐が定住福音使、自給福音使として任命されました。1930年、澁谷町栄通1-16に移転して「祈りの家澁谷ホーリネス教會」と改称。日本ホーリネス教会分離後、1937年「日本聖教会澁谷聖教会」となります。

1941年、日本基督教団設立とともに教団に加盟し、「日本基督教団桜ケ丘教会」となり、今日に至っております。

 この創立記念日に岸義紘先生をお迎えできたことに心より感謝しています。岸先生のご厚意にも感謝いたします。

 先生は東京でお生まれになり、岡山で生活され、早稲田大学第二文学部西洋哲学専修科卒業、聖契神学校卒業。米国フラー神学大学院世界宣教学部修士課程修了後、Doctor of Ministry で学ばれました。米国ゴードン・コンウェル神学大学より名誉神学博士を授与されました。また先生は国体の水泳選手に選ばれました。そして素晴らしいことに、サックスの名手で、CDを何枚も出されています。巡回伝道者として全国各地でコンサートを行われ、福音を語っておられます。本日、楽しみつつ、御言葉とサクソフォンの音色に聴き入りたいと思います。

2025/5/25 週報メッセージ

天の国はからし種に似ている(マタイによる福音書13章31節)

川﨑 理子 

からし種を見たことがありますか?「」この点ほどの小さな黒い種です。

家庭菜園をはじめた方が「からし種が売ってましたよ。」と写真を見せてくださいました。先程の「」より実際は小さくて、鉛筆で、チョンと書いたようなものに見えました。この種の中に「命」があることに驚きました。

 からし種は、イエス様の時代、身近なところにある中で一番小さいものの一つとして、たとえに用いられたのでしょう。小さな種が大きく成長したり、ふくらんだりするように、神のご支配は確実に広がり、大きくなるということです。

 「天の国」はからし種に似ている、と言われたイエス様は、今日わたしに「どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」と語っています。

 目を閉じて想像してみてください。わたしのうちに蒔かれたからし種は、芽を出して、茎がどんどんのびて、葉っぱもたくさん繁りました。イエス様の命の水、イエス様の十字架の愛にたっぷり浸かり、さらに広がります。

 わたしを成長させてくださるイエス様に出会えたこと、また信じるように導かれていることに感謝しましょう。

2025/5/18 週報メッセージ

せこい神様?

川﨑 信二 

 B’zの「愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない」という歌の中で「信じる者しか救わない、せこい神様拝むよりは」という詞があります。確かに、キリスト教は「拝む」対象がはっきりしていて、それ以外は信仰の対象ではなく、偶像と見なします。

聖書には「主イエスを信じる者が救われる」ことが説かれています(ローマ10:9、ヨハネ3:16、マルコ16;16等)。

けれども、信じない者は地獄に落ちるとまでは書いていません。信じない者が不安になることが既に「神の審き」であること(ヨハネ3:18)、「滅びの宣告を受ける」こと(マルコ16:16)は書かれています。しかしそんな信じない者を信じさせて救う。そこに主の十字架の愛があります。むしろ、「救われた者が信じる」のです。救われていることを知って、改めて主に従う者となる。それが信仰です。

「信じる者が救われる」という考え方は「○○をしたら神様がご褒美をくださる」というのと同じく、報酬になります。逆に「○○をしなかったら神様は愛してくれない」ということにもなります。私たちが先に何かをするのではなく、神が既に代価を支払ってくださった。私たちの身代わりに罪の刑罰を御子が受けてくださった。そこに救いがある訳です。

自力での達成は「救い」とは言えません。救いは他力です。いえ、神力です。一方的な神の愛です。

神は狭量な方ではなく、先に惜しみなく与えてくださる方です。だから信仰において最も大切なことは、何かをすることではなく、受け取ることなのです。受け取ることから信仰は始まります。条件つきのタラレバ信仰ではなく「救われたから信じる」のです。

「ありがとう」は誰かに何かをしてもらった後に言う言葉です。先に「ありがとう」を言うのは魂胆が丸見えで、支配者に対するへつらいの臭いがします。「神様、本当に救ってくださり有り難うございます。」そこから信仰が始まり、応答の歩みが始まるのです。

2025/6/1 創立記念日礼拝

創立記念日特別礼拝とチャペルコンサート

  チャペルコンサート

  礼拝の前にサクソフォンの演奏:お聴きください。

  聖書箇所 ルカによる福音書11章1節~13節

  説教題「主の祈りと私たちの祈り」

  お話 岸義紘先生

  讃美歌 312番 310番 492番

 

 

2025/5/11 週報メッセージ

空っぽの墓(マタイ28章11〜15節)

川﨑 理子 

11「婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰りこの出来事をすべて祭司長たちに報告した。」

「婦人たち」とは、マグダラのマリアともう一人のマリアです。番兵たちは婦人たちが弟子たちに伝えるよりも早く権力者に伝えなくてはなりません。それは「空っぽの墓」、すなわち「イエスの遺体」がなくなったことです。

 番兵たちは真っ青だったでしょう。「彼らは行って墓の石に封印をした」(27:67)にも拘わらず、見張る役目を失敗したのですから。番兵からの報告を聞いて真っ青どころではない人たちがいました。祭司長や律法学者たちです。

 「祭司長たちは長老たちと集まって、相談し、兵士たちに多額の金を与えて」⑿、番兵の買収、偽証の命令⒀、番兵の身の安全の説得⒁ を行ったのでした。

 「空っぽの墓」の報告を聞き祭司長たちは「三日目によみがえった」こと、封印が解かれたことを知りました。しかし「だから信じよう」とはならずに、益々暗闇へ進みました。

 富と権力による事実の捏造は、いつの時代にもあります。更に今の私たちの社会でも情報技術の発達により、偽りのニュースが絶え間なく生産され続けています。しかし、イエスの復活のニュースはもみ消されることなく福音として世界中に届いています。

 イエスの十字架の死を見て、弟子たちは全員逃げました。葬られたあとは、家に鍵をかけて隠れていました。臆病な弟子たちは復活の主に出会い、「真実」を「主はよみがえられた」ことを語り続けました。「空っぽの墓」はすべての人の救いのためのしるしです。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは死んでも生きる」(ヨハネ11:25)

今、私たちは聖霊によって復活の主にお会いしています。キリストの復活の命は困難を打ち破る、逆境を乗り越えさせるところの、大きな愛の証なのです。

2025/5/4 週報メッセージ

「三日目」預言

川﨑 信二 

主イエスの葬りの時、祭司長たちがピラトに「あの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました」と伝え、番兵による見張りを要求していました。イエスご自身が生前に何度も「三日目の復活」を予告されていましたし、旧約にも「三日」という数字が重要な場面で出てきます。

ホセア書。「主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。……三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。」(ホセア6:1-2)

天地創造の時、第三の日に「地は草を芽生えさせよ。…」と、地から生命が生まれる日を三日目に置いています。

アブラハムの独り子、イサクはモリヤの山で献がられる時に身代わりの雄羊が備えられて命を回復した出来事も「三日目」でした(創世記22:4)

ヒゼキヤ王がイザヤに「主がわたしをいやされ、わたしが三日目に主の神殿に上れることを示すしるしは何でしょうか」(列王下20:8)と尋ね、日時計を逆戻りさせるしるしをもって、死ぬべき寿命が15年も延ばされた。これも命に関わる奇跡です。

荒野で喉が渇いて死にそうな時、イスラエルの民に「三日目」に命の水を発見させた事(出エジプト15:22–25)。

 王妃エステルはイスラエル民族の滅亡が決定された後、「三日目」に王の前に出て、王の厚意を得、民を死から救いました((エステル5:1)。

 ヨナが巨大な魚に呑み込まれ三日三晩魚の腹の中にいて復活した(ヨナ2章)出来事。主イエスも語っておられます。律法学者の「しるしを見せてください」との問いに「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(マタイ12:39‐40)と答えています。主イエスが墓から復活することをヨナが示している訳です。

 エマオ途上の弟子たちに復活の主が言われた言葉。

「……メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

主は聖書の預言通り、三日目によみがえられたのです。

2025/4/27 週報メッセージ

懐かしい方々と共に主を仰ぐ

川﨑 信二 

「見よ、兄弟(姉妹)が座っている。なんという恵み。

なんという喜び。」 (詩編133/こどもさんびか交読詩編17)

先週は大阪教区西地区にある西淀川教会に行ってきました。現在、西野田鶴見橋教会(旧大阪西野田)が新会堂建築中のため同教会を借りて礼拝を行っています。そこで西野田の献身者と、かつての青年会のメンバーが集い、同窓会のような楽しいひと時を持たせて頂きました。

1986年のホ群分裂により教団を離脱された牧師、教団の中で他の伝統の教会に40年間仕えている牧師、また西野田の歴代牧師のご家族など十数名が勢ぞろいし、私も末席に加えて頂きました。

青年会で共に歩んだメンバーの中には既に主のみもとに召された方々もいて、年月の経過を感じました。私は西野田の献身者ではく、転会せず客員としての関わりでしたが、故中島恵美子牧師に東京聖書学校入学のために推薦状を書いて頂き、さらに教会から図書費サポートとして毎月支援金を送ってくださり、在学時4年間を支えてくれたのです。客員の私にも声を掛けてくださったことに、本当に感謝の思いでいっぱいでした。

 大きなことは、分裂後、他教団に移籍された牧師が久しぶりに母教会の方々と交流の時をもってくださったことです。その牧師と、ある集会で一度お会いした時に、先生は「次にお会いする時は天国かなぁ」と述べておられました。それほどホ群分裂の溝が深く、傷も大きかったのだと感じました。時を経てご夫妻で出席されたそのお顔には笑みが溢れ、本当に嬉しそうでした。主の憐れみによって和解の場に立ち会うことが出来、心が震えました。

 そこに年配の婦人が一人おられました。「私は、先生方が仕えている教会の礼拝の様子を全てYouTubeで必ず観ているのよ。毎週楽しみにしてるのよ」と語っておられました。その中のある教会には会衆席も映っていて、転会された方の元気そうな後ろ姿を見ることが出来、励まされて祈っているとのことでした。私自身もその祈りに励まされています。感謝です。

 「実に、キリストは……十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2章)