「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2026/5/10 週報メッセージ

永遠のお母さんは誰ですか

川﨑 信二 

 母の日を迎えている。ある宗派では主イエスの母となったマリアを「聖母」とし永遠のお母さんのように慕っている。マリアは崇拝される立場ではなく、普通の人間である。聖霊降臨の前に使徒たちと共に祈っていた(使徒1:14)彼女は女神ではなくイエスの弟子であり、神の僕であった。母なる神は存在しない。

 むしろ、聖霊なる神にこそ母性的な側面がある。旧約に出てくるヘブライ語で「霊」と訳されているRuachという言葉には女性名詞が使われている。マリアを母胎として用いたが、聖霊によって身ごもった。聖霊が命を与える役割を担っているとも言えるだろう。

「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:25-27)

 聖霊はマリアのように肉体をもった存在ではなく、見えない存在である。中世の芸術では、聖霊を聖母マリアと重ね合わせた表現で描写するものがあったが、聖霊とマリアは全く別である。

 そもそも、人間の性を神に当てはめようとするところに無理がある。神は男性でもなく女性でもない。「父なる神」があるから「母」もあり、と見るのは人間の願望に過ぎない。父の要素、母性的な一面、両面を備え持つお方である。ちなみに、新約聖書ギリシャ語の「霊・息」(pneuma)は中性名詞だ。

 父という言い方は、創造主とイスラエルの関係を表す比喩である。父・子・聖霊という概念は、神の家族の中に私たちを入れてくださる、という招きなのである。

主イエスご自身に全ての性がある。その名によって父との間をとりなしてくださる方だ。聖母にではなく、主イエスに直接に祈ること、十字架のイエスに祈ることが肝要だと思わされる。

2026/5/3 週報メッセージ

傷あとは主の愛のしるし

川﨑 信二 

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」 (ヨハネによる福音書20:27)

傷痕は残る。忘れないために残る。私のために釘を打たれた主の愛を忘れないために。傷が消えると私たちは忘れてしまう。

私は以前、大腸に腺腫が見つかり、内視鏡で除去してもらった。開腹していないので傷痕もない。だから忘れてしまう。兄の献一牧師は40年以上も前に脾臓を摘出した。昔なので大きくお腹を切った。生々しい傷痕が今でもある。

トマスはイエスの傷痕に触れる体験をした。聖書を見ると触れる前に「わが主よ、わが神よ」(20:28)と悔い改めているので実際には触ってないのかもしれない。私のイメージだと、イエスがぐっとトマスの手を引き寄せ「ここだよ、これだよ」と傷痕を指でなぞらせたのではと思っている。彼はその凹みの感触を一生忘れることはなかったであろう。

五感で記憶する。五感……視覚、聴覚、嗅覚。香りは記憶に残る。純粋で高価な香油をイエスに塗ったマリア。華やかな香りが家いっぱいに広がった(ヨハネ12章)。それを記録したヨハネは晩年、遠ざかる記憶のなかで、あの時のあの香りだけは忘れなかったのだろう。傷痕もイエスの言と共に思い出す。「見ないで信じる者は幸いだ」と主は言われた。しかし、見て、触って、後悔してから主を信じる。復活された日、トマスにそのお姿を見せなかったのは、愛の傷を見せるためだったのではないか。

「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。」 (ヨハネ一1:1)

2026/4/26 週報メッセージ

主イエスの死こそわが命

川﨑 信二

「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」

「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださる」 コリント二4:10、14

 十字架のアクセサリーを身に着けていても文句を言う人は誰もいません。クリスチャンでなくても十字架のネックレスを着けていると「ステキね」と褒められます。十字架が当時のローマ帝国で最も残酷な死刑の道具だったのに気持ち悪いと思う人はいないのです。

 4年前、パリのファッションショーにロープの輪をあしらったネックレスをしたモデルが登場し、それを手掛けたフランスの高級ブランド社が批判を浴びました。絞首刑の縄を模した、と物議を醸したのです。

 英国を代表するラグジュアリーの一流会社は2019年ロンドンでの新作コレクションの展示会にて首吊り紐をデザインしたアクセサリーを発表。これに対し有名モデルの一人が猛烈に抗議をしたと言われています。

なぜ、それよりも酷い処刑道具である十字架には何も言わないのでしょうか。

 それは主イエスの死が、私の救いに関係するからです。主イエスが死から復活された喜びを常に身に帯びることで、神様の愛を忘れないようにと願うからです。教会堂の屋根に高々と十字架をかかげていても「撤去してほしい」と言う人を見かけたことがありません。

主イエスの十字架の死がなければ、私たちに永遠の命はないのですから。

主の愛を身に着け、主の死を掲げてあゆむ私たちでありたいものです。

2026/4/19 週報メッセージ

復活の主に感謝をあらわす

川﨑 信二

復活された主を見た弟子たちには確信と喜びが与えられていた。もし、主が十字架で死なれたまま、姿を現されなかったならきっと弟子たちは信仰を捨てたであろう。主の復活の出来事はそれほど大きなことだったと思う。

私たちは主イエスに会うために礼拝に来る。復活されたイエス様に感謝と賛美を捧げるために教会に来るのである。ある方が「私は天国に行きたいので教会に来てるのよ」と言われたことがある。気持ちは分るが、礼拝出席は天国行きの条件なのだろうか。天国行きの資格を得るために奉仕をし、献金をするのだろうか。違う、と思う。

「天国に行くために教会に行く」のではなく、「天国に行けるから教会に行く」のである。礼拝は天国行きの条件ではなく、主が復活により私たちにも死からの復活が約束されたことを感謝するために行く所である。

言い換えれば礼拝は「御礼参り」である。御利益を叶えてもらうための祈祷ではなく、すでに復活という御利益をいただいたことへのお礼を、感謝と賛美であらわすのである。

イエス様に重い皮膚病を癒してもらった10人の話がある。

「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そしてイエスの足もとにひれ伏し感謝した。この人はサマリア人だった。」(ルカ17:15-16)

軽蔑されていた外国人が真っ先にイエス様にお礼を言いに来たのだ。

私たちが礼拝を捧げるのは、救っていただいたことへの感謝からである。世間の人々はイエス様によって救われていることを知らないために当然お礼に来るはずがない。

私たちは「その中の一人」である。既に復活の恵みが一方的に与えられていることを感謝して、喜び勇んで礼拝に参る私たちでありたいものだ。

2026/4/12 週報メッセージ

年会に出席して感じたこと

川﨑 信二 

ホーリネスの群年会が恵みのうちに終えられた。派遣式が行われ、ドイツでの宣教を終えて帰国された教師と、韓国出身(前中部教区書記)の教師がホ群加入され、2名の派遣式が行われた。牧師を招聘できない教会(延岡使徒、紀伊長島)は引き続き無牧となる。東京聖書学校の学生は3名。いずれも最終学年となるので来年度には教師が与えられるであろう。逆に言えば、その次はどうなるのだろう、という不安もある。研修生や聴講生が与えられていることは感謝だ。その中で教師を志す方があればと願うものである。無任所教師も多くおられるので教会への復帰を願う。近年は他教派、他教団からの加入があり、ホ群以外の方々に支えられていることにも感謝したい。

サバティカル休暇をとっている教師もおられる。長年の牧会で疲れ、心身を整える期間を過ごしている。ホ群や教会にとって教師が牧師職から離れることは困ることかもしれないが、教師が倒れないため、教師がリフレッシュし、教会がリセットするためにも必要なことだ。

 私は前任の教会の牧師館リフォームの際に「通い牧師」を2ヶ月ほど経験した。そのことで、通うことの清々しさと、気持ちを切り替えられることの喜びを味わった。今まで牧師館に住むことに抵抗を感じず、むしろ感謝し、便利だなとも感じていたが、知らず知らずのうちにプレッシャーを感じていたのかもしれない。以前のホーリネス教会には「休む」ことが「不信仰」のような雰囲気があったが、疲れた預言者エリヤを、主がケリト川でカラスに命じてパンと肉で養ったように(列王記上17章)、再び立ち上がるための休養は必要だと思う。特に「休みは要らない。伝道が趣味だ」と言われるような真面目な方ほど周囲からの配慮が求められる。

 今年度のホ群諸教会の歩みと、それを支える信徒の方々、ご家族の方々に復活の主イエスの祝福があるようにとお祈りします。

2026/4/5 週報メッセージ

規格外だからこそ

川﨑 信二

イースターエッグ。卵は主イエスの復活の象徴とされている。ユダヤの過越祭で新しい命のシンボルとして、茹で卵を食べる慣わしが古くからあった。過越祭は、奴隷の地エジプトから聖地へ導かれたことを記念して行うものである。つまり卵には復活や再出発の意味があるのだ。

卵といえば、学生のころ養鶏場でアルバイトをしたことがある。ニワトリが産んだ卵を次々とケースの中に入れる作業があった。枠にピタッと収まる大きさのものを詰めていく。大きすぎるもの、また小さすぎるものは、いくら味が良くても取り除かれる。売り物にならないからである。だから、双子の卵などは養鶏場で目玉焼きにして美味しくいただくのである。モグモグといただきながら、質も量も満点なのに枠にはまらないだけで「資格なし」とレッテルを貼られることには疑問を感じたものだ。

では教会はどうだろうか。天国行きの資格はどれほど高いハードルなのだろうか。使徒パウロは自分のことを「無きに等しい者」(Ⅰコリント1:28)とし「罪人の中で最たる者です」(Ⅰテモテ1:15)と告白している。しかし、そういう資格なき者を救うから「救い」なのだ。規格外だからこそ、主イエスの十字架の血潮によって規格内となり、神の子とさせられるのだ。地上の常識では考えられないことである。

 以前、卵を食紅で赤く染める習慣があった。赤は十字架の血を表している。コロナ以降、茹で卵を提供する教会は減ったがその意味を汲み取りたい。

救いは無条件。一方的な神からの恵みである。能力とはいっさい無関係だ。主は、この私のために血を流してくださった。それにより、資格なき者にも主の復活によって天国が用意されている。まことに感謝である。主イエスのよみがえりを心から喜び、お祝いしよう。

2026/3/29 週報メッセージ

何もしない罪

川﨑 信二

世界のあちこちで軍事衝突や報復攻撃により民間人が巻き込まれている。軍備、民族、宗教、思想……長い歴史の中で複雑な要因が絡み合っているが、その根底には人間の罪があることを思わざるを得ない。受難週を迎えたこの時、十字架の主イエスを仰ぎ、平和を祈りたい。

ドイツのルター派牧師であり反ナチ運動組織、告白教会の指導者マルティン・ニーメラーが第二次大戦後に残した言葉を紹介したい。

『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』

ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者でなかったので何もしなかった。

それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども自分は依然として社会主義者ではなかった。そこでやはり何もしなかった。

それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかった。

さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった。 ― 丸山眞男 訳、「現代における人間と政治」(1961年

2026/3/22 週報メッセージ

主はわたしの羊飼い

川﨑 信二

主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。(詩編23:1/聖書協会・共同訳)

「マイ・ウェイ」という曲は教科書にも載っている、多くの人に知られている歌だ。かつてアメリカの歌手・俳優のフランク・シナトラが歌っていたもので、彼の代名詞と呼ばれるほど人々に親しまれた歌だった。「すべては心の決めたままに……迷わずに行くこと……信じたこの道を私は行くだけ」。私の道をゴーイングマイウェイ! と歌いつつ貫く、自分の力で道を切り拓くイメージ゙があった。

 フランク・シナトラは敬虔なカトリックの家庭で育ち、洗礼も受けている。有名になってからは教会から離れていた時期があった。晩年、彼はこの曲を歌うことが苦しくなったという。ファンから歌ってほしいとリクエストされるが、自分の道を思い通りに歩めていないことと、主が私の道を導いてくださったことを経験したからである。

ジェームス・ディーンやマリリン・モンローなど、若くして世を去ったスターに比べ、彼は長生きだった。しかし、長寿は自らの弱さと向き合うことを体験させられる。

詩編23編を書いたダビデは70歳で死んだ。当時としては長生きである。巨人ゴリアトを倒した羊飼いのダビデはその後国王となり世を治めた。しかし、多くの罪を犯し、晩年には幼子のようになり、「主よ、あなたこそ私の羊飼いです。私は飼われる羊に過ぎません」と告白したのだ。

羊のように、幼子のように、小さくなって、神を信頼して生きる。それが神と私たちの本来の関係である。

ある方の記念会が行われ、ありし日の彼女の生き方に思いを馳せた。たび重なる試練の中で、主に信頼して生きたその生き様と信仰に倣う者になりたいと思わされた。心を虚しくし、羊飼いである主を仰ぎたいものである。

2026/3/15 週報メッセージ

食前の祈りと賛美(テモテ一 4:1~5)

川﨑 信二 

       

受難節には十字架の主の苦しみを覚えて、自らも少し我慢し、節制する期間として過ごす信仰者がおられる。好きなお酒を断つ。甘い菓子を控える。できる範囲で抑制し、少しでも主の苦しみに寄り添う気持ちは尊いことだ。

ただ、これは任意であり各々の信仰によって目標を定めるのであって、やらない人を裁いてはいけない。十字架の主を見上げる機会として用いるのが趣旨である。

パウロがテモテに手紙を書いたこの時代には禁欲主義が蔓延っていた。「結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。」⑶ 

教会でも受難節には結婚式をしない教会がある。教会の信仰の姿勢として理解できるが、それを絶対化すると愛の精神(十字架の恵み)から外れていく危険性がある。

食事も、断食するよう強要するのではなく、感謝していただくことが最も大事なことである。

「神が造られたものはすべて良いものであり、感謝して受けるなら、何一つ捨てるべきものはありません。それは、神の言葉と祈りによって聖なるものとされるからです。」(4-5)

 「我らの日毎の糧を今日も与えたまえ。」主イエスが教えてくださった「主の祈り」は主に向って「与えてください」と祈ることを勧めている。求めると同時に「感謝の祈り」をささげることが大切。「今日こうしてご飯を頂ける幸せを感謝します!」と食事ごとに神に祈るのだ。

中田羽後作詞の賛美歌に「日々の糧を与え給う。恵みの御神はほむべきかな」という食前に歌う曲がある。

歌うこと。その流れでよく噛んで食べることは健康にも良い。霊肉共に健やかになるために、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝して過ごさせていただきたい。

命のパンとなられた、十字架の主イエスの肉と血を信仰をもって感謝して受け、心のなかに入れたいものである。

2026/3/8 週報メッセージ

主のもとへ還る

川﨑 信二

今週、私は「還暦」を迎える。そのイメージはよくない。子どもの頃、赤のちゃんちゃんこを着たお爺さんが杖をついている姿に幻滅したからだ。明治・大正生れの方が次々と還暦の装いに身を包む姿を見て「ボクはあんなふうになりたくない」と思ったものだ。

「還」は「元に戻る」という意味。「暦」は干支の12年周期を表す。60年で一巡し、生まれた年の干支に戻ることからそう呼ばれているらしい。60年で一巡。つまり丙午の年である。迷信から一級下の学年の生徒数が少なかった。

一巡し再出発。第二のスタート地点と考えれば前向きになれる。しかし、スタート地点がよぼよぼでは心もとない。身体も健康でその日を迎えたい。還暦に限らず、人生はその都度リセットが必要だ。主イエスという、立ち返る居場所がいつも備えられ、心が新しくなることは本当に感謝である。そもそも、今まで生かされてきたことが奇跡なのだから。

私のスタートは出生時から「死」を纏っていた。へその緒が首に絡まり瀕死の状態で世に出たのである。双子で未熟児。早産で死にかけて産まれた者が今日まで健やかに生かされていることに感謝したい。4月が出産予定日だったのに二人そろって学年が一つ上がってしまった。弟には申し訳ない。

同級生より勉強も体力も遅れていた。その上、忘れ物が多く、集中力がない。先生から叱責されていた。文房具を忘れる。ランドセルや靴を無くす。成人になってからも時々似たような失敗を続けている。人と比べて「ボクにはあれもない、これもない」と能力の乏しさばかりを嘆いていたが、それでも今日まで生かされてきた。

讃美歌を皆と共に歌い、神の言葉に励まされ、主イエスを賛美できる幸いを感謝せずにはいられない。聖日ごとに復活の主のもとに帰る。

干支の12年周期ではなく、丙午の60年周期でもなく、毎週スタート地点に還る。日曜日の朝、深い悔改めをもって十字架の主を仰がせて頂きたい。