「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2024/12/8 週報メッセージ

チャペルコンサート

川﨑 信二 

角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。

太鼓に合わせて踊りながら神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神を賛美せよ。(詩編150;3、4)

今年もベアンテ・ボーマン先生、ルリ子先生をお迎えできまして、心より感謝申し上げます。先生方は、1999年12月よりクリスマス・チャベルコンサートを続けてくださり、今年で26回目になります。桜ケ丘教会前牧師の時代から毎年途切れることなく開催されています。

先生方の紹介を朝位牧師が次のように記しています。

ベアンテ先生は1951年スウェーデンのファルン市で誕生。12歳からチェロを始められ、1971年ストックホルム王立音楽大学で最優秀賞を受賞して卒業。1971年から72年、ゴテンブルグ市の国立歌劇場の首席チェロ奏者を務められ、最終的にはフィンランド政府給費留学生として1979年シベリウス・アカデミー大学院を首席で修了。

1980年から2011年までの31年間、東京交響発団の首席チェロ奏者を務め、現在チェロ奏者として室内楽等の演奏活動の他にチャペルコンサートをはじめとする宣教の働きに携わっておられます。また、インターアクトの協力宣教師でもあられます。

ルリ子先生は武蔵野音楽大学ピアノ科卒業後、西ドイツ国立フォルンバンク大学、シベリウス・アカデミーの各マスタークラスで学ばれ、ベアンテ先生と共に各地で良い奉仕を続けておられます。(2021年クリスマス掲載)

 私は先生方の演奏を初めて聴きます。楽しんで聴き入りたいと思いますし、先生方がチェロとピアノを通して主に賛美をささげるお姿に心を合わせ、私自身も主を仰ぎたいと願っています。主に賛美を捧げることは、讃美歌を歌う、つまり言葉で賛美するだけでなく、楽器を用いて主をほめたたえることも主への賛美なのです。

馬小屋の出来事を見た羊飼が喜び歌い、賛美しながら帰って行ったように、私たちも礼拝堂だけでなく、野原でも、歩きながらでも、いつでもどこでも、どんな物を用いてでも、救い主イエス様を心から喜ぶ私たちとさせて頂きたいものです。(ルカ2;20)

2024/12/1 週報メッセージ

救い主を待ち望む

川﨑 理子 

「アドヴェント」とはラテン語で「来臨」、「来る」という意味です。「救い主の到来」、「神が人となられた」という神の出来事です。

日本語では「待降節」と訳され、日本キリスト教団の教会暦となっていて、降誕日の前の4週間に当たります。この期間は救い主イエスを心に迎える準備と悔い改め、そして主が再び来てくださること(再臨)を待ち望む時として備えられています。

つまり「待降節」は信仰の用語です。私達がこの時期をいかに歩むのか。信じて待ちつつ(待降節)過ごすのです。喜びの前に緊張感があります。神の出来事を信仰によって心から待つという緊張感です。

一般化した今は「クリスマス」を知らない人達はいないでしょう。しかし、本当には何の日か分からず、教会でお祝いをするのはなぜかと思っている方も多いでしょう。

救い主を切に祈り求めるからこそ得られる喜びは大きいのです。主イエスのお誕生がどのようなものであったかを、まずこの「私」が体感できるように、心を砕きながら、救い主を喜び、楽しく過ごせたらとねがいます。

先週礼拝堂、ホール、外とクリスマスの飾り付けをしました。若い姉妹がリードしてくださいました。お喋りしながら、2つの言葉を思い浮かべておりました。

天使が語った神の言葉。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

その言葉を受け入れたマリアの信仰の言葉。「お言葉どおり、この身に成りますように」。

今年もわくわくドキドキのアドヴェントになりますように!

2024/11/24 週報メッセージ

収穫を神に感謝すること

川﨑 信二 

収穫感謝の日は勤労感謝の日に近い聖日に行われている教会があります(日本キリスト教団)。

米国とカナダでは感謝祭(サンクスギヴィングデイThanks giving Day)として、米国では11月の第4木曜日、カナダでは10月の第2月曜日に行われます。ドイツも10月です。

米国での感謝祭の始まりには諸説ありますが、そのひとつとして開拓期の出来事があげられます。1620年9月6日、メイフラワー号に乗った清教徒たちがマサチューセッツの海岸にたどり着きました。しかし厳しい冬に直面し、生活に困難を極めましたが先住民に助けられ、半数が生き延びることができました。逆に言えば半数が命を落としたわけです。

翌年には無事収穫を上げることができ、先住民を招待し、神の守りに心よりの感謝を捧げたのが始まりとも言われています。苛酷な開拓で、餓死や病で亡くなられた方々を忘れずに偲びつつ、主の御名をたたえたことを、現代の私たちも心に留めましょう。

教会によっては野菜やくだものを持ち寄り、主を賛美しています。礼拝後に愛餐会を行って神に感謝し、また農家の方々や働く方々にも感謝し、作ってくださる方の健康が守られるよう、神に祈ります。食事を共にして恵みを分かち合うひとときを持つことが愛餐会の主旨です。

なお、日本キリスト教団では謝恩日として隠退教職者に感謝するため、献金をささげる日ともなっております。先輩たちが困難な時代に、食べることを後回しにして、霊の食べ物を配ってくださり、走り尽くしてくださったことを覚えたいものです。

2024/11/17 週報メッセージ

共に居てくださるイエス様

川﨑 理子 

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

マタイによる福音書28章20節

降誕節前の聖日を歩む中でこの御言葉に出会いました。復活されたイエス様が弟子達を世に遣される時に語られた言葉です。この言葉にイエス様の愛がつまっています。

イエス様はまた居なくなります。昇天されるからです。

イエス様の姿、形は消え失せますが聖霊となって私達と共に歩んで下さる、というお約束の言葉です。

私達の人生は様々な問題や痛みにより傷つく事があります。そんな時必死に神様を探し求めます。しかし、私達が自分の問題に集中すればするほど神様を見失っているということがあります。探し求めているはずなのに見つからないのです。それでもイエス様は私達の傍に居て下さいます。「いつもあなたがたと共にいる」と。

すなわち必死に探している私達と共にイエス様はいる。なんと感謝なことでしょう。「いつも」とは「どんな時でも」「苦しい時こそ」と言い換えることができます。

娘からLINEで写真が送られてきました。すっかり冬支度仕様に模様替えした部屋と、大好きなディズニーのアドヴェントカレンダーが映っていて「今から開けるのが楽しみ!」とコメントが添えられていました。私もそれを見て初めて自分の為に(今までは子供の為に)アドヴェントカレンダーを購入しました。可愛いらしくて一目惚れでした。(作れたら良かったのですがなにせ不器用なので)。

イエス様が全ての人を救う為にお生まれになったことをワクワクしながら毎日朝開けて、待ち望みたいと思います。

主は今日も私達と共にいて下さいます。聖霊により揺るがないイエス様の臨在を示して下さいます。

2024/11/10 週報メッセージ

礼拝と教育

川﨑 信二 

ある日曜日、CS礼拝の説教をする前に初めてきた子どもに少し聖書の説明をしました。その際に「後でテストするから覚えておいてね」と言うと「なんか嫌だな、腹立つ…」という正直な答えが返ってきました。私はハッとさせられ気をつけなければと、思わされたことです。

教会学校は学校と名がつくように教育面も担っています。昔、日曜学校と呼ばれた時代にはしつけや生活面のマナーまで教えていました。現代の教会学校でも分級では聖書教育を実施している教会が多数あり、教育も教務の1つではあります。

しかし、教会学校はCS礼拝と分級からなるのです。礼拝は教育の範疇を越えます。子どもも大人も同じく神の僕として主の前で額づくのです。上から教えるのではなく、共に御言葉に聴く姿勢が大切です。

 同時に、教師の信仰で礼拝が守られます。あるいはそこに集った信仰者による礼拝と言えます。

幼い子どものほとんどが洗礼を受けていません。その意味で教師が先ず喜び勇んで主の前に出るのです。

子どもを見守るとか、子どもを悟らせるとか、礼拝ではそんな姿勢ではなく、一緒に主に従う心構えが必要です。

子どもに〇〇させる、ではなく、自ら神の子どもとして謙虚になり、初心に返って主イエスを仰がせて頂きたいものです。

2024/11/3 週報メッセージ

キリスト教的供養

川﨑 信二 

イエスが彼らの中にお立ちになった。そして“やすかれ”と言われた。

 (ルカ24:36口語訳)

「供養」を辞書でみると「死者の霊に供え物などをして、その冥福を祈ること」とあります。冥福・・・つまり死者の「あの世での幸せ」を願い供えることです。その思い、その気持ちはとても尊いことです。その気持ちを具体的な供え物という形に表すことが供養なのだと思います。

キリスト教では「供養」や「冥福」という考え方がなく、死者への対応も違います。死者は神の領域に移されたので人の力ではどうにもならない。人間の行為(祈りや献げもの等)を死者に届けることは出来ないと考えます。

もう一つは、死者は既に幸福を得ているので、供養や冥福を祈る必要がないほどに満たされているという教えです。聖書の教えは死後の「復活」や「永遠の命」を説きます。

主イエスご自身が死から復活され、私たちもその復活に与ることができる、という希望です。「永眠」ではなく「復活」(Ⅰコリント15:50-55)です。目覚めて、起きて、そして生きるのです。感謝なことです。

ですから、死者は平安であり祝福されている故に、私たちは神を賛美するのです。

けれども、遺族の悲しみに配慮する必要があります。冒頭の御言葉は悲しんでいる弟子達に、復活された主が語られたものです。「やすかれ!」「あなたに平安があるように」。この主の言葉をもって遺族の悲しみに寄り添い、共に神を仰ぐのです。生かされている私たちが出来ることは神に祈ること、そして遺族の方々に復活の希望を伝えることです。死者に対しては、出来れば生前に心を尽くし、後悔することがないよう愛することが大切です。けれども死は突然訪れます。準備がないまま、悔いを残したまま天に送ってしまうことがあります。

キリスト教における「供養」とは(私の勝手な考えですが)、死者に対して生前に出来なかったことを神に委ね、キリストを通して愛する人に届けることではないでしょうか。

むしろ、死者が幸せであることを信じ、遺された家族が平安を得ることが大切です。「やすかれ!」との主の言葉にすがりつつ、残された日々を希望のうちに歩みたいものです。

2024/10/27 週報メッセージ

ハロウィンの扱いについて

川﨑 信二

 キリスト教の聖書信仰とハロウィンの思想とは全く相容れないもので、取り扱いにはある程度の注意が必要です。

 それでもパウロは「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」(ローマ14;1-3)と述べています。

 ハロウィンを悪魔的なものとして祝うべきではないという教派がある一方で、何も問題はないという教会もあります。私は個人的には「単なる遊び」と考えていますが注意は必要だと思っています。一般の人はキリスト教の祭りだと勘違いしている方が意外と多く、それ故に気をつけたいと思うのです。

キリスト教国と言われているアメリカで民間行事として定着しているために誤解されやすいのです。更に毎年10月31日に行われるのがカトリックの死者を覚えるミサ(11月1日)の前夜祭に位置付けられているためです。これを宗教的な意味合いはないと考えるならば何の問題もありませんが、やはり「魔女狩り」「悪霊」「ゾンビ」など死後の捉え方は聖書とは違います。

元々は古代ケルト人の祭りが起源だとされ、収穫祭でしたが、カトリックの地方の土着の民族宗教と混ざって、生きている者と死んでいる者との交流期間として死者の今を覗き見る、いわば仏教のお盆に似ている思想から来ています。真剣に信じている人がいる限り、「遊び感覚」は失礼になりますが、これを宗教と捉えるか、の問題です。

遊び…但し、死は人生の最大の課題ですから、死を恐れ、悩み苦しむ人々への配慮が必要です。全て自由ですが、遊びで行うとしても互いに節度と常識をもって、プラス楽しくやれたら良いのではないでしょうか。

2024/10/20 週報メッセージ

献身の志

川﨑 理子 

 イザヤ書6章には、神からイザヤが預言者として「召命」を受けた様子が記されています。

①いつだったのか。「ウジヤ王が死んだ年」(1)。南ユダの王ウジヤが死んだのは紀元前740年。ウジヤ王は神を畏れ敬う王でイザヤはウジヤ王を信頼していましたが、ウジヤの晩年は彼の高ぶりにより神に打たれてしまいます。

祭壇の香を自ら焚こうとして祭司に止められ皮膚病となったのです。それは祭司しかできない聖務を王の力で行おうとした越権行為でした。それまでの成功体験が自身を神格化させてしまったのでしょう。ウジヤ王が死ぬことは南ユダの滅亡を暗示していました。

②どのように召されたのか。「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。」圧倒的な主の姿と神の栄光が神殿満ちていました。更にセラフィム(天使的な存在)が「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と神が聖であることを地震と煙によって現し、この圧倒的な聖なる姿を見せてイザヤを召したのです。

以前、洗足木曜日にお互いの足を洗うという体験をし、垢まみれ桶の水を見てその汚れに驚いたことがありました。それまで気づきませんでしたが私自身がいかに汚れた者であるかを知らされました。

イザヤの口にセラフィムが火を触れさせて「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」と告げました。ウジヤ王は自分の高ぶりに気づきませんでした。神様は謙遜な者を召されます。いえ、圧倒的な聖によって謙虚にさせて従わせるのです。イザヤには罪の自覚がありました。

「誰を遣わすべきか」との主の声にイザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と答えます。

「まさか私ではないでしょう。」と思っていたイザヤを神様は用いるのです。真の謙遜は拒否ではなく、積極的な信仰と従順です。

今私達は、圧倒的なイエス様の愛に触れています。この十字架の「愛」に感謝して応え、遣わされてまいりましょう。

2024/10/13 週報メッセージ

伝道者養成と各神学校を覚えて

川﨑 信二 

 桜ヶ丘教会はホーリネスの群の神学校、東京聖書学校を支援しています。東京聖書学校は今日に至るまで伝道者を各教会とそれぞれの宣教の場へと送り出してきました。同校は献金によって運営されています。神学校日のこの時に在学生3名と、教授、講師、事務など関係者のために祈りたいと思います。東京聖書学校報№30をご覧ください。11月23日に2025年度新入生のために第1回入学試験が行われます。受験志願者が与えられますように、また必要が満たされますようお祈りください。

「神学校日(伝道献身者奨励日)」は先述の働きのために祈り、支える日として設けられ、今年は10月13日です。

日本基督教団認可神学校は関西学院大学神学部、同志社大学神学部、東京聖書学校、東京神学大学、日本聖書神学校、農村伝道神学校の6校です。教団立の学校は東京神学大学となっています。

 

 中村公一氏の「礼拝を彩る教会暦」にこう記されています。

1961年から毎年10月第2主日を神学校日として、そのために献金することを制定して実施している。

 また、従来1月第3主日に行われていた伝道献身者奨励日は、1963年から神学校日と同じ日に守るようになった。

一方、1961年以前から東京神学大学が10月第2主日を神学校のための献金の日としていて、それが教団全体として他の認可神学校も含めて覚えて献げよう、ということになった。

 東京聖書学校は全寮制の学校ですが、近年は入学生の事情に配慮した受け入れを行っています。日本聖書神学校は夜間の学校で勤務しながら学べます。神学校に行かずCコース受験制度で(数年間にわたり検定試験を受けて)教師になる道もあります。また、教団以外の教派を超えた神学校が各地に多数あります。

主に召された方々の志が全うされるため、学びの環境が整えられるように、この働きを覚えてお祈りくださり、ご支援くださるようにとお願い申しあげます。

2024/10/6週報メッセージ

永遠の住み家(Ⅱコリント5:1〜10)

川﨑 理子 

 パウロは、地上の住み家は「幕屋」(一時的に住むための住居)だと語ります。彼は天幕造りの仕事をしながら伝道を続けました。伝道とは「神のひとり子であるイエス・キリストの十字架の贖いと、復活の命」を語ることです。

 天幕造りの仕事はこの世で生きるために日々の生活の糧を得るために必要なことです。同時にこの世とは全く違う永遠の世界を語っているのです。

 天の希望は「今ここに在る」。希望はあるが「地上の幕屋にあって苦しみもだえている」のが現実です。この世では「重荷を負っている」からこそ「天から与えられる住み家を着たい」(2.4)と切望するのです。この世で苦しむ体の上に永遠を着ることを心から望むのです。それは私たちの身近にもあります。

 かつて、私が神学校へ行くことをとても喜んで下さった姉妹(当時短大の教授)から手紙が届きました。末期癌で東京の病院で入院治療中と書かれていました。御見舞に伺うとだいぶ痩せておられました。彼女は、家族を導けなかったこと、自らが本当に救われているのか、天国はあるのか、私自身そこに行けるのだろうか、と苦悩していることなどを話してくれました。まさに切実な言葉でした。

 パウロは「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるから、ひたすら主に喜ばれる者になりたい」(7.9)と語ります。

 死を目前にした時に姉妹は自身の体(地上の住み家)を抱えながら苦しんでいましたが、そこから目に見えない永遠の住み家へと心を移していったのです。信仰とは、イエス様の語られる言葉を信じ平安を保つことです。

 イエス様は「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(ヨハネ14.3)と言われました。それは「全ての人のため」に用意してくださる場所です。「わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住み家」(5.1)が確実に備えられていることを。

しかもその住み家は「わたしのため」であり、「全ての人のため」に既に整えられています。この、人の考えの及ばない驚くべき主の救いに、主の御業の広さ深さに、心から感謝するものです。