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「主に結ばれた者達」2020・11・29説教要旨

朝位 真士

序  

今日はローマ16・1~16節を通して聖書をみて行きましょう。この16章は模範的信者。忠実な牧者の心。分裂の霊に働きと征服。1~2女執事フェベの推薦。3~16諸聖徒によろしくとの個人的挨拶。17~18厳粛な警告。19~20推賞と祝祷。21~24伝言と祝祷。25~27頌栄。となっています。プリスカとアキラの夫婦(3)は、天幕造りを職業とする信徒であるが、御言葉に通じ、恵みの経験に深い人たちであります。(使徒18・2,26)。パウロも天幕を製造しながら、自給伝道をしたことがあるので、彼らと同業であるため一緒にいたことがあります。そして、いつ頃わからないが、2人はかって身命を落としてパウロをかばったことがあります。それ故パウロはここで、(わたしの命を救うために、自分の命を救うために、自分の命を救うために、自分の首をさえ差し出してくれたのである)と言って感謝し、なおこの異邦人への使徒を救ったために(異邦人のすべての教会も感謝している)と言う(4)。2人は実に文字通り「兄弟にためにいのちを捨てる」愛の人であった(第1ヨハネ3・16)。更にこの夫婦は、至る所で家庭を開放して家庭集会を開いたらしく、恵まれた彼らの家庭が中心となって、信者が集められ集会所すなわち教会となった。(彼らの家の教会)とはそれを言う(5)。彼らは御言葉には詳しく、深い経験に進んでいたので、聖書に精通し、雄弁で熱心な伝道者アポロを自分の家に「招き入れ、更に詳しく神の道を解き聞かせ」て、更に深い経験に導いたことがあり(使徒18・24~26)、また命がけで兄弟を愛し、伝道者を守り、伝道心に燃えていた。まことに模範的な信者であります。

ローマ16・1~16節を見て下さい。ここに一人一人への懇切な挨拶には、大いに教えられる。ヨーロッパ大陸をまたにかけての巡回伝道者パウロが。1地方の信者個人個人の名をあげ、勲功や自分に対する親切などを1つ1つ記して、安否を問う。なんという愛の心であろう。パウロでさえ一人一人を覚え、それぞれの奉仕を忘れなかったのであれば、まして主がお忘れになるようなことはないと言うことを教えられる(へブル6・10)。パウロは、信者個人個人をつねにその心に刻んでいたことがわかる。これが忠実な牧者の心である。ここにひとりびとりのいろいろな勲功があげられている。共に働く(同労者)(3)、(自分の首をさえ差し出し)生命をも提供して捨て身になって尽くす援助者(4)伝道者のために(一方ならず労苦した)世話人(6)獄まで伴い(一緒に投獄された)忠実な同族の者(7)、(キリストにあって練達)な者(10)、(主にあって労苦している)女達(12)など私達もこのような奉仕と生涯において、主に推賞されるものになりたいです。ローマ16章は、初代教会における信徒相互の交わりが、いかに深く広いものであったかを、生き生きと示すものであります。パウロは未知のローマ教会宛に、キリスト教信仰の核心を記した長い手紙を書き送りましたが、その終わりに、自分の知人の1人1人の名を挙げて、心からの挨拶を書いたのであります。

結び

このパウロの挨拶から、初代教会の特徴をいくつか示されています第1・当時の教会には、差別と並んで女性や奴隷の名が多くみられることであります。「フェベ」(16・1)、「プリスカ」(16・3)、「マリヤ」(16・6)など、女性名が多く出てくることは、女性を男性と等しく考えるのが、キリスト教の大きな特徴であったことがうかがえます。また「フェベ」(16・1)、「アンプリアト」(16・8)、「ペルシス」(16・12)などは奴隷に多い名前でありました。さらに「アリストプロ家の人々」(16・10)、「ナルキソ家・・・人々」というのは、その家に属する奴隷のことでありました。これらの女性や奴隷は、当時社会においては男性より低い地位に甘んじなければなりませんでした。場合によっては人権も認められませんでした。しかしキリスト者は神の前ですべての人間が同一であることが知らされ、「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて1つだからです」(ガラ3・28)と言う確信を持っていました。キリスト教は人間ひとり1人に対する神の愛を知ることによって、差別を廃止、人間を解放したのであります。

第2パウロはこれらの主にある兄弟姉妹たちの名を記すに当たって、「愛する」という言葉を何度も用いており、またその人達が人々のために「非常に苦労した」(16・8)ことを教会全体が特に覚えるように促していることが注目されます。「わたしの愛するエパイネト」(16・5)、「主に結ばれている愛するアンプリアト」(16・8)、「わたしの愛するスタキス」(16・9)「主のために非常に苦労した愛するペルシス」(16・12)、キリスト者は自分の使命を果たす時に、誰もみてくれ図、理解してくれなくても「神知りたもう」、「神は御心に留めて下さる」ことを信じて、自分の道を進みます。1コリ15・58節を見て下さい。p323です。第3に注目されるのは16・13節の「ルフォス、およびその母」であります。マルコ15・21節p95ルフォスはキレネ人のシモンの子であった。シモンは、キリストの十字架を負わされた、それがきっかけとなって、自分の家族がキリスト者となり、

ルフォスの母、すなわちキレネ人のシモンの妻は、使徒パウロから「彼の母は私にとっても母なのです」と感謝されています。このようにパウロはローマ16章において、美しい信徒の交わりを思っています。

「平和の源である神」 2020/11/22説教要旨

朝位真士

今日はローマ15・22~33節から聖書を学びましょう。この15章はパウロの書簡ですが、一致と自己放棄。種々の満たし。霊的負債。22~29ローマ訪問の希望、30~33祈りの要求、祈祷が語られています。今日の題目はローマ15・33節よりつけさせて頂きました。

 ローマ15・22~33節をみてください。ここではパウロは、ローマ訪問を望んでいました。しかし、ローマには、すでに、教会の土台が出来ていました。けれども、ローマを拠点として、スペインは勿論、ローマから西のヨーロッパ全土に目が向けられたかも知れません。パウロはこの手紙の冒頭でローマ訪問の切願について触れましたが、22節以下では再びそのことについて言及すると共に、ローマからスペインまでの遠大な宣教計画を明らかにします。ところが、25節からは一転して、当座の計画であるエルサレム教会訪問について、熱い胸中を明らかにしています。22節から24節をみてください。パウロの心を満たしていたものは福音を「地の果てにまで」という世界宣教のヴィジョンでした。すでにパウロはエルサレムからイルリコまで福音を満たしてきました。東地中海世界において「もはや働く余地がなく」なったと言っています。次の宣教戦略は西地中海世界です。西の果ての国がイスパニヤ、つまり、今日のスペインまでの宣教です。23節で、ローマ行きを「たびたび妨げられた」と打明けていますが、世界宣教に燃えるパウロにサタンがどんなに水をかけても、それは火に油を注ぐものなので、妨げられれば妨げられるほど、世界宣教の情熱は燃え上がったのです。24節を見ると、パウロの遠大なヴィジョンをはっきりと読みとれます。第1のことは、彼の最終ゴールは福音をスペインまでということ。第2のことは、そのことのために、ローマ教会を通過点ではなく、拠点、基地としたいという目標見です。イエス・キリストの再臨を前に、何としても福音を地の果てにまで満たしたいというパウロの世界宣教戦略は、まさに福音の遠心力によるものです。ローマ帝国の西へ西へという福音の遠心力がすさまじい勢いで働いていたことは確かです。やがてローマはその拠点となり、ペテロもパウロもその地で殉教を遂げたと言われています。25~29節を見て下さい。ここに福音の求心力が25節以下に見ることが出来ます。福音は、常に外への伝道の力と内への交わりの力をもたらすのです。26節にマケド二ヤとアカヤの教会で集めた献金をエルサレム教会に手渡すためでありました。エルサレム教会は貧しい聖徒が多くいました。この貧しい人々をかえり見ることはエルサレム教会との約束事項でありました(ガラ2・10)。何よりも福音の霊的祝福はエルサレム教会から全世界に及んだのですから、物質的祝福をもって感謝をあらわすのは当然なことであるとパウロは語っています。ここに教会の真の交わりを見ることが出来ます。26節の「援助する」も27節の「霊の物に「預かった」もコイノ二ヤという言葉が使われています。貧しさを「共有する」という「共生」の理念があります。パウロは、福音の実である愛の献金を渡すことにより、異邦人教会とユダヤ人教会が全く1つのキリストの教会の交わりに生きることを示したかったのです。パウロのエルサレム教会への感謝を表す福音の求心力は、さらに爆発的な遠心力となって世界宣教へと拡大するのです。キリストの満ち溢れる祝福の使徒、それがパウロです。遠心力による宣教、求心力による交わりを通して、行く先々にキリストの祝福が満ち溢れました。強力な遠心力を生かして救霊のみ業に当たりましょう。信仰の祈りと愛の呼びかけを持って、家族、友人、知人に救いを拡大ささせましょう。貧しい人々、国々、諸聖徒、諸教会へ、もつともつと愛の献げ物をもつて交わりを深めましょう。15・30~33節を見て下さい。熱烈な祈りに包まれて小島伊助先生は、ここに聖徒の3大意欲があるといわれました。伝道と献金と祈祷であるというのです。

結び

15・30節をもう1度見て下さい。ここに祈りの戦いの要請が語られています。祈りは戦いです。格闘です。神と相撲を取ることです。ヤコブのように、神に勝つのです。神に勝つつまり神の御手を動かすしかも1人で戦うのではありません。共闘でなければ勝てないのです。こうしてパウロは3つの祈りの課題を出しました。第1の祈りの課題はユダヤにいる不信仰者から救われることです。第2の祈りの課題はエルサレムに対するパウロの奉仕が聖徒たちに受け入れられることです。パウロは献金通して、ますます、ユダヤ人教会と異邦人教会が1つになり、「エルサレムから」世界宣教の使命が果たされるように願っていました。第3の祈りの課題は、ローマ教会において共に慰め、共に憩いを得ることです。第1と第2はセツトとなつて、その結果の最終的な祈りの課題ですから「共に憩う」そしてついに神の御旨により、喜びをもってローマに向かい、主イエスが「休ませてあげよう」と約束されたその憩いのハ-モ二―を共に奏でるのです。教会の交わりの最たるものは「憩い」です。33節は、平和の神の祝祷です。忍耐と慰めの神、希望の神は、ここでは、平和の源なる神です。波乱万丈のパウロの生涯に、常に伴っていた方が、平和の神から来る真の安息でした。ストレスの多いこの時代です。教会が真の慰め家、憩いの場所となり、そこで常に新しい力が与えられることを求めようではありませんか。平和もう1度15・33節を見て下さい。「平和の神」すなわち。神と「わたし」との間にあった不和の状態が、キリストにおいて除かれ、救いを与える神がローマの兄弟たちとともにあるようにとパウロは、祈って、この15章を終わっています。祈りに始まって、祈りに終わっているのであります。

「キリストを模範としなさい」2020・11・15説教要旨

朝位真士

今日は子供祝福式礼拝ですが、今日はフィリピ2・1~11節からイエス・キリストの模範を学んで行きましょう。この手紙は獄中書簡と言われています。この書簡は獄中の中でフィリピの人々に語った手紙です。この教会はマケド二ヤの東の端にあるその地方第一の町で、当時ローマの植民地であった。(使徒16・12)。この地は、パウロがヨーロッパ大陸に伝道した最初の土地として有名です。彼が第二回伝道旅行の際、トロアスにいた時、夜、幻の中に1マケド二ヤ人が現れて、「マケド二ヤに渡ってきて、私たちを助けてください」と懇願するのを聞き、聖霊の特別な導きによって、そこに行き、伝道したのであります(使徒16・6節以下)。その時、ルデヤを始め熱心な信者が起こった。しかしパウロ達は迫害に会い、投獄されたが、神の力によって救い出され、そこの獄吏一家が救われるに至った。それは紀元53年頃のことであった。その後紀元58年頃に、第3回伝道旅行の際、パウロは再びこの地を訪ねた。

 フィリピ2・1~11節を見て下さい。ここでは信者の生涯の模範であるイエス・キリスト(今も主は卑しい奉仕のうちに御自身を再現される)この2章1~4節は一致と謙遜に関する勧め。5~11節は謙遜の模範であるキリストの姿とその高挙。まず1~5節を見て下さい。ここでは交わりの一致が延べられています。フィリピの教会でパウロは実際的な一面をここで語っています。すべてのキリスト者は、キリストとの関係において同じ体験ももっているのですから、それに根ざして、お互いの間に一致をあらわさなければなりません。1節のキリストによる勧めは、キリストによる慰め、助け、はげまし、愛の励ましは、キリストに基づく力づけの意味であります。キリスト者の交わりは、お互いにキリストの慰めと励ましをもたらし合う交わりである。ともにイエスを主と告白することによって、聖霊によって生まれ変わったお互いのい間に交わりに目覚めさせられ、同情と理解とを相互に深く持つことを、教会において学ぶのであります。もし、教会の中にこうしたものがいくつかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、1つの思いになって、わたしの喜びを満たしてほしいとパウロは願っています。信仰の交わりは、そういう余裕と忍耐とを、愛と謙遜によって持つ、この交わりの具体化こそ、パウロの喜びを完全なものにする。ピリピの教会に人たちも、このことを理解して、そこでは、党派心や虚栄が克服されて、お互いにへりくだった心をもって交わりが成される。愛において、自分のことばかりでなく、他人のことも考えるとき、自己中心的な考えでなく、他人の立場や問題を同情し、また尊敬する心が生じ、互いに人を自分よりすぐれた者として取り扱ってゆくことが出来ます。キリストは、隣人たちを、その道具として、御心を成される。隣人は、愛の働き場であると共に、愛をうける場でもあります。そして、キリスト御自身の比類のない謙遜がつぎの

2章6~11節に語られています。ここではキリストの謙遜と高挙が語られています。

この箇所は、2つの部分に分類されます。5~8節は、イエスの謙遜について、9~11節は、それに対して神がイエスを高く挙げられたことを述べています。

結び

もう1度2・1~11節を見て下さい。ピリピ教会の中には、利己的野心を満足せようとした人々がいました。イエス・キリストが意図されただ1つのものは、たとい奉仕されることになったとしても、人々に奉仕することであった。ピリピ教会の中には、自分が人々から注目されたいと願う人々がいた。しかしイエスが意図されたただ1つのものは、人々の目が神に集中することであります。このように、キリストに従う者は、いつでも自分のことではなく、他の人々のことを考え、自分の栄光ではなく神の栄光を考えなければならない。キリストの模範をもう1度聖書2・6~11節を見て下ださいここにキリストの模範を見ることが出来ます。今日は子供祝福式ここに子供のような素直なキリストを見ることができます。

謙遜と愛を持つて、教会に人々に仕えて参りましょう。

「神のために働く」2020・11・8説教要旨

朝位真士

今日はローマ15・14~21節を通して聖書を学んでいきましょう。このローマ15章は一致と自己放棄。種々の満たし。霊的負債。1~13信仰の弱い者に対する愛の態度。14~33節

パウロ自身に関する陳述。14~16ローマ書を記した理由。17~21パウロの使命と働き。22~29ローマ訪問の希望。30~33祈りの要求。祝祷。ローマ人への手紙の学びもいよいよ最終段階となります。15・14節でパウロは1章から語り続けてきたことを静かに振り返っています。そして、改めて、14節に「兄弟たち」と呼びかけて、結びに入ります。ローマ教会の兄弟姉妹は、実に善意に溢れ、救いにおけるあらゆる知恵に満ち、互いに訓戒し合うという「自浄能力」のある者たちでした。その成熟した彼らであればこそ、彼らに救いに関する記憶を鮮明にするため、遠慮せず思い切って書いてきました。それは、とりも直さず、異邦人のために「キリスト・イエスに仕える人」となるためだったのです。その宣教者パウロの姿をこの箇所でしつかり見てまいりましょう。

ローマ15・14~21節をみてください、とくに14~16節のところでは福音宣教の目的が語られています。福音宣教者とは、「キリスト・イエスの仕え人」です。福音の本質は、教説でも倫理、道徳でもありません。福音とはイエス・キリスト御自身です。イエス・キリストというお方を人々に宣べ伝え、紹介し、結び合わせることが伝道です。パウロここで、「神の福音のために祭司の役を勤め」とか、異邦人を神への「ささげ物」、「供え物」にするなど礼拝に関わる用語を用いています。実は、キリスト・イエスに「仕える」という用語も、「礼拝する」と言う言葉の語源となっています。今日、礼拝を司る牧者が何を至高の目的として奉仕しなければないかを明白にここで見ることが出来ます。その至高の目的は、全てのクリスチャンたちが、「聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物」となることです。神からの恵みを受け立てられた伝道者や牧師の究極の目標がここにあります。これは牧師・伝道者だけでなく、全てのクリスチャンな目標であります。1人1人が「聖霊によって聖なる者」となる。「御旨にかなう捧げ物」、「神に喜ばれる供え物」となる。ここにこそ福音宣教者の目的があります。当然、私達の教会の到達点もここにあります。パウロがローマ人への手紙を書いた意図もここにあります。実に、ホーリネスこそ、福音宣教の究極の目的です。10軒の家を建てかけるよりも1軒の家を完成する方が大切であるとかってバックストン先生は語られたそうです。聖霊による聖化の恵みがお互いの中に徹底されるように祈りましょう。次に15・17~19節をもう1度見て下さい。ここに福音宣教者の手段が記されています。これを見ると、パウロの福音宣教は徹頭徹尾、神の恵みにより、キリスト・イエスによってなされたことがわかります。パウロの「誇り」は、自慢ではなく、神の栄光をほめたたえる誇りでした。神の恵みはこんなに素晴らしいことをしてくださる。わたしはキリスト・イエスに用いられたに過ぎないということです。コリント1・15・10節に、パウロは使徒たちの中でだれよりも多く働いて来たと言いつつも、「しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである」と言っています。小島伊助先生は「万事聖霊、万事祈祷」とよく言われたそうですが、福音宣教の手段は、まさに「わたしの霊によるのである」以外の何ものでもありません。19~21節を見て下さい。福音宣教の熱望をパウロは語っています。

結び

イザヤ52・15p1149「それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見、1度も聞かされなかったことを悟ったからだ」ここにパウロの宣教の秘訣がありました。パウロの引用句は、未知の伝道地における先駆者を、大胆にするものは、実に、神のみことばと、みことばを通して活動する聖霊の導きであります。

彼は「言葉とわざ、しるしと不思議との力、聖霊の力によって」と語っています。ローマ15・19節「しるしや、奇跡の力によって働かれました」私達も福音宣教の聖なる野望に燃え、くまなく、地域に福音を宣べ伝え、世界宣教の幻に生きる者となりたいと思います。

主は大牧者 2020/11/1

朝位真士

「主は大牧者」2020・11・1説教要旨

今日は詩篇23編1~6節を通して聖書を学んで行きましょう。これは感謝と平安に満ちた詩篇であります。主は羊飼いとして私達を世話し、守り、導いて下さる。信仰者は神の家の客人としてだけでなく、家族の一員として、あつかわれるということであります。この詩篇は言わば、ダビデの生涯を通じての信仰の喜びを要約したものといえます。それでは具体的にはどのような状況が挙げられるだろうか。サムエル記下17・27~29p509という出来事を挙げる事が出来るでしょう。また詩篇27編はこの詩篇を理解する上で参考になります。この小さな詩篇はイエス・キリストにおいて大きく花開いたということができます。イエスは「良い牧者」として、羊に永遠の命を与えて下さった(ヨハネ10章、1ペテロ2・25)。内容区分1~3節主は羊を養い導いて下さる。4~6主は羊を守り喜ばせて下さる。

詩篇23編を1~6節まで見て下さい。ある注解者はわれらの良い牧者。その与える全ての恵み1~4牧者である神の恵みの讃美。5、敵前の饗宴の恵み。6、恵みと憐れみの継続の確信。ダビデは若い頃牧者であったので(サムエル上16・1)、牧羊者としての経験があり、ここに自分と神との関係を牧者と羊との関係たとえてその恵みを讃美(1)しています。旧約聖書では神と民との関係を、新約聖書では主と教会との関係をたびたび牧者と羊との関係をたびたび牧者と羊との関係にたとえています。(詩80・1イザヤ40・11、ヨハネ10・11,14、へブル13・20、1ペテロ2・25)。この牧者たる神こそ恵みの無尽蔵の財源であります。(1終、フィリピ4・19)、みどりの野とは食物は豊にあり、心気をさわやかにする所、憩いの汀とは渇く事を知らず、休息するによい所で、主はそこで我々を養い、休ませたもう(2)。彼はわたしたちを救って新生命を与えたもうのみではなく、その後の信仰生活においてもわたしたちを正しい道を歩ませ(3)、どんな試練困難にも、また実際死の瀕した時にも共にいまして力づけ(4始め)、懲らしめの中にも慰め(4終)、迫害の中でも恩恵を喜びと楽しみを満たしたもう(5、油も酒も聖霊の型(1ヨハネ2・27,エフェソ5・18,詩篇140・14)。こうして私達は現世では終生恩恵と憐れみを受け、天国では永遠に幸福を受けるのであります(6)。この詩篇は何回読んでも、味わえば味わうほど恵みを感じる詩篇であります。3000年の昔牧者であったダビデが感激をもって深い恵みの経験を歌ったこの詩によって、どんなに多くの人が慰められ励まされた事でありましょう。悲しむ者は慰められ、乏しい者は信仰が与えられ、死の岸辺に立った者は勝利の力を得た。これは詩篇中の詩篇であります。主は「良い羊飼い」で(ヨハネ10・11、14)、その羊であるわたしたちにすべての物を供給し(1)、安息と(2)、生命を与え(3)、叉私達が迷うことがないように先に立って導き(3)、試練の暗黒の中にも共にいまして守りたもう。それ故彼に従う者には恐怖がなく(4)、かえつて慰めと(4)喜びと楽しみがあり、幸福な交わりとあふれる恵みを受けます(5)、この世でも天国でも永遠の恵みと神の国の幸福とを受ける(6)。

結び

もう1度詩篇23編を見て下さい。主に信頼する者の人生が常に恵みで満たされ、溢れるほどであるという感謝の表現であります。羊の喜びは、敵からの守りを具体的に示されます。6節は、羊が安全な囲いの中に守られるように、主に従う信仰者は主の家の中に住む事が出来、休息を与えられるということであります。「いつくしみ」とは良いことという意味で、健康や必要が備えられという事と考えることができる。「恵み」とは神の愛と守りの実感であります。それがいつもわたしを追ってくる。「主に家」とは、ダビデにとってはエルサレムの主の家であり、私達にとってはイエスをかしらとする教会であります。主の羊は、繰り返し主の家に帰って来るし、叉主の羊の安息は主の家にこそある、という意味であります。

例話―1人の婦人伝道師105歳で召天されたかた御主人も牧師であられたが3人の子供を残して戦死されたけれども、その婦人伝道師は70年間教会に仕え、いつもこの詩篇23編を口ずさんでおられ、とくにご主人が戦争に行く時にイエス様に祈りなさいと言われていつも主に祈って3人の子供達を育てて、彼女がいつも言っていたことは「「わたしには何も欠けることがない」と言われていたそうであります。その教会の牧師がいっていました。その婦人伝道師の働きで多くの方々が救われ、悩みを解決されたそうです。

「希望の源なる神」2020・1025説教要旨

朝位真士

 今日はローマ15・1~13節を見ていきましょう。この15章は一致と自己放棄。種々の満たし。霊的負債。1~13信仰の弱い者に対する愛の態度。1~4弱者のためのキリストのような自己放棄。5~7キリストにならってのキリスト者の一致。8~12ユダヤ人と

異邦人の一体となっての讃美。13喜びと平安の満たし。14~33節パウロ自身に関する陳述。14~16本書を記した理由。17~21パウロの使命と働き。22~29ローマ訪問の希望。30~33祈りの要求、祝祷。と分解しています。

ローマ15・1~13節を見て下さい。一致は聖霊の与えられるものでありますが、謙遜、柔和、寛容、愛を持って、互いに忍び合い、これをも守らなければなりません。(エペ4・2~3)。そのために、福音的自由を会得した信仰の強い者も、弱い者と歩調を合わせるために、自ら弱い者のようになって一致しなければならない。(1)、この15・1~6節声を合わせて、パウロは、12章以下に、キリスト者の實践をとりあげ、キリスト教共同体に属するキリスト者1人1人のあり方、世俗的権威に対するキリスト者の態度、食べ物の問題、特定の日を重んじる問題などについて指示を与えた。15章にいたって、彼は、すべてを言い終わったことの喜びを抑える事が出来ないので、これを祈りとしてあらわし、全キリスト者が勝利を称える大合唱に加えられるように願ったのであります。キリスト者の勝利は、十字架を負う生活の中にあります。強い者は弱い者の重荷を担うのであります。これは、キリストとの生命的なつながりを持つことであります。苦しみなくて栄冠はありません。これが、キリスト者の生活の原理であります。重荷を負うには、忍耐と慰めとを必要とします。この2つは、聖書と神から出て来ます。忍耐は、ただ忍従という意味だけでなく、大胆と堅実という要素をも含んでいる語であります。ここに、希望の基礎があります。希望は勝利の希望であって、キリスト者の心は、ここに焦点を合わせられ、大合唱となって、勝利の歌が歌い出されるのであります。これこそ、神をあがめることにほかならない。これが、パウロの第

1の祈りであります。7~13節は全人類の参加。キリストもわたしたちを受け入れて下さったように、あなたがたも互いに受け入れて、神の栄光をあらわすべきであります。とパウロは語っています。パウロは、キリストを媒介にする一致の問題をさらに具体的にしています。キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられたという救済史を今1度明らかに示し、救いが、全人類に及んでいることを印象づけようとしたのであります。そして、パウロは、詩篇18・49,申命記32・43、詩篇117・1、イザヤ11・1,10,の順序で、ギリシャ語70人訳聖書を引用して、イスラエル人と異邦人とは1つの旗の基に集められ、神への讃美に全員が参加するという予言を示しています。もう1度12節を見て下さい。信仰は、キリストのみわざはキリストの独走ではなき、父なる神のみこころと一致する御業であることを知るのであります。

結び

特に15章13節をみてください。この祈り中には、希望の出所なる神、この神に対する信仰、信仰の中で与えられる喜びと平和(平安)とが、筋道正しく献げられています。さらにこれが聖霊によって、神との生命的な繋がりによる希望となるようにと、パウロは祈るのであります。信仰はともすれば、人間のわざと考えられがちであります。信仰が、神の御業への反射運動で、神の賜物にほかなりません。これを確認され続けるためには、聖霊の力添えがなければなりません。聖霊は、キリストを証し、神は天にいまし、人は地上にあることを私達に忘れさせたまわないからであります。このようにして、希望は、与えられるものであることが、はっきりしてくるのであります。もう1度15・13節を見て下さい。今日のテーマはここより題をつけさせて頂きました「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」わたしたちも、「神の栄光のためにキリストが受け入れてくださる」(15・7)という恵みにあずかった者として、信仰と、希望と愛を持って、自分たちの置かれた場所で神の栄光をあらわしていきたいものです。希望の源である神、まさに恵みの源泉です。主を信じ、信頼するという信仰のパイプからあらゆる喜びと平和・平安が流れ出ます。そして聖霊の導火線によって希望に満ち溢れるようになるのです。祈りましょう。

「神の国は義と平和と喜び」2020・10・18説教要旨

朝位 真士

 今日はローマ14・13~23節を通して聖書を学びましょう。このローマ14章は信仰の弱い者に対する態度。自由と愛の道。意見より愛。分解(信仰の弱い者に対する愛の態度)1~6相互の信仰を裁いてはならないこと。7~9私達の生も死もキリストのためであること。10~12ひとりびとり皆キリストのさばきの座の前にたつことを思って、人を裁くべきでないこと。13~21食べ物と愛の道(食物によって兄弟をつまずかせてはならないこと)22~23信仰によって行うべきこと。

ローマ14・13~23節を見て下さい。ここでは一口で語ると信仰生活の中心と周辺を語っています。この14・13~18節は愛の配慮が語られています。食物に関して、パウロは、もう1度、これを取り上げて、基本的な考え方をうちだしています。彼は、消極的な面と、積極的な面との二面を語るのであります。消極的な面について、彼は妨げになる物や、つまづきとなる物を兄弟に前に置かないように「決意」するのだという。しかし、こうすることの動機は、互いにさばき合う事の原因となるものを除きさるということであります。神が、命じておられないことは、お互い愛によって決定すべきことであります。食べ物のことで、愛が失われたら、これは重大なことであります。積極的な面については、パウロは、私は、主イエスにあって知りかつ確信しているといって、それ自体、汚れているものは1つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのであると述べた根本問題は何か。「食べ物」と「わたし」の関係ではなくて、「キリスト」と「わたし」の関係であります。キリストこそ、信仰に強い者のためにも、弱い者にためにも、死んで下さったのであります。教会の中で、キリストから無縁のことであれば、それはもはや教会ではなくなる。それは社交団体か、禁欲修練場となるでありましょう。しかし、教会史は、キリストの教会がそのあるべき姿を失って、教会が老化現象を起こすのは、キリストから目を、他に向けるときであることは、実例の示していることであります。教会は、三位一体の神との出会いの場所であって、「あなた」と「わたし」と言う生命的な関係を持ち続けるところであります。

ローマ14・17節を見て下さい今日はこのところから題をつけました「神の国は、飲食ではなく、義と、平和と聖霊における喜びである」(口語訳)「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(新共同訳)。とパウロがいう意味は、神の国は、キリストのみという一本の線に繋がれているということであります。キリストなしには、義も平和も、聖霊における喜びも考えられないからであります。わたしたちの全身全霊をキリストに向けようとするとき、私達の内に容易ならぬ抵抗を覚えます。これに打ち勝つ者は、「わたし」ではなく、「キリスト」であります。キリストはこのような抵抗の中は御自身を投げ込みたもうたのであります。そしてこの抵抗の中で、死ぬ事によって、抵抗を無力にしたもうのであります。否、その抵抗を滅ぼしたもたのであります。だからキリストの勝利は、全力をあげた悪魔の抵抗のただ中で、得られたものであります。キリストの勝利の中で、キリスト者の奉仕の生活は、営まれるのであります。14・19~23節をみてください。ここでは信仰の筋が語られています。中心的な事、根本的な事が、力強く推進されるならば、周辺の問題は、中心部には入って来ない。神と関係のある中心問題を第一に考えることが、重要であります。「わたし」の生活川筋の流れを、激しくすることによって、川岸によどんでいる沈殿物は、押し流されてしまう。信仰生活の中で得た知恵によって、肉食や、飲酒や、その他、弱い兄弟をつまづかせないように、また駄目にしないようにすることは、勿論良いことであります。ただし、この信仰の体験を他人に向けないで、自分自身に向ける事が大切であります。信仰の決断こそ、日常生活において持たれるキリスト者の態度であります。

結び

もう1度ローマ14・17節を見て下さい。ここで信仰生活の基本姿勢を提示しています。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」義とは神との正しい関係であります。「平和」とは人と人との関係が愛に根ざしして完成した状態であります。「喜び」とは自分が神と隣人と愛で結ばれる時に味わう思いであります。主イエス・キリストは最大の掟として、神と人との縦の関係(神への愛の関係)と隣人同志の横の関係(隣人愛の関係)という「人生の座標軸」の確立を教えられました(マルコ12・28~34)p87ここには神の国の基本の姿が示されています。パウロもここで、神の国の基本的な生き方から、教会生活の具体的なあり方を示す。

「主イエスキリストの為に生きる」2020・10・11説教要旨

朝位真士

序 今日はローマ14・1~12節を学んで行きましょう。この所では信仰の弱い者に対する態度、自由と愛の道。意見より愛。ここでは信仰の弱いも音に対する態度として1~6相互の信仰を裁いてはならないこと。7~9私達の生も死もキリストのためであること。10~121人1人皆キリストの裁きの座の前に立つ事を思って、人を裁くべきではないこと。13~21食物と愛の道(食物によって兄弟をつまずかせてはならないこと)。22~23信仰によって行うこと。14章は、互いに人を裁いたり、食物その他ささいな事のために人をつまずかせたりしてはならない。8章の恵みの体験した者は12~13章の愛の生活を送り、また14章では信仰の弱い者に対して寛容でなければならない。ローマの信徒への手紙は使徒パウロが書き残した手紙の中で、最も長いだけでなく、その思想的雄大さと深さにおいて、他に類を見ません。新約聖書の最高峰であります。パウロは14~15章と2つの章を割いて、当時のローマ教会にあった2つのグループの対立について、意見をのべ解決を図ろうとしています。これは現代の私達にも教えられることです。ここではキリスト教会のあり方が問題になっています。キリスト教信仰にとって教会は大切な意味を持っています。日本基督教団の信仰告白においても「教会は主イエス・キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり」と告白されています。キリストを信じると言うことは、キリストの体である教会の1つの枝として生きるということ、ぶどうの木に1つの枝にされることであります。しかもその教会は、今ここで私達が生きている、ここ教会がキリストの体であり、またそう呼ばれるにふさわしい姿を取るように命じられています。そして教会には、人間の集団として持たざるを得ない、さまざまな問題が突き付けられています。それをキリストの体としての教会にふさわしいものにしていく課題として受け取るべきであります。

本 ローマ14・1~12節を見て下さい。ここでは信仰の弱い者と強い者が1~4節に語られています。信仰の弱い者というのは、「信仰に対して弱い者」つまり、キリストを信じて、キリスト者の仲間入りはしたが、信仰理解において、また、信仰の生活化において未熟な者のことであります。こういうキリスト者を、交わりの中へ全面的にいれよとパウロは言っています。そして信仰の弱い者となる原因となる考え方を、いたずらに

批判するにとどまってはならない。先ず第1に食べ物の問題。信仰生活について未熟な者は、肉食をしてはいけないと考えて野菜だけを食べる。しかし信仰のことが、よくわかっている者は、何をたべても良いと考えています。神が主人で、強い者も弱い者も、この主人に聞き従うべきであります。弱い者を強い者に変化させるのは、主人である神であります。人間にはできないことも、神には出来るのであります。

結び

もう1度ローマ14・1~12を見て下さい。キリスト者の生活は、主にあって死に、主にあって生きる生活であります。キリストこそ、キリスト者生活全体を支配ささるお方でありますから、キリスト者相互のさばき合いは、筋が通りません。キリスト者1人1人は、主イエス・キリストに対して、自分の言い開きをするべきであります。「自分に言いひらき」とは、どういうことでしょう。それは、自分が、主イエス・キリストの神の座を侵して、弱い者を、批判したこと、また強い者を非難したことに対して、申し開きをするということであります。愛の欠けていたことに対する自己批判ともなるのであります。パウロは寛大な立場の方に共鳴しています。信仰の弱い人は教会に来られた場合、兄弟愛をも持って受け入れなければなりません。避けなければならない3つの態度があります。1つはいらだった態度を避けなければなりません。2つは嘲りの態度を避けねばなりません。3つは軽蔑の態度を避けねばなりません。14・2~4節には他人の見解に対する寛容が語られています。14・5~6同じ目的にいたる異なった道。14・7~9孤立の不可能性。3つの面から人は隣人と絶縁することは出来ない。1・過去から隔離することが出来ない。2・現在から孤立することは出来ない。3・未来から孤立することは出来ない。まして、人は到底イエス・キリストから絶縁することは出来ない1・この人生において、キリストは永遠にいける存在でありあります。2・死でさえもその現在を打ち破る事は出来ない。14・10~12神の裁きにある人間。あがなわれた目的は「神の栄光のために生きる」ということであります。その言行、動作、生死の目的はすべて神の栄光のためにするのですから感謝することが出来るのです。

ローマ14・7~8節をみて下さい。

「愛の実践」2020・10・4説教要旨

朝位 真士

 今日はローマ13・8~14節を通して聖書を学んで行きましょう。このローマ13章は社会人としてのキリスト者の義務が述べられています。1~5権威者に服従すべき義務、6~7納税の義務、8~10律法を完成する愛、11~14キリスト再臨の切迫とその準備。本

 ローマ3・8~14節を見て下さい。良い市民、国民である資格は、隣人に対する愛と、自分の生活における聖潔である。8節以下にこの2つを記しています。8節をもう1度見て下さい。(愛は律法を完成する)。十戒も、神を愛し人を愛することに総括される(マタイ22・37~39)。愛は神と人とに対して果たすべき義務で、この愛のほか、何人にも負債として果たすべきものはない。愛があれば(律法を完成する)(8-10)。私達は律法の下にある者ではないが、ここ愛の黄金律の下にある者である。次に、きよい生活をする理由の1つは、キリストの再臨が近いことであります。私達は(時を知っている)。目を開いて聖書の上から時代の兆候を見れば、今はまさに冷淡、怠慢、不信仰の惰眠からさめるべき時である(11)。いまや世はいよいよ暗黒を増しているが、それだけ明け方が近づいているのであります。(12)。キリストは「義の太陽」であられ(マラキ4・2)、キリストが来られる時、夜は開け、輝く黄金時代がきます。目を覚まして準備していなければならない。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル12・14,第1ヨハネ3・3)。(やみのわざ(すなわち罪に行為―エペソ5・11~12)を捨てて、光の武具を着け)なければならない。第1テサロ二ケ5・8)。武具は戦闘に参加するためのものであります。ただ自分のきよめを維持していれば良いというのではありません。きよめを維持するにも、悪魔の誘惑に対して戦う必要がありますが、この武具を受けて主の聖戦に参加するべきであります。(主イエス・キリストを着る)(14)とはキリストをわたしの義、わたしの聖として受けること(第1コリント1・30)であるとともに、(光の武具)としてきることであります。

結び

もう1度13・8~14節を見て下さい。特に8~10節は愛の実践が語られています。今日の題はここよりつけさせて頂きました。キリスト者の負債は、愛だけであります。だから、キリスト者は、一刻一刻に、愛の負債を支払らなければなりません。愛が実践されるところ、そこに、律法が、完全に履行されます。姦淫、殺人、窃盗、貪欲等を禁止する十戒も、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」という一句に含まれます。これが、自分を一番愛することであり、自分がするのと同じようにするようにすすめ、それを実践することが隣人を愛することになります。自然のままの人は、自分を憎むようにしない。しかし、キリスト者は、キリストの中で、神にそむく自分を憎む事が出来るのであります。すなわち自分を愛することになります。律法の要求は、自然的人間の本性、すなわち、自己愛に反すると言うことが出来、従って自分を放棄する愛、アガペーなる愛こそ、これを満たすと言うことが出来ます。11~14は時を知るアウグスティヌスを新しい生活に導いた聖句は、実にこれでありました。彼は、お酒と好色と、エロスの暗黒の生活と絶縁し、キリストにある真昼の生活に入ったのでありました。これは、主イエス・キリストを身につけることであります。キリストを着物とする仕方に2つある。1つは、キリストの死と復活とを信仰によって、受けて神の御前に立つ資格を与えられる時であります。これは義の衣であります(マタイ22・12)。いま1つは、聖化の資格において勝利者キリストの中で、勝利を与えられつつ前進することであります。(エペソ6・13以下)には、防御と攻撃との両面に用いられる武具が記されています。キリスト者は、敗北の別名ではありません。むしろ、キリストにあって勝利者であり、悪の力に対して果敢な勇士であります。ここでまとめますと1・聖書が告げる愛の負債は一般的な人間感情に根ざすだけでなく、もっと深い愛の経験から出ています。それは主イエス・キリストによって恵みが与えられ、罪を許されると言う、破格の愛を与えられていることに由来します。2・この愛に生きる事は「主イエス・キリストを身にまとう」ことになります(13・14)3・キリスト者はこの愛の業をなすに当たって「時を知る」(13・11)ことにより、一層の励みが与えられます。

「キリストの愛における行い」2020・9・27説教要旨

朝位真士

序 

 今日はローマ13章1~7節を学んで行きましょう。ローマ12章では教会の一員としてキリスト者の生活を語ったが、13章では社会の一員としてのキリスト者の生活をしるす。12章の主題は献身、及び愛であり、13章の主題は、服従、愛および正しい行いであります。私達は教会内において良き信徒であるだけでなく、教会外においても良き市民、国民でなければならない。神に献身して奉仕する信者は、市民として叉国民としては、権威者に服従し、愛と義の生涯を送る者であります。真の信者は、この両側面において模範的でなければならない。

ローマ13章1~7節を見て下さい。この13章全体は社会人としてのキリスト者の義務を語っています。1~5権威者に服従すべき義務、6~7納税の義務。8~10律法を完成する愛、11~14キリスト再臨の切迫とその準備。となっています。さて12章の初めに神に対する献身を説いたが、13章の初めには世の権威者に対する服従を説いて(1~2)います。全ての権威の源は神であります。この世の権威者は(彼が神を信じると否とにかかわらず)神が摂理のうちに立てられた者で、神に代わって治める者でありますから、私達はこれに服従しなければなりません。(第1ペテロ2・17p430引用)これがキリスト教の基本的道徳であります。キリスト者は、社会の秩序を乱す闘争運動などは、キリスト者の参加すべき者ではありません。勿論神の御心に違反する為政者にたいしては毅然とした態度を表明すべきです。信仰を脅かす事柄にたいしてはノウといわねばなりません。私達ホーリネスの群れは政府の宗教弾圧に対しては毅然とした態度を表明しました。信者は皆、主にあって自由な者であります。しかし、聖書は、王や権威者に服従することを説いています。全ての権威は神によって立てられています。(ダニエル2・21,37)p1381,1383、それゆえ、神に献身する者は、信仰に矛盾しない限り人の権威に服従する。権威に背く者は神に背く者である(2)。全ての権威者は、未信者であっても、私達を保護し、安全におらせるための神の僕であり、神を代表して悪人を罰するのであり、いたずらに刑罰を施すことありません(4)。それゆえ、悪を行うなら刑罰を恐るべきでありますが、善を行うなら恐れるには及ばない。かえってほめられる(3)、それゆえ、ただ刑罰を恐れて従うのではなく、神に対する義務であることを思い、良心の命じるところに従って服従すべきであります。(5)よき市民、国民の資格は、隣人に対する愛と、自分の生活におけるきよめであります。来週の8節以下にこの2つのことを記しています。(愛は律法を完成する)十戒も、神を愛し人をあいすることに総括されます。(マタイ22・37~39)p44。愛は神と人とに対して果たすべき義務で、この愛の他、何人も負債として果たすべきものはない。愛があれば(律法を完成する)(13・8~10)。

結び

もう1度13・1~7節を見て下さい。

この13章は、キリスト教的政治倫理、すなわち政治権力に対するキリスト者のありかたを教えたものとして有名な箇所であります。この場合ヨハネ黙示録13章が引用されました。p467参照ローマ13章が権力者を「神に仕える者」として社会の秩序を整える正義を実践する限りにおいて「権威に従うべき」であると教えるのに対して、ヨハネ黙示録が書かれた時代は、政治権力が皇帝礼拝を強要し、弾圧をもって絶対服従を迫り、ローマ帝国は悪魔から遣わされた獣の姿で描かれています。それゆえ、これに抵抗することはキリスト者の使命であります。(黙示13・10)「ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。」p467と書かれています。政治権力への抵抗として、現代で最も徹底した姿勢を示したのは、第2次世界大戦末期のディートリッヒ・ボンへッファーでした。彼は世界侵略とユダヤ民族撲滅を目指すナチスの政治が、人間の限界を超えた悪魔的支配であると判断し、それを阻止するために、緊急手段としてのヒットーラー暗殺計画を支持し、担いました。その計画は事前に発覚して、彼は死刑に処せられましたが、これは黙示録13章の1つの担い方であります。このような中で、教会は、人間のエゴイズムを直視し、十字架の福音がそれに打ち勝ち、神が十字架においてこの罪と戦い、罪人を裁くと共に新たに生まれ帰らせて、罪と戦う者とされる事実を宣べ伝えなければなりません。そして教会において福音を聞いてキリストと出会った者が、地の塩、世の光としてこの世に出て行くことによって、道徳的導きとなるのであります。