「礼拝メッセージ」カテゴリーアーカイブ

「希望の源なる神」2020・1025説教要旨

朝位真士

 今日はローマ15・1~13節を見ていきましょう。この15章は一致と自己放棄。種々の満たし。霊的負債。1~13信仰の弱い者に対する愛の態度。1~4弱者のためのキリストのような自己放棄。5~7キリストにならってのキリスト者の一致。8~12ユダヤ人と

異邦人の一体となっての讃美。13喜びと平安の満たし。14~33節パウロ自身に関する陳述。14~16本書を記した理由。17~21パウロの使命と働き。22~29ローマ訪問の希望。30~33祈りの要求、祝祷。と分解しています。

ローマ15・1~13節を見て下さい。一致は聖霊の与えられるものでありますが、謙遜、柔和、寛容、愛を持って、互いに忍び合い、これをも守らなければなりません。(エペ4・2~3)。そのために、福音的自由を会得した信仰の強い者も、弱い者と歩調を合わせるために、自ら弱い者のようになって一致しなければならない。(1)、この15・1~6節声を合わせて、パウロは、12章以下に、キリスト者の實践をとりあげ、キリスト教共同体に属するキリスト者1人1人のあり方、世俗的権威に対するキリスト者の態度、食べ物の問題、特定の日を重んじる問題などについて指示を与えた。15章にいたって、彼は、すべてを言い終わったことの喜びを抑える事が出来ないので、これを祈りとしてあらわし、全キリスト者が勝利を称える大合唱に加えられるように願ったのであります。キリスト者の勝利は、十字架を負う生活の中にあります。強い者は弱い者の重荷を担うのであります。これは、キリストとの生命的なつながりを持つことであります。苦しみなくて栄冠はありません。これが、キリスト者の生活の原理であります。重荷を負うには、忍耐と慰めとを必要とします。この2つは、聖書と神から出て来ます。忍耐は、ただ忍従という意味だけでなく、大胆と堅実という要素をも含んでいる語であります。ここに、希望の基礎があります。希望は勝利の希望であって、キリスト者の心は、ここに焦点を合わせられ、大合唱となって、勝利の歌が歌い出されるのであります。これこそ、神をあがめることにほかならない。これが、パウロの第

1の祈りであります。7~13節は全人類の参加。キリストもわたしたちを受け入れて下さったように、あなたがたも互いに受け入れて、神の栄光をあらわすべきであります。とパウロは語っています。パウロは、キリストを媒介にする一致の問題をさらに具体的にしています。キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられたという救済史を今1度明らかに示し、救いが、全人類に及んでいることを印象づけようとしたのであります。そして、パウロは、詩篇18・49,申命記32・43、詩篇117・1、イザヤ11・1,10,の順序で、ギリシャ語70人訳聖書を引用して、イスラエル人と異邦人とは1つの旗の基に集められ、神への讃美に全員が参加するという予言を示しています。もう1度12節を見て下さい。信仰は、キリストのみわざはキリストの独走ではなき、父なる神のみこころと一致する御業であることを知るのであります。

結び

特に15章13節をみてください。この祈り中には、希望の出所なる神、この神に対する信仰、信仰の中で与えられる喜びと平和(平安)とが、筋道正しく献げられています。さらにこれが聖霊によって、神との生命的な繋がりによる希望となるようにと、パウロは祈るのであります。信仰はともすれば、人間のわざと考えられがちであります。信仰が、神の御業への反射運動で、神の賜物にほかなりません。これを確認され続けるためには、聖霊の力添えがなければなりません。聖霊は、キリストを証し、神は天にいまし、人は地上にあることを私達に忘れさせたまわないからであります。このようにして、希望は、与えられるものであることが、はっきりしてくるのであります。もう1度15・13節を見て下さい。今日のテーマはここより題をつけさせて頂きました「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」わたしたちも、「神の栄光のためにキリストが受け入れてくださる」(15・7)という恵みにあずかった者として、信仰と、希望と愛を持って、自分たちの置かれた場所で神の栄光をあらわしていきたいものです。希望の源である神、まさに恵みの源泉です。主を信じ、信頼するという信仰のパイプからあらゆる喜びと平和・平安が流れ出ます。そして聖霊の導火線によって希望に満ち溢れるようになるのです。祈りましょう。

「神の国は義と平和と喜び」2020・10・18説教要旨

朝位 真士

 今日はローマ14・13~23節を通して聖書を学びましょう。このローマ14章は信仰の弱い者に対する態度。自由と愛の道。意見より愛。分解(信仰の弱い者に対する愛の態度)1~6相互の信仰を裁いてはならないこと。7~9私達の生も死もキリストのためであること。10~12ひとりびとり皆キリストのさばきの座の前にたつことを思って、人を裁くべきでないこと。13~21食べ物と愛の道(食物によって兄弟をつまずかせてはならないこと)22~23信仰によって行うべきこと。

ローマ14・13~23節を見て下さい。ここでは一口で語ると信仰生活の中心と周辺を語っています。この14・13~18節は愛の配慮が語られています。食物に関して、パウロは、もう1度、これを取り上げて、基本的な考え方をうちだしています。彼は、消極的な面と、積極的な面との二面を語るのであります。消極的な面について、彼は妨げになる物や、つまづきとなる物を兄弟に前に置かないように「決意」するのだという。しかし、こうすることの動機は、互いにさばき合う事の原因となるものを除きさるということであります。神が、命じておられないことは、お互い愛によって決定すべきことであります。食べ物のことで、愛が失われたら、これは重大なことであります。積極的な面については、パウロは、私は、主イエスにあって知りかつ確信しているといって、それ自体、汚れているものは1つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのであると述べた根本問題は何か。「食べ物」と「わたし」の関係ではなくて、「キリスト」と「わたし」の関係であります。キリストこそ、信仰に強い者のためにも、弱い者にためにも、死んで下さったのであります。教会の中で、キリストから無縁のことであれば、それはもはや教会ではなくなる。それは社交団体か、禁欲修練場となるでありましょう。しかし、教会史は、キリストの教会がそのあるべき姿を失って、教会が老化現象を起こすのは、キリストから目を、他に向けるときであることは、実例の示していることであります。教会は、三位一体の神との出会いの場所であって、「あなた」と「わたし」と言う生命的な関係を持ち続けるところであります。

ローマ14・17節を見て下さい今日はこのところから題をつけました「神の国は、飲食ではなく、義と、平和と聖霊における喜びである」(口語訳)「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(新共同訳)。とパウロがいう意味は、神の国は、キリストのみという一本の線に繋がれているということであります。キリストなしには、義も平和も、聖霊における喜びも考えられないからであります。わたしたちの全身全霊をキリストに向けようとするとき、私達の内に容易ならぬ抵抗を覚えます。これに打ち勝つ者は、「わたし」ではなく、「キリスト」であります。キリストはこのような抵抗の中は御自身を投げ込みたもうたのであります。そしてこの抵抗の中で、死ぬ事によって、抵抗を無力にしたもうのであります。否、その抵抗を滅ぼしたもたのであります。だからキリストの勝利は、全力をあげた悪魔の抵抗のただ中で、得られたものであります。キリストの勝利の中で、キリスト者の奉仕の生活は、営まれるのであります。14・19~23節をみてください。ここでは信仰の筋が語られています。中心的な事、根本的な事が、力強く推進されるならば、周辺の問題は、中心部には入って来ない。神と関係のある中心問題を第一に考えることが、重要であります。「わたし」の生活川筋の流れを、激しくすることによって、川岸によどんでいる沈殿物は、押し流されてしまう。信仰生活の中で得た知恵によって、肉食や、飲酒や、その他、弱い兄弟をつまづかせないように、また駄目にしないようにすることは、勿論良いことであります。ただし、この信仰の体験を他人に向けないで、自分自身に向ける事が大切であります。信仰の決断こそ、日常生活において持たれるキリスト者の態度であります。

結び

もう1度ローマ14・17節を見て下さい。ここで信仰生活の基本姿勢を提示しています。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」義とは神との正しい関係であります。「平和」とは人と人との関係が愛に根ざしして完成した状態であります。「喜び」とは自分が神と隣人と愛で結ばれる時に味わう思いであります。主イエス・キリストは最大の掟として、神と人との縦の関係(神への愛の関係)と隣人同志の横の関係(隣人愛の関係)という「人生の座標軸」の確立を教えられました(マルコ12・28~34)p87ここには神の国の基本の姿が示されています。パウロもここで、神の国の基本的な生き方から、教会生活の具体的なあり方を示す。

「主イエスキリストの為に生きる」2020・10・11説教要旨

朝位真士

序 今日はローマ14・1~12節を学んで行きましょう。この所では信仰の弱い者に対する態度、自由と愛の道。意見より愛。ここでは信仰の弱いも音に対する態度として1~6相互の信仰を裁いてはならないこと。7~9私達の生も死もキリストのためであること。10~121人1人皆キリストの裁きの座の前に立つ事を思って、人を裁くべきではないこと。13~21食物と愛の道(食物によって兄弟をつまずかせてはならないこと)。22~23信仰によって行うこと。14章は、互いに人を裁いたり、食物その他ささいな事のために人をつまずかせたりしてはならない。8章の恵みの体験した者は12~13章の愛の生活を送り、また14章では信仰の弱い者に対して寛容でなければならない。ローマの信徒への手紙は使徒パウロが書き残した手紙の中で、最も長いだけでなく、その思想的雄大さと深さにおいて、他に類を見ません。新約聖書の最高峰であります。パウロは14~15章と2つの章を割いて、当時のローマ教会にあった2つのグループの対立について、意見をのべ解決を図ろうとしています。これは現代の私達にも教えられることです。ここではキリスト教会のあり方が問題になっています。キリスト教信仰にとって教会は大切な意味を持っています。日本基督教団の信仰告白においても「教会は主イエス・キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり」と告白されています。キリストを信じると言うことは、キリストの体である教会の1つの枝として生きるということ、ぶどうの木に1つの枝にされることであります。しかもその教会は、今ここで私達が生きている、ここ教会がキリストの体であり、またそう呼ばれるにふさわしい姿を取るように命じられています。そして教会には、人間の集団として持たざるを得ない、さまざまな問題が突き付けられています。それをキリストの体としての教会にふさわしいものにしていく課題として受け取るべきであります。

本 ローマ14・1~12節を見て下さい。ここでは信仰の弱い者と強い者が1~4節に語られています。信仰の弱い者というのは、「信仰に対して弱い者」つまり、キリストを信じて、キリスト者の仲間入りはしたが、信仰理解において、また、信仰の生活化において未熟な者のことであります。こういうキリスト者を、交わりの中へ全面的にいれよとパウロは言っています。そして信仰の弱い者となる原因となる考え方を、いたずらに

批判するにとどまってはならない。先ず第1に食べ物の問題。信仰生活について未熟な者は、肉食をしてはいけないと考えて野菜だけを食べる。しかし信仰のことが、よくわかっている者は、何をたべても良いと考えています。神が主人で、強い者も弱い者も、この主人に聞き従うべきであります。弱い者を強い者に変化させるのは、主人である神であります。人間にはできないことも、神には出来るのであります。

結び

もう1度ローマ14・1~12を見て下さい。キリスト者の生活は、主にあって死に、主にあって生きる生活であります。キリストこそ、キリスト者生活全体を支配ささるお方でありますから、キリスト者相互のさばき合いは、筋が通りません。キリスト者1人1人は、主イエス・キリストに対して、自分の言い開きをするべきであります。「自分に言いひらき」とは、どういうことでしょう。それは、自分が、主イエス・キリストの神の座を侵して、弱い者を、批判したこと、また強い者を非難したことに対して、申し開きをするということであります。愛の欠けていたことに対する自己批判ともなるのであります。パウロは寛大な立場の方に共鳴しています。信仰の弱い人は教会に来られた場合、兄弟愛をも持って受け入れなければなりません。避けなければならない3つの態度があります。1つはいらだった態度を避けなければなりません。2つは嘲りの態度を避けねばなりません。3つは軽蔑の態度を避けねばなりません。14・2~4節には他人の見解に対する寛容が語られています。14・5~6同じ目的にいたる異なった道。14・7~9孤立の不可能性。3つの面から人は隣人と絶縁することは出来ない。1・過去から隔離することが出来ない。2・現在から孤立することは出来ない。3・未来から孤立することは出来ない。まして、人は到底イエス・キリストから絶縁することは出来ない1・この人生において、キリストは永遠にいける存在でありあります。2・死でさえもその現在を打ち破る事は出来ない。14・10~12神の裁きにある人間。あがなわれた目的は「神の栄光のために生きる」ということであります。その言行、動作、生死の目的はすべて神の栄光のためにするのですから感謝することが出来るのです。

ローマ14・7~8節をみて下さい。

「愛の実践」2020・10・4説教要旨

朝位 真士

 今日はローマ13・8~14節を通して聖書を学んで行きましょう。このローマ13章は社会人としてのキリスト者の義務が述べられています。1~5権威者に服従すべき義務、6~7納税の義務、8~10律法を完成する愛、11~14キリスト再臨の切迫とその準備。本

 ローマ3・8~14節を見て下さい。良い市民、国民である資格は、隣人に対する愛と、自分の生活における聖潔である。8節以下にこの2つを記しています。8節をもう1度見て下さい。(愛は律法を完成する)。十戒も、神を愛し人を愛することに総括される(マタイ22・37~39)。愛は神と人とに対して果たすべき義務で、この愛のほか、何人にも負債として果たすべきものはない。愛があれば(律法を完成する)(8-10)。私達は律法の下にある者ではないが、ここ愛の黄金律の下にある者である。次に、きよい生活をする理由の1つは、キリストの再臨が近いことであります。私達は(時を知っている)。目を開いて聖書の上から時代の兆候を見れば、今はまさに冷淡、怠慢、不信仰の惰眠からさめるべき時である(11)。いまや世はいよいよ暗黒を増しているが、それだけ明け方が近づいているのであります。(12)。キリストは「義の太陽」であられ(マラキ4・2)、キリストが来られる時、夜は開け、輝く黄金時代がきます。目を覚まして準備していなければならない。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル12・14,第1ヨハネ3・3)。(やみのわざ(すなわち罪に行為―エペソ5・11~12)を捨てて、光の武具を着け)なければならない。第1テサロ二ケ5・8)。武具は戦闘に参加するためのものであります。ただ自分のきよめを維持していれば良いというのではありません。きよめを維持するにも、悪魔の誘惑に対して戦う必要がありますが、この武具を受けて主の聖戦に参加するべきであります。(主イエス・キリストを着る)(14)とはキリストをわたしの義、わたしの聖として受けること(第1コリント1・30)であるとともに、(光の武具)としてきることであります。

結び

もう1度13・8~14節を見て下さい。特に8~10節は愛の実践が語られています。今日の題はここよりつけさせて頂きました。キリスト者の負債は、愛だけであります。だから、キリスト者は、一刻一刻に、愛の負債を支払らなければなりません。愛が実践されるところ、そこに、律法が、完全に履行されます。姦淫、殺人、窃盗、貪欲等を禁止する十戒も、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」という一句に含まれます。これが、自分を一番愛することであり、自分がするのと同じようにするようにすすめ、それを実践することが隣人を愛することになります。自然のままの人は、自分を憎むようにしない。しかし、キリスト者は、キリストの中で、神にそむく自分を憎む事が出来るのであります。すなわち自分を愛することになります。律法の要求は、自然的人間の本性、すなわち、自己愛に反すると言うことが出来、従って自分を放棄する愛、アガペーなる愛こそ、これを満たすと言うことが出来ます。11~14は時を知るアウグスティヌスを新しい生活に導いた聖句は、実にこれでありました。彼は、お酒と好色と、エロスの暗黒の生活と絶縁し、キリストにある真昼の生活に入ったのでありました。これは、主イエス・キリストを身につけることであります。キリストを着物とする仕方に2つある。1つは、キリストの死と復活とを信仰によって、受けて神の御前に立つ資格を与えられる時であります。これは義の衣であります(マタイ22・12)。いま1つは、聖化の資格において勝利者キリストの中で、勝利を与えられつつ前進することであります。(エペソ6・13以下)には、防御と攻撃との両面に用いられる武具が記されています。キリスト者は、敗北の別名ではありません。むしろ、キリストにあって勝利者であり、悪の力に対して果敢な勇士であります。ここでまとめますと1・聖書が告げる愛の負債は一般的な人間感情に根ざすだけでなく、もっと深い愛の経験から出ています。それは主イエス・キリストによって恵みが与えられ、罪を許されると言う、破格の愛を与えられていることに由来します。2・この愛に生きる事は「主イエス・キリストを身にまとう」ことになります(13・14)3・キリスト者はこの愛の業をなすに当たって「時を知る」(13・11)ことにより、一層の励みが与えられます。

「キリストの愛における行い」2020・9・27説教要旨

朝位真士

序 

 今日はローマ13章1~7節を学んで行きましょう。ローマ12章では教会の一員としてキリスト者の生活を語ったが、13章では社会の一員としてのキリスト者の生活をしるす。12章の主題は献身、及び愛であり、13章の主題は、服従、愛および正しい行いであります。私達は教会内において良き信徒であるだけでなく、教会外においても良き市民、国民でなければならない。神に献身して奉仕する信者は、市民として叉国民としては、権威者に服従し、愛と義の生涯を送る者であります。真の信者は、この両側面において模範的でなければならない。

ローマ13章1~7節を見て下さい。この13章全体は社会人としてのキリスト者の義務を語っています。1~5権威者に服従すべき義務、6~7納税の義務。8~10律法を完成する愛、11~14キリスト再臨の切迫とその準備。となっています。さて12章の初めに神に対する献身を説いたが、13章の初めには世の権威者に対する服従を説いて(1~2)います。全ての権威の源は神であります。この世の権威者は(彼が神を信じると否とにかかわらず)神が摂理のうちに立てられた者で、神に代わって治める者でありますから、私達はこれに服従しなければなりません。(第1ペテロ2・17p430引用)これがキリスト教の基本的道徳であります。キリスト者は、社会の秩序を乱す闘争運動などは、キリスト者の参加すべき者ではありません。勿論神の御心に違反する為政者にたいしては毅然とした態度を表明すべきです。信仰を脅かす事柄にたいしてはノウといわねばなりません。私達ホーリネスの群れは政府の宗教弾圧に対しては毅然とした態度を表明しました。信者は皆、主にあって自由な者であります。しかし、聖書は、王や権威者に服従することを説いています。全ての権威は神によって立てられています。(ダニエル2・21,37)p1381,1383、それゆえ、神に献身する者は、信仰に矛盾しない限り人の権威に服従する。権威に背く者は神に背く者である(2)。全ての権威者は、未信者であっても、私達を保護し、安全におらせるための神の僕であり、神を代表して悪人を罰するのであり、いたずらに刑罰を施すことありません(4)。それゆえ、悪を行うなら刑罰を恐るべきでありますが、善を行うなら恐れるには及ばない。かえってほめられる(3)、それゆえ、ただ刑罰を恐れて従うのではなく、神に対する義務であることを思い、良心の命じるところに従って服従すべきであります。(5)よき市民、国民の資格は、隣人に対する愛と、自分の生活におけるきよめであります。来週の8節以下にこの2つのことを記しています。(愛は律法を完成する)十戒も、神を愛し人をあいすることに総括されます。(マタイ22・37~39)p44。愛は神と人とに対して果たすべき義務で、この愛の他、何人も負債として果たすべきものはない。愛があれば(律法を完成する)(13・8~10)。

結び

もう1度13・1~7節を見て下さい。

この13章は、キリスト教的政治倫理、すなわち政治権力に対するキリスト者のありかたを教えたものとして有名な箇所であります。この場合ヨハネ黙示録13章が引用されました。p467参照ローマ13章が権力者を「神に仕える者」として社会の秩序を整える正義を実践する限りにおいて「権威に従うべき」であると教えるのに対して、ヨハネ黙示録が書かれた時代は、政治権力が皇帝礼拝を強要し、弾圧をもって絶対服従を迫り、ローマ帝国は悪魔から遣わされた獣の姿で描かれています。それゆえ、これに抵抗することはキリスト者の使命であります。(黙示13・10)「ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。」p467と書かれています。政治権力への抵抗として、現代で最も徹底した姿勢を示したのは、第2次世界大戦末期のディートリッヒ・ボンへッファーでした。彼は世界侵略とユダヤ民族撲滅を目指すナチスの政治が、人間の限界を超えた悪魔的支配であると判断し、それを阻止するために、緊急手段としてのヒットーラー暗殺計画を支持し、担いました。その計画は事前に発覚して、彼は死刑に処せられましたが、これは黙示録13章の1つの担い方であります。このような中で、教会は、人間のエゴイズムを直視し、十字架の福音がそれに打ち勝ち、神が十字架においてこの罪と戦い、罪人を裁くと共に新たに生まれ帰らせて、罪と戦う者とされる事実を宣べ伝えなければなりません。そして教会において福音を聞いてキリストと出会った者が、地の塩、世の光としてこの世に出て行くことによって、道徳的導きとなるのであります。

「キリスト教的愛の生活」2020・9・20説教要旨

朝位真士

今日はローマ12・9~21節を通して聖書を学びましょう。この12章は1~2献身と、聖別された生活。3~8信者各人の賜物と奉仕。9~16教会内の兄弟に対する愛の行為と奉仕。17~21教会外の敵人に対する愛の態度と善行。

ローマ12・9~21節を見て下さい。

9節以下は、信者相互に対する態度として、愛と一致を、また、反対する者に対する態度として、祝福し、忍耐をもって愛の行いをなすべきことを説いています。12章前半においては神に対する献身と奉仕を勧めたが、この後半において同志と敵に対する愛を力説しているのは、大いに考える事であります。キリスト者の生涯は、神に対しては奉仕、人に対しては愛の生涯でなければなりません。上に向かう関係だけでなく、横に広がってゆく関係があります。神に対する奉仕においていかに熱心であっても、人に対する行為において深い愛がなければ、そのキリスト者生活は完全なものとは言えない。表面における熱心な奉仕のうらに、こうした愛の生涯がなければならない。神に対して忠実であるだけでなく、人に対しても親切でなければならない。コリントⅠ・12章に奉仕のための種々の賜物をしるしたのち、13章で愛を詳しく説いているのもそのためである。ただ教会内の兄弟姉妹に対してだけでなく、反対者や迫害者に対しても愛をもって接すべきことを説いています。これは山上の垂訓にある教えで、私達は主に仕えるには熱心で、霊に燃え、主に仕え、人々とは、出来る限りすべての人と平和に過ごし、敵に対しては、善をもって悪に勝つべきであります。ある人はこの一段を次のように分解しています。この一段は愛の生涯であります。1・この愛の実質―内部的面(12・9~13)。偽りのない愛(9上)、純潔な愛(9下)、兄弟愛(10・上)謙遜愛(10下)、熱烈な愛(11上)、忠実な愛(11中)、奉仕する愛(11下)、望みある愛(12上)、忍耐深い愛(12中)、祈り深い愛(12下)、2・この愛の行為―外面的愛(13-21)。聖徒に対して(13)、迫害者に対して(14)、幸福な人に対して(15上)、悲しむ人に対して(15下)、争いやすい人に対して(16)、弱い者に対して(16中)、悪人に対して(17上)、すべての人に対して(17下、18)、怒りやすい人に対して(19)敵に対して(20,21)。

コリントⅠ13章は、愛の内容分析をして、愛の本質をあきらかににした愛の賛歌として有名であります。そこでは愛の広さ、真実さ、情け深さ、さらに、その永遠性が記されています。ここではその愛を外に向かって用いる事が、勧められています。ルターは、キリスト者は、ひとりのキリストであるといったが、この言葉は深い意味をもっています。キリストは、愛なるものでありますから、ひとりのキリストになることは、外に対して、愛となることにほかならない。信仰によって神の御前に立つ資格が与えられる時、信仰のほかにも、神と「わたし」のあいだに入り込む事は出来ない。というのは、神はすべてをもち、「わたし」は何も持たないからであります。ルターは、「私」は、乞食だといいました。だから愛をもっていると考えてはならない。信仰があると言っても、これは、神と「わたし」とのつながりを神が与えて下さる賜物なのだから、「信仰」という孤立した品物を「わたし」が持っているわけではありません。「私」だけでは「信仰」はなりたたない。「神」と「わたし」とがあって「信仰」という状態が出来るのであります。愛があっても、そのなかに顔を出すことは出来ない。ところが、愛の活動は、「わたし」が、神との交わりを許されるにいたって、俄然、活発になるのであります。キリストが、ご自身を「わたし」のために与えたうたことは、愛を与え尽くされたことに他ならない。そのことを真として、受け入れる信仰者は、また友のために命を捨てるのであります。愛は、キリスト者を通して、活動します。だからパウロは愛には偽りがあってはならないというのであります。12章19~21節を見て下さい。箴言25・21~22p1024を見て下さい。これこそキリストにおいて完全に具体化された真理であります。キリスト者の行為には、神の力が加っています。行為自体が、神にもちいられて、キリストのあかしとなるのであります。キリスト者の生活は、このような意味において勝利の生活であります。

結び

 もう1度12・9~21節を見て下さい。

パウロは12章から「キリスト者」はいかに生きるかという倫理を教えて前回12・3~8節においてキリスト者は教会において、丁度体に手足があるように、1人一人が結び合い連帯して、1つの共同体を築いていくように教えています。今日のところは、体の中を血が流れているように、わたしたちの共同体を生かすものが、「愛」であることを教えています。キリスト者はキリストの愛に動かされて、愛に生きるように促されています。しかしわれわれが純粋な愛を変わりなく貫く事は、決して生易しいことではありません。私達の愛はすぐ枯れてしまいます。我々の愛の泉であるイエス・キリストにつながり、キリストの愛を注がれることによって、真実の愛を燃やし続ける事が出来るのであります。12・11節「霊に燃えて」と言う言葉で思い起こされるのは、ルターが「キリスト者の自由」の中で、神と人との関係を、火と鉄とに譬えているところがあります。鉄はそれ自身では黒く冷たいのですが、火の中に入れられると、焼けて真っ赤になり、それ自体が火のようになります。わたし人間は罪に蝕まれ、心は冷えて、鉄のように重く冷たいのですが、主イエスの恵みの炎に燃やされると、鉄が火に焼かれて真っ赤になるように、私達も喜びと愛に赤く燃えるのであります。

「主にある新しい生活」2020.9・13説教要旨(敬老感謝礼拝)

朝位 真士

今日は75歳以上の高齢者の方々に対して祝福の祈りを捧げさせて頂きます。

今日からローマ12章に入ります、まず今日は12・1~8節を通して聖書を学んでいきましょう。ローマ1章から11章は教理的部分で、12~16までは実践的部分が記載されています。米田豊先生は12章全体を献身と奉仕。愛の実質と愛の行為。

分解(教会人としてのキリスト者の義務)1~2献身と聖別された生活。3~8信者各人の賜物と奉仕。9~16教会内の信者に対する愛の奉仕と奉仕。17~21教会外の敵人に対する愛の態度と奉仕。と分解しています。パウロはどの手紙においても、まず初めに教理を説き、次に実行上の勧めを述べる。8章の高い経験を握った者は、12章以下のきよい生涯をおくるべきであります。「恵みの原理が救いの基礎として確立された(1~8)ので、聖霊はこの部分において、恵みの王国に生まれた者の品性と行為とを記しています。ここに、キリスト者の行為がその関係において7つに表されています。1・神に対してー献身(1~2)、2・教会に対してー奉仕、3・信者同志に対してー愛と一致(3~8)、4・敵に対してー祝福(9以下)、5・国家に対してー服従(13・1―7)、6・社会に対してー愛と謹慎(13・8~14)、7・弱い信者に対してー同情と寛容(14・1~15・7)。と分解されています。

ローマ12・1~8節をみてください。この処ではパウロが霊的礼拝を語っています。これは私達すべての礼拝者に対するメツセージです。特に1~2節は聖なる供え物に対して語っています。「あなたたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として献げなさい(口語訳)」パウロが「供え物」のうえに、「神に喜ばれる」、「生きた」、「聖なる」という3つの言葉をつけているのは、これらのことが、キリストにおいてのみ考えられることを、いま一度、思い出させようとしたためであります。キリストに抱かれているときだけ、神を喜ばせることができるし、そのときだけ、生きているのであります。またそのときだけ「聖」すなわち、神のものとして、この世から区別されるのであります。パウロは「あなたがたのからだ」をそのようなものにしなさいといっているのであります。この世に住み、この世に接蝕するのは、わたしたちが五体を持つてであります。涙と汗と、だまし騙され、愛し、憎む、悪魔的この世に身を置いているのであります。この世の行為は、からだがもとでになる。このからだが、自然のままに行動したらどうなるでしょうか。その結果は、どれほど恐ろしいものであることをパウロは学んだのであります。キリスト者は、この体をキリストの中に包みこまれ、キリストの中で溶かされるのであります。「生きた、供え物」という表現は、逆説であります。「殺されながらも生かされる供え物」と解釈されるのであります。キリストにおいて殺され、また生かされることは、いうまでもないことであります。このような供え物となること自体が、霊的な礼拝だというのであります。次のすすめは、この世と妥協してはならないということと心を新たにすることによって、造りかえられるというのでありま

す。12・3~8節を見て下さい。ここでは霊の賜物についての事が述べられています。この箇所ではパウロは使徒的な権威に基づいて、教会員すべてに語っています。信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。4~5節は馴染み深い比喩が用いられています。キリストの教会における一致と多様性を見事に語っています。霊の賜物がどれほど個々のキリスト者において多様にあらわれようと、それが働く場所は1つのキリストのからだ以外にないことが言われています。1人1人は全体の益のために存在しています。だから賜物は教会の徳を建てるように用いられなければならない。かしらであるキリストに属している者は、キリストにつながっていることと同時に、体に属している者との互いのつながりをも自覚して慎まなければなりません。6節後半から8節にかけて7つの賜物が記されています。

結び

もう1度1~8節を見て下さい。1・聖なる供え物(1~2)。2・1つのからだ(3~5)。3・キリスト教共同体の活動(6~8)。キリストのからだなる教会は、活動する団体である。信仰は、怠惰なものではなく、生き生きとしたもので、神のみここに叶うあらゆる活動をその中にふくんでいます。キリストのからだなる教会は、援助を必要とするものたちに奉仕をする。奉仕は無秩序になされるのではなく、組織され訓練されたやり方で有効な奉仕が実行されるのであります。その基本になるのがアガペーの愛である。1コリント13章に具体的愛の内容が語られています。p317

「神の富・知恵・知識」2020・9・6説教要旨

朝位真士

今日はローマ11・25~36節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの11・25~27イスラエルの将来の栄光である国民的救いの預言とその時期。28~32イスラエルおよび異邦人に対する神の経綸。33~36以上3章(ローマ9~11章)の讃美的結論。と分解しています。パウロは今結論にたどり着く。25節にある「奥義」とは、隠されているやがて啓示されるべき救いの出来事を指しています。イスラエルの1部は、「かたくなに」なって神の民としての実を失ったが、それはいつまでもそうなのではなく、「異邦人に完成のなる時」までと言う期限付きであります。福音が全世界に宣べ伝えるまで再臨はないと言うことはこれと関係している(マルコ13・10)。異邦人の中から選ばれた者がことごとく召されて神の民となる時が到来すると、イスラエルのかたくなさも終わりをつげるのである。

11・25~36節を見て下さい。25~26異邦人全体が救いに達するまであり、こういて全イスラエルが救われると言うことです。しかしふさわしくない者はその群れから除かれ、選ばれた者からなる総体として救われるイスラエルという意味であります。26節27節で語られるイザヤ書の引用は、パウロがここで語る奥義が彼に初めて啓示された内容でないことを明らかであります。(イザヤ59・20-21,27・9)この11・25-27は神の救いの奥義が述べられています。神の奥義は聖書にしるされています。しかしそれを問われるには、聖霊によるほかはない。異邦人がすくわれるのは、キリストを信じる信仰によるのであり、イスラエルがすくわれるのも同じであります。キリストを受け入れるか、受け入れないかによって、救われるかすくわれないかがきまるのである。これは、全人類に対して平等である。この点においてイスラエル人と異邦人との間の差はなくなる。キリストにおいて、民族と民族との間にあったあらゆる差は消え去る。キリストにおいて新しい契約が成立し、万人はその契約の中で救いを約束されるのであります。これこそ、イスラエルの希望がおかれる場所であります。11・28~36節をもう1度見て下さい。パウロは、イスラエル人と異邦人との問題について、いささかの疑念を残さないようにしたいと考えた。だから、11節の結論の中で、更に、突き込んで問題を明らかにしようとしました。イスラエル人と異邦人との差がどこで生じるのか、それは福音を巡って生じるとパウロは語る。この問題は、律法という乗り物に便乗したイスラエルは、福音を理解することが出来なく神の敵となった。しかしこのことは、異邦人のためになることになった。ところが、神の選びは、不変であるから、どれほど、イスラエルが、神にそむいても、その選びは無効にされることはありません。人間の側に不誠実があっても、神においては、誠実があるばかりであります。ただし、人間の不誠実は、そのまま、神に受け入れられるのではなく、不誠実が、誠実にたちかえるには、それだけの道筋があることは、すでに見てきた通りであります。異邦人が神との交わりに入れられたのは、従順だったからではなく、彼らが不従順であったにもかかわらず憐れみを受けたからにほかならない。そうだとすれば、イスラエルも、不従順の状態にあるにもかかわらず、憐れみを受ける望みは、十分、残されているのであります。すなわち異邦人も、不従順だったし、イスラエル人も不従順でありました。しかも、神は、この不従順な者に向かって憐れみを与えられたのでした。だからパウロは、このことについて大胆に次のように言った32節を見て下さい。この言葉は、単なる楽観的発言ではありません。神の深い知恵が、背景をなしています。知恵の輪が解き明かされたのであります。わたしたちには、あまりにも、不可思議であります。独断とも聞こえます。気まぐれな非現実的な、また気休め的な楽観論とも聞こえます。しかし、これはその様なものではありません。だからパウロは、神のこのような活動に対して、33節「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。」と言って「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解尽くせよう」と言っています。これは、宇宙の創造主、またこれを支えるおかたとの接蝕によって、与えられた知恵を背景として発せられる言葉であります。つまり、信仰から出る言葉であります。万物は、神より出でて、神に帰る。そのような循環運動の一局部に歯車のしきりがあったり、断絶があったりしても、神は、これを克服して、あらゆる故障に勝をえるのであります。悪との戦いにおいて、キリストは勝利者であるということは、三位一体の神の勝利ということにほかなりません。キリストの受けたもう栄光は、三位一体の神の栄光であります。神の救いの奥義を示されたパウロは、栄光がとこしえに神にあるようにといって、人間の神格化を戒め、信仰こそ、神と人間との間をつなぐ唯一のものであることを、新しく私達に思い起こさせるのであります。

結び

もう1度33~36節を見て下さい。ここは頌栄であります。イスラエルの歴史を、異邦人の救いという大問題と共に述べた後、パウロは心からの讃美をささげずにはおられなかった。神の知恵と知識は底知れず深く、その裁きは知り尽くしがたく、その道は測り知りがたい(11・33)。これは私達に、全能なる神はイスラエルの歴史を通し、また異邦人伝道を通して啓示してくださった救いの内容があまりにも偉大で私達の理解を超えていると言うことを言っているのであります。神のみ業を前にして心から讃美を献げているのであります。34,35節はイザヤ40・13~14節、ヨブ41・11節の引用であります。特に35節の「主に与えてその報いを受ける」は、律法の業による義認を暗示する表現であります。ここには、神が人類の創造主であり、保持者であり、完成者であることが示されています。パウロは1コリント15・24-28節を見て下さい。p321を見て下さい。世界の救いである神に讃美の声をあげているのであります。

「神の慈しみと厳しさ」2020・8・30説教要旨

朝位 真士

今日はローマ11・11~24節から聖書を学んで行きましょう。私の尊敬する米田豊先生はこの11章全体を神の選び。神の慈愛と峻厳。神の経綸として語っていまして、11~12彼らの躓きと異邦人の救いの関係、およびその意味。13~16異邦人の使徒である記者のユダヤ人の救いの願望。17~24異邦人信者に対する警告。25~27イスラエルの将来の栄光である国民的救いの預言とその時期。28~32イスラエルおよび異邦人に対する神の経綸。33~36以上3章の讃美的結論。

 11~24節を見て下さい。パウロはその同胞の回復されることを期待しつつ(14、15)、特に異邦人信者に対する警告を記しています。選民イスラエルは不信仰の故に、メシヤを受け入れなかったため、異邦人が選民の地位に座して、選民に約束された祝福を受けるようになった。さきには、「キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく、神もないものであった」私達異邦人が(エフェソ2・12)、キリストを信じたことによって、アブラハムの子孫とされ、(ガラ3・29)、アブラハムに約束された祝福を受ける身分とされた(14)。よいオリブの枝が切り落とされて、(野生のオリブ)がそこにつながれたのである(17)。これは異邦人が神の教会に受け入れられるために、ユダヤ人が場所をふさいでいるから折られたのではない。彼らが不信仰のために折られたから、その後へ信仰による異邦人が繋がれたのである。それゆえ。恵みに馴れたり、自分の身分を忘れたりして、高ぶってはならない(18-20)。私達は神の祝福を受けるに足る価値もなく、ただ信仰によって祝福に預かっているのであるから、不信仰になれば神はいつでも捨てて惜しまれない。ユダヤ人はその警戒の見本である。彼らは選民の特権を誇った為、今神に捨てられて、あちこちに離散し、放浪の苦難をなめている。これは神の正しい罰である。それゆえ(神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切りとられるであろう)(22)。これは実に厳粛名警告である。私達は神の愛と義の両面を見なければならない。愛や恩寵の面ばかり思うと、恵みになれ、放縦になりやすく、義や裁きの面ばかりを思うと、恐れて萎縮してしまう。両面を見て初めて円満に、また健全に、信仰が成長します。選民であるユダヤ人でさえ不信仰のために捨てられたのなら、まして異邦人である私達が捨てられないことがありましょうか(21)。

神が愛によって惜しまれるのは一方の面で、「1度救われたら永遠に滅びない」などと言うことは出来ない。不信仰に陥るならいつでも捨てられる。神の慈愛を信じ、その中に留まっているゆえに神の慈愛は私達に向けられているが、この慈愛から離れるなら、私達もただちに捨てられる(22)。それ故「神の愛の中に自らを保」たなければならない(ユダ21)p451。

結び

パウロはユダヤ人たちのつまずきの問題を9~11章にかけて論じて来たのでありますが、今日の箇所においては、このイスラエルのつまずきは、彼らの失敗、挫折という、否定的な意味しかないのであろうかと問い直しているのであります。もしそうだとするならば、それは神の失敗であって、神は旧約の全歴史を通じてイスラエル民族を救いに導いて来られたのに、最後の土壇場になってこの民族を最終目標に辿りつかせることが出来なかったということになります。このような疑問に対してパウロは「決してそうではない」と強く否定し、イスラエルの挫折が、第1に神の救いが異邦人に及ぶ機会となったこと、第2にイスラエルの奮起を促せるためであることを述べて、ここから信仰的、歴史的教訓を引き出しているのであります。第1の点、すなわちキリスト教がユダヤ人から排斥されたことよって、異邦人世界に広がっていったことは、歴史的事実であります。使徒13・46~48節をp240

を見て下さい。ここに異邦人伝道に専念することになったパウロを見ることが出来ます。このように神は福音に対するユダヤ人達の拒否という悲劇も用いこれを全世界の救済へのチャンスとされたのであります。イスラエルが神の恵みから落ちて挫折を経験したことは、イスラエル自身の責任でありますが、神はそれによってイスラエルを冷たく突き放し滅びに任せるのではなく、むしろそれによってイスラエルが安易な道を歩むことから立ち止まり、目を覚まして奮起一番、新しく立ち上がる為の訓練の機会とされたのでありあます。ここで人間は、神が慈しみに溢れた方であると共に、厳しい方であることを学ばなければなりません。11・22節を見て下さい。「慈しみ(クリストテース)は「親切」とも訳せます。クリスチャンは「クリストテース(親切)である」と言われました。神は「慈しみ深いお方であります。しかし同時に神は侮られることを許さない厳しいお方であります。」「厳しい」とは「切りすてる」という意味であります。神は高ぶる者を切り捨てられます。かってイスラエルの最初の王様サウルが、その地位におごり、神の命令の背いてほしいまま振舞った時

預言者サムエルは彼の前に出て「主の言葉を退けたあなたは、王位から退けられる」(サム上15・23)と告げました。p452

神の厳しさは神の慈しみの裏側であります。イスラエルはたびたび神の厳しい訓練を経験してきました。このことは異邦人キリスト者たちが自分たちにも関わりのあることとして、真剣に考えるようにさとしています。ヘブル12・4~12p417ローマ11・24も見て下さい。

「恵みの選び」2020・8・23説教要旨

朝位真士

 今日はローマ11・1~10節を通して聖書を学んで行きましょう。私の尊敬する米田豊先生はこのローマ11章全体を恵みの選び。神の慈愛と峻厳。神の経綸。として11章全体をイスラエルの将来と奥義1~6イスラエルの中で、恵みによって残された者。

1~2上神はその民を捨てられない。2下~4昔のエリヤの時の残された者。5~6今も存する恵みの選びによって残された者。7~10イスラエル全体の盲目的かたくなさ。11~12彼らのつまずきと異邦人の救いの関係、およびその意味。13~16異邦人の使徒である記者のユダヤ人の救いの願望。17~24異邦人信者に対する警告。25~27イスラエルの将来の栄光である国民的救いの預言とその時期。28~32イスラエル及び異邦人に対する神の経綸。33~36以上3章の讃美的結論。パウロは9章で、神の選民たるイスラエル人が不信仰の為に捨てられたからといつて、その為に神の約束が無効になったのではないことを述べ、9章から10章にかけて、かえって異邦人が信仰によって救いを受けた事を述べたが、では(神はその民を捨てたのであろうか)(1)という問題を提起する。これが11章の主題である。11章は、この1節の間と、(彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか)(11)との2つの問いを中心にしるした解答で、そのどちらにも(断じてそうではない)とまず答えておいて、その説明をする。神がその民を捨てられたのではないことについて、パウロは、1・自分もまた選民のひとりであるがゆえに(1)、2・エリヤの時の例を引いて、今も少数の残された者がいるゆえに(2~6)、3・約束は最後に必ず成就して、選民は国民として回復され、皆救われること(26)を述べる。その説明の中に預言者エリヤが(わたしひとりが取り残されたのに、彼らがわたしのいのちを求めています)と神に訴えた時、神が(バアルにひざをかがめなかった7千人を、わたしのために残しておいた)と答えられたことを引いているのは(3,4)私達が大いに学ぶべきことであります。エリヤは自分ひとりが残っていると思っていたが、神は7千人も忠実な聖徒がいると言われた。四面楚歌の中にあってただ自分ひとりが信仰に立っているなどと思うと、心細く寂しく感じられるが、自分と同じ境遇の中にあって苦難に耐えている人が他にもいると思うと励まされる私たちは、主に忠実なのは自分だけ、自分の教会だけなどと思うべきではありません。他にも隠れた敬虔な忠実な聖徒がいる。自分だけが熱心だと思うひとりよがりのうぬぼれは、人を高慢にし、偏狭にします。6節は恵みと行いの区別を明白に述べてものであります。恵みとは、神が任意に与えられる純粋の恵みで、それを受けようとする相手のいかんに関係なく、与えられます。行いとは、人間が自分の力で行う事が出来る。神の選びや救いは純粋名恵みで、人の行いや勲功を条件として与えられるものではありません。それゆえ、これを受け、その祝福にあずかる者に必要なものは、ただ信仰だけであります。ユダヤ人はただ少数の者がこの恵みの選びによって祝福を得るだけで、大多数の者は不信仰と頑なさの為に恵まれないが(7-10)、選民の不信仰によって、救いが異邦人に及び、それによって、イスラエルを奮起させるための神の御計画であります。

ローマ11章1~10節を見て下さい。ルーテル教会の岸先生はこの11章1~36節を奇しき救いの計画として11・1~4節イスラエルは捨てられたか。5~12イスラエルのつまずきと異邦人。13~24オリブの木のたとえ。25~27神の救いの奥義。28~36栄光神にあれ。と分解しています。パウロは、信仰の目をもって、神のみわざのきわまりない変転の中に、一貫した神の御計画があることを見極めることが出来たのであります。「神はその民を捨てたのであろうか」という問いに対して、躊躇なく、断じてそうではありません。と答えた。そして自分自身を例にあげたのであります。自分を、エリヤに比較していることが分かります。エリヤは異教徒バアル礼拝者の中にあって、追いつめられて孤立し、この世に自分以外にまことの神を礼拝する者はないと考えた。しかも、バアル礼拝者は、エリヤの命さえうかがっていた。彼が殺されるなら、もはやまことの神の礼拝者はいなくなると考えたのであった。しかし、生ける神は、意外な御告げをエリヤに与えた。「バアルにひざをかがめなかった7千人」が、まだ残っているということであつた。神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはなさらなかったというのがパウロの結論であります。残された少数者こそ、人の力によらないで、全く神の恵みによって選び分かたれた者たちでありました。「わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者であるという言葉のうちにこのことがよくあらわれています。1節を見て下さい。もう1度2節から10節を見て下さい。

結び

 パウロは、神の知恵の輪の功妙な仕組みに驚きの目を見張ったのであります。神は、人間より何も求めないで、人間に救いの道を備えられた。「代価なし」という言葉こそ、恵みの意味であります。そうすれば、人間の側で、神の御前に行いが悪いと言うのではなく、行いが出る場所は、ここではないということであります。恵みが純粋に恵めとして受け取られるためには、恵みが、人間を圧倒するよりほかにはありません。恵みが、人間を圧倒して、これによって恵みを受け入れる状態をつくり出す時、これを指して「信仰」というのであります。人間的に見れば、イスラエルは、民族として、自ら、神と無関係となってしまったと考えられますだが、相手は、生きて働き、敵をも愛するまことの神であります。目には目、歯には歯という仕返しをもとめる神ではなく、手におえない者たちを愛しつつ、彼らの留まるところを知らず落下する状態に終始符をうつ神こそこのまことの神であります。パウロは、自分とユダヤ人キリスト者がイエス・キリストに救われているという事実の中に、ユダヤ人に向かって神の手が伸ばされ、神がユダヤ人を捕らえて導いておられる事を、パウロは預言者エリヤの例を挙げて示しています(11・2-4)。パウロはエリヤのことを例に挙げて11・5を見て下さい。それを旧約聖書(申命29・3,イザヤ29・10、ローマ11・9~10詩篇69・23~24、70人訳)。から引用しています。