
2012年度第2回教会総会の開催に向けて

いのちより大切なもの
朝位 真士
先日お茶の水のキリスト教会館で行われている「星野富弘の詩画展IN
お茶の水」に行ってきた。詩画集の中で、「いのちが一番だと思ってい
たころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った
日、生きているのが嬉しかった」という詩に出会った。「いのちより大
切なもの」とは何でしょうか。星野さんは「それは、自分で苦しみなが
ら見つけた時に、あなたにとって意味があるのです」と語っていた。
カトリックの修道女、渡辺和子先生は著書『目に見えないけれど大切
なもの』の「いのちより大切なもの」という項目で、星野富弘さんの詩
を引用して、「人間が『生きている』ということと、『生きていく』と
いうこととは、ただ一字違うだけだが、実は大きく違うのだということ
を私たちは知っている。星野さんも、ただ生きているだけの自分でな
く、生きていくことができる自分にお気づきになった喜びを詩に表され
たのではなかろうか。その生きていく力は、命より大切なものがあると
知った時に与えられたという。この自分が、傷のあるままで愛されてい
ることに気づき、それを気づかせてくれる人々の愛、神の愛に気づいて
与えられた力だったのではないだろうか。そういう力に支えられて、苦
しいことの多い一生を生きた一人の人間の生の軌跡は、この世の命に勝
る尊いものなのだ」と語っていた。
平和を求める祈り
朝位 真士
パウロの思想の中心は「愛」です。愛がなければ何事も起きないので
す。愛というものが、生命と人間の幸福と人間関係をつなげていくもの
の根幹であり、人間の死の瞬間にも、たった一つ求めるものなのです。
私は朝祷会に出席しています。1995年から会堂建設のために、ま
ず皆様に祈っていただかなければ完成しないと思い、東京都内の各朝祷
会で積極的に祈っていただき、そのお陰で1997年12月に会堂が与
えられました。教会員の方々、その関係者の祈りと奉仕はもちろんです
が、神が与えてくださったと感謝しています。
その際祈られたのは、アッシジのフランチェスコの祈りです。「平和
を求める祈り」です。「私をあなたの平和の道具としてお使いくださ
い。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分
裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているとこ
ろに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるとこ
ろに喜びを、もたらすものとしてください。慰められるよりは慰めるこ
とを、理解されるよりは理解することを、愛されるよりは愛すること
を、私が求めますように。なぜなら私が受けるのは与えることにおいて
であり、許されるのは許すことにおいてであり、我々が永遠の命に生ま
れるのは死においてであるからです。
まず考え、次に感じ、その後に行動
朝位 真士
カトリックのシスター渡辺和子先生の『置かれた場所で咲きなさい』
という本で右の言葉に出会いました。彼女は「文明の利器は、たしかに
『便利』『安楽』『スピード』をもたらしましたが、その反面、人間か
ら『待つこと』『耐えること』『静かに考えること』といった習性を奪
ってしまったかのように思えます」と書いていました。
私はこの文章に出会い、キリスト教信仰の大切な秘訣を忘れていた感
じがします。一つは「待つこと」。イザヤは「主に望みをおく人は新た
な力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いて
も疲れない」(40章30節)と語っています。主を待ち望むこと。これ
は祈って待つことです。すぐ解決・解答を求めません。
二つは「耐えること」。「あなたがたを耐えられないような試練に遭
わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道
をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリ10章13節)
三つは「静かに考える」。アブラハムは75歳から100歳まで、約束の
子供が与えられませんでしたが、25年間祈って待ち、考えた時に、神
から約束の子イサクが与えられました(創12章~18章)。
私共も「待つこと」、「耐えること」、「静かに考えること」を実践
していきましょう。
問安特別夕拝を開くにあたって
朝位 真士
今日はホーリネスの群委員長、日本キリスト教団舘坂橋教会牧師、岩手大学講師、キリスト伝道会エバンジェリストの村上義治先生をお迎えできることを感謝しています。先生は1975年神学校卒業後、小松川教会副牧師を経て小松川教会の開拓教会を設立し、東調布教会牧師、幼稚園園長を歴任されている大変素晴らしい方です。今夕4時半からの集会で、マタイ1章18~25節を通して「試練を超えて」というテーマで語ってくださいます。皆様祈ってご出席ください。私はこのために朝祷会を始め、各集会で祈ってまいりました。この伝道の好機を逃さないようにしたいと思っています。
深井先生が『伝道』という本の中で、「伝道を語ることは美談や成功例を数えあげることではありません。また悲観的な分析を続けることでもありません。伝道の技術を説明し、支援することでもありません。私たち自身の救いを語ることでしょう。この私たちの人生にキリストがどのように出会ってくださったのかを語るのです。証言するのです」と述べていました。私は18歳で受洗し、今年で51年が過ぎました。本当にあの時救われて今日あることは神様の一方的なお恵みであると感じています。
2013年も、社会においても個々人においても、いろいろなことが起こることかと思いますが、今年も数回の特別集会を計画しています。まだイエス・キリストを信じていない方、受洗されていない方は、ぜひとも神の子イエス・キリストの救いを受け容れて天国に行くパスポートを入手してください。神はすべての人が救われることを望んでおられます。(Ⅰテモテ2章4節)
牧会雑感
朝位 真士
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(Ⅰコリ13・4~7)
「ヤマアラシのジレンマ」というお話を御存知だと思います。哲学者ショーペンハウアーが記した寓話です。「2匹のヤマアラシが、ある寒い冬の日に、お互いの体温を温め合うために寄り添おうと近づいた。ヤマアラシの体にはとげがついているので近づくと相手を傷つけたり、刺したりしてしまう。しかし離れていては寒い。そこでヤマアラシは適度にお互いを温め合い、適度に傷つけ合う距離を発見した。」このとげというのは、人間がお互いに持っている自己愛、自己中心性です。また精神分析学者フロイトは、この「ヤマアラシのジレンマ」の寓話を引用して、人と人との関わりには常にこうした葛藤と傷つけ合いがあり、この傷つけ合いをどう乗り越えていくかが人間関係の基本だと語っています。
私はこのとげ、自己愛、自己中心性が人間関係において出てくると、人間関係は成立していかないと思います。そこで私が牧師としていつも心掛けているのは、相手との間にいつもイエス・キリストの十字架の愛(キリスト教の最大の教え)を介入させて、人間関係を保持することです。しかし私も弱い人間なので、冷静に判断できずに相手との関係が崩壊する時もあります。その時は冷静になってこちらから謝ることにしています。信者と牧師、信者と信者、未信者と信者との争いがあれば、聖霊の働きを強く求めるように祈っていかなければならないと思います。皆様方も是非お祈りください。主の平和!!