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2015/7/26 週報メッセージ

   病気の方のために祈って欲しい
                                                                                                          朝位 真士
 
  最近病気の方が多くなっているので、より多くの時間祈りを必要としています。私が病気訪問させていただいた時必ず引用する聖書箇所があります。ヤコブ5章13節から18節です。次のように書いています。
 
  あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがた
 の中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基
 づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が
 赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正
 しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、
 雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、3年半にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈
 ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。
 
必ずと言っていいほどこの言葉を読んで、お祈りをさせていただきます。
  教会には最近、癌患者の方が3人おられます。1人は男性で、今月末頃に手術をされます。彼は以前癌の手術をされ、転移して他の箇所の手術となりました。2人は女性ですが、1人は手術をされて現在治療中です。もう1人は在宅でケアをされています。高齢の御婦人で加齢黄斑変性という目の病気で、現在も治療中です。年齢を重ねると病気になりやすくなります。私自身も現在医者にかかっています。最近浮かんでくる御言葉は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに求めておられることである」(Ⅰテサ5・16~18、口語訳)です。神の御心を求めつつ過ごしている毎日です。

2015/7/19 週報メッセージ

   杉本茂先生の葬儀に出席して                                                                 
                                                                                                          朝位 真士
 
  去る7月10日、11日と杉本先生の葬儀に出席した。先生は7月8日病気のため逝去された。82歳であった。私共の教会に数年前より御夫人と出席され、年に1回、ペンテコステの頃にメッセージをしていただいた。
 先生は卒業後、大井町伝道所、西荻教会、敬和学園等で御奉仕をされた。西荻教会は、伝道師時代を含めて約40年間、77歳まで御奉仕をされた。その後、御長男家族と同居され、月1回御自宅で家庭集会を開かれた。毎回十数人の方々が集まり、聖書を中心とした交わりの時を召される1ヶ月前まで継続された。
 私は先生に大変お世話になった。大先輩として牧会の悩みについて快く相談に乗ってくださり、お祈りをしてくださった。先生の「牧者は、自信を持って、聖書の御言葉をもって、信徒達を信仰に導きなさい」という言葉が印象的であった。見かけは大変おとなしい方だが、親分のような腹の据わった牧師であった。段々熱が入ってくると、小さな声が確信に満ちた大きな声になってこられた。
 私が先生に最後にお会いしたのは、6月24日午後であった。すでに何人かの方々がお会いされていたが、彼女たちが帰った後に、私と1時間半位話してくださった。御自分の入信、献身、御結婚、牧会等について、淡々と確信を持って静かに語ってくださった。その後2週間余で天国へ召されたのであった。
 葬儀には、前夜式も告別式も生前の関係者が多く集まった。先生の愛唱聖句、詩16編「測りなわは、わたしのために好ましいところに落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た」ほか23編、ピリピ3章12~14節、16、20節等が朗読された。先生の御遺族の上に、御教会の上に、神の慰めと祝福を祈る。アーメン。     

暑さが増しました!

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暑さが急に戻りました。
梅雨開けが間近と思いながら、なお、この時期の大雨が気になります。
天気予報を確認しながら、健康には十分留意したいと思います。
今日は,教会では昼食時に皆様と一緒に少しゆっくりとすることが出来ました。
また、昼食はパン食にサラダ、ゆで卵,バナナでした。
現在、教会では病と闘っておられる兄弟姉妹が、いらっしゃいます。
わたしたちは、思いをどう伝えて、お慰めできるのかと考えてしまいますね。
一人ではなく主がともに側にいてくださることを信じ、祈らせていただきます。
今日の礼拝のお話は、「神のものは神に」と言うテーマでした。
これは、心を神にささげること、人生の重大事には、いつも神のことを覚えて行動するということでした。
この世は、神が与えてくださったものであると同時に、国家は独自の働きを持っていて、そこに従うことも求められるということ。
しかし、主に生きる者として、神に帰することが何かを私たちは知っています。私たちは神の家族に属し、キリストにつながり生きています。キリストの福音は神に属するものであって、この世に存在していても、誰も犯すことができない神のものであるといことです。
キリスト者として、心をささげ、キリストの福音を伝えることが、「神のものは神に」ということであることを教えていただきました。今週も、主の平安を歩きましょう。

2015/7/12 週報メッセージ

   下半期を迎えて
                                                                                                          朝位 真士
 
  2015年も約半年を経過して、いよいよ下半期(7月~12月)を迎えた。本年与えられた御言葉はⅠコリント3章1~9節で、特に7節「大切なのは植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」という聖句から、「成長させてくださる神」という新年標語が与えられた。そしてコリントの手紙から、人間には三つのタイプがあるということを学んだ。①自然の人(生まれながらの人間、2・14)、②肉に属する人間(3・1)、③霊の人(御霊に属する人間、3・1)。第一の人間は生まれ変わっていない人のことである。第二の人間は、キリスト者になって新生はしたが、まだキリスト者として完全な域に達していない人で、党派心、ねたみ、争いなど肉に属する人間(ガラ5・19~21)。まだきよめられていない人である。第三の人間は、霊的に成長している人である。コリント教会には第二のタイプ、つまり肉に属する人間がいたようである。しかし、大切なのは成長させてくださる神である。私たちは神の道具にすぎない。勿論主の働きは尊い仕事であるが、キリスト教信仰は神の業であって、人の業ではない。用いなさるのはイエス・キリストの神である。
 さて、今年の下半期の集会について祈ってほしい。7月21~23日、ホ群首都圏夏期聖会。10月25日(日)、吉岡篤志氏チャペルコンサート。11月1日(日)、召天者記念礼拝。12月6日(日)、クリスマス・チャペルコンサート(ボーマン先生夫妻)。12月20日(日)、クリスマス礼拝。12月24日、クリスマスイブの集い&ジャズコンサート(高田トリオ)。1月1日、元旦礼拝。1月3日、新年聖会。以上の重要な集会が計画されている。また、桜ヶ丘教会の祈祷目標、個人信仰の確立、全家族の救い、個人伝道による教勢倍加を目標に励んでいこう。

7月に寄せて

イメージ 1写真:K/Kさん提供
7月に入り、雨の日が続き寒いと感じるくらいの日もありますね。
今年の夏の天候が気になります。火山の活動が活発な様子等もニュースでは流れています。
今年は戦後70年が経過し、来月8月は終戦を記念する日を迎えますが、この7月に、改めて聖日に教会に出かけることができるということは本当に大きなお恵みと感謝します。
様々な状況を考えると、平和を作り出していく者になるということは、いま、自分の出来るところからやっていく、自分のためだけにしかならないことかもしれないけれど、平和を意識することから始めるということが、尊いことなのだと感じます。
日本の国が、本当に平和にずっといくためには、どうすれば良いのかを自分で考えるということも、自分に出来る第一歩。難しいから分からないではすまされないという思いがこみ上げてきます。(事実、わからないことが多いですが・・・・)
平和の君なるイエス様は、平和はまず私たちひとり一人の心に住まなければならないと言われると思います。
昨日の礼拝のお話は、『主がなさったこと』というテーマで、マルコによる福音書12章1節から12節の「ぶどう園と農夫」のたとえについてでした。
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしの目には不思議に見える。」というところからのお話でした。
イエス様に対し、イスラエルの指導者達は不信仰のゆえに、そのメシア性を無視してしまう。そして、イエス様を十字架に付けてしまう。
しかし、神は、神の子なるイエスを、私たち罪人の救い主として中心におかれるいうことをなさった。
私たちの心に、イエス様の居場所を定めて、しっかり、生きていきたいですね。これが、主がわたしたちにしてくださった大きな恵みでありますから。

2015/7/5 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                                        朝位 真士
  Ⅳ宣教の対象 2.異教国日本に生きる同胞たち ①日本人の宗教心の根底には、広くアニミズムや先祖崇拝があると言われます。また、神社は日本人の生活のさまざまな局面に影響を与えています。他方、多くの日本人が漠然と「自分は仏教徒だ」と考えているほど、仏教は日本人の救済観、死生観、美意識の根底を支配しています。おそらく、これらの伝統的宗教に対して教会は真正面からその固有のメッセージ、特に超越的な神が一人一人を無限に愛しておられることと永遠の生命(神の国)の希望があることを語りつづけるより他にないでありましょう。
 ②国体思想やそれと深く関連するナショナリズムの問題もあります。たしかに、国家統合の精神がキリスト教を自分の味方と思うか敵とみなすかによって、伝道が大きく左右されてきた事実は否めません。
 ③これらと共に、社会秩序を維持するためには、儒教倫理で十分である。または、その方が優れている、という考え方があります。そして、これら日本の諸宗教、ナショナリズム、儒教倫理などに影響されながら、長い間につちかわれてきた日本的心情や日本文化、日本独特のムラ社会などがあります。しかし、いかなる時代にあっても、教会は時代精神におもねることなく、「折が良くても悪くても」(2テモ4・2)伝道に励まなければならないことは、自明のことです。
 ④福音とすでに存在している日本宗教や日本文化との関係性は、「土着化」の問題として論じられてきました。しかし、この土着化の問題は、日本人の古くからある宗教心に福音を同化させるという発想法によっては、解決は得られません。なぜなら、この方法は結局日本人の古くからある宗教心に聖書の福音を上乗せし、それによって福音を変質させるだけだからです。結局、日本人のキリストへの回心の問題も土着化の問題も、福音を聴き心の底からキリストの方へと向くようになることによってしか解決されないと考えます。そのためには教会が罪の赦しの福音を純粋に説くことが大切です。(ロマ3・21、コロ1・16)つづく。

6月28日の聖日に寄せて

イメージ 1写真:K/Kさん提供
2015年の6月も、残すところ本日1日だけとなりました。
梅雨の中にありますが、素敵なお時間を過ごすことで、思い出深い6月となった方もおられる事でしょう。
なお、長雨の影響などで大変困難な環境で闘っておられる方々の事を忘れることは出来ません。教会では、主のお恵みの中に、最善の環境が確保されるように祈っております。
6月28日は、「何の権威によって」というテーマで、マルコによる福音書11章27節から33節の聖書を通してお話をいただきました。
この世の権威に、私たちは従うとともに、この世の権威に従属的な精神構造を持ちやすい傾向にありますね。
偉い人とは誰か?お金を持ち、この世の物を我が物のようにする人か?権力を持った政治家か?等々、私たちは、権威、権力に、とても弱い者でもあります。
そのような中で、イエス・キリストが示される権威は何か。
「信仰の権威は、宗教の制度や職制によって与えられるものではなく、神の力、神の権威によって与えられるものである。人によるのではなく、神によって与えられた信仰のみが力で有り、権威である。福音の伝道はこの権威によってなされなければならない。」というお話でした。
権威という事改めて考えながら、過ごす1週間としたいと思います。
また、いつも、教会全体で、病の中にある兄弟姉妹、困難を歩く兄弟姉妹の事を祈り、ともに主にある平安を歩ませていただけたらと思います。この1週間も、主にあって健やかに過ごすことができますように。

2015/6/28 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                                         朝位 真士
  Ⅳ宣教の対象 1.神なしに生きようとする現代人 ①宣教に当たっては、罪と罪の赦しの宣告をあいまいにすることができません。
 ②罪とは福音の対象である人間が置かれている危機的状況そのものです。
 ③人間が神に背いた堕罪の出来事は、今日、世界的な広がりで進展している「神は要らない(神は死んだ)」という世俗化の状況として捉えることができます。この状況は合理主義、人間中心主義(ヒューマニズム)、現世中心主義(来世否定)などによって特徴づけられます。また、この世俗化は教会の中にも侵入し、悪影響を及ぼしています(聖書や信仰告白、伝統などの軽視、聖餐の乱れなど)。この教会内世俗化を克服するには、福音の宣教・浸透と共に、伝道の実践以外にありません。(エフェ6・11~12)
 ④今日の日本社会では、世俗化は飽くことなき富の追求(マンモニズム)の結果、「格差社会」、「無縁社会」や自殺の増加等々の現象となって現れ、人々の精神をさいなんでいます。したがって、実質的に言えば、キリスト教への関心や福音の求めは一層高まっているはずです。すなわち、神、生きる意味、隣人、家族(家庭)、故郷、平安、死後、愛、自己犠牲等々への問いは深まっているはずです。しかし、その究極の答えが教会においてしか聴けないということは、まさに「神は死んだ」と言われるこの世俗化の状況において、ますます認識されがたくなっています。(創4・17、同11・4、同11・7)
 ⑤それだけに、教会は福音の変わることのないメッセージ(復活、愛、罪の赦しと救い、永遠の命、救いの確かさなど)が現代社会にとって真に価値あるものであることを確信を持って宣教し、信徒による「地の塩、世の光」(マタイ5・13~16)としての証しが一層力強く行われる必要があります。さまざまな手段や機会を用いて「遣わされて行く」姿勢が必要です。

2015/6/21 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案       
                                                                                                                         朝位 真士
  Ⅳ宣教の対象ー宣教(神の和解)の対象はひと言で言えば「罪人」ですが、わたしたち日本の教会にとっては、さらに具体的にはどのような人たちなのでしょうか。ここでは基本的なことだけを考察します。まず一般的に、福音の前での現代人の特徴の一つであるその「世俗性」(または「非宗教性」)について、次に、日本においてなぜ福音を信ずる者が少数であるかについて考えます。
 1.神なしに生きようとする現代人 ①宣教に当たっては、罪と罪の赦しの宣告をあいまいにすることはできません。神は教会の宣教を通し、人類に福音を信じ、悔い改めて神に立ち帰ることを求めておられます。それゆえ宣教とは、この世の人々に悔い改めと信仰を勧めることです。(マコ1・14~15、2コリ5・20、エゼ33・11、黙示3・20)
 ②罪とは福音の対象である人間が置かれている危機的状況そのものです。それは第一に、神との正常な関係の破綻です。その結果、人間は神との交わりと御国の希望を失い、「故郷喪失」に陥っています。現実的にも、生きる意味と喜びを失い、不安と思い煩いと虚しさの中で自分の消滅(死)におびえています。罪とは第二に、その結果として、あらゆる人間同士の交わりにおいて、各々が自分の利益を追求し、互いに敵意を抱き合い、この世界に愛と平和が失われていることです。その意味においても、人間は自分の故郷や家庭を失っています。罪とは第三に、自分自身との関係のゆがみです。神との交わりを失い、隣人との関係を損っている人間は、自分自身を正しく認識し、愛し、重んじることができません。(2コリ5・20、創3・24、同3・19、同4・12、同4・17、同11・9、ヘブ11・16、マコ12・29~30)
 ③人間が神に背いた堕罪の出来事は、今日、世界的な広がりで進展している「神は要らない(神は死んだ)」という「世俗化の状況」として捉えることができます。つづく。

2015/6/14 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                                        朝位 真士
  4月26日付「週報」からの続きです。
 「宣教の内容」(1)中心としてのキリストの出来事ー罪の赦し (2)生の全領域における変革 (3)終わりの日の完成 ①死人の中からよみがえられたイエス・キリストは、現在わたしたちと共におられるだけでなく、終わりの日に再び来られ、救いの業を完成されます。
 ②復活者キリストは、今も教会の先頭に立って御国の福音を宣べ伝え、戦っておられます。教会は今日も明日もこの主に仕えることを喜びとします。その限りにおいて、教会はこの世にある間は戦いの中にありますが、同時に、すでに主の勝利にあずかっています。すなわち、わたしたちの目には成功と見える日にも、失敗と見える日にも、その労苦は決して無駄ではなく、御言葉は一つとしてむなしく地に落ちることはありません。(エフェ6・12~13、黙1・17~18、ヨハ1・5、マタ10・20、イザ55・11、ロマ10・18、Ⅱコリ3・17、同4・7~13、Ⅰコリ15・
58)
 ③すでに死んだすべての者たちの救いに関しては、わたしたちの一切の問いに関する究極の答えをお持ちであられるキリストに完全におゆだねしてよいのですし、またそうすべきです。わたしたちはすでに死んだ者たちについて思い煩うのではなく、生きている人に向かい、神の国を宣べ伝えるべく促されています。(Ⅰテサ4・13~
14、ロマ11・25~36、ルカ9・60)
 ④わたしたちは終わりの日の救いに向かって、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように」(フィリ2・12)努めるべきです。その日には、わたしたちは死者の中からよみがえらされ、最後の審判を受けた後、もはや朽ちることのない「霊の体」(Ⅰコリ15・44)へと変えられるでしょう。そして、わたしたちが愛し、慕い続けた主の御顔を目の当たりに見、その御名をほめたたえ、永遠に神を喜ぶ者となるでしょう。(ロマ8・31~32、Ⅰコリ13・12、エフェ1・10、黙21・1~4)