榊原紀惠子 のすべての投稿

2015/7/5 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                                        朝位 真士
  Ⅳ宣教の対象 2.異教国日本に生きる同胞たち ①日本人の宗教心の根底には、広くアニミズムや先祖崇拝があると言われます。また、神社は日本人の生活のさまざまな局面に影響を与えています。他方、多くの日本人が漠然と「自分は仏教徒だ」と考えているほど、仏教は日本人の救済観、死生観、美意識の根底を支配しています。おそらく、これらの伝統的宗教に対して教会は真正面からその固有のメッセージ、特に超越的な神が一人一人を無限に愛しておられることと永遠の生命(神の国)の希望があることを語りつづけるより他にないでありましょう。
 ②国体思想やそれと深く関連するナショナリズムの問題もあります。たしかに、国家統合の精神がキリスト教を自分の味方と思うか敵とみなすかによって、伝道が大きく左右されてきた事実は否めません。
 ③これらと共に、社会秩序を維持するためには、儒教倫理で十分である。または、その方が優れている、という考え方があります。そして、これら日本の諸宗教、ナショナリズム、儒教倫理などに影響されながら、長い間につちかわれてきた日本的心情や日本文化、日本独特のムラ社会などがあります。しかし、いかなる時代にあっても、教会は時代精神におもねることなく、「折が良くても悪くても」(2テモ4・2)伝道に励まなければならないことは、自明のことです。
 ④福音とすでに存在している日本宗教や日本文化との関係性は、「土着化」の問題として論じられてきました。しかし、この土着化の問題は、日本人の古くからある宗教心に福音を同化させるという発想法によっては、解決は得られません。なぜなら、この方法は結局日本人の古くからある宗教心に聖書の福音を上乗せし、それによって福音を変質させるだけだからです。結局、日本人のキリストへの回心の問題も土着化の問題も、福音を聴き心の底からキリストの方へと向くようになることによってしか解決されないと考えます。そのためには教会が罪の赦しの福音を純粋に説くことが大切です。(ロマ3・21、コロ1・16)つづく。

6月28日の聖日に寄せて

イメージ 1写真:K/Kさん提供
2015年の6月も、残すところ本日1日だけとなりました。
梅雨の中にありますが、素敵なお時間を過ごすことで、思い出深い6月となった方もおられる事でしょう。
なお、長雨の影響などで大変困難な環境で闘っておられる方々の事を忘れることは出来ません。教会では、主のお恵みの中に、最善の環境が確保されるように祈っております。
6月28日は、「何の権威によって」というテーマで、マルコによる福音書11章27節から33節の聖書を通してお話をいただきました。
この世の権威に、私たちは従うとともに、この世の権威に従属的な精神構造を持ちやすい傾向にありますね。
偉い人とは誰か?お金を持ち、この世の物を我が物のようにする人か?権力を持った政治家か?等々、私たちは、権威、権力に、とても弱い者でもあります。
そのような中で、イエス・キリストが示される権威は何か。
「信仰の権威は、宗教の制度や職制によって与えられるものではなく、神の力、神の権威によって与えられるものである。人によるのではなく、神によって与えられた信仰のみが力で有り、権威である。福音の伝道はこの権威によってなされなければならない。」というお話でした。
権威という事改めて考えながら、過ごす1週間としたいと思います。
また、いつも、教会全体で、病の中にある兄弟姉妹、困難を歩く兄弟姉妹の事を祈り、ともに主にある平安を歩ませていただけたらと思います。この1週間も、主にあって健やかに過ごすことができますように。

2015/6/28 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                                         朝位 真士
  Ⅳ宣教の対象 1.神なしに生きようとする現代人 ①宣教に当たっては、罪と罪の赦しの宣告をあいまいにすることができません。
 ②罪とは福音の対象である人間が置かれている危機的状況そのものです。
 ③人間が神に背いた堕罪の出来事は、今日、世界的な広がりで進展している「神は要らない(神は死んだ)」という世俗化の状況として捉えることができます。この状況は合理主義、人間中心主義(ヒューマニズム)、現世中心主義(来世否定)などによって特徴づけられます。また、この世俗化は教会の中にも侵入し、悪影響を及ぼしています(聖書や信仰告白、伝統などの軽視、聖餐の乱れなど)。この教会内世俗化を克服するには、福音の宣教・浸透と共に、伝道の実践以外にありません。(エフェ6・11~12)
 ④今日の日本社会では、世俗化は飽くことなき富の追求(マンモニズム)の結果、「格差社会」、「無縁社会」や自殺の増加等々の現象となって現れ、人々の精神をさいなんでいます。したがって、実質的に言えば、キリスト教への関心や福音の求めは一層高まっているはずです。すなわち、神、生きる意味、隣人、家族(家庭)、故郷、平安、死後、愛、自己犠牲等々への問いは深まっているはずです。しかし、その究極の答えが教会においてしか聴けないということは、まさに「神は死んだ」と言われるこの世俗化の状況において、ますます認識されがたくなっています。(創4・17、同11・4、同11・7)
 ⑤それだけに、教会は福音の変わることのないメッセージ(復活、愛、罪の赦しと救い、永遠の命、救いの確かさなど)が現代社会にとって真に価値あるものであることを確信を持って宣教し、信徒による「地の塩、世の光」(マタイ5・13~16)としての証しが一層力強く行われる必要があります。さまざまな手段や機会を用いて「遣わされて行く」姿勢が必要です。

2015/6/21 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案       
                                                                                                                         朝位 真士
  Ⅳ宣教の対象ー宣教(神の和解)の対象はひと言で言えば「罪人」ですが、わたしたち日本の教会にとっては、さらに具体的にはどのような人たちなのでしょうか。ここでは基本的なことだけを考察します。まず一般的に、福音の前での現代人の特徴の一つであるその「世俗性」(または「非宗教性」)について、次に、日本においてなぜ福音を信ずる者が少数であるかについて考えます。
 1.神なしに生きようとする現代人 ①宣教に当たっては、罪と罪の赦しの宣告をあいまいにすることはできません。神は教会の宣教を通し、人類に福音を信じ、悔い改めて神に立ち帰ることを求めておられます。それゆえ宣教とは、この世の人々に悔い改めと信仰を勧めることです。(マコ1・14~15、2コリ5・20、エゼ33・11、黙示3・20)
 ②罪とは福音の対象である人間が置かれている危機的状況そのものです。それは第一に、神との正常な関係の破綻です。その結果、人間は神との交わりと御国の希望を失い、「故郷喪失」に陥っています。現実的にも、生きる意味と喜びを失い、不安と思い煩いと虚しさの中で自分の消滅(死)におびえています。罪とは第二に、その結果として、あらゆる人間同士の交わりにおいて、各々が自分の利益を追求し、互いに敵意を抱き合い、この世界に愛と平和が失われていることです。その意味においても、人間は自分の故郷や家庭を失っています。罪とは第三に、自分自身との関係のゆがみです。神との交わりを失い、隣人との関係を損っている人間は、自分自身を正しく認識し、愛し、重んじることができません。(2コリ5・20、創3・24、同3・19、同4・12、同4・17、同11・9、ヘブ11・16、マコ12・29~30)
 ③人間が神に背いた堕罪の出来事は、今日、世界的な広がりで進展している「神は要らない(神は死んだ)」という「世俗化の状況」として捉えることができます。つづく。

2015/6/14 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                                        朝位 真士
  4月26日付「週報」からの続きです。
 「宣教の内容」(1)中心としてのキリストの出来事ー罪の赦し (2)生の全領域における変革 (3)終わりの日の完成 ①死人の中からよみがえられたイエス・キリストは、現在わたしたちと共におられるだけでなく、終わりの日に再び来られ、救いの業を完成されます。
 ②復活者キリストは、今も教会の先頭に立って御国の福音を宣べ伝え、戦っておられます。教会は今日も明日もこの主に仕えることを喜びとします。その限りにおいて、教会はこの世にある間は戦いの中にありますが、同時に、すでに主の勝利にあずかっています。すなわち、わたしたちの目には成功と見える日にも、失敗と見える日にも、その労苦は決して無駄ではなく、御言葉は一つとしてむなしく地に落ちることはありません。(エフェ6・12~13、黙1・17~18、ヨハ1・5、マタ10・20、イザ55・11、ロマ10・18、Ⅱコリ3・17、同4・7~13、Ⅰコリ15・
58)
 ③すでに死んだすべての者たちの救いに関しては、わたしたちの一切の問いに関する究極の答えをお持ちであられるキリストに完全におゆだねしてよいのですし、またそうすべきです。わたしたちはすでに死んだ者たちについて思い煩うのではなく、生きている人に向かい、神の国を宣べ伝えるべく促されています。(Ⅰテサ4・13~
14、ロマ11・25~36、ルカ9・60)
 ④わたしたちは終わりの日の救いに向かって、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように」(フィリ2・12)努めるべきです。その日には、わたしたちは死者の中からよみがえらされ、最後の審判を受けた後、もはや朽ちることのない「霊の体」(Ⅰコリ15・44)へと変えられるでしょう。そして、わたしたちが愛し、慕い続けた主の御顔を目の当たりに見、その御名をほめたたえ、永遠に神を喜ぶ者となるでしょう。(ロマ8・31~32、Ⅰコリ13・12、エフェ1・10、黙21・1~4)

岸義紘先生のチャペルコンサートを終えて

イメージ 1写真:K/Kさん提供
6月7日(日曜日)の礼拝の後に
説教:岸義紘先生
テーマ「もう泣かなくてよいのだ」
聖書:ルカによる福音書7章11~16節
イエスはナインという町に行かれた。
これは、ひとり息子を無くして嘆き悲しんでいるある母親のところに行くことを目的に行かれた。そして、主はこの母親をみて、憐れに思い「もう泣かなくてよい」と言われた。とある。
「憐れに思う」ということは、内蔵がひきちぎられるほどに深い悲しみを伴われる思いであるということでした。
次に「イエスが、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。」とありますが、旧約聖書では、「棺に手を触れる」ということは、禁止されていた行為でそれを破ったことになる行為であったこと。
律法を超えて、手を触れられたということの大きな意味。
それほどまでして、ナインの母親を憐れに思い、助けられたというお話。
息子は生きかえり、母親に返されたということですが、ここに大きな意味が隠されているということでした。
生きかえった息子、棺に手を触れられたイエス様に出会い、皆一様に恐怖のような驚きと恐れをいだくとともに、お墓に向っていた棺とその悲しみの人々の群れは、反対に家の方にもどり、イエスの集団となったというお話でした。
ナインの母親も生きかえった息子も、イエスの集団となった。
神は、一人子であるイエス様を、罪ある人々が救われるために十字架にかけられた。しかし、イエス様が死に勝利し復活したことを見て、弟子達は驚きと恐怖をもってその事実を確かめ、イエスの集団となったということのお話でした。
イエス様の十字架の死を予告する出来事であった、このナインの母親と息子のお話です。
生きていれば、涙を流す深い深い悲しみを経験しますが、「もう泣かなくてもよい」とイエス様は言われました。
金銀の力で助けてくださるのではなく、ともに生きて助けてくださるイエス様がおられます。
これは、私達が、イエス様の勝利の道とその集団になっていくことができるということの力強いメッセージでした。
岸先生のお話を、もう一度じっくり考え、「イエス様はどこを目指しているのか」という問いの答えを聖書でたどってみたいと思います。

2015/6/7 週報メッセージ

   創立92周年記念特別礼拝を迎えて
                                                                                                          朝位 真士
 
  今年も岸義紘先生をお迎えすることができて感謝です。今年で15回目です。
 私共の教会は1923年(大正12年)6月1日、初代教師、板井康裕先生が東京世田谷区桜新町の自宅で伝道を開始して誕生しました。1930年、渋谷区栄通りに移転、祈りの家渋谷ホーリネス教会と改称。1942年、日本基督教団設立と共に教団に加盟し、桜ヶ丘教会となりました。この渋谷時代はホーリネス教会のリバイバルの時であり、50名前後の礼拝、20名台の祈祷会、30名台の伝道会(夕拝)が毎週もたれました。最近は、礼拝、祈祷会、夕拝も人数が減少気味です。このような時に毎年岸先生をお迎えすることができていることに心より感謝しています。
 岸先生は、日本全国、家庭集会、朝祷会、教会、聖会、ゴスペルコンサートなど、どんな小さな所でも御用され、席のあたたまる暇のないほどご多忙な先生です。また信徒向けのJTJ宣教神学校の元校長でもあられ、ミッション2001巡回伝道者、国体水泳元神奈川県代表選手、ムラサキスポーツ競泳チーム所属選手等、多くの賜物を主のためにささげておられます。テナーサックス等のサクソフォン奏者でもあります。10年間牧師を務め、その後巡回伝道者となられました。人生のモットーは「だれのまねをするのでなく、ひたすら自分自身をいきる」「招かれる食事と頼まれる説教は断らない」と言うことです。著書は、『躍動する神の愛』『躍進する聖書的教会』『お父さん出番です』『おかあさんだいじょうぶです』『人間関係の回復』等多数です。また一般向けサックスCDや賛美CDをリリースしておられます。
 今回の聖書箇所、ルカ7章11~16節から、「もう泣かなくてもよいのだ」という説教です。悲しい出来事の中で、慰めに満ちたメッセージを期待いたしましょう。

明日から6月

イメージ 1写真:K/Kさん提供
暑い5月も過ぎて、明日から6月です。
ここ数日の地震の発生状況を考えると、冷静にこの時を過ごすことが出来るようにと、祈っております。
今回の地震のために避難されている方々、また東日本大地震のために避難生活が継続中の方々、
健康が守られ、主の最善の導きがあるようの心からお祈りいたします。
桜ヶ丘教会では、6月7日(日曜日)に特別礼拝があります。
創立92周年記念のチャペルコンサート。岸義紘先生のサクソフォンとメッセージです。
毎年、岸先生にお越しいただき、素敵な音楽、お話をいただいております。今年も楽しみです。
さて、2015年の5月が過ぎゆくなかで、晴れやかな5月を楽しみましたでしょうか。
桜ヶ丘教会では、ご高齢の方も多く、皆様と、教会でお目にかかれる主の恵みに感謝します。
90歳近くで、信仰を守って教会に通われる信徒の先輩方を、すごいなと思います。
人間の体は、疲れて前に進めなくなることもあります。しかし、神様に委ねて日々研鑽に努める意思があると言うことは、何と大きな主のお恵みでしょう。
私達を主が必要としてくださることに感謝し、今週も頑張って行きましょう。

2015/5/31 週報メッセージ

   ある大学教授の信仰決心
                                                                                                       朝位 真士
 
  東京の某大学教授の奥さんと、娘さん、息子さんはクリスチャンでしたが、彼は教会に行っていませんでした。「教会なんて、頭の悪いものが行くところで、私のような大学教授、しかも文学博士である者が、あのような牧師さんの話は聞かなくてもよい」と言って、教会に全く行きませんでした。
 ある時、その先生が体を悪くして医者へ行きました。お医者さんが診察して、「先生、お宅は皆さん、教会へ
行っていらっしゃるようですね。」「ええ、みんな行っています。」「どうして、先生は行かないのですか。」「教会というのは、頭の悪い息子や気の弱い女が行くので、私のような大学教授は行く必要はありません。」「そうですか。実は先生、お宅のお嬢さんが、先日、診察に来られたのです。帰られる時に、『わが家で食事をする時、お祈りしないで食べるのは、犬のポチとパパだけです』と言われました。」
 インテリの先生は、神様なんかいないと思っているから、お祈りしないのです。でも、先生はそれから内緒で聖書を読むようになり、教会に行き、教会で聖書を学び、イエス・キリストを通して与えられる福音の内容を聞き、信仰を持ちました。信じた後に彼はこのような感想を述べたようです。「信仰のない時は、いつも不安がありました。大学で教えていても、人の学説の受け売りでした。今、イエス様を信じたら、これが人生の生き方だ、これが確信のある生き方だと、本当に新しい人生を見いだしました。」十字架がわかり、イエス様を信じると、自分の罪が赦され、私たちは変わります。
 来週6月7日は創立92周年記念チャペル・コンサートで、岸先生が来られます。まだ信仰の決断をされていない方は、この機会に某大学教授のように素直にイエス・キリストを自分の救い主と信じて、洗礼の決心をしてください。

2015/5/24 週報メッセージ

   聖霊降臨日(ペンテコステ)
                                                                                                         朝位 真士
 
  聖霊のくだった五旬節の日は復活から50日目であり、主イエス様の昇天から10日目にあたります。この日を「ペンテコステ」と呼ぶのは、ギリシャ語で50番目を意味しているからです。五旬節(ペンテコステ)は、「七週の祭り」というもう一つの名でも呼ばれています。これは、主が十字架にかかった過越の祭りより7週を過ごして、50日目より始まる1週間の祭りだからです。この祭りでは、その年の収穫の感謝と、モーセがシナイ山にて神から律法を授けられたことが記念されました。
 五旬節の日、キリストの約束の通り聖霊がくだり、弟子たちは神のことばを大胆に語りだしました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」(使徒1・8)とあるように、弟子たちは神から力を受け、キリストの十字架と復活の証人として立ち上がりました。またこの日より、新しい神の民、キリストの教会が生まれました。
 私共の教会は1923年(大正12年)6月1日、初代牧師、板井康裕先生がアメリカより帰国し、世田谷区桜新町の自宅で伝道を開始して誕生しました。しかしその歴史は平坦ではなく、苦難の連続でした。まず教会堂の確保に困難を要し、人的にも困難であり、牧師・伝道師が定着せず、今まで二十数人が変わりました。その要因として経済的困難があり、近隣の方々への宣教も時間を要しました。宗教法人格を取得し、第一種教会になるにも実に68年の年月を要しました。前任の西海静雄先生夫妻の苦労も大変なものでした。1998年に新会堂が献堂され今日に至っていますが、既に数十人の方々が天国に行かれました。ペンテコステのこの日、今こそ全員心を新たにして神の宣教の業のために励み、教会形成に参画してまいりましょう。