永遠への道
朝位 真士
前号からの続きです。
(四)汎神論 ― (1)日本における汎神論 日本人の神観は仏教系や神道系、その他複数の宗教が多層的に重なり合っています。その種類は八百万(やおよろず)の神々というくらい多いものです。太陽・月・山・湖・滝・木・石・動物などの自然を神としたもの、先祖・英雄・偉人などの人間を神としたもの、結婚や出産など人間生活をつかさどる神、農業や漁業、海運などをつかさどる神など、種類も働きも様々なものです。
(2)汎神論のおもな型(西洋) ①唯物的汎神論 物質がすべての生命と精神の原因であると主張します。宇宙こそ、ただ一つの神であるいうのです。②物活論=汎霊論 すべての物質の分子は生命の原理を持っており、究極の単位は小さな霊魂(単子)であるという論理です。後者は精神と物質が個別に存在し、分離できないと主張します。③中性論 究極の実在は、精神でも物質でもなく、その二つを持つ中性的な実体が神であるという理論です。④観念論 実在とは思考、理性であって、世界は一つの偉大な思弁過程(精神の産物)であるという理論です。
(3)汎神論の共通するまちがい ①人間個人は無限者の一部分に過ぎないということは何の証明もされていない仮定であって、現実の自己意識と矛盾します。②神の人格性を否定するが、意識的な人間の存在が無意識な精神からどのように発展するのか説明できません。③人間を神の一部分とすることによって神格化します。神は人間においてのみ意識を持つものであるとすれば、人間はこの世界で神の最高の顕現ということになりますが、それは現実を調和します。
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2017/7/30 週報メッセージ
朝位 真士
講師は山口陽一先生(東京基督教大学院神学研究科委員長、同盟教団市川福音キリスト教会担任牧師)と神代真砂実先生(東京神学大学教授、橋本教会協力牧師)、音楽ゲスト姫野徹先生(オーボエ奏者、ユーオーディア・メンバー)、シモン合唱団の方々が御用してくださった。山口先生はヨハネ四章三四~三八節より「目を上げて畑を見なさい」というテーマで、(1)サマリヤのどこに色づく畑、(2)J・サバラの喜び、(3)バラの悔い改め、(4)日本宣教一七〇年の回顧と展望、次にⅠコリ一章二六~三一節より「キリストは私の知恵、義、聖、贖い」という題で、(1)わたしたちの召しのこと(二六~二九)、(2)キリストこそ知恵、義、聖、贖い(三〇~三一)、(3)内村鑑三「われらの万事なるキリスト信仰の単純」、(4)宣教の情熱について語られた。神代真砂実先生はヨハネ四章二七~四二節より「喜びを共にする」で、教会は神の愛と熱意によって建てられていることを語られた。私達のイエス・キリストの「御心を行い、その業を成し遂げること」を喜びとして、一人でも多くの方を招き続ける者でありたい。実りに感謝し、また、結果を目に出来なくても、喜んで種を蒔き続けていきたいと結んだ。
講演では「宗教改革者ルターが説いた『信仰』とは」、(1)マルティン・ルターによって始まった宗教改革の「原理」、(2)ルターの「神の義の発見」、(3)「外なるもの」は「神の言葉」とも言い換えられる。以上、大変有意義な集会であった。
2017/7/23 週報メッセージ
朝位 真士
昨年は熱海のハートピアで開催した。今年、都内の教会を会場とした理由はいろいろあるが、とにかく一人でも多くの方の参加を得たいということと、近場であれば講師の工藤先生をお迎えしやすいと考えたからである。聖会委員会、教師会で話し合い、祈って準備してきた。神様は祈りに答えてくださり、参加者一三六名、予約献金約九〇万円、席上献金二九万円が与えられた。昨年は参加者六九名、予約献金五四万円、席上献金三〇万円であったと思う。数字的な事柄だけでなく、全体的に大変霊的格調の高い内容であったと思う。首都圏の若手の先生方のメッセージも、大変内容の濃い霊的なものであった。聖会委員の一人として皆様方のお祈りとご協力に心より感謝申し上げると同時に、主イエス様の大きな祝福と恵みに心から感謝する。
2017/7/16 週報メッセージ
永遠への道
朝位 真士
前号からの続きです。
(二)不可知論(懐疑論)―これは「すべての知識は相対的であるから不確実であって、真の知識と言うべきものは全くない」という説です。理性の力は現象の世界から一歩も外に出ることができないので、超越的な存在である神を肯定できるはずがないと考えます。反面、自然科学者の説く無神論も信頼しません。こういう問題は、人間の力ではしょせん解決できない問題(不可知)であるとあきらめてしまいます。科学の面では「実証主義」の基本的な考え方となっています。それは「実際に観察した事実以外には、何ものも真理として受け入れない」という立場です(オーギュスト・コント)。しかし、アインシュタインの相対性原理は物質的世界の研究においても、時間とか空間という見えないものを考慮に入れなければならないことを示して、実証主義に致命傷を与えました。
(三)唯物論―「心は物質からはなれては真に存在しない物質の随伴現象にすぎないものであり、宇宙に存在するものは、その中にある固有の永遠の法則にしたがって動いている物質のみである」という説です。しかし、物質は永遠ではありません。宇宙には始まりがあって、いわばゼンマイの巻きほぐれつつあるようなものです(崩壊の法則(熱力学第二法則))。次に、物質はそれ自身で物質の起源を説明できません。それは自然の外にある力、すなわち「超自然」的な考察力によって説明されなければなりません。
(四)汎神論―日本における汎神論「存在する全てのものは神であり、神は存在する一切の総計であり、神は人間を含む宇宙の諸事物から離れては存在しない」という説です。神と宇宙とを一体的なものとし、すべての物は神の部分と考えます。(次へ)
2017/7/9 週報メッセージ
朝位 真士
前号からの続きです。
自殺するのはそのためです。人間が他の動物と根本的に違うのは、人間が思想を持っているという点です。
「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道者の書三・一)人生の目的や生きがいは、その人
の持つ世界観によって左右されます。人類の文化は世界に対する根本的な見方、考え方によって彩られていま
す。その代表的な世界観について学んでみましょう。すべての人はその世界観のどれかにあてはまるのです。
(一)無神論―これは「神は存在しない」という思想です。
1.無神論の最大の論拠、それは宇宙があまりにも残酷かつ不公正であるように思われるということです。
―では、その公正、不公正という観念はどこから来たのでしょう。①直線を知らないで曲がっていると判断できま
2.すべては偶然の産物―無神論によれば、すべて存在するものは偶然に存在してきたというのです。偶然に
2017/7/2 週報メッセージ
朝位 真士
人間は考え、記憶します。人は自分自身を自覚します。人は自分自身の心をのぞき込むことができます。私
は、どこから来たの?、どこへ行くの?、何のために生きるの? 大学の教授や学生、哲学者だけが考えるのではありません。人生の厳粛さを特に感じる時、人はだれでも考えるのです。たとえば、
(一)自分の子供が生まれる―自然的でしかも神秘的な事実―赤ん坊の潜在能力、その生涯に起こるべきあらゆる可能性、その出生と成長と生涯の前途について自分の直接もつ責任を強く感じます。
(二)予期しない不幸な出来事に出会うとき、病気、貧困、失業、死別、家庭の不幸など、自分の思うままにならない人生の現実にぶつかって精神的・道徳的な弱さと悩みを経験して人生の厳しさを知り、人生の意味を考え始めます。
二、人生のよりどころ―何かしっかりした立場がほしい、何かしっかりしたよりどころがほしいということは、だれでも感じるところです。
(一)自力主義―本当に自分の力になってくれる者は自分だけ―自己信頼、自我独尊、自分の中には無限の力があって、自分の理性と判断と行動によって、自分を支持していくことができるという考え方です。―すぐに実践上の障害に行き当ります。
(二)文明主義―人類の問題は人類自身の努力によって解決できるという考え方です。人類の文明の進歩によって人生の問題を解いていこうとする考え方です。人生の多くの問題は改善されますが、究極的な問題の解決はできません。たとえば罪とか死の問題です。(次号へ続く)
2017/6/25 週報メッセージ
朝位 真士
キリスト教会において「恵みの手段」と呼ばれる聖礼典は、バプテスマ(洗礼)と聖餐の二つのみです。これら二つについてのみ、キリストは明確にその執行をお命じになりました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28・19~20)。聖礼典においては、神が主権を行使し、受ける者に祝福を与えるよう働かれます。バプテスマ(洗礼)は、キリストご自身とともに葬られ、罪に対して死に、彼とともに新しい生命によみがえることを示します。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6・4)
聖餐は主の晩餐とも呼ばれます。神との結びつきを表出し、経験する契約式であり、キリストのからだと血とにあずかる礼典とも呼ばれています(Ⅰコリ10・16)。パンはキリストのからだを表し、ぶどう酒はその血を表すことによって、キリストご自身が見えない姿で現臨されます。それは教会の霊的一致を具体的に経験する機会ともなります。(『クリスチャン生活百科』より)
2017/6/18 週報メッセージ
朝位 真士
のために教会を建てられました。教会はイエスを救い主と信じる信仰の告白の上にキリストご自身によって建
てられます(マタイ16・16~18)。
教会の本質は建物(教会堂)でなく、キリストとの交わり、また彼を信じる人々の交わりです(Ⅰヨハネ1 ・3)。
教会の目的は、神との真実な交わりを土台として、全世界の民をキリストの救いに導き入れ、弟子とするこ
とにあります。伝道・信仰教育・いやしなどの活動はすべて、この目的にそってなされるべきです。大宣教命
令(マタイ28・19~20)は、そのような内容を含みます。それはまた、キリストのみわざの継承でもあります
(マタイ4・23、9・35)。教会の重要性についてある神学者は「神を父として持ち、教会を母として持つ」
と表現しました。
2017/6/11 週報メッセージ
朝位 真士
私はこの祈りの答えを見て、私の祈りがいかに自己的であったかを深く反省させられた。確かに祈りは自分の願望を神に伝えることだが、しばしば自分の祈り通りにならないことがある。祈りが答えられないように思われることがある。例えば、教勢を倍加してくださいと長く祈っているが、なかなかその祈り通りには答えられていない。しかし私は考えた。人数が増加することよりも、数が少なくても一人ひとりの信仰が確立されて、大人の信仰者として自立して、自分で聖書を読み、祈り、キリストの証し人として働く人が出てくるように祈っていかなくてはいけないと、神様に示された。祈り通りに答えられなくても、神様の答えは最高の解答であるということである。
94周年記念礼拝を終えて
写真:K/Kさん提供
<6月4日(日)の礼拝について>主の御名を賛美いたします。