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2020/6/21週報メッセージ

牧会雑感

朝位 真士 

  「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときにはわたしの霊を注ぐ。・・・・・・主の名を呼び求める者は、救われる。」(使徒二・一七~二一)

 わたしはペンテコステの日(五月三一日)に二人の夫妻が受洗されたことを心より感謝します。コロナウイルス感染症流行による自主礼拝の最中に受洗されました。私の伝道者生涯の中で、いろいろと感動的な場面がありました。人々の不安と恐怖の中で、神様は私達クリスチャン並びに求道者の方々に、まさしくグッド・ニュースを届けてくださいました。

 その感動が冷めやらないうちに、私は月一回の病気治療で、二人の主治医と看護師たちに証しをする機会が与えられました。一人の女医はカトリックの信者で、診察の時は必ず信仰の話で長びきます。私は患者ですが、時々立場が逆転して、ドクターの方が私に信仰のアドヴァイスを求めてこられます。私は牧師として先生のカウンセラーの立場となり、信仰と実社会との関連、家庭的な問題、信仰の話に花が咲きます。私は病気のことを忘れるくらい楽しい一時をもっています。また十数年来の主治医の老医師との会話でも、信仰の話に花が咲きます。ご家族は信者で、先生はまだということですが、大部心が解けて、求道心が与えられています。先生のために祈ってください。私の病気も小康状態です。お祈りください。

2020/6/14週報メッセージ

新型コロナウイルス感染拡大に伴う「緊急事態宣言」解除にあたって

                                                              朝位 真士

  教団より5月29日付で報告がありました。

  教団としては4月10日付で「新型コロナウイルス感染拡大防止に関する声明」を公表し、「極力、教会に集めない方法で礼拝をささげることを講じてください」など4項目についてお願いをいたしました。上記の「お願い」については所期の目的を一応達したものといたします。今後、それぞれの教会、伝道所のご判断で、徐々にあるいは段階的に通常の活動の回復をはかっていかれることと思いますが、なお以下の諸点についてご配慮ください。

 (1)第1信でお伝えしましたように3密(密閉、密集、密接)を避ける方法で、礼拝やその他の集会を行ってください。また、換気と消毒にはくれぐれも留意をお願いいたします。

 (2)主日礼拝や大きな集会は、時間差で数回に分散して行うことも1つの方法です。

 (3)これまでのデータから、高齢の方、基礎疾患のある方は、感染によって重症化する確率が高いことが分かっています。体調の変化などがみられた場合は、礼拝などには出席されず、自宅で過ごされることをお勧めしてください。

 (4)今回の感染拡大によって、教会の内外で傷つき、痛みを負った大勢の方々がおられます。その方々への愛の配慮をいたしましょう。

 私はこの報告を聞いて、大変複雑な思いにかられました。たしかにウイルス感染予防に最善の注意が必要です。教会も個々人も必要です。私自身は高齢であり基礎疾患を持っています。私の個人的見解は、主の御用なれば、1日も長く牧会・伝道をさせていただきたいということです。主の御心を祈るものであります。

「聖霊による命」2020.6.21 説教要旨

朝位真士

 今日はローマ8・1~11節を学んで行きましょう。この8章は律法の下からの解放。内住の御霊の働き。勝利の凱歌。米田豊先生は

1~2キリストにある自由。1罪に定められることのない生涯。2いのちの御霊の法則による罪と死の法則からの解放。3~4律法の要求を満たすキリストの贖い。5~13肉的な人と霊的な人。5~7肉の思いと霊の思い、8~9肉におる者と霊におる者。10~11

聖霊の内住と、その霊魂と肉体に及ぼす影響。12~13肉に従わず霊によって生きる生活。14~17神の子たる者の特権。18~22

今の時の苦しみと、全被造物のうめき。23~25からだがあがなわれることの望み。26~27御霊の助けととりなし。28~30

摂理に関する神の御旨と、選びに関する神の目的。31~39キリストによる勝利の叫び。31~34神の保護、選び。キリストのとりなし。

35~39愛、神の愛による勝利、永遠の完全。8章の主題は「御霊、御霊」である。大別すると、私達の生涯に関するいのちの御霊(2~13)、私達の資格に関する神の子たる霊(14~17)、私達の苦しみ関する望みト慰めの霊(18~25)、私達の弱さに関する祈りの霊(26^27)、28節は、神はどのような苦痛や患難も、摂理の内に(万事を益となるようにして下さり)(28)、かえってそれによって(御子のかたちに似たものとしようとして)(29)いる。31節以下は8章の結論である。

8・1~11節を見て下さい。この8章は別の注解者によると、全体を貫いているのはキリスト者の自由の宣言であり、それはさらに4つの部分に分かれている。1~11節は聖霊にあるキリスト者の生、12~17子たる身分、18~30終末的自由への希望、31~39勝利の喜びの歌、と区分することができる。

今日の1~11節は聖霊にあるキリスト者の命である。この箇所は「キリストによる新生」について語っています。ローマ7章は律法下にある人間の困難な状況が語られていますが、8章は聖霊に生かされる新しい生活が示されています。律法からの解放は、キリストが人間をさまざまな掟に縛られた生活から解き放ち、立ち上がらせ、前進させていく力を伴うものでありました。人間を外側から縛る律法ではなく、内側から導く霊による生活を論じたのがこの8章です。8・1節を見て下さい。2節はその理由です。イエス・キリストに結びつくときに、霊的生命の原理が力強く働いて、人間を、破滅させる罪と死の原理から人間を解放すると言うのであります。この8・1節はパウロが特に愛して使用した信仰用語です。人間がキリストの人格的な力に覆われ、キリストの愛と命に包まれた状態を示しています。

私達がキリストの手の中にある、キリストの中にいる、in Christであります。詩139・7~9にあるように私達がどこへ行こうと、キリストの愛の中、キリストの命の中にあります。これが「キリストにある」ことであり、これを認め、受けることが信仰であります。3節を見て下さい。

 このキリストによって、罪と死の法則(律法)が打ち破られ、神の命の霊が働く過程が語られています。この点を理解するために1つの例を挙げたいと思います。種痘するとき、天然痘の病原菌が直接私達の肉体を侵すと、私達の肉体はそれに抵抗することが出来なくて、顔かたちが崩れたり、死ぬ場合もあります。しかし、人間より体力のある牛に感染させると、病気にはなりますが、やがて体の抵抗力によって、病原体を打ち負かして健康に戻ります。そのときに牛の体内に出来る「抗体」を人間の体内に移す「種痘」によって、人間も天然痘に対する抵抗力を得ることができます。イエス・キリストの人生と十字架の死は、人間の内に宿るあらゆる罪の力をキリストが引き受けられた状態であります。特に、十字架の死は、人間が神を離れ罪に死ぬ、その死の力にキリストも吞み込まれたことを示しています。しかし、我々にとっては絶望である死も、キリストにとってはおわりではありませんでした。主は3日目に甦られました。このキリストを死人の中から甦えらせた力、「神の力」「聖霊の力」であります。罪による死の力に打ち勝ったキリストの霊的抗体である聖霊を受ける時、私達はこの力によって、罪と死の力に勝ち、新しく生きる者であります。このようにパウロは、イエス・キリストによって、罪と死に至る「肉に従って歩む道」から永遠の命に至る「例に従って歩む道」への転換を説いてきましたが、キリストの十字架と復活による救いの完成は、キリスト者の実生活においては、終末の完成に向かって進行中だと考えています。キリスト者は、原理的には霊的人間として生きていますが、現実的には「霊に支配と肉の支配」の葛藤の中で、ルターが言う「義人にして同時に罪人」としてしかし霊的人間としての成長の希望を持って生きています。8・11節を見て下さい。

キリスト者の希望を未来形で書いたのであります。

結び

もう1度ローマ8・1~11節を見て下さい。

この素晴らしい神様の大きな恵みの中にあるということを、わたしたちは確信したいと思います。それが、わたしたちのすべての悔い改めや献身の根拠であります。パウロ今日のところでは、この事実、わたしたちが御霊を確かに宿している。そうであるならば、わたしたちは御霊の世界の中に入れられているのであります。この御霊の法則的な確かさによって死の体から必ず救われるのであります。このことを信じ、また感謝したいのであります。祈ります。

「感謝すべき福音」2020・6・14説教要旨

朝位真士

今日はローマ7・13~25節を通して「感謝すべき福音」と題して聖書を見て参りましょう。この箇所全体を通して聞こえてくるのは、キリストにあって義とされた人間の雄々しい戦いの声ではなく、実に惨めな罪の奴隷のうめき声である。

1・18-3・20において、パウロは神の怒りの下におる人間の罪について述べている。しかしそこに描かれてるのは罪の支配下でうめき嘆く人間ではなく、罪の中にありながらなお自ら高ぶる人間の姿であり、更にその状態をよしとする倒錯した心であった。

そのような人間の姿は、福音の光に照らされて初めて明らかにされる。7・7―13では、罪は神の律法や戒めを通してそのいとわしい

姿を現わすほど邪悪であることが示されたが、それに続く箇所でパウロは、生きながら地獄を経験した人間のことを語っています。

 今日のローマ7・13~25節を見て下さい。この13~23節まで二律背反を語っています。パウロは、律法は、聖なるもの、正しいもの、また善なるものと言い、さらに、この段では、霊的ものであると言った。このことを記憶しておくことは、ここにあるパウロの自己分析についていくのに役だつのである。次に、ここに見る事柄は、キリストと出会って、罪のゆるしを与えられた後のパウロの自己分析であることである。なぜなら、このような思い切った自己分析は、キリストの光なかである。そのことは、24節と25節からわかるのである。

キリストを信じる者は、その信仰によって罪がゆるされる。しかし、罪がゆるされ、神との関係が、正常にされるのは、あくまでもキリストの中においてである。しかし、キリストを信じる者は、キリストに免じて神との正常な関係に立たされるにしても、キリスト者の中身は、やはら、まだ「古いわたし」なのである。キリスト者は、義とされた者であると同時に罪人であると言うことがキリストの中にある者に対して言いえられるのは、ここに述べた理由である。

キリストの中にある「わたし」は、霊的な律法、すなわち、神をみなもととしている律法をよろこび受けるはずなのだが、現実のわたしは、肉につける者であるからそうはしないとパウロは告白する。キリストを知っても体質の改善は、全面的に完成したわけではない。まだ「肉のもつ特有の傾向をもっている」ので、「罪の下に売られた者」として存在する。

しかし24~25節を見て下さい。勝利は約束されている。人間失格の叫びである。自分で自分を救うことができないのに、自分で救おうとすれば、死ぬよりほかはない、それは、死に勝ちをえさせることである。ところがここで、人間理性では説明のつかない救いがキリストからきたのである。だから、パウロの言葉は、簡単である。

しかし、その言葉は、勝利者の凱歌である。万歳の叫びである。「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」といっただけである。ギリシャ語では、「感謝、神に対して、イエス・キリスト、わたしたちの主によって」の順序である。

キリストの御業を証する御方は、聖霊である。感謝は、聖霊の証に対し反射的におしだされる。父なる神が、その感謝をおうけになる。そして、イエス・キリスト、私達の主こそ、救いのみわざの実行者である。だからキリストを通路として、「わたし」の感謝と讃美とは、父なる神の御前にささげられる。ここに三位一体の神のそれぞれの役割をのぞきみると共に、「わたし」は、このような生ける神の御手のうちにあって、この方に応答しているのだという確信をもたらされるのである。

この神にしてはじめて、罪の支配に対する勝利を得ることが出来るのである。罪と死と悪魔と三つが上げられ、人間をほろびに導く恐るべき力として知られているが、父と子と聖霊なる神は、この力の上に立って悪の力を克服したもうのである。「あなたがたは、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」とイエスは弟子達を勇気づけられた。パウロが彼の問題に悩み抜いて、主から与えられた導きもこれであった。すなわち、この世にある限り、キリスト者は二律背反を体験する。しかし、罪の律法は、キリストによって、骨抜きにされている。牙のない毒蛇である。大胆に自分の罪を認め、これを告白し、また、それ以上に大胆にキリストを信じ、神の御心に従う事こそ、」キリスト者の行くべき道である。これは、ルターが、メランヒトンに宛てた手紙の一節の内容であるが、パウロの線に立っているものであることは、だれにでも、解るところである。

結び

 もう1度ローマ7・24~25節を見て下さい。この14~25節は神の律法と罪の法則が語られています。

パウロのこの議論によって、「律法」がそれ自体「罪ではない」と言うことは確かに明らかにされ、「律法は良いものであること」が明らかにされました。しかし「律法」は、私たちをこの内部の渇藤から「救う」ことについては無力であることも、明らかになりました。律法は罪を目覚めることに有効であります。その罪がひとつの法則性さえ持っていることに目覚めさせることに有効であります。しかし、その手強い、法則性さえ持っている「罪」からわたしたちを解放する「救い」の力は、掟にはありません。

パウロは24節で、「私は何という惨めな人間なのだろう」と叫んだのではありますが、これは決して、自分の中に内部分裂があるから「みじめ」だという叫びではありません。私の中に善い事をしたいと言う思いもあれば、しかし実際には悪い事ばかりすると言うことを、彼は「みじめ」だと言っているのではありません。そんなことであれば、ギリシャの文化人でもローマの文化人でも皆言ってきたのであります。

パウロがここで本当に自分のみじめさを告白しておりますのは、救ってくれるはずの「律法」に「救い」の力がない、と言うことを知ったからです。「いのちに導く律法」が、「罪」を目覚めさせるには力がある、「罪の法則性」を知らせることにも有効なのに、その力からわたしを解き放ってくれない、「律法」だけでは救われないという事実にパウロはぶち当たっているのです。神様が人間に与えて下さった宗教、「これを行え、さらば生くべし」と言って下さったその「律法」が救うことについては無力だとしたならば、人間はどこに希望を託せますか。「私はなんと惨めな人間なのだろう」しかし、「感謝すべき」ことに、「私達の主 イエス・キリストによって、神は」その無力な「律法」とは違う“恵みによって私達を罪の力から救う、救いを与えてくださったのであります。これが「感謝すべき福音」なのであります。もう1度7・24~25節を見て下さい。

2020/6/7週報メッセージ

緊急事態宣言解除に想う

                                                              朝位 真士

  緊急事態宣言が四月七日に政府より宣言され、五月二五日に解除されました。世界的な新型コロナウイルス感染症流行のため、必然的な処置とは思いますが、約五〇日間のその期間、世界の多くの感染者、死者のことを思うと、本当に大変な時期でした。勿論、解除されたからといって、未だ感染が終息した訳ではありませんので、なお引き続き互いに注意が必要だと思います。教会の集会、特に礼拝が開催できることを感謝しています。さらに三密と手洗い、マスク、換気に注意したいと思います。 教会はこの期間、自主礼拝、各集会は休会、役員会も総会も延期となり教会行事が大変大きな影響を受けました。また経済的にも大変な痛手を負っています。特に生活に困窮しておられる方には私たちにできるお助けができればよいと思います。自主礼拝の期間、多くの方々が賛同してくださり、自宅で礼拝を守られました。またホームページを開設し、ユーチューブによる礼拝の録画配信を三回程、役員の協力で実行しました。慣れないために大変硬くなり、いつもの礼拝がどんなに重要であるかということを認識しました。この間、二人の姉妹の病気のために祈りの必要性を強く感じています。

 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」(Ⅰコリ一〇・一三)

「初代教会のキリスト者生活」2020.6.7  説教要旨

朝位真士

 今日は本来であれば、桜ヶ丘教会創立97周年記念チャペルコンサートで、毎年岸義紘先生をおよびして、特別集会を開催するところですが、ご存知のようにコロナウイルス感染症流行のため4月12日イースター礼拝より自主礼拝を勧めている関係上、三密を防ぐ為岸先生には申し訳ありませんでしたが、今回に記念特別礼拝を中止させて頂きました。皆さんも残念だと思いますが、現状は仕方のないことです。そこで、今日は初代教会のキリスト者の生活を聖書使徒2・40~47節を通して、2000年前の信者の生活に思いを馳せてみたいと思います。

 聖書使徒2・40~47節を見て下さい。ペテロは多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲がった時代から救われよ」と言って勧めた。とあります。この世は、神の創造の正しい目的から外れて、罪のために不信仰、不従順となった時代であるとは、パウロ、ヨハネの思想にも見られる(フィリピ2・15)2・41その日1日で、3000人が受洗し、彼等は専心、42節使徒達の教えを守り福音の奥義と信仰の訓練を与えられた。ここに2・41~42節の中で4つのことが語られています。1・使徒たちの教えを守り。2・信徒の交わりをなし(コイノ二ヤ)。3・共のパンをさきユダヤ教の風習によって、家の教会では、食物を持ちよって共同の会食をした。はじめに感謝の祈りをささげて後、パンをさいてわけ、イエスと共にした食事のことを追想した。後、これが記念として行われ、会食と別に聖餐の礼典となった。4・祈りはかれらの共同生活を支配する、大切な要素であった。以上4つは、初代教会の礼拝と、組織の内容を明らかにしている。こうして教会は、新しい共同体として発展した。次に2・43~47節を見て下さい。最初の信徒の教会生活が語られています。43節に恐れが生じたとありますが、これは神に対して畏敬の念を持つことは、信仰を一層強固にする。そして使徒達によって多くの不思議な業としるしが行われていたのであります。特に癒やしの奇跡を行った(5・12~16)ことは、著しい特色のある業であった。そして彼らの所有物はみな、神の恩恵の賜物と考えていたから、44節「すべてのものを共有し特に貧しい信者の窮乏を支えるためには45節「財産や持ち物を売り、そのお金を使徒達を通して、公平に分配した。こうした相互扶助の共産生活は、彼らが愛の精神をもつて自発的に行ったのであり、聖霊の賜物を受けた彼らの信仰の発意であった。使徒達は、かつてガリラヤにおいても、イエスと共に、このような生活を送ったことがある(ルカ8・3)。しかし、この共産生活は、エルサレム教会以外には行われていなかったようであります。このような生活の中に、彼等は、聖霊による「喜び」と真心をもって46節日々心を1つにして信者の家々である教会に分かれ集まって、使徒たちの教えをうけ、共に祈り神を讃美し、パンをさき記念の聖餐と、食事を共にし、共同の愛餐を行った。また、彼らは敬虔なユダヤ人と同じく律法を守り、エルサレムの宮の日々の礼拝に、出席することも忘れなかった。彼らの信仰と、愛の実践生活は、一般に人々からは好意をもたれ、救われる者が、日々彼等の仲間に加えられていった。

結び もう1度2・40~47節を見て下さい。ここでウイリアムバークレーによるとここに初代教会の特徴を見ることが出来ます。

1・学ぶ教会

2・交わる教会

3・祈る教会

4・敬虔な教会

5・何かが起こった教会

6共有の教会(44-45)

7・礼拝する教会(46)

8・喜びの教会(46)

9・好意を持たれる教会

初代の教会では、神の民に魅力が備わっていたのである。

私達は教会成長のためにどうするかあれこれ考えるよりも、まず教会としてどうあるべきかを検討することが大切である。桜ヶ丘教会創立100周年に向かってお互いに神様から知恵を頂くためにお祈りをしていくましょう。

2020/5/31 週報メッセージ 

ペンテコステの恵み

                                                                     朝位 真士

  今日はペンテコステ礼拝です。二〇〇〇年前の初代教会の誕生を記念する日です。聖書使徒二章一七節、「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」とあります。一九九四年四月に私共夫婦と高校生の息子と中学生の娘の四人で、マンション教会である桜ヶ丘教会に西海静雄、満希子先生の後任として赴任させていただき、素晴らしい役員、信徒、求道者の方々に支えられて今日まであることを感謝いたします。

 私は二〇〇〇年九月、前任地の曽根集会所の献堂二十周年記念にフミ子牧師と招かれました。その時「私を強くして下さる方のお陰で」というテーマで、フィリピ四章一〇~一三節のテキストを通して、私の救い、召命、献身、北九州復興教会と曽根での一九年間の恵みを語りました。特に会堂建築二回、復興教会新会堂と曽根会堂の建築、共同牧会、信者の方々と約四十日間八千戸に個別トラクトを配布したこと、曽根で苦労したことが恵みでした。私共の辞任後、曽根担当教師が一〇名近く赴任しました。私共が復興教会と曽根集会所の二つの教会の牧師を全うすることができたのは、皆様のお祈りの支援と共に何よりも神様の恵みが大であったと今でも感謝しています。

 桜ヶ丘教会も二六年目を迎えています。いつまで御用できるかわかりませんが、人間的な思いとしては、主が支えてくだされば二〇二三年の百周年まで全うできたら感謝です。それには教会員の皆様との愛と祈りと忍耐がなければなりません。「人の心には多くの計画がある。しかし、主の御旨が堅く立つ」とあります。主の御心が最優先されなければなりません。とにかく、コロナウイルス感染症が早く終息すること、そしてもう一度皆様と礼拝堂で礼拝や諸集会が守られることを祈るのみです。主に栄光を帰しつつ。

「初代教会の誕生」2020・5・31 説教要旨 

                       朝位 真士

今日はペンテコステ(聖霊降臨節)の礼拝です。使徒2章14~21節を通して。ペテロの説教を見ていきましょう。この2章は聖霊降臨の状況が記されています。2・1~4節ペンテコステにおける聖霊降臨、5~13群衆の驚き、14~41ペテロの説教,42~47当時の初代教会の信者の生活と礼拝が記されています。弟子たちは主の約束を信仰の雄一の根拠として、祈りに祈って10日間も祈り続けた。キリストを十字架につけたエルサレムの町の真っただ中において、滅び行く魂に福音を説く、主の復活をあかしして、聖霊の力の必要を痛切に感じて、忍耐を持って祈った。そのために(一緒に集まって)(心を合わせて)一致の祈りを捧げた(1)神はこのような祈りに必ず答えられる。今日の教会が、その使命と責務を深く自覚し、このような熱心さと忍耐と一致をもって祈るならば、必ず証の原動力である聖霊が下ります。五旬節は原名そのままにペンテコステとも

言われ、また聖書には別名「七週の祭り」とも言われている(出34・22)。安息日の翌日の初穂(復活の初穂なるキリストの予表―1コリ15・23)を献げる日より七週過ぎた50日目に新殻の素祭をささげる日で(レビ23・15~16)。この日に聖霊が下り、教会が誕生された。主の復活から50日目に教会が新しく形成せれることが、このように律法の中に模型的に予告されたのである。

使徒2・14~21節を見て下さい。ここでは聖霊降臨に関するヨエルの預言(2・16~21,ヨエル3・1~5)

p1425。が成就するのは、世の終わりの大リバイバルの時であるが、ペンテコステの日にその予表的成就があつた。聖霊降臨はキリストの復活と昇天の結果で、聖霊を受けるということは、すべて神に召され、悔い改めて罪ゆるされた人々に与えられる約束である。この恵みの時代における私達が信仰によって受けることのできる特権である。今日教会に必要なのはこの聖霊である。きよめる聖霊、また聖霊の力である。

もう1度2・14~21節を見て下さい。この箇所は全体を通じて、旧約聖書と新約聖書にあらわれている大いなる主の日の基本的内容を教えています。ここではヨエル3・1~5節から自由に引用したものである。ヨエルは、メシヤの来臨とイスラエルの信仰復興に関して語っているが、その信仰復興は聖霊の注ぎによって起こると言っています。その預言が、実に今実現したのだとペテロは解説している。神の霊が人間に与えられるというのは、決して当たり前の出来事ではなく、そこには異常現象が起こったりもする。この新約時代には天変

地異が起こることも予告されている(使徒2・19~20)。これは特に、主の再臨の時に起こるものと見ることができます。しかし、その混乱の中でも、「主の名を呼ぶ者は,みな救われる」(21)との約束が与えられています。すなわち、天地宇宙がその根底より揺り動かされる時にも、神により頼む者、主イエス・キリストを信じている者には救いがあると言うのです。

結び

この2・14~21節は、旧約の預言者ヨエルの預言が成就したこと。すなわち、メシヤ時代が到来したこと。22~28節はイエスこそ旧約で預言されたメシヤであること。すなわち、イエスの復活によってメシヤとしての資格があること。29~35節は、旧約のダビデがメシヤではなく、イエスが復活と昇天と聖霊の注議によって、真のメシヤであることが実証されたこと、彼らがみなその証人であること。ヨエルはいつ頃の預言者であるか判明していませんが学説によるとペルシャ時代の末期紀元前400年から333年頃の預言者と言われています。ヨエルとは(ヤーウエーは神)という意味だそうです。ペルシャ時代が滅んで、その後神はユダヤ人の全ての人々に(霊)を注がれる(ヨエル3・1)これがヨエル書の信仰の根本であり、このヨエル書の預言が、新約聖書では「聖霊降臨」の預言として引用されていることは良く知られていることであります。(使2・17~21。ヨエルの預言は、神が世の終末の時に全ての国民に対して行う審判を説いたものであるが、ペテロは、今や旧約の預言の時代は終わって、キリストによって始まる終末の時代がきたのであると見ています。

預言、幻、夢は、聖霊に満たされた時に与えられる賜物であって、性や年齢や、地位、男女の僕や境遇によって、区別されることはない。また天に奇跡、地にしるし、の天変地異が、キリストの再臨の前に起こる(マタイ24・29)。主の大いなる輝かしい日は、すべての人の目にあらわとなる、主の審判の日である。太陽の光は消えて暗やみとなり、月は血の色を呈して、やがて地上に血を流す大虐殺の来るエルサレムの滅亡の預言の型を呈している。こうしたたとえは、旧約の預言者エゼキエル、イザヤ、アモス等も用いている。そのとき、主の名を呼ぶ者は、みな救われるであろう。終末の預言において救われる者は、「残れる者」である。ペテロは、この「残れる者」をイエスを信じ、御名を呼び求める少数の群れと見たのである。

今日洗礼を希望しておられる方は皆救われます。ハレルヤ!感謝であります・

「律法は聖であり正しい」2020・5・24説教要旨

朝位 真士

 今日はローマ7・7~12節を見ていきましょう。米田豊先生は7~25節は律法によってはきよめられない事。7~12節は律法の目的。律法と罪の関係。13~14律法と罪とわたしの三者の関係。15~24内住の罪のための煩悶。25上救主の発見。25下律法の下にある実際の状態。と分解しています。

 7節以下12節を見て下さい。7節以下では(それでは・・・律法は罪なのか)(7)と、(では、善なるものがわたしにとって死となったのか)(13)との2つの問い提出して、それに答える。まず、律法とはいかなるものかを述べて、(聖なるもの)(正しく、善かつもの)(12)また(霊的なもの)(14)で、その目的は罪を示すにあることを説き(七)律法の下にあっては罪が活動するもので(9)、本来は人を生かすかためにあたえられた律法(ガラテヤ3・11~12)が、かえつて人が罰せられることを述べている(10)。人の生来の罪は、(戒めによって機会を捕らえ)人を誘って罪を犯させ、ついに死に至らせる(8、11,13)。ローマ7章は、「福音が律法から解放をもたらすもので」あることを教える者でありますが、今日の箇所では「律法」とは何かここでパウロは律法そのものが悪しき者、間違ったものであるかのように考えることはハッキリ否定しています。7・12「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものである。」と語っている。「律法」という言葉は日本のキリスト教の術語であって、他ではあまり使われません。英語ではLAWで、「法律」と同じ言葉です。聖書において用いられている場合は、神の法律、神の掟という意味が強いので、神が与えてくださった人間生活のルールであります。このルールにそって生活する事によって、人間として訓練され、堅実な生活を築くことができるのであります。もう1度7・7~12節を見て下さい。ユダヤ人が、生まれますと物心の付くときから、親から読み書きを習いあるいは言葉を教わりますその言葉、その文字は、聖書の掟であります。だからユダヤ人がものが言えるようになって最初に言える言葉は、釉薬聖書の律法の言葉であり、彼らが字を書けるようになる最初は旧約聖書の掟の文章でありました。ところがユダヤ人は、男子13歳から神の戒めを自分自身の責任でことごとく守る責任を請け負う1人前のユダヤ教教徒として成人式「パル・ミツワ」、“戒めの子`という意味でありますが、これを迎えるのであります。それはそのころにならなければ暗記していた神の戒めの意味が分からないからであります。私達クリスチャンは、決して、神の戒めを首尾よくまもり果たす事によって、神様から義とされて救われるのではありません。そのような手続きから解き放たれております。わたしたちはただ、自分が無力であることを、キリストを私の救い主として信じますと言えば、その信仰によって、恵みによって救われます。

結び

 もう1度ローマ7・7~12を見て下さい。ここまでの事柄を要約すれば、律法は、もともと、神のみまえにおける人間にいのちにいたる行為の規準を与えられる者であるのに、「古いわたし」に接蝕するときは、かえって、死に導く結果をもたらすことになってしまうのである。これがパウロにいつわりのない告白からひきだされる結論である。12節を見て頂きますと、パウロは、この段で、「律法」と「戒め」とをならべ、相互の関係を示してくれる。律法は総括的な表現であり、戒めは、律法と特定の部分出関係する。言葉を換えて言えば、戒めが集まって律法を構成するといえるのである。律法も戒めも聖なるものであるということは、律法も戒めも、共に神にぞくし、神より出で、神にぞくし、神のためにこの世のものとくべつされていることを意味しているのであります。しかがって、これらは、神の側に立つものであって、罪の側に立つものではなく、したがって、罪のそとにあるのである。さらに、律法及び戒めが正しいと言うことは、それらは神のみこころと一致していて、人間の行為に対して規準となりうることを示しているのである。これらのものが、善なるものであるとは、悪と何のかかわりをもたず、むしろ、積極的に、われわれを、刑罰と死とをもたらす悪から遠ざけるように強要するだけの倫理的な力をもっていることをあらわしている。このように、律法と戒めとは、「聖」「正」「善」として性格づけられるものを本質としていることがわかるのである。

2020年度桜ヶ丘教会 特別礼拝のご案内

6月7日(日)10:30~  創立97周年記念礼拝・チャペルコンサート 講師 岸義紘先生  ※誠に残念ですが、中止とさせていただきます。岸先生には、毎年創立記念特別礼拝においでいただいています。感謝とともに、次年度開催できることを願いつつ、祈ります。

新型コロナウィルス感染症の拡大に伴い、国から緊急事態宣言が発出され、5月25日に緊急事態宣言は解除されました。なお、大都市東京都では、段階的に自粛要請の内容が見直されている状況です。

当教会においては、緊急事態宣言の発出、自粛要請に伴い一部特別礼拝・集会日程については、とても残念ですが中止等の変更もしております。ご確認ください。自粛要請の段階的な解除に伴い、5月31日の日曜日「ペンテコステ礼拝」については、可能な範囲で、共に捧げる事を祈りつつおります。なお、計画している特別礼拝を、今後予定どおり開催できますことを願い、祈っております。

以下の日程のとおりです。

1 5月31日(日)10:30~ ペンテコステ礼拝   
※原則自宅での礼拝をお守りいただきます。 受洗予定の方がいらっしゃいますので、少人数で礼拝を捧げる予定です。
2 6月7日(日)10:30~ 
創立97周年記念礼拝・チャペルコンサート 講師 岸義紘先生  ※中止とさせていただきます。
3 10月18日(日)午後2時~4時
 ジャズコンサート・高田光比古バンド
4 11月1日(日)10:30~
召天者記念礼拝:天に召された信徒の方々を覚えて礼拝を捧げます。
5 12月20日(日)10:30~
クリスマスチャペルコンサート ベアンテ・ボーマン先生、ルリ子先生
 ●上記10月から12月の特別礼拝については、新型コロナウィルス感染症の感染拡大等状況を踏まえ、開催方法等を検討の上、その都度お知らせいたします。