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2020/11/8 週報メッセージ

家族伝道に期待する

朝位 真士 

  「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16章31節)

  フィリピの獄屋でパウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、突然大地震が起こり、牢の土台が揺れ動き、看守が責任を取って自害しようとした時に、パウロが看守に語った言葉が、右記の聖句です。その時、看守が救われて、自分も家族も皆すぐに洗礼を受けたという劇的な場面です。

 1923年、初代板井康裕牧師がアメリカから帰国し、東京都世田谷区桜新町の自宅で東洋宣教会の福音使として伝道を開始しました。その後、同区駒沢に集会所を設けて駒沢ホーリネス教会となり、渋谷駅前の桜ヶ丘に家を借りて渋谷聖教会となりました。1942年、日本基督教団設立と同時に教団に加盟して桜ヶ丘教会となり、1944年、板井先生は杉並区下高井戸一丁目の借地に家を購入して疎開しました。1968年、西海牧師が赴任して、1975年、下高井戸四丁目のマンション、パールハイツ桜上水に移転。1994年に朝位が赴任し、1997年、現在の教会に移転しました。

  ここで私は桜ヶ丘教会に関係の皆様に、主にあってお願い申し上げたいと思います。私たち一人ひとりが家族伝道を徹底していかないと教会の存続は危機を迎えると思います。自分の家族のために毎日5分でも10分でも祈ってください。キリストの証し人、キリストの伝道者として、言葉もしくは生活を通して福音を語り、終末期のこの時代、一人でも多くの方々をキリストの救いに導いてください。もちろんそれは神の働き、聖霊の導きです。そのために毎日祈ってください。祈りは不可能を可能にします。「人にはできないが、神にはできる。」神は何でもできます。今いる方々全員で神の国、天国へ参りましょう。

主は大牧者 2020/11/1

朝位真士

「主は大牧者」2020・11・1説教要旨

今日は詩篇23編1~6節を通して聖書を学んで行きましょう。これは感謝と平安に満ちた詩篇であります。主は羊飼いとして私達を世話し、守り、導いて下さる。信仰者は神の家の客人としてだけでなく、家族の一員として、あつかわれるということであります。この詩篇は言わば、ダビデの生涯を通じての信仰の喜びを要約したものといえます。それでは具体的にはどのような状況が挙げられるだろうか。サムエル記下17・27~29p509という出来事を挙げる事が出来るでしょう。また詩篇27編はこの詩篇を理解する上で参考になります。この小さな詩篇はイエス・キリストにおいて大きく花開いたということができます。イエスは「良い牧者」として、羊に永遠の命を与えて下さった(ヨハネ10章、1ペテロ2・25)。内容区分1~3節主は羊を養い導いて下さる。4~6主は羊を守り喜ばせて下さる。

詩篇23編を1~6節まで見て下さい。ある注解者はわれらの良い牧者。その与える全ての恵み1~4牧者である神の恵みの讃美。5、敵前の饗宴の恵み。6、恵みと憐れみの継続の確信。ダビデは若い頃牧者であったので(サムエル上16・1)、牧羊者としての経験があり、ここに自分と神との関係を牧者と羊との関係たとえてその恵みを讃美(1)しています。旧約聖書では神と民との関係を、新約聖書では主と教会との関係をたびたび牧者と羊との関係をたびたび牧者と羊との関係にたとえています。(詩80・1イザヤ40・11、ヨハネ10・11,14、へブル13・20、1ペテロ2・25)。この牧者たる神こそ恵みの無尽蔵の財源であります。(1終、フィリピ4・19)、みどりの野とは食物は豊にあり、心気をさわやかにする所、憩いの汀とは渇く事を知らず、休息するによい所で、主はそこで我々を養い、休ませたもう(2)。彼はわたしたちを救って新生命を与えたもうのみではなく、その後の信仰生活においてもわたしたちを正しい道を歩ませ(3)、どんな試練困難にも、また実際死の瀕した時にも共にいまして力づけ(4始め)、懲らしめの中にも慰め(4終)、迫害の中でも恩恵を喜びと楽しみを満たしたもう(5、油も酒も聖霊の型(1ヨハネ2・27,エフェソ5・18,詩篇140・14)。こうして私達は現世では終生恩恵と憐れみを受け、天国では永遠に幸福を受けるのであります(6)。この詩篇は何回読んでも、味わえば味わうほど恵みを感じる詩篇であります。3000年の昔牧者であったダビデが感激をもって深い恵みの経験を歌ったこの詩によって、どんなに多くの人が慰められ励まされた事でありましょう。悲しむ者は慰められ、乏しい者は信仰が与えられ、死の岸辺に立った者は勝利の力を得た。これは詩篇中の詩篇であります。主は「良い羊飼い」で(ヨハネ10・11、14)、その羊であるわたしたちにすべての物を供給し(1)、安息と(2)、生命を与え(3)、叉私達が迷うことがないように先に立って導き(3)、試練の暗黒の中にも共にいまして守りたもう。それ故彼に従う者には恐怖がなく(4)、かえつて慰めと(4)喜びと楽しみがあり、幸福な交わりとあふれる恵みを受けます(5)、この世でも天国でも永遠の恵みと神の国の幸福とを受ける(6)。

結び

もう1度詩篇23編を見て下さい。主に信頼する者の人生が常に恵みで満たされ、溢れるほどであるという感謝の表現であります。羊の喜びは、敵からの守りを具体的に示されます。6節は、羊が安全な囲いの中に守られるように、主に従う信仰者は主の家の中に住む事が出来、休息を与えられるということであります。「いつくしみ」とは良いことという意味で、健康や必要が備えられという事と考えることができる。「恵み」とは神の愛と守りの実感であります。それがいつもわたしを追ってくる。「主に家」とは、ダビデにとってはエルサレムの主の家であり、私達にとってはイエスをかしらとする教会であります。主の羊は、繰り返し主の家に帰って来るし、叉主の羊の安息は主の家にこそある、という意味であります。

例話―1人の婦人伝道師105歳で召天されたかた御主人も牧師であられたが3人の子供を残して戦死されたけれども、その婦人伝道師は70年間教会に仕え、いつもこの詩篇23編を口ずさんでおられ、とくにご主人が戦争に行く時にイエス様に祈りなさいと言われていつも主に祈って3人の子供達を育てて、彼女がいつも言っていたことは「「わたしには何も欠けることがない」と言われていたそうであります。その教会の牧師がいっていました。その婦人伝道師の働きで多くの方々が救われ、悩みを解決されたそうです。

2020/11/1 週報メッセージ

ハイデルベルク信仰問答より

朝位 真士 

  第1問 生きるにも死ぬにも、あなたの唯一の慰めは、何ですか。

  答 わたしの唯一の慰めは、生きるにも死ぬにも、わたしの体も魂も、わたしのものではなく、わたしの真実の救い主イエス・キリストの所有であるということです。

   主は尊い血をもって、わたしのすべての罪の代価を完全に支払ってくださり、わたしを悪魔のすべての支配から贖い出してくださいました。主は、今も、天にいますわたしの父のみこころでなければ、わたしの頭から髪の毛1本も落ちることのないように、いな、すべてのことがわたしの救いに役立つように、わたしを護っていてくださいます。それゆえ、主は、ご自身の聖霊によって、わたしに、永遠の生命を保証し、今からのちは、主のために生きることを、心から喜び、進んでそうすることができるようにしてくださるのです。(春名純人訳)

  第2問 この唯一の慰めの中で、あなたが喜んで、生き、また死ぬことができるために、あなたはいくつのことを知らなければなりませんか。

 答 三つのことであります。第一に、わたしの罪と悲惨がどんなに大きなものであるかということ。第二に、わたしは、どのようにして、わたしのすべての罪と悲惨から救い出されるかということ。第三に、わたしは、どのように、この救いを神に感謝すべきかということです。

 私はこの問1、問2の答を見てくると、私たち自身の唯一の慰めは真実の救い主イエス・キリストの所有であるということと、私たちが知るべき三つのことをもう一度確認することができました。キリスト教の信仰問答の模範であるハイデルベルク信仰問答をもう一度この機会に学ぶことは、キリスト者として必要なことであると感謝しています。

2020/10/25週報メッセージ

コロナウイルス感染症のこの時期に

朝位 真士 

  コロナウイルス・パンデミックは中国から始まり、現在全世界に広がっています。人類の歴史は黒死病やペストなど感染症との闘いで、前の世紀においても1918年にアメリカから流行したスペイン風邪がありました。当時の総人口の4分の1ほどにあたる5億人が感染し、4千万人が死亡したとされます。

 私共の国も東日本大震災とそれに伴う原発事故に見舞われました。それから十年足らず、復興の証としてオリンピックを開催する直前にパンデミックに襲われるとは、誰が予想したでしょうか。私は最近、『コロナウイルスとキリスト』(ジョン・パイパー著)という本を読みました。この中に、神はコロナウイルスを通して何をしようとしておられるのかについて記されていました。著者は道徳的な恐怖を目に見える形で示します。

  神は、コロナウイルスの大流行によって、ほかのどのような大災厄の場合とも同じく、神を軽んじる罪が、どれほど道徳的に恐怖すべき、霊的に醜悪なものであるかを、目に見える物理的な形で世界に示しておられる。「神は、私たちが御怒りを受け(ない)・・・・・・ように定めてくださったからです。」(Ⅰテサ5・9)私たちも、ほかの人々と同じように、病や災害によって死ぬ。しかし、キリストにある者らの場合、死の「とげ」は取り除かれている(Ⅰコリ15・55)。「死ぬことは益です。」(ピリ1・

22)を去ることは「キリストとともにいる状態になること」です(ピリ1・23)。神が物理的世界を呪いの下に置かれたのは、この世の病や大災厄に見られる物理的に恐怖すべき現実を、罪のすさまじさが生々しく示された写し絵とするためではないか。物理的な悪は、神への反逆という道徳的な暴力を指し示すたとえ話であり、劇であり、道しるべなのである。その苦難は、訓練であって、滅びではない。「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子にむちを加えられる」(ヘブル12・6)のだから。

「希望の源なる神」2020・1025説教要旨

朝位真士

 今日はローマ15・1~13節を見ていきましょう。この15章は一致と自己放棄。種々の満たし。霊的負債。1~13信仰の弱い者に対する愛の態度。1~4弱者のためのキリストのような自己放棄。5~7キリストにならってのキリスト者の一致。8~12ユダヤ人と

異邦人の一体となっての讃美。13喜びと平安の満たし。14~33節パウロ自身に関する陳述。14~16本書を記した理由。17~21パウロの使命と働き。22~29ローマ訪問の希望。30~33祈りの要求、祝祷。と分解しています。

ローマ15・1~13節を見て下さい。一致は聖霊の与えられるものでありますが、謙遜、柔和、寛容、愛を持って、互いに忍び合い、これをも守らなければなりません。(エペ4・2~3)。そのために、福音的自由を会得した信仰の強い者も、弱い者と歩調を合わせるために、自ら弱い者のようになって一致しなければならない。(1)、この15・1~6節声を合わせて、パウロは、12章以下に、キリスト者の實践をとりあげ、キリスト教共同体に属するキリスト者1人1人のあり方、世俗的権威に対するキリスト者の態度、食べ物の問題、特定の日を重んじる問題などについて指示を与えた。15章にいたって、彼は、すべてを言い終わったことの喜びを抑える事が出来ないので、これを祈りとしてあらわし、全キリスト者が勝利を称える大合唱に加えられるように願ったのであります。キリスト者の勝利は、十字架を負う生活の中にあります。強い者は弱い者の重荷を担うのであります。これは、キリストとの生命的なつながりを持つことであります。苦しみなくて栄冠はありません。これが、キリスト者の生活の原理であります。重荷を負うには、忍耐と慰めとを必要とします。この2つは、聖書と神から出て来ます。忍耐は、ただ忍従という意味だけでなく、大胆と堅実という要素をも含んでいる語であります。ここに、希望の基礎があります。希望は勝利の希望であって、キリスト者の心は、ここに焦点を合わせられ、大合唱となって、勝利の歌が歌い出されるのであります。これこそ、神をあがめることにほかならない。これが、パウロの第

1の祈りであります。7~13節は全人類の参加。キリストもわたしたちを受け入れて下さったように、あなたがたも互いに受け入れて、神の栄光をあらわすべきであります。とパウロは語っています。パウロは、キリストを媒介にする一致の問題をさらに具体的にしています。キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられたという救済史を今1度明らかに示し、救いが、全人類に及んでいることを印象づけようとしたのであります。そして、パウロは、詩篇18・49,申命記32・43、詩篇117・1、イザヤ11・1,10,の順序で、ギリシャ語70人訳聖書を引用して、イスラエル人と異邦人とは1つの旗の基に集められ、神への讃美に全員が参加するという予言を示しています。もう1度12節を見て下さい。信仰は、キリストのみわざはキリストの独走ではなき、父なる神のみこころと一致する御業であることを知るのであります。

結び

特に15章13節をみてください。この祈り中には、希望の出所なる神、この神に対する信仰、信仰の中で与えられる喜びと平和(平安)とが、筋道正しく献げられています。さらにこれが聖霊によって、神との生命的な繋がりによる希望となるようにと、パウロは祈るのであります。信仰はともすれば、人間のわざと考えられがちであります。信仰が、神の御業への反射運動で、神の賜物にほかなりません。これを確認され続けるためには、聖霊の力添えがなければなりません。聖霊は、キリストを証し、神は天にいまし、人は地上にあることを私達に忘れさせたまわないからであります。このようにして、希望は、与えられるものであることが、はっきりしてくるのであります。もう1度15・13節を見て下さい。今日のテーマはここより題をつけさせて頂きました「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」わたしたちも、「神の栄光のためにキリストが受け入れてくださる」(15・7)という恵みにあずかった者として、信仰と、希望と愛を持って、自分たちの置かれた場所で神の栄光をあらわしていきたいものです。希望の源である神、まさに恵みの源泉です。主を信じ、信頼するという信仰のパイプからあらゆる喜びと平和・平安が流れ出ます。そして聖霊の導火線によって希望に満ち溢れるようになるのです。祈りましょう。

2020/10/18 週報メッセージ

ハイデルベルク信仰問答より                                              朝位 真士 

  ハイデルベルク信仰問答は、入門講座で学ぶべきテキストです。私の教会では部分的にしか学んでいませんが、大変信仰の手助けになる問答です。第1~第2の問は唯一の慰めについて。第3~第4、第11問は人間の悲惨について。第12~第85問は人間の救いについて。その中で、第26~第28問は父なる神について。第29~第52問は子なる神について。第53~第64問は聖霊なる神について。第65~第68問は聖礼典について。第69~第74問は聖なる洗礼について。第75~第85問はイエス・キリストの聖なる晩餐について。第86~第129問は感謝について。その中で、第116~第129問は祈りについて。

 一つひとつを学ぶには時間がかかりますが、各人でハイデルベルク信仰問答を学ばれると、大変信仰が充実してくると思います。私は全部を完全に理解していませんが、部分的にでも学ぶと大変有意義だと思います。例えば、問3~11、人間のみじめさについて。問3~5、罪の認識。問6~8、原罪。問9~11、罪に対する罰。問12~85、人間の救いについて。問12~15、罪責、償い、仲保者。問16~19、真の仲保者(福音)。問20~23、まことの信仰。問24~25、三位一体。問26、父なる神。問27~28、摂理。問29~30、救い主イエス。第31~32、キリスト、キリスト者。問33~34、神の子、われらの主。問35~36、処女降誕。問37~39、苦難と十字架。問40~44、十字架の死の意義。問45~48、復活、昇天、臨在。問49~50、昇天と支配。問51~52、かしらなるキリストと再臨。問53、聖霊。問54~56、教会、聖徒の交わり、罪のゆるし。問57~58、体の甦り、永遠の生命。問59~61、信仰による義。問62~64、信仰とわざ。問65~68、説教と聖礼典。問69~71、洗礼。  問129まで恵みが満載で、信仰生活の手引書です。                            

「神の国は義と平和と喜び」2020・10・18説教要旨

朝位 真士

 今日はローマ14・13~23節を通して聖書を学びましょう。このローマ14章は信仰の弱い者に対する態度。自由と愛の道。意見より愛。分解(信仰の弱い者に対する愛の態度)1~6相互の信仰を裁いてはならないこと。7~9私達の生も死もキリストのためであること。10~12ひとりびとり皆キリストのさばきの座の前にたつことを思って、人を裁くべきでないこと。13~21食べ物と愛の道(食物によって兄弟をつまずかせてはならないこと)22~23信仰によって行うべきこと。

ローマ14・13~23節を見て下さい。ここでは一口で語ると信仰生活の中心と周辺を語っています。この14・13~18節は愛の配慮が語られています。食物に関して、パウロは、もう1度、これを取り上げて、基本的な考え方をうちだしています。彼は、消極的な面と、積極的な面との二面を語るのであります。消極的な面について、彼は妨げになる物や、つまづきとなる物を兄弟に前に置かないように「決意」するのだという。しかし、こうすることの動機は、互いにさばき合う事の原因となるものを除きさるということであります。神が、命じておられないことは、お互い愛によって決定すべきことであります。食べ物のことで、愛が失われたら、これは重大なことであります。積極的な面については、パウロは、私は、主イエスにあって知りかつ確信しているといって、それ自体、汚れているものは1つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのであると述べた根本問題は何か。「食べ物」と「わたし」の関係ではなくて、「キリスト」と「わたし」の関係であります。キリストこそ、信仰に強い者のためにも、弱い者にためにも、死んで下さったのであります。教会の中で、キリストから無縁のことであれば、それはもはや教会ではなくなる。それは社交団体か、禁欲修練場となるでありましょう。しかし、教会史は、キリストの教会がそのあるべき姿を失って、教会が老化現象を起こすのは、キリストから目を、他に向けるときであることは、実例の示していることであります。教会は、三位一体の神との出会いの場所であって、「あなた」と「わたし」と言う生命的な関係を持ち続けるところであります。

ローマ14・17節を見て下さい今日はこのところから題をつけました「神の国は、飲食ではなく、義と、平和と聖霊における喜びである」(口語訳)「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(新共同訳)。とパウロがいう意味は、神の国は、キリストのみという一本の線に繋がれているということであります。キリストなしには、義も平和も、聖霊における喜びも考えられないからであります。わたしたちの全身全霊をキリストに向けようとするとき、私達の内に容易ならぬ抵抗を覚えます。これに打ち勝つ者は、「わたし」ではなく、「キリスト」であります。キリストはこのような抵抗の中は御自身を投げ込みたもうたのであります。そしてこの抵抗の中で、死ぬ事によって、抵抗を無力にしたもうのであります。否、その抵抗を滅ぼしたもたのであります。だからキリストの勝利は、全力をあげた悪魔の抵抗のただ中で、得られたものであります。キリストの勝利の中で、キリスト者の奉仕の生活は、営まれるのであります。14・19~23節をみてください。ここでは信仰の筋が語られています。中心的な事、根本的な事が、力強く推進されるならば、周辺の問題は、中心部には入って来ない。神と関係のある中心問題を第一に考えることが、重要であります。「わたし」の生活川筋の流れを、激しくすることによって、川岸によどんでいる沈殿物は、押し流されてしまう。信仰生活の中で得た知恵によって、肉食や、飲酒や、その他、弱い兄弟をつまづかせないように、また駄目にしないようにすることは、勿論良いことであります。ただし、この信仰の体験を他人に向けないで、自分自身に向ける事が大切であります。信仰の決断こそ、日常生活において持たれるキリスト者の態度であります。

結び

もう1度ローマ14・17節を見て下さい。ここで信仰生活の基本姿勢を提示しています。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」義とは神との正しい関係であります。「平和」とは人と人との関係が愛に根ざしして完成した状態であります。「喜び」とは自分が神と隣人と愛で結ばれる時に味わう思いであります。主イエス・キリストは最大の掟として、神と人との縦の関係(神への愛の関係)と隣人同志の横の関係(隣人愛の関係)という「人生の座標軸」の確立を教えられました(マルコ12・28~34)p87ここには神の国の基本の姿が示されています。パウロもここで、神の国の基本的な生き方から、教会生活の具体的なあり方を示す。

2020/10/11週報メッセージ

ハイデルベルク信仰問答より                                              朝位 真士 

  ハイデルベルク信仰問答は、入門講座で学ぶべきテキストです。私の教会では部分的にしか学んでいませんが、大変信仰の手助けになる問答です。第1~第2の問は唯一の慰めについて。第3~第4、第11問は人間の悲惨について。第12~第85問は人間の救いについて。その中で、第26~第28問は父なる神について。第29~第52問は子なる神について。第53~第64問は聖霊なる神について。第65~第68問は聖礼典について。第69~第74問は聖なる洗礼について。第75~第85問はイエス・キリストの聖なる晩餐について。第86~第129問は感謝について。その中で、第116~第129問は祈りについて。

 一つひとつを学ぶには時間がかかりますが、各人でハイデルベルク信仰問答を学ばれると、大変信仰が充実してくると思います。私は全部を完全に理解していませんが、部分的にでも学ぶと大変有意義だと思います。例えば、問3~11、人間のみじめさについて。問3~5、罪の認識。問6~8、原罪。問9~11、罪に対する罰。問12~85、人間の救いについて。問12~15、罪責、償い、仲保者。問16~19、真の仲保者(福音)。問20~23、まことの信仰。問24~25、三位一体。問26、父なる神。問27~28、摂理。問29~30、救い主イエス。第31~32、キリスト、キリスト者。問33~34、神の子、われらの主。問35~36、処女降誕。問37~39、苦難と十字架。問40~44、十字架の死の意義。問45~48、復活、昇天、臨在。問49~50、昇天と支配。問51~52、かしらなるキリストと再臨。問53、聖霊。問54~56、教会、聖徒の交わり、罪のゆるし。問57~58、体の甦り、永遠の生命。問59~61、信仰による義。問62~64、信仰とわざ。問65~68、説教と聖礼典。問69~71、洗礼。  問129まで恵みが満載で、信仰生活の手引書です。                          

「主イエスキリストの為に生きる」2020・10・11説教要旨

朝位真士

序 今日はローマ14・1~12節を学んで行きましょう。この所では信仰の弱い者に対する態度、自由と愛の道。意見より愛。ここでは信仰の弱いも音に対する態度として1~6相互の信仰を裁いてはならないこと。7~9私達の生も死もキリストのためであること。10~121人1人皆キリストの裁きの座の前に立つ事を思って、人を裁くべきではないこと。13~21食物と愛の道(食物によって兄弟をつまずかせてはならないこと)。22~23信仰によって行うこと。14章は、互いに人を裁いたり、食物その他ささいな事のために人をつまずかせたりしてはならない。8章の恵みの体験した者は12~13章の愛の生活を送り、また14章では信仰の弱い者に対して寛容でなければならない。ローマの信徒への手紙は使徒パウロが書き残した手紙の中で、最も長いだけでなく、その思想的雄大さと深さにおいて、他に類を見ません。新約聖書の最高峰であります。パウロは14~15章と2つの章を割いて、当時のローマ教会にあった2つのグループの対立について、意見をのべ解決を図ろうとしています。これは現代の私達にも教えられることです。ここではキリスト教会のあり方が問題になっています。キリスト教信仰にとって教会は大切な意味を持っています。日本基督教団の信仰告白においても「教会は主イエス・キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり」と告白されています。キリストを信じると言うことは、キリストの体である教会の1つの枝として生きるということ、ぶどうの木に1つの枝にされることであります。しかもその教会は、今ここで私達が生きている、ここ教会がキリストの体であり、またそう呼ばれるにふさわしい姿を取るように命じられています。そして教会には、人間の集団として持たざるを得ない、さまざまな問題が突き付けられています。それをキリストの体としての教会にふさわしいものにしていく課題として受け取るべきであります。

本 ローマ14・1~12節を見て下さい。ここでは信仰の弱い者と強い者が1~4節に語られています。信仰の弱い者というのは、「信仰に対して弱い者」つまり、キリストを信じて、キリスト者の仲間入りはしたが、信仰理解において、また、信仰の生活化において未熟な者のことであります。こういうキリスト者を、交わりの中へ全面的にいれよとパウロは言っています。そして信仰の弱い者となる原因となる考え方を、いたずらに

批判するにとどまってはならない。先ず第1に食べ物の問題。信仰生活について未熟な者は、肉食をしてはいけないと考えて野菜だけを食べる。しかし信仰のことが、よくわかっている者は、何をたべても良いと考えています。神が主人で、強い者も弱い者も、この主人に聞き従うべきであります。弱い者を強い者に変化させるのは、主人である神であります。人間にはできないことも、神には出来るのであります。

結び

もう1度ローマ14・1~12を見て下さい。キリスト者の生活は、主にあって死に、主にあって生きる生活であります。キリストこそ、キリスト者生活全体を支配ささるお方でありますから、キリスト者相互のさばき合いは、筋が通りません。キリスト者1人1人は、主イエス・キリストに対して、自分の言い開きをするべきであります。「自分に言いひらき」とは、どういうことでしょう。それは、自分が、主イエス・キリストの神の座を侵して、弱い者を、批判したこと、また強い者を非難したことに対して、申し開きをするということであります。愛の欠けていたことに対する自己批判ともなるのであります。パウロは寛大な立場の方に共鳴しています。信仰の弱い人は教会に来られた場合、兄弟愛をも持って受け入れなければなりません。避けなければならない3つの態度があります。1つはいらだった態度を避けなければなりません。2つは嘲りの態度を避けねばなりません。3つは軽蔑の態度を避けねばなりません。14・2~4節には他人の見解に対する寛容が語られています。14・5~6同じ目的にいたる異なった道。14・7~9孤立の不可能性。3つの面から人は隣人と絶縁することは出来ない。1・過去から隔離することが出来ない。2・現在から孤立することは出来ない。3・未来から孤立することは出来ない。まして、人は到底イエス・キリストから絶縁することは出来ない1・この人生において、キリストは永遠にいける存在でありあります。2・死でさえもその現在を打ち破る事は出来ない。14・10~12神の裁きにある人間。あがなわれた目的は「神の栄光のために生きる」ということであります。その言行、動作、生死の目的はすべて神の栄光のためにするのですから感謝することが出来るのです。

ローマ14・7~8節をみて下さい。

「愛の実践」2020・10・4説教要旨

朝位 真士

 今日はローマ13・8~14節を通して聖書を学んで行きましょう。このローマ13章は社会人としてのキリスト者の義務が述べられています。1~5権威者に服従すべき義務、6~7納税の義務、8~10律法を完成する愛、11~14キリスト再臨の切迫とその準備。本

 ローマ3・8~14節を見て下さい。良い市民、国民である資格は、隣人に対する愛と、自分の生活における聖潔である。8節以下にこの2つを記しています。8節をもう1度見て下さい。(愛は律法を完成する)。十戒も、神を愛し人を愛することに総括される(マタイ22・37~39)。愛は神と人とに対して果たすべき義務で、この愛のほか、何人にも負債として果たすべきものはない。愛があれば(律法を完成する)(8-10)。私達は律法の下にある者ではないが、ここ愛の黄金律の下にある者である。次に、きよい生活をする理由の1つは、キリストの再臨が近いことであります。私達は(時を知っている)。目を開いて聖書の上から時代の兆候を見れば、今はまさに冷淡、怠慢、不信仰の惰眠からさめるべき時である(11)。いまや世はいよいよ暗黒を増しているが、それだけ明け方が近づいているのであります。(12)。キリストは「義の太陽」であられ(マラキ4・2)、キリストが来られる時、夜は開け、輝く黄金時代がきます。目を覚まして準備していなければならない。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル12・14,第1ヨハネ3・3)。(やみのわざ(すなわち罪に行為―エペソ5・11~12)を捨てて、光の武具を着け)なければならない。第1テサロ二ケ5・8)。武具は戦闘に参加するためのものであります。ただ自分のきよめを維持していれば良いというのではありません。きよめを維持するにも、悪魔の誘惑に対して戦う必要がありますが、この武具を受けて主の聖戦に参加するべきであります。(主イエス・キリストを着る)(14)とはキリストをわたしの義、わたしの聖として受けること(第1コリント1・30)であるとともに、(光の武具)としてきることであります。

結び

もう1度13・8~14節を見て下さい。特に8~10節は愛の実践が語られています。今日の題はここよりつけさせて頂きました。キリスト者の負債は、愛だけであります。だから、キリスト者は、一刻一刻に、愛の負債を支払らなければなりません。愛が実践されるところ、そこに、律法が、完全に履行されます。姦淫、殺人、窃盗、貪欲等を禁止する十戒も、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」という一句に含まれます。これが、自分を一番愛することであり、自分がするのと同じようにするようにすすめ、それを実践することが隣人を愛することになります。自然のままの人は、自分を憎むようにしない。しかし、キリスト者は、キリストの中で、神にそむく自分を憎む事が出来るのであります。すなわち自分を愛することになります。律法の要求は、自然的人間の本性、すなわち、自己愛に反すると言うことが出来、従って自分を放棄する愛、アガペーなる愛こそ、これを満たすと言うことが出来ます。11~14は時を知るアウグスティヌスを新しい生活に導いた聖句は、実にこれでありました。彼は、お酒と好色と、エロスの暗黒の生活と絶縁し、キリストにある真昼の生活に入ったのでありました。これは、主イエス・キリストを身につけることであります。キリストを着物とする仕方に2つある。1つは、キリストの死と復活とを信仰によって、受けて神の御前に立つ資格を与えられる時であります。これは義の衣であります(マタイ22・12)。いま1つは、聖化の資格において勝利者キリストの中で、勝利を与えられつつ前進することであります。(エペソ6・13以下)には、防御と攻撃との両面に用いられる武具が記されています。キリスト者は、敗北の別名ではありません。むしろ、キリストにあって勝利者であり、悪の力に対して果敢な勇士であります。ここでまとめますと1・聖書が告げる愛の負債は一般的な人間感情に根ざすだけでなく、もっと深い愛の経験から出ています。それは主イエス・キリストによって恵みが与えられ、罪を許されると言う、破格の愛を与えられていることに由来します。2・この愛に生きる事は「主イエス・キリストを身にまとう」ことになります(13・14)3・キリスト者はこの愛の業をなすに当たって「時を知る」(13・11)ことにより、一層の励みが与えられます。