榊原紀惠子 のすべての投稿

2024/6/30 週報メッセージ

フー・ポン信者

川﨑 信二 

   故 原田 謙先生(更生教会前牧師)が信仰生活についてよくこんな事を述べておられた。

 「聖書を読むときにフーポン信者になってはいけませんよ。“常に聖書に親しみ”、常に・・・これが大事ですよ」 

 フーポン信者とは、先ず聖書を取り出してフーと息を吹いて表紙の埃をはらう。次にポンっと机に置いて、「今日はどの御言葉でいこうか」と聖書をペラペラと捲る(だいたい真ん中を開けるのでイザヤ書が多い)。まるでおみくじのように開く。たまたまマタイ27章5節だった。

 「そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」

 こりゃいかん! 別の箇所を開くとルカ10章27節が目に飛び込んできた。

 「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 えっ?これって???

 こういう聖書の読み方をする人をフーポン信者と呼ぶそうだ。私もフーポン牧師ならないように気をつけたい。

そもそも聖書は毎日通読することが基本で、行き当たりばったりの読み方は上記のように危険が伴う。勿論そういう読み方でも、読まないよりはずっと良いと思うが・・・・。

 暗唱聖句など、前後の文脈と関係なく、そこの一句だけを取り上げて座右の銘としたり、今日一日の糧とする場合がある。それ自体悪いことではないが注意が必要だ。

例えばCS生徒に提示する際は、そこだけでなく全体を良く読んでから選ぶべきである。どんなに良い言葉が並べられていても建徳的ではない文章があるからだ。

 例えば、ヨブ記を見ると「その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる。」(ヨブ28:23)

聖句そのものは暗唱聖句に相応しく聴こえるが、友人達がヨブの過ちを責めるための言葉でもある。聖書の言葉を、人を裁くために用いてはならないし、知らずして使う恐れもある。それゆえ、前後の流れを読みながら、謙虚に、聖書の主張に耳を傾ける姿勢が大切である。

2024/6/23 週報メッセージ

ホーリネス系教会の被弾圧をおぼえて

川﨑 信二 

今年は、1942年6月26日の、政府による宗教弾圧から82年の年です。この出来事は、ホーリネスの群の信仰の遺産であり、忘れてはならない教会の歴史です。

世界中で権威主義国家が台頭し「信教の自由」が脅かされている時代にあって、主イエス・キリストこそ私たちの神であり、王であり、救い主であり、やがてこの地上に再び来てくださる方であると大胆に証し続ける者でありたいと願わされています。((以下ホ群資料より)↙

ホーリネス弾圧事件は、第二次世界大戦中にホーリネス系の教会が政府から弾圧された、日本のキリスト教史上、プロテスタント教会に対する最大の迫害である。

牧師補であった小山宗祐が1941年3月23日に獄中死した事件は、翌年のホーリネス弾圧の前触れだった。

1942年6月26日早朝、ホーリネス系の教職者96名が逮捕された。これが、第一次検挙である。1943年2月に第二次検挙が行われて、第一次と第二次を合計すると、日本基督教団に併合されていた第6部(旧日本聖教会)60人、第9部(旧きよめ教会)から62人、教団に加わらず宗教結社であった東洋宣教会きよめ教会12人、合計134人が逮捕された。これを受けて教団は、「軽々しき行動を慎み、暫く成行きを静観すること」「皇国民たるの自覚に立ち、臣道の実践を志すこと」を求めた。

また、日本基督教団の幹部らは、当局のホーリネス検挙を歓迎した。第4部管谷仁主事は、「彼らの熱狂的信仰は我々教団では手の下しようもないくらい気違いじみているため、これを御当局において処断して下さったことは、教団にとり幸いであった。」と述べた。山梨教区長小野善太郎は、「大局的見地からいえば、こうした不純なものを除去することによって日本基督教団のいかなるものかが一段に認められて、今後の運営上かえって好結果がえられるのではないかと考え、当局の措置に感謝している」と述べた。

1943年4月、文部省は宗教団体法に基づき、第六部と第九部の、教会設立認可の取り消しと教師を辞任させるように、日本基督教団の富田満統理に通知。日本基督教団は、教会の認可取り消しと、教師の自発的な辞職を求める通知を行い、日本基督教団内のホーリネス系の教会は強制的に解散させられた。

殉教者は、菅野鋭、小出朋治、斉藤保太郎、辻啓蔵、竹入高、池田長十郎、佐野明治らが獄死し、75人が起訴された。全員が上告して、戦後免訴扱いになった。 Ω

2024/6/16 週報メッセージ

日本ホーリネス教団の戦争責任告白を以下抜粋してご紹介します。弾圧の経緯がよく分かります。(川﨑信二)↙

 ……戦前の私たちの教会は、宗教法案や宗教団体法案による国家の宗教への介入や、神社参拝の強要に対して、信仰の戦いの意志を明確にもっていました。

  しかしそれにもかかわらず私たちの教会は、日本の軍国主義と、それを支えた天皇制については、それを批判することなく、むしろ支持をしました。教会は、当時の日本が犯した侵略という過ちにも気づかずに、天皇の名による戦争を「聖戦」と呼び、「皇室中心主義」や「敬神尊王」などと言って、その過ちを信仰の事柄と交錯し、支持をしました。そして、私たちの教会のアジア諸国への宣教は、宣教がその純粋な動機であったとは言え、その働きは日本の植民地政策に追随するものでありました。

 さて、昭和十五年戦争下、私たちの教会は、治安維持法と宗教団体法によって不当に弾圧され、解散を余儀なくされました。そしてその信仰のゆえに命を奪われた牧師たち、裁判で命懸けの証言をして信仰を貫いた牧師たち、解散させられたために、社会的にも経済的にも困難な事態に陥りながらも信仰を守り続けた牧師家族や信徒たちのように、試練を乗り越えた先達の信仰の戦いによって、今日の私たちの教会があることは、神の守りの聖手が加わっていたためであると信ずるものです。

 しかし、それ以前に私たちの教会は、リバイバル(信仰復興運動)の経験によって進展しつつも、その後、再臨信仰で躓き、教理の理解の相違から、同信の友と決別しました。そして、その後の宗教団体法案には反対の姿勢をもはや取り得ず、教会合同の流れに組み込まれていきました。しかも、それ以前から教会合同の気運があったために、宗教団体法を楯にした国家権力の圧力に屈したにもかかわらず、教会はそれを信仰的な決断であると理解しました。こうして成立した日本基督教団に、私達の教会も参加しました。またその過程において、同法によって天皇神格化を進める国家の圧力に屈し、再臨信仰に関する教義を変更しました。そして国策に従い、宮城遥拝や君が代斉唱などの国民儀礼や神社参拝を行い、さらに戦勝祈願、皇軍慰問献金、半島人徴兵制度実施感謝式の開催などの戦争協力を進めました。

 また、弾圧に直面した時、私たちの教会は、自分たちの信仰が治安維持法に問われていることに気づきませんでした。それは、天皇を崇敬する愛国者を自負していたために、治安維持法のいう「国体の否定」に抵触するとは思っていなかったためであります。すなわち、キリスト教信仰の中に天皇制を受け入れていたのでした。そして、天皇に仕えるのが日本人の本分であるという、「国民生活」という文を機関紙に載せ、天皇制へとすりよってしまいました。

 拘禁された牧師たちの中には、裁判のために、それまでのキリスト教信仰を清算し、祖先崇拝などをして日本人として生きると言う者たちや、神社参拝に積極的な姿勢を示す者たちもいました。また、私たちの教会は、再臨信仰が問題となっていることが分かった時、かつて分かれた同信の友の再臨信仰との違いを強調し、自らの身を守ろうとしました。それは、弾圧時に日本基督教団がホーリネス系教会を切り捨てたという自己保身の態度と変わらぬものでした。このような中で、信仰を捨てた信徒もおりました。……Ω

私たちは被害者あり加害者です。忘れないようにしたいものです。

2024/6/9 週報メッセージ

新生、聖化、神癒、再臨

川﨑 信二 

『四重の福音』と呼ばれるホーリネス系教会の信仰告白とも言える教義がある。6月は強調月間となっている。

信仰告白といえば、使徒信条やニカイア信条といった基本信条(世界信条)があるのに、何故4つだけピックアップして強調するのか。私には疑問である。むしろ、4つどころか、日本基督教団信仰告白に示されているように大事なことは更に多くあるはずなのに、わざわざ4つにまとめるとはどういうことか。他の告白(教義)はどうでもよい、というのか。それ故に「四重の福音」について分からない、というのが私の正直な気持ちだ。

 これは決して「四重の福音」を否定しているのではなく、私の頭では理解できないという意味である。分かる日が来るよう祈り求め続けたいと願わされている。こんな者をこの群れに置いてくださる寛容さに感謝している。

私なりに思うのは「四重の福音」とは単なるピックアップではなく、「個人の救い」に関わる大事な事柄。

四重とあるように、4つは一体で切り離せない大切なもの。私たちの救いに直結する神のわざ(福音)、といえる。

新生は信仰義認、聖化は聖霊を受けて成長する、神癒は死からの復活。どれも福音の根幹である。この中で「再臨」は今後起きる未来の恵み。この再臨信仰こそ私たちの希望である。そしてこの再臨信仰が、かつての天皇制の下に行われた宗教弾圧のきっかけとなった教義である。

再臨信仰が、政治権力で抑えつけようとしても抑えきれないものであり、戦後復興した教会の姿はそれがどれほど大事なものか、を教会の歴史が物語っている。

もし「四重の福音」を「強調」することで他教派と歩めず、分裂や離脱することがあれば、何かが違っているように思う。「強調」より「協調」こそが今の日本基督教団に必要なものではないか。

日本基督教団に留まったホ群の使命は「違い」を強調し、「色」を鮮明にすることよりも「一致点」を見いだし、互いに愛し合う教団の姿こそが今後世に証するものではないか、と思わされている。

2024/6/2 週報メッセージ

「見えない光」 (ヨハネ9:40-41)

川﨑 信二 

 ある日曜日の午後、教会の皆さんと礼拝堂にて上を見上げ、天窓から差す陽の光について語り合いました。

「夏は本当に暑いんだよね」とある信徒さん。

 建物の中に燦々と日の光が注がれるのは有難いことですが、暑すぎると健康面や礼拝そのものにも支障が出るのかもしれません。私はまだ夏を経験していませんが。

 聖書では天から注がれる光は「闇夜を照らすまことの光」(ヨハネ1:5)であり、独り子イエスの栄光です。私たちの罪を白くして救うところの神の愛が、この光に込められているのです。

一方で、光は神の審きとも言えます。隠れた罪を光の前にあぶり出し、晒すのです。使徒パウロはキリスト者を迫害していた時に主の光に打たれて地に倒れました(使徒9章)。

私たちは光に耐えられない生き物。神に直接会おうとしても眩しすぎて見ることさえできないのです。人の罪を審く神の義。そこに神の愛が注がれて初めて光は穏やかな光となる。

神の愛とは御子イエスを天から贈って下さる無償の愛です。故に私たちは光の子として歩むことが許されているのです。

時に、神は人を見えなくさせ、不自由にさせます。本当の光(真理)を見えるようにさせるために、です。

山口博子さん(ゴスペルシンガー)の歌で『時を忘れて』という曲があります。

目を閉じなければ見えない世界がある。

口を閉じなければ言えない言葉がある。

耳をふさがなければ聞こえない声がある。

歩み止めなければ会えない人がいる。

少しくらい遅れたとしても大切なものを

見つけたいから‥‥

道であり真理であり命である主に尋ね求める

時を忘れて‥‥♪                       

2024/5/26 週報メッセージ

「わたしが選んだ器である」 (使徒9:15)

川﨑 理子 

5月は父、息子、姪っ子そして自分の誕生日に加え、受洗記念日がある月で、「おめでとう」「ありがとう」とのメッセージを沢山受け取り、また伝える月だった。

上記の御言葉は35年前に受洗後の学び会で、開かれた箇所である。それこそ沢山の方々から「おめでとう」と受洗の祝福を頂いたのだが、聖書の学びをしてないのは不味いのではと思い、牧師に相談すると、「祈祷会へ来ているから大丈夫。でも、学んでみたい箇所があるなら」と言われ、私は「使徒行伝を学びたい」と伝えた。

新約聖書の「〇〇への手紙」の殆どはキリスト者を迫害していたパウロが著者だったので、パウロを知りたいと思った。自分で読んで気になる箇所を牧師に質問するという学びが始まった。9回目の学びで「なぜアナニアに幻の中で主はサウロのところへ行け、と言われたのかな」と牧師から質問されたので、「ダマスコにアナニアがいたから。」(使徒9:10)と答えた。「そうですね。もう一度理子さん、15節を読んで下さい」「すると、主は言われた。行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」

「この言葉でアナニアは兄弟サウルの為に主がわたしをお遣わしになったと知ったんだね。」と牧師。今思い返してみると普通の会話だ。しかし、質問されたのはあとにも先にもこの一回だけだった。この学びの最後に、「行け。わたしが選んだ器だ」に促されて受洗し牧師になり、今日在るを得ている。今鮮明にあの時の事が思い出されるのは、私を桜ヶ丘教会へ主がお遣わしくださったからだ。

2024/5/19 週報メッセージ

「一人ひとり」そして「一同」と共に

川﨑 信二 

 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。Ⅱコリント13:13

パウロが書いた手紙の最後にある祈りの言葉です。礼拝においては頌栄の後に祈られる「祝福の祈り」、また「派遣の祈り」とも言われています。これは多くの教会で用いられている「使徒的祝祷」と呼ばれるもので、「三位一体の神からの祝福」を祈る形がとられています。

パウロはどの手紙でも相手の祝福を祈って手紙を書き、また相手の祝福を願って祝祷で手紙を閉じています。問題の多いコリント教会の兄姉たちが生活の中に三位一体の神の祝福を意識しながら歩むようにとの思いが込められています。父・子・聖霊はどの教会の祝祷も同じです。

「あなたがた」と「一同」という言葉。あなたがたは「一人ひとり」という意味です。礼拝の祝祷には牧師によって様々な言い方がありますが、聖書ではほとんどの翻訳が「あなたがた一同」となっています。文語訳では「なんぢら凡(すべ)ての者(もの)と偕(とも)にあらんことを。」、前田護郎訳では「皆さんとともにありますように。」となっています。「皆さん」だけではどうしても、皆「ひっくるめて」とか「一緒くたに」という、一括りの響きがあります。

「あなたがた」には、お一人一人のお顔を思い浮かべつつ、お一人一人を大切にする思いが込められています。また「一同」には教会が「ばらばら」にならないで一つになって歩むようにとの思いが込められているのではないでしょうか。

まさに今の状況。全員が礼拝堂に一同で会することのできない状況下にあって、場所は違えど、ばらばらではなく心を合わせる。一つの信仰が試されているような気がします。

私たちは聖日ごとに聖霊の息を吹きかけられて(ヨハネ20:22)それぞれの持ち場へと遣わされます。目に見えない聖霊の交わりの中に身を置くこと、それが最も大切なことであると改めて確認させて頂きたいと思います。