榊原紀惠子 のすべての投稿

2025/2/9 週報メッセージ

イエス様によって健康に

川﨑信二 

  「病は気から」という言葉は、気持ち次第で病気にかかりやすくなることを意味します。「気」は東洋医学では身体を健康に保つ重要な要素とされていますが、確かに気分が落ち込んでいると病気になりやすい。仕事等で気を張り詰めてやっと休日となった時に風邪やウイルスに罹患する。年末年始に緊張がほどけ体調をくずすことがよくあります。心配事があると病気が治りにくい等、「気」によって心と身体のバランスが保たれているというのも一理あるような気がします。

節分ではありませんが「わっはは」と笑って鬼を外に追い出す。免疫力をあげると鬼(悪い気や病気)が逃げてゆく。

先月、Mさんが「笑いヨガ」を紹介して下さり、リズムに合わせて「ホ・ホ・ハハハハ×4回 イエーイ!!」笑って、歌って、踊って、何か心と身体が軽くなった感じがしました。

聖書ではイエス様が「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:31-32)と言われています。神の前に健やかな人は一人もいない。神によって真の健康が与えられる、ということでしょう。

 聖書がいう健康とは「信仰的な健康」です。自分一人で頑張って、自分一人で悩んで、自分一人で気を遣い、自分一人で解決する。それは信仰的に不健康な状態です。

 信仰的に健康な人は、全く神に委ね、全く神に任せ、全く神に降伏して、重荷をすべて降ろして生きることです。神から離れて生きることを聖書では「罪」といいます。即ち不信仰の病です。その意味で、この世に健康な人は一人もいません。真の医者は主イエスおひとりです。

 外なる人は滅びても内なる人は日々新しくされます。主の許では永遠の命が約束され、笑顔で健やかに生きることができます。

免疫力やNK細胞、自律神経や血糖値など全く気にせず生きることができる世界があります。罪を自覚して主イエスの救いを受けいれて歩みましょう。

2025/2/2 週報メッセージ

無くならない恵み

川﨑 信二 

 主イエスが行われた奇跡。たった5つのパンと2匹の魚で何と5千人の群集(女性と子どもを入れると1万人以上)を満腹にさせるという、度肝を抜く御業をなさったのです。

 パンが増えた?これはミラクル?マジック? でも、<パンを増やした>とか<パンが増えた>とは一言も書かれていません。私たちはどうしてもこの記事を「パンを増やす」話として読む傾向があります。

イエス・キリストは凄い方だぞ!キリスト教は凄い宗教だ、と世に見せつけるために奇跡を行われたのではなく、「大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深くあわれみ」(34)……つまり目の前で苦しんでいる人を放置できず奇跡を行われた。結果的に奇跡をされたが、これ見よがし、ではない。<増えた>のではなく<無くならない恵み>です。それは、神の愛は変わることなく常に私たちに注がれている、ということです。

 イスラエルが求めていたのは<増える力>でした。ローマ帝国を力でねじ伏せるメシアを求めていました。私たちは世界でキリスト教が力をもって優位に立つことを求めてしまいますが、むしろ、十字架の道を歩まれた主の姿から、身を低くして謙虚に歩む信仰を得させていただきたいものです。神が十字架で死ぬことは最も大きな奇跡です。全能の神が死人を復活させることは簡単ですが、独り子を重罰刑で死なせることは最も辛いことでした。

私たちの罪を赦して救うために十字架という奇跡を成し遂げて下さった主を神として仰いでゆきたいと思います。

2025/1/26 週報メッセージ

人間をとる漁師に

川﨑 理子 

 わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。

                  マタイ4:19

「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」。その時から「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝え始められた。「天の国」は「神の国」であり、「悔い改めよ」とは「回心しなさい」との意味である。いよいよ神の独り子としての主イエスの歩みが始まったのである。

 ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンと兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。

 至近距離で見られながらの作業はどうだったのでしょう。

主イエスの視線を感じながら黙々と二人は漁を続けていた。

さらに進んでその先でヤコブと兄弟ヨハネが舟の中で網の手入れをしているのを御覧になった。

 冒頭の「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」は圧倒的な神の権威に満ちた言葉だった。有無を言わさない権威。それは恐怖ではなく、神の臨在そのものであり、その言葉通りにせずにはいられない神々しさであった。だから彼らは「網」を捨てた。また「舟」と「父親」を残して、イエスに「従った」のである。網も舟も父親も彼らの大事なものであり、生活のすべてだったがそれを捨てた。それ以上のものが主イエスの言葉にあったからである。

主イエスは宣教をひとりではなく、弟子と共に行った。弟子と言っても、宣教のための雄弁な言葉を持っている者ではなく、地方のガリラヤ湖で真っ黒に日焼けした漁師たちだった。その彼らに主イエスは「人間をとる漁師に」と声をかけられたのである。すなわち、わたしがあなたを「新しく造り変える」から「共に行こう、共に生きよう」と。主イエスと共に生きる光栄。この上ない、やりがいのある最高の仕事…。彼らは新しく変えられたのである。

主イエスはこの4人を御覧になった。ルカ福音書では「夜通し苦労したが不漁」(ルカ5:5)で落ち込んでいた、とある。主は仕事で落胆し、行き詰まっている者を見つめ、新たに弟子という職を与えてくださる。

わたしたちも主イエスに見てもらい、造り変えて頂けると信じるなら何と幸いなことでしょう。主はあなたをスカウトしようと、直ぐ近くで見ておられます。

2025/1/19 週報メッセージ

初めに言があった

川﨑 信二 

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネ1:1)

 ヨハネによる福音書は「言」という言葉で始まります。

言はギリシャ語でロゴスと言われ、当時の人からは誰もがよく知っている哲学用語でした。翻訳しにくい言葉ですが、崇高で権威ある根源的な意味が込められています。

この福音書には謎めいた言葉が多く難解ですがその謎が解き明かされた時の喜びは大きい。数学的な未知数をXで表しますがそれが解けた時の喜び。キリストもⅩで表します(Χριστός)。Ⅹが解るとXmasの意味も解ります。「言」がイエスであることが解れば、イエスが神であることも解ります。ヨハネは、イエスが天地創造の前から存在された神であることを伝えるためにこの書を記しました。

 「初めに言があった」。「初めに」とは単なる「時の始め」ではなく、神の決意を表します。神は並々ならぬ決意をもって世を創られた。黙示録にて主イエスが「わたしは初めであり終りである」と告げておられます。主が愛をもって世を創造され、責任をもって万事を締めくくってくださる。実に頼もしい言葉です。この方こそ「言・命・光」なのです。

 

 暗闇は私たちのことです。暗闇が光を理解せず、主イエスを十字架で殺してしまうことを指しています。分からないから殺しちゃった。ギリシャ人はロゴス(言)の意味を知っていてもそれが主イエスだとは分からなかった。ユダヤ人も理解不能でした。

 世は主イエスを理解できない。ヨハネも主イエスの一番近くにいたのに理解できていなかった。放蕩息子の兄もそうです。私も教会の中に住んでいるものの神の愛を理解しきれていません。でも、感謝なことに理解しない民の中にこそ光は輝く。理解しない民を救うために、十字架の光が厳然と輝いています。主は裁き主ではなく、私たちの罪を赦し、救って下さる方です。

私たちは本当の意味で主の愛を理解しているでしょうか。理解できない私のために主は十字架にかけられた。そのことを感謝したいと思います。

2025/1/12 週報メッセージ

新しいぶどう酒

川﨑 理子 

 桜ケ丘教会は以前、毎週礼拝後に愛餐会があったと聞いています。昨年のイースター礼拝後(歓送迎会)に、先月のチャペルコンサート後に、またクリスマス祝会、イヴの茶話会と、4回も皆さんと交わりができたことがとても嬉しく、感謝のひと時を過ごすことができました。

 コロナが5類になってからようやく少しずつ各教会で愛餐会が持たれているようです。もちろん、まだまだのところもあるかとは思います。

教会の愛餐会を暫くお休みして分かったことがありました。誰かが「マルタ」になって下さっていたこと。そして、その業は喜んでなされていたこと。恵みが沢山であったこと。その業はイエス様の愛無しではあり得ないものだということを私自身が気づかされたのです。

 聖書では、イエス様から「わたしに従いなさい」と声をかけられた徴税人レビ(マタイ)がその御礼にもうけた宴会の場面が記されています。集まっていたのは徴税人の仲間と共に律法学者たちもいました。徴税人はローマ帝国に高額な税を納めるためにユダヤ人からお金を徴収する仕事をしていて、ユダヤ人からは罪人と呼ばれ、嫌われていました。主はその罪人と一緒に食事をしたのです。

「わたしたちとファリサイ派の人々は断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」とヨハネの弟子達が問いました。「花婿=イエス様」が一緒にいる間は「喜びの時」だから断食する必要がない。「新しい服=新しい布切れ」を古い服に継ぎ当てても、洗えば新しい布は縮んでしまい古い服が破れてしまう。古い革袋は伸縮性も失われているから、注ぎ込んだ新しいぶどう酒の発酵に耐えきれない。つまり古い考えは新しい生き生きとした命を受けとめきれないのです。主が「罪人を招くために」来られたこと自体が新しいことなのです。すなわち、罪人を審く古い律法と、罪人を救う新しい福音とは相容れないと教えています。神ご自身が救い主としてわたしたちのもとに来られたことは古い約束から全く新しい約束へと転換したことを意味しています。

主は罪人の私を救うために宴を設け、食事を用意しておられます。食事の席にイエス様もおられます。ハレルヤ! (マタイ9;14-17)