聖書箇所 ヨハネによる福音書第4章43節~54節
説教題「あなたの息子は生きる」
お 話 山本修一牧師
讃美歌 139番
聖 歌 156番
聖書箇所 ヨハネによる福音書第4章43節~54節
説教題「あなたの息子は生きる」
お 話 山本修一牧師
讃美歌 139番
聖 歌 156番
神の国に生きる人のしるし
朝位 フミ子
聖書には、主イエスが神の国を婚礼の食事の席に譬えた話があります。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」(マルコ2章19節)断食するのは、悔い改めをすることです。当時、古い宗教的な断食をしている人は、飲み食いしないで、忍耐と根性をもって修行僧のような厳しい禁欲生活をしていたので、暗い顔をして、しかめ面した怖い顔で断食をしていました。それに対して、主イエスと弟子たちは「飲んだり食べたり」していました。だから、古い習慣を守っていた人にとっては、主イエスと弟子たちの顔は浮かれているように見えたのです。人々の目から見ても、主イエスと一緒に食事をしている弟子たちの顔は明るい顔に見えたのです。
主イエスは言われます。「断食は神様の所に帰るためだよ。婚礼の花婿が一緒にいる時のお祝いでしょう。皆が祝福してお祝いしている時は、皆嬉しいに決まっている。神様の所に帰って、誰も暗い顔なんてできない。神様の所に帰ってきたら、皆新しい生き方ができるんだよ。信仰生活は、空威張りや空元気、やせ我慢じゃない。新しい革袋に新しいブドウ酒を入れなさい。神様の所に帰ってきたら、そこには新しい神様が共におられるんだから、古い自分の生き方を脱ぎ捨てて、喜びに生きる原動力がそこにあるんだ。それを素直に受け入れて喜びなさい。婚礼の食事の喜びこそが、神の国に生きる人のしるしだよ。いつも神様の所に帰ってきて、新しい神と共に生きてニコニコ笑っていることが、神と共に生きている人のしるしだよ。断食してしかめ面した怖い顔をしている人は終わっているよ。」
私たちは、礼拝でイエス様と出会い、喜んで生きる力をいただきましょう。笑いが神と共に生きる、神の国に生きる人のしるしですから、ニコニコ笑って、笑顔で生きていきましょう。
悔い改めて福音を信じなさい!
朝位 フミ子
主イエスは「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。聖書によれば、悔い改める人の所に神の国が近づいてきて、神の支配が私たちの深い所の隅々にまで入ってきて、それから私たちの生き方が方向転換して、変えられていくことが始まります。
悔い改めることは反省することではありません。放蕩息子がお父さんの家を出て、さんざん罪を犯して悪の道に迷い込んでしまった後に、お父さんの所に帰ってきたように、悔い改めることは、私たちが神様の所に帰ることです。父なる神様は、私たちが悪の道、罪の中から神様の所に帰ってくることを心から喜んでくださり、帰ってきたら温かく迎えて罪を無条件に赦し、祝宴まで開いて祝福してくださる慈愛に満ちた方です。だから、私たちは悪の道に迷い込んで、罪を犯して神から離れても、いつもこの方のところに安心して帰ってきて、神様の無条件の赦しを得て、癒していただくことができるのです。
イエス様の私たちに対する悔い改めよという呼びかけは、大きな喜びの知らせです。悪の道を歩いていても、罪の支配の中に生きていても、私たちにはいつも帰る所があり、喜んで迎えてくださる神様がそこに臨在してくださるのです。悔い改めることで無条件の赦しと祝福に与ることができるのですから、私たちは暗い顔で悔い改めなんてできません。神の所に帰ってきたら、罪赦されて祝福までしてくださる神様に出会うことになるのですから、私たちの生き方は神と向かい合うように変えられて、そこから新しい生き方ができるようになり、嬉しい気持ちになるに決まっているわけです。
私たちが神の前に悔い改めて神様の所に帰ってくると、そこに神との新しい出会いがあり、神が共に生きてくださり、新しい喜びに生きることができるのですから、この喜びの中に生きる人こそ、神の国に生きている人のしるしになるのです。
聖書箇所 ヨハネによる福音書第2章1節~12節
説教題 栄光のしるし
お 話 山本修一牧師
讃美歌 138番
聖 歌 206番
聖 歌 157番
聖書箇所 ヨハネによる福音書第5章1節~9節
説教題 「憐みの池のほとりで」
お 話 柏 明史 牧師
聖 歌 590番
讃美歌 531番
誘惑と試練
朝位 フミ子
「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、〝霊〟に導かれて荒れ野に行かれた。」(マタイ4章1節)
この「誘惑」という言葉は、誘惑と訳されるだけではなく、もう一つの言葉で訳されます。それは「試みる」「試練」というものです。本当に不思議なことに、誘惑と試練は聖書では同じ言葉で、聖書の文脈によって試練あるいは誘惑と使い分けられている言葉なのです。
誘惑とは、その出来事を通して私たちが神様に躓き、神様への信頼を失って、神様から引き離されてしまうことだと言ってよいでしょう。その出来事が誘惑になるならば、私たちが信仰を失い、教会生活から離れ、神から引き離されてしまうことですから、私たちは神様のおられない世界に生きることになってしまうのです。
反対に試練については、使徒パウロの有名な言葉があります。コリントの信徒への手紙一、10章12~13節で、試練には必ず逃れる道があると語られます。試練には必ず出口があると言われます。試練の先には、必ず逃れる道、出口が用意されています。それがどこにあるのか、それがいつなのか、私たちには分からないことですが、分かっているのは、神様は真実な方であるということです。ですから、神様は私たちに乗り越えられない試練や、耐えられない試練は決して与えられないわけです。私たちは試練の中でも神様に信頼し、神と共に歩み抜くならば、試練を通して、試練を経験する前よりもずっと深く神様との絆が固く結ばれる機会となると、使徒パウロは教えているのだろうと思います。
私たちの人生の経験をふり返れば、私たち人間には、試練と誘惑をあらかじめ区別することはできないことが分かります。私たちにできることは、神さまと共に試練を歩みきったとき、神が備えてくださっている出口を出たときに、神様の守りと導きの確かさを知らされて、神への信頼がいっそう堅くされるということでしょう。
聖書箇所 マルコによる福音書第5章35節~43節
説教題「ただ 信じなさい」
お話 朝位フミ子牧師
讃美歌 286番
聖歌 453番
恐れることはない。ただ信じなさい。
朝位 フミ子
「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」(ルカ8章50節)
恐れるな。これは、恐れるのは不信仰でだらしがないぞということではなくて、聖書では神が共におられることに気づかせる時の言葉です。天使や神様が共におられることを思い出せ、神があなたと共におられるからもう大丈夫だ、何も心配しないで行けということです。ヤイロの信仰が失われないように、主イエスがここで彼を励まし力づけたのです。
人間にはもうどうすることもできない絶望的な現実、死の現実を前にして、主イエスは、諦めるな、最後まで私と一緒に歩き続けなさい、どんなことが起こっても私から離れるな、私について来いと命じられたのです。人間の常識は、結論はもう出たので仕方がない、諦めようというものです。私たちも神の救いが待ちきれないで、すぐに自分の判断で結論を先に出そうとします。しかし人の常識に従うのではなく、主イエスの「私に最後まで従え」との御言葉に従って歩み出すのです。これが信仰というものです。信仰とは、人間が先走って自分の考えで結論を出したくなる時に、そこに踏みとどまって神に信頼し、神の救いを待つということなのです。私たちが、もう駄目だ、もう無理だ、もう何をしても無駄だから諦めようと思っている時に、主イエスは「私を信じる人は、もう駄目だということは絶対にないんだ」と強く呼びかけてくれます。
「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば救われる」ということは、どんなに悲しいことがあっても、恐ろしいことがあっても、心が落ち込んでいても、主イエスから離れないで、最後までイエスについて行くということです。イエスのお力を最後まで諦めないで信じて、お祈りして救いを待ち続けることです。この御言葉に従って神と共に歩んで行きたいと思います。
人を汚すもの
朝位 フミ子
主イエスは言われました。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(マルコ7章15節)ファリサイ派の人たちは、汚れたもの、悪いものは皆外にあって、自分の中、自分たちの内、心の中は清いと思っていました。しかしイエス様は、そうじゃない、外にあるものは皆清いものだ、お前たちの内側にあるものが汚れているんだ、あなたたちの内面、心の中が腐っているんだという話をしたのでした。イエス様は、外にあるものは全部清いものだ、神様がお造りになったものは最初から全部清いものなんだ、それなのに人から出て来るものが人を汚すんだとおっしゃいました。私たちは、いつの間にか、自分の心はきれいだと思っているところがあります。自分の方が正しくて、相手の方が悪いと思っています。しかし、イエス様は、悪いものは皆人間の心の中から出て来ると言われたのです。
ファリサイ派の人は、世間的には立派な人たちでした。自分の内側はきれいだと思っていて、自分はいつも正しいと思っていました。だから、バリバリに隣人のことを裁くのです。自分が神様の側に立って、いつも人を裁くのです。自分の心はきれいで、自分は正しいと思っている人ほど、神様の目から見たら本当に困った人なのです。そういう人に対して、イエス様は、あなたの内側が腐っている、あなたの心の中がどうしようもなく腐っているから、あなたの中に人を裁く心がある、本当に赦されなければならないのは、あなたのその腐った心の中なのだと言われます。
本当に努力しなければならない務めは、隣人を愛する務めです。その務めがズレている私たちは、外からイエス様を心の中にお迎えするのです。毎週の礼拝で、私たちの中にイエス様を迎える務めをしていきたいと思います。