聖書 ルカによる福音書第7章11節~17節
説教題「もう泣かなくともよい」
お話 山本修一牧師
讃美歌 228番
聖 歌 478番
聖書 ルカによる福音書第7章11節~17節
説教題「もう泣かなくともよい」
お話 山本修一牧師
讃美歌 228番
聖 歌 478番
聖書箇所 マタイによる福音書第7章7節~12節
説教題 「求めなさい」
お話 朝位憲義 牧師
讃美歌 527番
聖歌 472番
朝位真士牧師 召天・葬送告別式
朝位 憲義
桜ヶ丘教会の主任牧師、朝位真士牧師は、2022年8月22日午前3時、悪性リンパ腫のために78歳10ケ月で召天しました。
朝位真士牧師は、北九州復興教会曽根教会で19年間、桜ヶ丘教会で28年間、47年間の伝道者の生涯の中で、大切にしていたことは、毎日の祈りによって神との交わりを大切にする、祈りの人でした。また、朝位真士牧師は、今、目の前にいる、一人の人を、ただ一途に愛することに力を注ぎました。病床の中で、朝位真士牧師は「一人の魂のために、永遠の命に導く、そして、一人の魂が、イエス様の所に行くように、祈り、愛し関わることが、伝道者として本当に大切なことである。」と熱く語っていました。
朝位フミ子牧師は、朝位真士牧師を一言で言うと「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケ一・5章16~18節)その御言葉通り、本当にそのままを生きた人であると証言しています。朝位真士牧師は、人が好きな人で、絶対に人の悪口を言わない人、飾らない人、怒らない人、傲らない人、表と裏のない、正直な人、ありのままの人でした。
朝位真士牧師が、生涯、祈りの人、愛の人に生きる生涯に導かれたのは、間違いなく、神様が、朝位真士という人を豊かに用いてくださったからでした。朝位真士牧師は、神様から特に愛されて、多くの人々に、愛されて、最後まで、本当に幸せなキリスト者の生涯を歩むことができました。
朝位真士牧師の厳しい闘病生活の最期は、苦しみながらも、天に召される時には、聖書の詩編23編の御言葉を聞き、お祈りをしている時に、朝位真士牧師の顔を見ると、今までの苦しみが嘘のように、顔が穏やかになり、笑顔になり、安らかで、平安な顔で、すーと、天に召されて行きました。神の国で神と共に生きる人の喜びの顔、平安の顔、安らかな顔でした。天にあって朝位真士牧師の上に、神と共にある平安があるように、お祈りいたしましょう。
朝位真士牧師は、闘病生活の中で、2022年8月22日に、天に召されました。8月24日(水)午後1時30分から告別式が桜ヶ丘教会で執り行われました。
各教会から牧師先生をはじめ信徒の皆様、関係者の皆様が朝位先生の御逝去の報に接し、驚かれるとともに、お元気でいつも祈りの人であられた朝位牧師を覚え、朝位先生とのお別れの時をしめやかに明るい雰囲気の中で、天に凱旋される故朝位先生とともに過ごすことができました。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。テサロニケの手紙第5章第15節~第18節」
聖書 マタイによる福音書 第5章17節~20節
説教題 律法の完成者
お話 朝位憲義 牧師(琴平教会牧師)
病と信仰
朝位 フミ子
人間は、誰でも病を経験すると思います。生まれつき元気な人でも、病気がちの人でも、老いと病と死を経験します。病になると、誰でも、神に早く病が癒されることを必死で祈り、求めるのではないでしょうか?
主イエスの癒しの御手と聖書の御言葉を考え、信仰的に神様と繋がるということを考えていく時に、よい助けになるのは、ヨハネ福音書15章です。主イエスと私たちが一つに繋がって生きていくことをとても分かりやすく書いています。主イエスがお話しになった、有名なブドウの木の譬えです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」
主イエスに繋がっていく人生は、そこに主イエスとの命の交わりが生まれます。主イエスの愛を直接私たちの心と体の中に注ぎ込んでもらい、力をいただくことができるようになります。主イエスの体の中に流れている愛は、天の父なる神様の愛と同じ神の愛です。洗礼を受けた人は、これからも主イエスと一つに繋がって生きていくことができるので、神の愛を主イエスの体を通していっぱい自分の心と体の中にいただいて、神の力で癒していただきながら、良い実を結んで生きることができるのです。 主イエスと信仰の繋がりのある人は、たとえ今厳しい病の中、試練のどん底の中にいて、心が暗く、深く落ち込んでいたとしても、病との厳しい闘いの中にいても、人間関係の難しい状況の中にいても、神との生きた繋がり、生きた交わりがあるので、主イエスの光がそこに射してきて、神の力によって癒されて元気にされて生きることができるのです。神様との繋がりを固くすることができる場所は、毎週の礼拝と祈祷会ですから、これからも神と繋がる礼拝と祈りを大切にしていきたいと思います。
2022/8/14礼拝メッセージ
人が死んだらどうなるのか?
朝位 憲義
聖書の教えでは、キリスト御自身が、人が死んだら復活すると言っています。キリストはその言葉通りに実際に、イースターの祝いの時に、神の力によって、死人の中から本当に復活しました。復活は、キリスト教の信仰の中心なのです。
人が死んだらどうなるのか、来世はあるのか、ということについては、色々な見方や考え方があります。死んだら無に帰ると考える人もあり、来世はあると考える人もあります。
聖書は、死んだらどうなるのか、来世はあるのかということについては、あまり積極的には語っていないように思います。その理由は、来世があるかどうかはっきりしない、あいまいだからということではなくて、来世があるかないかということよりも、その根拠として、私たちに向けられている神の愛が、どれほど深く、確かなものなのか、ということを語ろうとするからであると思います。
新約聖書のローマの信徒への手紙を書いた、使徒パウロも、その手紙の中で、私たちが死んだ後どうなるのか、ということについては、わずかに触れているに過ぎないように思います。それは、死んだらどうなるのかということが、よく分からないということではなくて、今、お話したように、何よりも、私たちをしっかりと捉えておられる神の愛を語る事に集中しているからです。使徒パウロの手紙を読んでいくと、死んだらどうなるのかということについて、使徒パウロに、心配や恐れ、疑いがあったとは思えません。
私たちを創造された神は、私たちを救われる方、死の力に打ち勝って、主イエスを復活させた神の愛に、安心して、死の後のことはお任せすることができると考えていたのだと思います。それが、使徒パウロが、死後のことについて、多くを語らなかった一番の大きな理由であると思います。このことは、聖書全体に言えることであると思います。
聖書 ルカによる福音書第19章1節~10節
説教題 「人の子が来た目的」
お話 朝位 フミ子牧師
讃美歌 352番
聖 歌 591番
聖書箇所 マルコによる福音書第12章18節~27節
説教題「復活についての問答」
お話 朝位憲義 牧師
讃美歌 399番
聖歌 480番