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2023/9/3 週報メッセージ

「あなたを罪に定めない」 (ヨハネ 8:1-11) 

      (神の愛③)山本修一

ファリサイ派の人たちは、現行犯で逮捕された姦淫の女を、イエスの前に連れてきました。イエスを試すためでした。

もしイエスが「この女を赦してあげなさい」と言われたら、イエスはモーセの律法にそむく者と非難したことでしょう。もしイエスが「この女を石で打ちなさい」と言われたら、日頃のイエスの愛の言動と矛盾すると非難したことでしょう。この女のいのちを救うにしても、女の処刑を肯定するにしても、いずれも窮地に立たされるところでしたが、主は威厳と知恵を持って勝利されました。『罪なき者が女を打て』。その言葉が宗教的指導者たちの心に突き刺さったとき、彼らは握りしめていた石を捨ててその場を去りました。

この印象的な物語は私たちに、罪と赦し、律法と裁き、愛と死など多くの真理を伝えるものですが、なお最後に、「自己吟味」を学びます。私たちは、他人の過ち、欠点、罪はよく見えても、自分自身のものはよく見えません。マタイ書でも人間の盲点(マタイ7:1-5)として取り上げられているところです。しかも自分の罪(欠点、弱点)は棚上げにして、他人の罪を責め、自分の義(正しさ)を押し通そうとする傾向があります。イエスの『罪なき者が打て』とのみ言葉が、彼らの良心を呼び覚まし、自分の罪と欠点に向き合うように強いたのです。

信仰の世界では聖書に照らしての自己吟味、自己点検、自己検査がとても大切です。私たち自身が罪人であること(ローマ3:23)、たえず神の恵みと憐れみが必要であることを自覚し、主の赦しを求めることに熱心でありたいものです(1ヨハネ1:9)。

         (8/27 代読 説教)

2023/8/20 週報メッセージ

「愛がなければ」(神の愛②) 

                    (Ⅰコリント書 12:31~13:13)

 Ⅰコリント13章は新約聖書全体を通して最もすばらしい「愛の章」「愛の賛歌」といわれるところです。コリント教会はそれほどすばらしい、理想的な教会だったのでしょうか。

パウロはコリントで長く滞在し、生活を共にしたのですが、伝道は困難を極めました。「神よりも悪魔が支配しているとさえ思われる」(カルヴァン)、欲望や自己中心が渦巻いているような教会でした。不一致、分裂、争い、訴訟、性的不品行、偶像への供え物、などの問題が絶えませんでした。日本の最悪といわれる教会よりひどかったかもしれません。信徒にはねたみがあり、高ぶりがあり、いらだちがあり、恨みもあるような状況だったのです。パウロは、愛の賛歌を格調高く歌い上げたものではなく、信徒を叱責し、戒め、勧告をしたものであります。

15の愛の定義(4)は、具体的な愛を提示するものです。「愛」を「神」に換えて読むと、改めて神の愛を理解できます。逆に「愛」を「私」に言い換えて読むことを勧めるのが作家の三浦綾子さんです。不思議にも自分の弱い、みじめな姿がよく見えてくるようになります。

「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(13)。コリント教会では信仰や希望の大切さの陰に隠れて、愛の問題がおろそかになっていました。現代の教会にも通じることです。

パウロは信仰と希望は愛の中に含まれている(7)というのです。私たちは主イエスの十字架を通して、愛を知りました。その神の愛に応えるのが信仰であり、この救いに希望を置くのがクリスチャンです。

私たちは神の愛をとことん知り、神を愛する者にとことん変えられて、始めて「生きる者」になるのです。私たちは この「愛がなければ」生きることは出来ないのです。

8/13 山本師 説教)

2023/8/13  週報メッセージ

「はかりしれない愛」 (エフェソ書 3:14-21) 

ひとまず「ヨハネ福音書の七つのしるし」を終了し、今月から「愛」について、何回かにわたるシリーズで考えていきます。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハネ4:10)。「ここにある」神の愛は聖書を通して、十字架を通して知る愛です。人間の罪を救うために、御子イエスは地上に来られ、十字架にお架かりになりました。これが「神の愛」です。

とはいうものの「神の愛」「十字架の愛」とは、何のことか理解に苦しむものですが、一面、救いを信じる私たちの心に、気高さといたわりをもって迫るものでもあります。現代の社会において、「愛」という言葉が氾濫していますが、私たちキリスト者は「神の愛」に焦点を合わせて学んでいきましょう。

エフェソ書では、パウロは獄中から、元気をなくしたエフェソの教会の人々に手紙を書き、今一度奮い立って「愛に根ざし、愛に立つ」ようにと励ましています。パウロは「キリストの愛」は「人知をはるかに超えた愛」 (19)であり、その愛を「広さ」「長さ」「高さ」「深さ」の視点から表現しています。

パウロはエフェソの人たちのために祈ります。「内なる人が強められるように」「キリストが内住するように」「神の愛をもっと知るように」「霊にあって満たされるように(成熟するように)」。これは同時に私たちの祈りの目標です。

私たちは日々の忙しさ、この世の営みに心を奪われて「神の愛を知ること」がおろそかになっていないでしょうか。

8/6 山本師 説教)

2023/7/30 週報メッセージ

「有能な人より有益な人に」 (フィレモン 8-22) 

パウロは、コロサイ教会の有力な信徒であるフィレモンの家から逃亡した奴隷のオネシモを赦して、主にある兄弟として受け入れて欲しいと、フィレモンに依頼しています。今やオネシモは役に立つ人、有益な人になったといっています。新約聖書の中で役に立つ人、有益な人として紹介されているのは、オネシモとマルコの二人だけです。しかし、この二人はいずれも、過去において大失敗をした人でした。しかしパウロやバルナバの愛の導きによって、役立たずの者から、役に立つ者へと変えられていったのです。聖書は、有能な人ではなくても、周りの人を慰め、励まし、温かく覆い包むような人となることを勧めています。その人の周りには、いつも平和があり幸せな空気が流れている。有益な人とはそういう人のことです。有能な人は自分の内側にあるものによって仕事をします。しかし有益な人とは、自分を超えたもの、神様から与えられるものによって仕事をします。神様にしっかりと繋がれて、神様の恵みの中で喜んで生きているならば、その人がそこにいるだけで周囲に慰めと励ましの輪が広がるのです。逃亡奴隷であったオネシモは、後にエフェソの教会の優れた監督として、多くの教会員から尊敬される者へと変えられていきました。当時、エフェソの教会においてパウロの手紙が集められ、書簡集として編纂されることになりました。フィレモンへの手紙には、オネシモが盗みを働いて主人の家から逃亡した奴隷であったということが記されています。オネシモにとっては、覆い隠したいような暗い過去の出来事です。それにも拘らず、オネシモはこの短い手紙を書簡集に是非加えたいと強く願いました。自分に注がれた神様の恵みの大きさをすべての人に知ってもらいたいと強く願ったからです。 (7/23 柏師説教から)