聖書箇所 ヨハネによる福音書 第21章1節~14節
説教題 「新しい時代に生きる」
お 話 山本修一 牧師
新聖歌 127番
新聖歌 201番
聖書箇所 ヨハネによる福音書 第21章1節~14節
説教題 「新しい時代に生きる」
お 話 山本修一 牧師
新聖歌 127番
新聖歌 201番
(説教断片)
「死は勝利にのみ込まれた」 (Ⅰコリント15:50-58)
山本 修一
キリスト教の初期伝道で最も問題になったのが、キリストの復活論争でした。キリストの復活は信じられるか、それから2000年間にわたって問われてきた問題です。
死者がどうして復活するのか。人間の理性と知識で理解しようとする限り、不可能なことです。「世は自分の知恵で神を知ることはできません」(Ⅰコリ1:21)。しかしパウロは、「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(同15:16)と断言します。
14世紀半ば、ヨーロッパ中にペストが大流行し、全人口の1/3とか1/4とかが、恐ろしく悲惨な黒死病の犠牲になったといわれています。新型コロナウィルスどころではありません。この時代のあらゆるところで「メメント・モリ」(死を思え)の叫びが響き渡り、教会でも生の虚しさが説かれたとのこと。それほど「死」が社会や教会を覆い、まるで勝利者のように振る舞ったのです。
これは中世の時代の問題にとどまらず、超高齢化を迎えた現代の多くの教会の抱える問題です。死は教会に深く忍びこんでいます。死の力の前に、希望なく、無力を感じる教会も増えています。
いまこそ、この世の状況に動かされることなく、教会に、そして一人ひとりに復活の信仰が問われているのです。私たちはさりげない日常生活の中で「主は生きておられる」と信じて歩んでいるでしょうか。祈りが、かなえられてもかなえられなくても、復活の主を信じておられるでしょうか。つらい時、悲しい時にも必ず復活の主は応えて下さる、手をさしのべて下さると確信を持っておられるでしょうか。ペトロのように「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくとも信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれて」いるでしょうか(Ⅰペト1:8)。(4/9説教から)
聖書箇所 使徒言行録第4章5節~14節
説教題 「イエス様と呼ぼう」
お 話 柏明史 牧師
新聖歌 340番
新聖歌 358番
説教断片「十字架につけられる」(ヨハネ19:16b-27)
山本 修一
今週は受難週に入ります。本日の「シュロの聖日」から、イースターの前日までが受難週です。受難日が金曜日です。
私は十字架を説教するときには、いろいろな思いが重なります。
第一に、福音の奥義である十字架を語れることは大きな喜びです。第二に、その反面、あまりに高く、広く、深い十字架の真理を、どこまで把握しているかという不安と戸惑いもあります。第三に、十字架を学べば学ぶほど心が滅入る(苦しくなる)のです。十字架の苦しみと痛みを覚えます。イエス様の体にムチが打たれ、手に釘が打ちつけられ、槍で突き通された姿を思い浮かべると、胸が締め付けられます。さらにその痛み、苦しみは私の身代わりであったことを思う時に、自分の罪深さ、愚かさに心責められるのです。
かつて高校生の時に、名古屋の教会に宣教師のダビデ・マーチン先生が来られました。その時に十字架の説教をされました。大きな体で、両手をいっぱい広げ、たどたどしい日本語で、十字架のお話しをされました。そのとき先生はうっすらと涙を流しておられたことに気づき、驚きました。2000年前のイエスの十字架のことで、目に涙を浮かべて語られたことを忘れることができません。
本日の聖書箇所は、主イエスの最期の場面です。ヨハネ書は、他の福音書とは異なり、十字架への道をとても簡潔に書いています。私たちが見るべきは 「自ら背負った」 主イエスの十字架なのです。ここにこそキリスト教の神髄ともいえる、重大で、深い、驚くべき真理があります。それは私たち罪人が背負うべき十字架を、罪のない主イエスが自ら背負ってくださったという極みの愛です。このため主イエスは、父なる神と霊的に断絶せざるを得ず、それが地獄のような肉体の苦しみ以上の霊的苦しみを味わわなければならなかったのです。(4/2説教から)
聖書箇所 コリントⅠ 15章50節~58節
説教題 「死は勝利にのみこまれた」
お話 山本修一牧師
新聖歌 128番
新聖歌 123番
新しい出発
山本 修一
新しい年度に入りました。桜ヶ丘教会の新たな前進です。
桜ヶ丘教会は、今年は、教会創立100周年を迎えます。神さまの目から見れば一瞬のことですが、教会にとっては、さまざまな困難、労苦、喜びと感謝を刻んできた100年の歴史でした。この100年は通過点に過ぎず、新しい100年に向けての出発点です。
この記念すべき年は、奇しくも主任牧師は不在となります。皆様には、ご不自由、ご不便、ご負担をおかけすると思いますが、よろしくお願いいたします。この1年を不幸な時代ととらえるべきか、恵みの時代ととらえるべきか、私たちの信仰が問われるところです。
今年は代務教師(山本)と協力牧師(柏明史師、小林則義師)で聖日礼拝を守っていきます。これでなんとか礼拝は整えられますが、教会の活動はこれだけではありません。教会員の皆様におかれては、一人ひとりが 「わたしがこの教会を支えていく」意識と信仰に立っていただきたいのです。主は、あなたの手を、あなたの足を、あなたの頭脳を、あなたの財を教会のために用いてくださることを望んでおられるのです。ぜひ何ができるかを祈り、お申し出下さい。
3年間猛威を振るってきた新型コロナ感染症は小康状態にあるようですが、終息したわけではありません。コロナ対応ガイドによれば、マスクは原則的に自由となりましたが、私たちはもうしばらく基本的な対策(手指消毒、換気、三密回避)を取りながら、一歩ずつもとの教会生活に戻したいと願っています。
お体の不自由な方のために、オンラインの配信は続けます。しかしどうぞ教会を慕う思い(詩84編)、主の臨在に触れる畏れなどの体験を求め続けていただきたいのです。ご一緒に教会で主を讃えましょう。
今週から、週報は少し装いを改め、横書きにしました。
聖書箇所 ヨハネによる福音書 第19章16b~24節
説教題「十字架につけられる」
お 話 山本修一 牧師
讃美歌 121番
聖 歌 399番
聖書箇所 マタイによる福音書第22章第15節~22節
説教題 「あなたは誰のものですか」
お 話 柏明史 牧師
讃美歌 515番
聖 歌 295番
2022年度最後の礼拝にあたって
朝位 フミ子
2022年度は様々な出来事が起こりました。コロナウイルス感染症が消息しない中、主任牧師朝位真士師を天に送り、続いて中本達之助役員も天に送りました。2023年6月に創立100年を迎える桜ヶ丘教会は、大変厳しい状況にありました。私はこれからの教会の歩みと宣教の業のために、ホ群の委員長にお願いをして先生方を送っていただき、礼拝のメッセージをしていただきました。役員の方々、信徒の方々がよく協力して助けてくださいました。29年間、桜ヶ丘教会で宣教の業をさせていただき、心から感謝いたします。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5章16~18節)この御言葉に支えられて、今日まで幸せな主の御用でした。2023年度は山本修一先生が主任担任教師代務者を引き受けてくださいました。これからは先生が中心となって宣教の業が進められます。そして創立100周年の行事が進められることでしょう。お祈りしております。
お祈りは、神様が生きて働いてくださっています。私たちが祈るとき、神様はお祈りを聞いてくださるのでしょうか。神様に届くのでしょうかと思って考えたりします。そのように思ったり考えたりすることは、神様が死んだ方であると考えているのです。祈りはこちら側の独り言ではありません。祈りは、今も生きて働かれている神様との対話です。ですから、たとえ死の床にあっても、私たちが祈るときに神様は生きて語りかけてくださいます。祈るとき、「あなたを見捨てるようなことをしない。あなたはわたしの愛する子なのだから、あなたをわたしのいる所に迎えよう」と語っています。そして、私たちに生きる喜び、平安、希望を与えてくださいます。なぜなら、あなたを、命をかけて愛してくださったのですから。
聖書箇所 マルコによる福音書第8章22節~26節
説教題 「盲人のいやし」
お話 朝位 フミ子師
讃美歌 136番
聖 歌 476番