聖書 使徒言行録 第12章1節~19節
説教題「聞かれる祈り、聞かれない祈り」
お話 山本修一牧師
讃美歌 310番
聖 歌 256番
聖書 使徒言行録 第12章1節~19節
説教題「聞かれる祈り、聞かれない祈り」
お話 山本修一牧師
讃美歌 310番
聖 歌 256番
聖 書 ルカによる福音書第16章19節~31節
説教題「死の先にあるもの」
お 話 山本修一 牧師
讃美歌 510番
聖 歌 610番
神の国のしるし
朝位 フミ子
主イエスの公生涯には、神の国のしるしを表す宣教活動を行いました。主イエスは、この地上で活動された時に、神の国に何らかの希望を見ていたと思います。主イエスが弟子たちに話した種蒔きの譬えでは、今は不毛の地に見えるこの地は、やがて神の国が完成した時には百倍もの収穫が確実に得られると言われ、またルカでは「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」と言われました。つまり、主イエスはサタンの力が確実に滅びるという神の国の勝利を、既に先取りして見ていたということです。主イエスの見ていた神の国の勝利とは、それは人の支配ではなく、神の支配が行われること。聖書で神の国と呼ばれているものは、神の支配と言い換えてもよい言葉です。この神の支配が、イエスである私が来たことによって、もう既に我々の足元にまで来ているのだと宣言して、活動を始めたのでした。
主イエスの働きの中で、病の人を癒したのは歴史的な事実で間違いのないことだと、伝えられています。主イエスはよく奇跡行者、奇跡を行う者と呼ばれていました。主イエスはなぜ地上での働きの時に、病の人と出会い、病を癒していたのでしょうか?
それは、神の国のしるしを表すためでした。主イエスの存在自体が神の国であり、良い知らせでした。だから、主イエスはこの地上にいながらも、神の国に生きていた訳です。神の国は、もはや病も苦しみも、痛みも悩みもない、全ての人間の心と体の苦しみや痛みが取り除かれた、素晴らしい世界だと言われています。主イエスは、神の国のしるしを表し、今苦難の中にある人々に良い知らせを伝えるために、病の人に出会い、病を癒したのです。主イエスの働きの全ては、神の国のしるしを表すためでした。
聖書箇所 マタイによる福音書第5章1節~2節 4節
説教題 「悲しむ人々は幸いです」
お 話 小林則義 牧師
讃美歌 290番
聖 歌 560番
目を覚ましていなさい
朝位 フミ子
この「目を覚ましていなさい」という言葉の意味を、私たちは誤解してはならないと思います。イエス様は、私たちに、寝てはいけない、寝坊してはいけない、居眠りをしてはいけない、休んではいけない、働き続けなければならない、しっかりやらないといけない、もっと頑張らないと駄目だと言っておられるのではありません。イエス様が「目を覚ましていなさい」と言うのは、今がどういう時なのかわきまえて生きなさいと言っておられるのです。今、神様が私たち一人ひとりに任せられている務め、委ねられた私たちの務めを、最後まで責任を持って忠実に果たしていきなさいと言っておられるのです。
しかし、私たちは、現実の生活の中で色々と大変なことが起きたり、気持ちが辛くなって落ち込んだり、不安になったりすると、せっかく神様から務めが与えられているんだから、失敗してはいけない、頑張って成功しなければならないと思い、その務めに責任を持って果たすことがプレッシャーになり、重荷になって、もう駄目だ、もうできないと諦めてしまいたくなるのです。イエス様が、ここで私たちに期待していることは、失敗しないで成功しなければならないということではない訳です。
いつ帰って来られるか分からない主人であるイエス様を、僕である私たちがガチガチに緊張して待っているんじゃなくて、また反対に、イエス様が来られることなんて自分にとって全く関係ないことだし、何の期待も希望も持てないという冷めた気持ちでもなくて、今生きているこの日、この時が、たとえ私たちにとって試練の時、色々と心を騒がせるような時だとしても、明日のことを何も心配しないで、慌てないで、落ち着いて安心して、イエス様が来られる時に期待して、希望を持って生きていくことに尽きるのだろうと思います。
深く息をつき
朝位 フミ子
主イエスが、耳も言葉も不自由な一人の人に、「エッファタ(開けよ)」とおっしゃいました。彼の耳と口を開いてくださいました(マルコ7章34~35節)。そこで主イエスは「深く息をつ」かれました。これは、元の言葉では、「ため息をおつきになった」あるいは「呻く」と訳すことができます。一般的には、人間がため息をつくのは、あまりよいしるしではありません。しかし、ここで主イエスが「深く息をつき」、ため息をつかれたのは、一人の、ただ一人の人の救いのためでした。この人の口が開かれる、賛美が歌われるために、そういう人生をこの人が生涯歩めるようにするために、主はご自分の全てをささげて、深く息をつき、ため息をついてくださいました。
その「ため息」という言葉には、他にも「呻く」「悶え苦しむ」という意味があります。これは一体何を意味しているのでしょうか。それは、私たちのために担われた主の十字架の苦しみ、そのものを表しています。そのようにして、御自分の肉を裂き、血を流し給うて、主は私たちの心を、私たちの耳を、私たちの口を開き、御自身の十字架の恵みをも開いてくださいました。これ以上に確かな救いの出来事は他のどこにあるのでしょうか。私たちもこの主の十字架の苦しみによって、教会に確かに結ばれるように、罪赦されて救われていくように、神の国の民とされていくように、キリスト者とならせていただいています。
主が私たちの確かな救いのために、十字架の上で悶え苦しんでまで、私たちに向かって「エッファタ、開け」と言われたのです。そして、神の力によって、私たちの閉ざされた耳が開かれ、主イエスの声が聞こえるようになるように、また、もつれた舌が解けて、隣人に救いの言葉を大胆に語り告げ、主を賛美することができるようにしてくださいました。その重みに、この確かな救いに、私たちはただただ感謝しかありません。十字架の主の満ち溢れる恵みに、礼拝をささげ、賛美していきましょう。
聖 書 コロサイの信徒への手紙 第3章12節~17節
説教題 「感謝は幸せの始まり」
お 話 山本修一牧師
讃美歌 291番
聖 歌 521番
聖書 ネヘミヤ記 第8章1節~12節
説教題「主を喜ぶことは力の源」
お 話 山本 修一 牧師
讃美歌 515番
聖 歌 594番
聖霊に満たされる
朝位 フミ子
私たちクリスチャンでも、この「聖霊に満たされて」という言葉や意味について、また聖霊に満たされるという出来事について、よく分からない所があるわけですが、使徒言行録の御言葉にはそのヒントが書かれています。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使徒4章20節)つまり、私たちが聖霊に満たされるという出来事は「見たことや聞いたことを話さないではいられなくなる出来事」なのです。また、私たちが大胆に御言葉を語るようになるという出来事も、「見たことや聞いたことを話さないではいられなくなる出来事」なのです。そう考えると、聖霊に満たされるという経験と、大胆に御言葉を語るように変えられるという経験は、自分が「見たことや聞いたこと以外の経験は話すことができない」ということになるのですから、とても身近に感じることができるのではないでしょうか。
私たちの教会の使命である伝道、福音を地域の人に伝えるということは、私たちが見たこと、聞いたこと、経験したことを、黙っていられなくなるという心の働きによって起こるのです。私たちが、神様のこと、イエス様のこと、見たこと聞いたこと、とんでもない大きな恵みをいただいていることが分かれば、もう嬉しくなって、人に話さずにはいられなくなるのです。イエス様が、私たちのために命をささげてくれて、復活して、そして今、私たちを教会に導いておられる。本当に私たちと共におられて、見たこと聞いたことを話さないではいられない気持ちに私たちの心を動かしている。そういう気持ちにさせて、私たちを教会の働きへと、今、神様が私たちを導き動かしているのでしょう。私たちも、見たこと聞いたことを使徒のように大胆に話すことができるようにしてくださいと、神に祈り、隣人に伝えましょう。見たこと聞いたこと、イエス様の救いを経験したことを、大胆に語りましょう!
聖書箇所 詩編23年1節~6節
説教題「げに汝我と共にいます」
お話 深谷春男 牧師