聖書箇所 マタイによる福音書第22章第15節~22節
説教題 「あなたは誰のものですか」
お 話 柏明史 牧師
讃美歌 515番
聖 歌 295番
聖書箇所 マタイによる福音書第22章第15節~22節
説教題 「あなたは誰のものですか」
お 話 柏明史 牧師
讃美歌 515番
聖 歌 295番
2022年度最後の礼拝にあたって
朝位 フミ子
2022年度は様々な出来事が起こりました。コロナウイルス感染症が消息しない中、主任牧師朝位真士師を天に送り、続いて中本達之助役員も天に送りました。2023年6月に創立100年を迎える桜ヶ丘教会は、大変厳しい状況にありました。私はこれからの教会の歩みと宣教の業のために、ホ群の委員長にお願いをして先生方を送っていただき、礼拝のメッセージをしていただきました。役員の方々、信徒の方々がよく協力して助けてくださいました。29年間、桜ヶ丘教会で宣教の業をさせていただき、心から感謝いたします。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5章16~18節)この御言葉に支えられて、今日まで幸せな主の御用でした。2023年度は山本修一先生が主任担任教師代務者を引き受けてくださいました。これからは先生が中心となって宣教の業が進められます。そして創立100周年の行事が進められることでしょう。お祈りしております。
お祈りは、神様が生きて働いてくださっています。私たちが祈るとき、神様はお祈りを聞いてくださるのでしょうか。神様に届くのでしょうかと思って考えたりします。そのように思ったり考えたりすることは、神様が死んだ方であると考えているのです。祈りはこちら側の独り言ではありません。祈りは、今も生きて働かれている神様との対話です。ですから、たとえ死の床にあっても、私たちが祈るときに神様は生きて語りかけてくださいます。祈るとき、「あなたを見捨てるようなことをしない。あなたはわたしの愛する子なのだから、あなたをわたしのいる所に迎えよう」と語っています。そして、私たちに生きる喜び、平安、希望を与えてくださいます。なぜなら、あなたを、命をかけて愛してくださったのですから。
聖書箇所 マルコによる福音書第8章22節~26節
説教題 「盲人のいやし」
お話 朝位 フミ子師
讃美歌 136番
聖 歌 476番
盲人のいやし
朝位 フミ子
マルコ福音書8章の盲人の癒しです。「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何が見えるか』とお尋ねになった。」(23節)
イエス様は盲人の手を取って、一人だけ村の外に連れ出して、一対一で癒してくださったのです。この物語はイエス様と盲人の一対一の癒しのドラマなのです。イエス様がこの盲人とマンツーマンで関わっているのです。大勢とイエス様ではなくて、イエス様はいつもそうやって、助けを求めている人や神様に向かってお祈りしている人と、一対一でしっかりと向き合ってくださるのです。だから、私たちの礼拝での祈り、祈祷会や日々の家庭での祈りは、とても大切なのです。イエス様はいつもそうやって、その人の抱えている悲しみや悩み、不安と、とことんまで付き合ってくださり、どこまでも向かい合って、癒し、慰め、励ましてくださる救い主なのです。
神の子であるイエス様が、一人の人に対して、そこまでして一対一で深く関わってくださっています。一人の人間が抱えている、悩み、痛み、病、苦しみ、悲しみ、不安、恐れを全部受け止めて担ってくださり、真剣に向き合ってくださるくらい、イエス様の気持ち、深い愛が、この一人の人に注がれているのです。主イエスが一対一で、いつも私たちのことをよく見ていてくださいます。そして、いつも私たち一人ひとりの抱えている問題と向かい合ってくださっています。いつも私たち一人ひとりに対して、真剣に関わってくださっています。
イエス様が盲人を一対一で癒した奇跡を見て、神様がどれくらい私たちと真剣に向き合ってくださるのかについて目が開かれていったら、私たちの人生は本当に明るく幸せなものになるでしょう。
聖書箇所 ヨハネによる福音書第4章43節~54節
説教題「あなたの息子は生きる」
お 話 山本修一牧師
讃美歌 139番
聖 歌 156番
神の国に生きる人のしるし
朝位 フミ子
聖書には、主イエスが神の国を婚礼の食事の席に譬えた話があります。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」(マルコ2章19節)断食するのは、悔い改めをすることです。当時、古い宗教的な断食をしている人は、飲み食いしないで、忍耐と根性をもって修行僧のような厳しい禁欲生活をしていたので、暗い顔をして、しかめ面した怖い顔で断食をしていました。それに対して、主イエスと弟子たちは「飲んだり食べたり」していました。だから、古い習慣を守っていた人にとっては、主イエスと弟子たちの顔は浮かれているように見えたのです。人々の目から見ても、主イエスと一緒に食事をしている弟子たちの顔は明るい顔に見えたのです。
主イエスは言われます。「断食は神様の所に帰るためだよ。婚礼の花婿が一緒にいる時のお祝いでしょう。皆が祝福してお祝いしている時は、皆嬉しいに決まっている。神様の所に帰って、誰も暗い顔なんてできない。神様の所に帰ってきたら、皆新しい生き方ができるんだよ。信仰生活は、空威張りや空元気、やせ我慢じゃない。新しい革袋に新しいブドウ酒を入れなさい。神様の所に帰ってきたら、そこには新しい神様が共におられるんだから、古い自分の生き方を脱ぎ捨てて、喜びに生きる原動力がそこにあるんだ。それを素直に受け入れて喜びなさい。婚礼の食事の喜びこそが、神の国に生きる人のしるしだよ。いつも神様の所に帰ってきて、新しい神と共に生きてニコニコ笑っていることが、神と共に生きている人のしるしだよ。断食してしかめ面した怖い顔をしている人は終わっているよ。」
私たちは、礼拝でイエス様と出会い、喜んで生きる力をいただきましょう。笑いが神と共に生きる、神の国に生きる人のしるしですから、ニコニコ笑って、笑顔で生きていきましょう。
悔い改めて福音を信じなさい!
朝位 フミ子
主イエスは「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。聖書によれば、悔い改める人の所に神の国が近づいてきて、神の支配が私たちの深い所の隅々にまで入ってきて、それから私たちの生き方が方向転換して、変えられていくことが始まります。
悔い改めることは反省することではありません。放蕩息子がお父さんの家を出て、さんざん罪を犯して悪の道に迷い込んでしまった後に、お父さんの所に帰ってきたように、悔い改めることは、私たちが神様の所に帰ることです。父なる神様は、私たちが悪の道、罪の中から神様の所に帰ってくることを心から喜んでくださり、帰ってきたら温かく迎えて罪を無条件に赦し、祝宴まで開いて祝福してくださる慈愛に満ちた方です。だから、私たちは悪の道に迷い込んで、罪を犯して神から離れても、いつもこの方のところに安心して帰ってきて、神様の無条件の赦しを得て、癒していただくことができるのです。
イエス様の私たちに対する悔い改めよという呼びかけは、大きな喜びの知らせです。悪の道を歩いていても、罪の支配の中に生きていても、私たちにはいつも帰る所があり、喜んで迎えてくださる神様がそこに臨在してくださるのです。悔い改めることで無条件の赦しと祝福に与ることができるのですから、私たちは暗い顔で悔い改めなんてできません。神の所に帰ってきたら、罪赦されて祝福までしてくださる神様に出会うことになるのですから、私たちの生き方は神と向かい合うように変えられて、そこから新しい生き方ができるようになり、嬉しい気持ちになるに決まっているわけです。
私たちが神の前に悔い改めて神様の所に帰ってくると、そこに神との新しい出会いがあり、神が共に生きてくださり、新しい喜びに生きることができるのですから、この喜びの中に生きる人こそ、神の国に生きている人のしるしになるのです。
聖書箇所 ヨハネによる福音書第2章1節~12節
説教題 栄光のしるし
お 話 山本修一牧師
讃美歌 138番
聖 歌 206番
聖 歌 157番
聖書箇所 ヨハネによる福音書第5章1節~9節
説教題 「憐みの池のほとりで」
お 話 柏 明史 牧師
聖 歌 590番
讃美歌 531番
誘惑と試練
朝位 フミ子
「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、〝霊〟に導かれて荒れ野に行かれた。」(マタイ4章1節)
この「誘惑」という言葉は、誘惑と訳されるだけではなく、もう一つの言葉で訳されます。それは「試みる」「試練」というものです。本当に不思議なことに、誘惑と試練は聖書では同じ言葉で、聖書の文脈によって試練あるいは誘惑と使い分けられている言葉なのです。
誘惑とは、その出来事を通して私たちが神様に躓き、神様への信頼を失って、神様から引き離されてしまうことだと言ってよいでしょう。その出来事が誘惑になるならば、私たちが信仰を失い、教会生活から離れ、神から引き離されてしまうことですから、私たちは神様のおられない世界に生きることになってしまうのです。
反対に試練については、使徒パウロの有名な言葉があります。コリントの信徒への手紙一、10章12~13節で、試練には必ず逃れる道があると語られます。試練には必ず出口があると言われます。試練の先には、必ず逃れる道、出口が用意されています。それがどこにあるのか、それがいつなのか、私たちには分からないことですが、分かっているのは、神様は真実な方であるということです。ですから、神様は私たちに乗り越えられない試練や、耐えられない試練は決して与えられないわけです。私たちは試練の中でも神様に信頼し、神と共に歩み抜くならば、試練を通して、試練を経験する前よりもずっと深く神様との絆が固く結ばれる機会となると、使徒パウロは教えているのだろうと思います。
私たちの人生の経験をふり返れば、私たち人間には、試練と誘惑をあらかじめ区別することはできないことが分かります。私たちにできることは、神さまと共に試練を歩みきったとき、神が備えてくださっている出口を出たときに、神様の守りと導きの確かさを知らされて、神への信頼がいっそう堅くされるということでしょう。