榊原紀惠子 のすべての投稿

2023/2/23 週報メッセージ

神癒 ―究極の癒し―

川﨑信二

以前「病は気から」ということを載せました。信じて治療するのと、疑って仕方なくするのとでは効果が全く違う、とも言われています。

サプリメントで膝の痛みが改善したという声を聞きます。「プラセボ効果」といって、効果のない成分で作られた偽物の薬でも、効果があると信じて飲むことで本当によくなったと感じることがあり、それは心理的作用によるものだ、というものです。

もちろん、効果のあるサプリメントもあるので一概には言えないでしょうが、信じて服用すると治りが早くなる、ということでしょう。本人が治癒をあきらめ、医師を信頼せず、自暴自棄になってしまうと治るものも治らない、という訳です。

 聖書が語る福音はどうでしょうか。福音は信じると、確かに絶大な効果はありますが、私たちの信心の深さよりも、信じる対象が何か、が重要です。そもそも信仰の対象が偽物ではなく本物であることが大前提であり、それが主イエスのことですし、主イエスの十字架と復活の福音です。

パウロが「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(Ⅰコリント15.4)と語ったように、人間の信心だけでは救いはありません。「鰯の頭も信心から」と信じる対象は偽物でも、信じる私が居れば大丈夫?? そんなことはありません。自分の死も、自分の死後のことも分からない者を、信用できるはずがないのです。

「鼻で息をしているだけの人間に頼るのをやめよ」(イザヤ2.22)と言われているように「魂も体も滅ぼすことのできる」(マタイ10.28)神に頼るべきだ、と主イエスご自身が述べられています。主イエスのみを見上げて歩みましょう。

2025/2/16 週報メッセージ

天の国の秘密 マタイ13:10〜17

川﨑 理子 

「弟子たちは、イエスに近寄って、『なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか』と言った。」⑽

 「たとえ」の原語は「パラボレー」と言い、意味は「傍らに置く」。つまり、言いたいこと、伝えたいことの傍らにそれと似た話を置く、ということです。

本来たとえ話は理解しやすくする為に用いられますが、余計に分からなくなる。「天の国の秘密」(奥義)だから隠されていて理解できないというのです。主イエスのたとえは至って単純です。求める心さえあれば悟ることができます。この世の学者たちは真理を難しく考え、却って真理から遠ざかってしまいます。

実は目の前におられる方こそ真理なのです。主イエスは「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」(16)と言われ、ご自身が神であり、真理であることを証しています。私の傍らに、あなたの傍らに主がおられるのです。せっかく近くにおられるのに疑う人には真理が見えません。心が頑なだからです。

主イエスはたとえの中で「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人」(23)だと語られました。良い土地とは私たちの心です。求める心で聞けば御言葉が入るのです。主は常に種を蒔き、愛を注いでおられます。私たちが素直に受けるだけのことです。天の国を隠しているのは私たちが拒んでいるから探せないのです。異邦人でも求める者は救われます。

 キリストが来られた目的は、全ての人を救う為です。裁く為ではありません。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(Ⅰテモテ2・4)。

異邦人を見下していた聖職者たちは主イエスを見ているのに信じませんでした。私たちは、聖書を「いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することができない」(Ⅱテモテ3:7)人にならないように、主が近くにおられるのに気がつかない者にならないように、祈り求める者でありたいと願うものです。

2025/2/9 週報メッセージ

イエス様によって健康に

川﨑信二 

  「病は気から」という言葉は、気持ち次第で病気にかかりやすくなることを意味します。「気」は東洋医学では身体を健康に保つ重要な要素とされていますが、確かに気分が落ち込んでいると病気になりやすい。仕事等で気を張り詰めてやっと休日となった時に風邪やウイルスに罹患する。年末年始に緊張がほどけ体調をくずすことがよくあります。心配事があると病気が治りにくい等、「気」によって心と身体のバランスが保たれているというのも一理あるような気がします。

節分ではありませんが「わっはは」と笑って鬼を外に追い出す。免疫力をあげると鬼(悪い気や病気)が逃げてゆく。

先月、Mさんが「笑いヨガ」を紹介して下さり、リズムに合わせて「ホ・ホ・ハハハハ×4回 イエーイ!!」笑って、歌って、踊って、何か心と身体が軽くなった感じがしました。

聖書ではイエス様が「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:31-32)と言われています。神の前に健やかな人は一人もいない。神によって真の健康が与えられる、ということでしょう。

 聖書がいう健康とは「信仰的な健康」です。自分一人で頑張って、自分一人で悩んで、自分一人で気を遣い、自分一人で解決する。それは信仰的に不健康な状態です。

 信仰的に健康な人は、全く神に委ね、全く神に任せ、全く神に降伏して、重荷をすべて降ろして生きることです。神から離れて生きることを聖書では「罪」といいます。即ち不信仰の病です。その意味で、この世に健康な人は一人もいません。真の医者は主イエスおひとりです。

 外なる人は滅びても内なる人は日々新しくされます。主の許では永遠の命が約束され、笑顔で健やかに生きることができます。

免疫力やNK細胞、自律神経や血糖値など全く気にせず生きることができる世界があります。罪を自覚して主イエスの救いを受けいれて歩みましょう。

2025/2/2 週報メッセージ

無くならない恵み

川﨑 信二 

 主イエスが行われた奇跡。たった5つのパンと2匹の魚で何と5千人の群集(女性と子どもを入れると1万人以上)を満腹にさせるという、度肝を抜く御業をなさったのです。

 パンが増えた?これはミラクル?マジック? でも、<パンを増やした>とか<パンが増えた>とは一言も書かれていません。私たちはどうしてもこの記事を「パンを増やす」話として読む傾向があります。

イエス・キリストは凄い方だぞ!キリスト教は凄い宗教だ、と世に見せつけるために奇跡を行われたのではなく、「大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深くあわれみ」(34)……つまり目の前で苦しんでいる人を放置できず奇跡を行われた。結果的に奇跡をされたが、これ見よがし、ではない。<増えた>のではなく<無くならない恵み>です。それは、神の愛は変わることなく常に私たちに注がれている、ということです。

 イスラエルが求めていたのは<増える力>でした。ローマ帝国を力でねじ伏せるメシアを求めていました。私たちは世界でキリスト教が力をもって優位に立つことを求めてしまいますが、むしろ、十字架の道を歩まれた主の姿から、身を低くして謙虚に歩む信仰を得させていただきたいものです。神が十字架で死ぬことは最も大きな奇跡です。全能の神が死人を復活させることは簡単ですが、独り子を重罰刑で死なせることは最も辛いことでした。

私たちの罪を赦して救うために十字架という奇跡を成し遂げて下さった主を神として仰いでゆきたいと思います。

2025/1/26 週報メッセージ

人間をとる漁師に

川﨑 理子 

 わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。

                  マタイ4:19

「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」。その時から「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝え始められた。「天の国」は「神の国」であり、「悔い改めよ」とは「回心しなさい」との意味である。いよいよ神の独り子としての主イエスの歩みが始まったのである。

 ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンと兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。

 至近距離で見られながらの作業はどうだったのでしょう。

主イエスの視線を感じながら黙々と二人は漁を続けていた。

さらに進んでその先でヤコブと兄弟ヨハネが舟の中で網の手入れをしているのを御覧になった。

 冒頭の「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」は圧倒的な神の権威に満ちた言葉だった。有無を言わさない権威。それは恐怖ではなく、神の臨在そのものであり、その言葉通りにせずにはいられない神々しさであった。だから彼らは「網」を捨てた。また「舟」と「父親」を残して、イエスに「従った」のである。網も舟も父親も彼らの大事なものであり、生活のすべてだったがそれを捨てた。それ以上のものが主イエスの言葉にあったからである。

主イエスは宣教をひとりではなく、弟子と共に行った。弟子と言っても、宣教のための雄弁な言葉を持っている者ではなく、地方のガリラヤ湖で真っ黒に日焼けした漁師たちだった。その彼らに主イエスは「人間をとる漁師に」と声をかけられたのである。すなわち、わたしがあなたを「新しく造り変える」から「共に行こう、共に生きよう」と。主イエスと共に生きる光栄。この上ない、やりがいのある最高の仕事…。彼らは新しく変えられたのである。

主イエスはこの4人を御覧になった。ルカ福音書では「夜通し苦労したが不漁」(ルカ5:5)で落ち込んでいた、とある。主は仕事で落胆し、行き詰まっている者を見つめ、新たに弟子という職を与えてくださる。

わたしたちも主イエスに見てもらい、造り変えて頂けると信じるなら何と幸いなことでしょう。主はあなたをスカウトしようと、直ぐ近くで見ておられます。