榊原紀惠子 のすべての投稿

2026/5/3 週報メッセージ

傷あとは主の愛のしるし

川﨑 信二 

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」 (ヨハネによる福音書20:27)

傷痕は残る。忘れないために残る。私のために釘を打たれた主の愛を忘れないために。傷が消えると私たちは忘れてしまう。

私は以前、大腸に腺腫が見つかり、内視鏡で除去してもらった。開腹していないので傷痕もない。だから忘れてしまう。兄の献一牧師は40年以上も前に脾臓を摘出した。昔なので大きくお腹を切った。生々しい傷痕が今でもある。

トマスはイエスの傷痕に触れる体験をした。聖書を見ると触れる前に「わが主よ、わが神よ」(20:28)と悔い改めているので実際には触ってないのかもしれない。私のイメージだと、イエスがぐっとトマスの手を引き寄せ「ここだよ、これだよ」と傷痕を指でなぞらせたのではと思っている。彼はその凹みの感触を一生忘れることはなかったであろう。

五感で記憶する。五感……視覚、聴覚、嗅覚。香りは記憶に残る。純粋で高価な香油をイエスに塗ったマリア。華やかな香りが家いっぱいに広がった(ヨハネ12章)。それを記録したヨハネは晩年、遠ざかる記憶のなかで、あの時のあの香りだけは忘れなかったのだろう。傷痕もイエスの言と共に思い出す。「見ないで信じる者は幸いだ」と主は言われた。しかし、見て、触って、後悔してから主を信じる。復活された日、トマスにそのお姿を見せなかったのは、愛の傷を見せるためだったのではないか。

「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。」 (ヨハネ一1:1)

2026/4/26 週報メッセージ

主イエスの死こそわが命

川﨑 信二

「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」

「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださる」 コリント二4:10、14

 十字架のアクセサリーを身に着けていても文句を言う人は誰もいません。クリスチャンでなくても十字架のネックレスを着けていると「ステキね」と褒められます。十字架が当時のローマ帝国で最も残酷な死刑の道具だったのに気持ち悪いと思う人はいないのです。

 4年前、パリのファッションショーにロープの輪をあしらったネックレスをしたモデルが登場し、それを手掛けたフランスの高級ブランド社が批判を浴びました。絞首刑の縄を模した、と物議を醸したのです。

 英国を代表するラグジュアリーの一流会社は2019年ロンドンでの新作コレクションの展示会にて首吊り紐をデザインしたアクセサリーを発表。これに対し有名モデルの一人が猛烈に抗議をしたと言われています。

なぜ、それよりも酷い処刑道具である十字架には何も言わないのでしょうか。

 それは主イエスの死が、私の救いに関係するからです。主イエスが死から復活された喜びを常に身に帯びることで、神様の愛を忘れないようにと願うからです。教会堂の屋根に高々と十字架をかかげていても「撤去してほしい」と言う人を見かけたことがありません。

主イエスの十字架の死がなければ、私たちに永遠の命はないのですから。

主の愛を身に着け、主の死を掲げてあゆむ私たちでありたいものです。

2026/4/19 週報メッセージ

復活の主に感謝をあらわす

川﨑 信二

復活された主を見た弟子たちには確信と喜びが与えられていた。もし、主が十字架で死なれたまま、姿を現されなかったならきっと弟子たちは信仰を捨てたであろう。主の復活の出来事はそれほど大きなことだったと思う。

私たちは主イエスに会うために礼拝に来る。復活されたイエス様に感謝と賛美を捧げるために教会に来るのである。ある方が「私は天国に行きたいので教会に来てるのよ」と言われたことがある。気持ちは分るが、礼拝出席は天国行きの条件なのだろうか。天国行きの資格を得るために奉仕をし、献金をするのだろうか。違う、と思う。

「天国に行くために教会に行く」のではなく、「天国に行けるから教会に行く」のである。礼拝は天国行きの条件ではなく、主が復活により私たちにも死からの復活が約束されたことを感謝するために行く所である。

言い換えれば礼拝は「御礼参り」である。御利益を叶えてもらうための祈祷ではなく、すでに復活という御利益をいただいたことへのお礼を、感謝と賛美であらわすのである。

イエス様に重い皮膚病を癒してもらった10人の話がある。

「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そしてイエスの足もとにひれ伏し感謝した。この人はサマリア人だった。」(ルカ17:15-16)

軽蔑されていた外国人が真っ先にイエス様にお礼を言いに来たのだ。

私たちが礼拝を捧げるのは、救っていただいたことへの感謝からである。世間の人々はイエス様によって救われていることを知らないために当然お礼に来るはずがない。

私たちは「その中の一人」である。既に復活の恵みが一方的に与えられていることを感謝して、喜び勇んで礼拝に参る私たちでありたいものだ。

2026/4/12 週報メッセージ

年会に出席して感じたこと

川﨑 信二 

ホーリネスの群年会が恵みのうちに終えられた。派遣式が行われ、ドイツでの宣教を終えて帰国された教師と、韓国出身(前中部教区書記)の教師がホ群加入され、2名の派遣式が行われた。牧師を招聘できない教会(延岡使徒、紀伊長島)は引き続き無牧となる。東京聖書学校の学生は3名。いずれも最終学年となるので来年度には教師が与えられるであろう。逆に言えば、その次はどうなるのだろう、という不安もある。研修生や聴講生が与えられていることは感謝だ。その中で教師を志す方があればと願うものである。無任所教師も多くおられるので教会への復帰を願う。近年は他教派、他教団からの加入があり、ホ群以外の方々に支えられていることにも感謝したい。

サバティカル休暇をとっている教師もおられる。長年の牧会で疲れ、心身を整える期間を過ごしている。ホ群や教会にとって教師が牧師職から離れることは困ることかもしれないが、教師が倒れないため、教師がリフレッシュし、教会がリセットするためにも必要なことだ。

 私は前任の教会の牧師館リフォームの際に「通い牧師」を2ヶ月ほど経験した。そのことで、通うことの清々しさと、気持ちを切り替えられることの喜びを味わった。今まで牧師館に住むことに抵抗を感じず、むしろ感謝し、便利だなとも感じていたが、知らず知らずのうちにプレッシャーを感じていたのかもしれない。以前のホーリネス教会には「休む」ことが「不信仰」のような雰囲気があったが、疲れた預言者エリヤを、主がケリト川でカラスに命じてパンと肉で養ったように(列王記上17章)、再び立ち上がるための休養は必要だと思う。特に「休みは要らない。伝道が趣味だ」と言われるような真面目な方ほど周囲からの配慮が求められる。

 今年度のホ群諸教会の歩みと、それを支える信徒の方々、ご家族の方々に復活の主イエスの祝福があるようにとお祈りします。

2026/4/5 週報メッセージ

規格外だからこそ

川﨑 信二

イースターエッグ。卵は主イエスの復活の象徴とされている。ユダヤの過越祭で新しい命のシンボルとして、茹で卵を食べる慣わしが古くからあった。過越祭は、奴隷の地エジプトから聖地へ導かれたことを記念して行うものである。つまり卵には復活や再出発の意味があるのだ。

卵といえば、学生のころ養鶏場でアルバイトをしたことがある。ニワトリが産んだ卵を次々とケースの中に入れる作業があった。枠にピタッと収まる大きさのものを詰めていく。大きすぎるもの、また小さすぎるものは、いくら味が良くても取り除かれる。売り物にならないからである。だから、双子の卵などは養鶏場で目玉焼きにして美味しくいただくのである。モグモグといただきながら、質も量も満点なのに枠にはまらないだけで「資格なし」とレッテルを貼られることには疑問を感じたものだ。

では教会はどうだろうか。天国行きの資格はどれほど高いハードルなのだろうか。使徒パウロは自分のことを「無きに等しい者」(Ⅰコリント1:28)とし「罪人の中で最たる者です」(Ⅰテモテ1:15)と告白している。しかし、そういう資格なき者を救うから「救い」なのだ。規格外だからこそ、主イエスの十字架の血潮によって規格内となり、神の子とさせられるのだ。地上の常識では考えられないことである。

 以前、卵を食紅で赤く染める習慣があった。赤は十字架の血を表している。コロナ以降、茹で卵を提供する教会は減ったがその意味を汲み取りたい。

救いは無条件。一方的な神からの恵みである。能力とはいっさい無関係だ。主は、この私のために血を流してくださった。それにより、資格なき者にも主の復活によって天国が用意されている。まことに感謝である。主イエスのよみがえりを心から喜び、お祝いしよう。