聖書箇所 ルカによる福音書6章43節~45節
説教題「良い実を結ぶ木」
説教 川﨑信二 牧師
新聖歌 332番 89番
聖書箇所 ルカによる福音書6章43節~45節
説教題「良い実を結ぶ木」
説教 川﨑信二 牧師
新聖歌 332番 89番
聖書箇所 マルコによる福音書10章13節~16節
説教題「こどもの好きなイエスさま」
お話 川﨑理子 牧師
新聖歌 483番 489番
聖書箇所 マルコによる福音書4章30節~32節
説教題「天国は成長するところ」
お話 川﨑信二 牧師
新聖歌 146番 468番
聖書箇所 創世記2章4B~9節
説教題「主なる神」
お話 川﨑理子牧師
新聖歌 19番 55番
聖書箇所 マルトによる福音書15章21節~32節
説教題「押しつけられた恵み」
お話 川﨑信二 牧師
新聖歌 107番 108番
十字架を潜って
川﨑 信二
桜ケ丘教会は、外の通路の屋根に赤い十字架が横たわっている。その十字架をくぐると会堂の入り口にたどり着く。私たちの救いのために主は十字架で血を流され、死んでくださった。そのイエスの体を通って神の御国へと招かれる構造となっている。立っている十字架でなく、横になっている赤い十字架を見ると「主イエスの死」を連想させられる。主イエスの死を通ることは、主イエスの復活に与ることにほかならない。信じて、潜りたいものだ。
三重県の某教会が30年ほど前に会堂を建築された。玄関は広く、誰でも、どんな人でも多くの人が入れるような造りとなっている。靴を脱ぎ、スリッパを履いて横長のロビーを歩いてゆくと段々と妙な気分になってくる。
通路が少しずつ狭くなっていくので圧迫感というか、何か落ち着かない気持ちになるのだ。奥の、最も狭くなっているところに細い扉があり、それを開けると礼拝堂が広がっていて、まさに天国のような空間が目に飛び込んでくる。
上から見ると、「X」(クロス)の形をしていて、真ん中の交差しているところは点のように細い。点は一人。一人だけが十字架の死を経験された。主イエスの言葉を思い出す。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13、14)
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
(ヨハネ14.6)
弟子たちや多くの人がイエスさまと共に歩いてきた。しかし、ゴルゴタの丘には誰も着いて来られなかった。主イエスお一人が十字架の裁きを受け、救いを全うされた。
私たちは信じて、主の後に続き、十字架の門を通って、さらに信仰をもってその扉を開けたいものである。
そこには永遠の主、輝くイエスがおられ、手を広げて待っていてくださる。
聖書箇所 出エジプト記3章7節~12節
説教題 神からの召命
お話 川﨑理子牧師
新聖歌 404番 396番
世界聖餐日 世界宣教日
川﨑 信二
小林昭博氏(酪農学園大学教授)が次のように述べています。
「日本基督教団は10月の第1日曜日を『世界聖餐日・世界宣教の日』に定めています。前者は1930年代にアメリカの長老派教会で始まり、1940年にアメリカ全体に広まったエキュメニカルな運動であり、現在はカトリックとプロテスタント諸教派が相互の違いや多様性を認め合い、分断や対立から一致へと向かう超教派運動として世界中で行われています。後者は戦後に教団が世界聖餐日を採用するに当たり、世界の教会の一致の証として世界宣教のために協力し合うことを目的として定められ、現在は海外で働く宣教師やアジア圏から教団関係学校に留学している学生を覚える日になっています。教団は聖餐理解や宣教理解をめぐって対立や分断が続いていますが、その本来の精神に立ち返り、合同教会として相互の違いや多様性を認め合う世界聖餐日・世界宣教の日が実現するように願っています。」
「教団は聖餐理解や宣教理解をめぐって対立や分断が続いています」という文言は「聖餐理解の違い」が世界宣教を妨げている、とも受け取れる矛盾した言葉にも思えます。
私たちが最も大事にしていることが、対立の火種になるというのです。悲しいことです。
最も大事にしているキリストの十字架による救い。その恵みを想起する聖餐。その聖餐理解が違うことによる分断。互いに譲れない問題だけに深刻です。
さらに、カトリックとプロテスタントの大きな違いも聖餐理解なのです。カトリックのミサと私たちの礼拝が合同で行えないのは、聖餐の考え方が異なるからです。
紙面の関係で詳細は書けませんが、「祈り」では一致できるのです。それで世界祈祷日が生まれ、共に祈る時が設けられています。違いを強調し、互いに裁き合う前に一致できるところで一致する。
各派の伝統を越えて共に祈ることが世界宣教には必要であり、それがキリストの「一つの体」を世に証する第一歩となるのではないでしょうか。
聖書箇所 ヨブ記第Ⅰ章7節~12節
説教題「悪魔はいるの?」
お話 川﨑信二牧師
新聖歌 190番 49番(聖餐式) 264番
教会の交わり(コリント二1:10〜17)
川﨑 理子
パウロは「クロエの家の人たち」⑾ からコリントの教会に起こっている問題を知らされました。それはコリント教会で派閥が生まれ、「パウロ派」「アポロ派」「ケファ派」「キリスト派」というように、分裂の危機にありました。
「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」⑽ とパウロは勧め、また「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」⒀ と嘆いてもいます。
「仲たがい」は「破れ」(スキスマ)を意味し、さらに「分裂」(シスマ)に進んでいく深刻な状態を指します。パウロは直ぐに手紙を書いて、一致して歩むようにと説きました。
では、「教会」は何によって一つとなるのでしょうか。教会が一つであるのはキリストが一人である、ということです。教会はキリストの体です。分けることはできません。
世の組織とは違います。教会における一致は、よく話し合い、お互いに譲り合い、妥協し合うところに生まれるものではないのです。人と人が折り合いをつけることではなく、一人の方、主イエス・キリストに固く結びつくものなのです。つまり、キリストによる一致、それが教会です。人間の考え、好き嫌いで仲間をつくり、一つになろうとするところにこそ、分裂や対立が生まれるのです。
先に「キリスト派」という言葉が出てきましたが、それは名ばかりで、キリストの名前を使って自己実現をはかろうと、自分達こそ「主」になろうとする者のことです。分断する教会をさらに掻き乱すので、他の教派よりもやっかいなグループでした。自分達が「主」ではなく、イエスこそ我が救い主です。
「パウロはあなたがたのために十字架につけられたのですか」⒀ パウロが見つめているのは「十字架につけられた主イエス」のみです。アポロもケファも私達の救い主にはなり得ないのです。
「教会の交わり」は、十字架の主を見つめることから始まります。罪の赦しによって、自虐的にならず、人を裁かず、一つ思いになって、同じ希望に生きることができるのです。