聖書箇所 コリントの信徒への手紙一12章12~26節
説教題「教会はキリストの体」
お話 川﨑理子 牧師
新聖歌 138番 343番
聖書箇所 コリントの信徒への手紙一12章12~26節
説教題「教会はキリストの体」
お話 川﨑理子 牧師
新聖歌 138番 343番
恐れではなく力と愛と思慮分別の霊
(テモテへの手紙二 1:1〜10)
川﨑 理子
21日㈫、「朝祷会」に奨励者として招かれて出かけました。東京に来てからは初めて(代々木朝祷会)でした。
朝祷会は1957年に大阪で14人のキリスト者による「大阪朝食祈祷会」として始まり、その後全国に広がりました。現在では約130会場で開催されており、様々な頻度で行なわれています。この集会はカトリック、プロテスタント、聖公会などの教派を超えた超教派運動としてイエス・キリストを信じる者たちが集まっています。
「代々木朝祷会」は7月21日で1621回。司会は救世軍の兄弟でした。彼は冒頭にこう言われました。
「朝位先生は朝祷会によくいらしてくださり、大きな声で祈ってくれました。先生が召された後の牧師先生がいない、と聞いておりました。桜ケ丘教会のことは気になっていましたので、本日は桜ケ丘教会の川﨑理子先生においでいただきまして本当に感謝しております。」
示された聖句に「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」⑺ とあります。
「力」は福音を知る勇気。「愛」は人に仕える心。「思慮分別の霊」は自分を制御する知恵です。
「神はわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。」⑼
この恵みに応えて、勇気をもって神に近づき、率先して人に仕え、自らの欲を抑えつつ、喜びをもって祈りの場へと出かけてゆきたいと思います。
主イエスの愛に押し出されて世に仕える者とならせて頂きたいものです。
キリスト者という呼び名
川﨑 信二
「……アンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった。」(使徒言行録11:26)
学生の頃、「おしん」という渾名で呼ばれていた。「しんじ」という名前と、戦中戦後を生き抜いた女性の人気ドラマから「我慢強い」イメージで、そう付けられたようだ。我慢強くはないが、人に声をかけられても恥ずかしくて言葉が出てこなかったために、何を言われても口答えしないで「耐えている人」と映ったのかもしれない。
「キリスト者」という渾名はパウロたちが熱心に伝道する姿から、ユダヤ人から揶揄されて付けられたとも言われている。主の弟子たちがいつもキリストの名を呼び(キリストは名前ではなく救い主という意味)、口にし、主を褒め称えていたのでそう呼ばれるようになったのだろう。
聖書学校の学生時代に宮崎県に伝道キャラバン隊を組んで実習に行ったことを思い出す。路傍伝道の一環で「わたしはクリスチャン」と描かれたTシャツを着させられ、真夏の商店街で踊りながら「ハレルヤ!わたしはクリスチャン」と歌わされた。恥ずかしかった。先輩たちは笑顔で主を賛美し、喜びに満ちていた。使徒たちがキリストの名で呼ばれる喜びと誇りを伝道の力に変えたように、私も恥ずかしがらずに「わたしはクリスチャンです」と告白できる者になりたい、と思わされた。
一人では心細い。キリストの名によって呼ばれる「キリスト隊」こそが教会の姿であるはずだ。
毎朝、「桜上水」と描かれたTシャツを着てジョギングをしている。笑顔でスキップもしている。周りからどんな目で見られているのだろうか(朝早いので人は少ないが)。
「わたしはキリスト者」と描かれたTシャツに替えてみようかな、と思うこの頃である。
聖書箇所 コリントの信徒への手紙二6章1~10節
説教題「恵みの時を生きる」
お話 川﨑理子 牧師
新聖歌 181番 182番
気持ちの問題ではなく、神の事実
川﨑 信二
「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」
(ヘブライ13:8)
信仰や祈りがもたらす心身の改善効果は、医学的に「プラセボ効果」のメカニズムと非常によく似ていると言われています。心理的な信頼感や期待が、不安の軽減、免疫機能の向上、痛みの緩和といった「思い込みによる実効」をもたらす側面があるとされています。
例えば、信仰を客観的に見た場合には次のように見ることができます。「祈りや神への信仰は、ストレスを軽減し、脳内物質の分泌を促すなど、物理的な健康の改善(特に免疫機能向上やうつ症状の緩和)に繋がる」と。
これは医学的な報告です。「信じる力」が物理的効果をもたらすということも事実なのでしょう。
信仰とプラセボ効果には共通点があります。薬の効果を信じることで症状が改善するプラセボ効果と同様、信仰も「神が治してくれる」「良くなるはずだ」という強い期待感によって、自然治癒力を引き出すという点です。
確かに、信仰がメンタルヘルスに寄与する点はあります。信仰が人生の目的や安心感を与え、精神的な安定(ストレス減少)を与える効果です。また「自然治癒力」は人が本来持っている力であり、前向きな希望によってそれが最大限に引き出されると言えるのです。
つまり、信仰による治癒効果は「ただの思い込み」ではなく、科学的にも実証されていて、人間の心身に内在する力として認められているものなのです。
しかしながら、そのような人間の側の気持ち次第で変わってしまうのなら、何とも心細いです。人の思いや信仰の前に、神の救いの事実があります。主の十字架と復活による約束は私たちの気持ち次第で変わるものではありません。
神の恵みは、私たちの信仰に拘わらず、揺らぐことのない絶対的なものです。
天のふるさと
川﨑 理子
先日、千歳丘教会のコンサートに行ってきました。ウクライナの民族楽器「バンドゥーラ」の演奏を初めて聴きました。奏者のカテリーナさんは、日本で活動されて20年。「私のコンサートは、事前のプログラムはないんですよ。目の前にいるお客様を見て曲を決めています」と。
1曲目はウクライナでは子守唄として知られている「幸せの鳥」を弾いてくださいました。カテリーナさんは「ウクライナ民謡の歌詞には、花を母に、鳥や動物を父や兄に例えることがあります。幸せの鳥は、木を切らないで、花を切らないで、と呼びかけている歌詞です。戦争で、木や花、命も切られています。私がステージに立つことで、バンドゥーラの音色と歌を響かせることで、ウクライナの現状を知ってもらいたい」と語られていました。
バンドゥーラは12世紀頃に起源を持つとされる伝統的な楽器です。65本の弦をもち、指に専用のつけ爪を付けて弾いて音を出す撥弦楽器なのです。4.5オクターブの音域があり二重弦になっています。カテリーナさんは「二重弦はピアノでいう白鍵と黒鍵のような関係ですよ」と教えてくださいました。
また、バンドゥーラはかつて、主に目の不自由な男性が歌いながら演奏し、歌詞の内容も民族の歴史や英雄話が中心だったことから、日本の琵琶にも似ているとのことです。
カテリーナさんの演奏と歌声には平和や祖国への想いが溢れていて、礼拝堂いっぱいに響き渡りました。
アンコールでは日本の「ふるさと」を会衆の皆さんでバンドゥーラの音色に合わせて全詞を歌いました。
私は、永遠のふるさと、「天のふるさと」へ思いを馳せました。ウクライナも、日本も、世界のふるさとは天にあります。主が創られたふるさとは全ての人のふるさとだ、と感じ、祈りを新たにさせていただきました。
「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ人の手紙11:16)
聖書箇所 歴代誌上4章9節~10節
説教題「ヤべツの祈り」
お話 川﨑 信二 牧師
新聖歌 196番 481番
聖書箇所 ガラテヤの信徒への手紙5章2~11節
説教題「パン種に注意せよ」
お話 川﨑理子牧師
新聖歌 437番 435番 聖餐式 46番
主イエスの再臨を信じる
川﨑 信二
「天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒1:11)
国家の圧力は、1939年に成立した「宗教団体法」によって次第に強められ、国家の認可を得ようと国策に擦り寄っていく当時のキリスト教界の中で、「ホーリネスの群」の前身「日本聖教会」もその波に吞み込まれていった。
その波を受け、日本聖教会は会則および教義の変更を余儀なくされた。改定後の規則の一部を記載する。
「第五条 本教会は旧新約全書を悉く神の言なりと信じ、使徒信経に記されたる基督教基本教理を維持す。
四項 我らは主イエス・キリストが栄光の貌(かたち)をもって再来したもう事と、その時キリストに在りて死にし者はよみがえらせられ、地にある聖徒は栄化せられ、ともに空中に携え挙げられ、後、神の国の来る事を信ず。」
何の問題もないように見えるが、主イエスの再来の場所、「地上」という言葉が削除されている。「空中再臨と信者の携挙」は残っているが「地上再臨」が曖昧になっている。文部省の指導により削除したことが当時の会則改正委員であった安部豊造牧師(更生教会)により証言されている。つまり、国家権力に追従したことは規則変更が物語っているのだ。
では、なぜ国体に擦り寄ったにも拘らず弾圧を受けたのだろう。「リバイバル信仰」や「教勢倍増」が国の威信に触れたのか。それもあるだろうが、やはり「再臨信仰」にある。
使徒信条に「……死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。」とある。
教団信仰告白にも「……教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。」と記載され、私たちは主の再臨を告白している。「再び来りたまふ」とは礼拝を守っているこの地上であることは明白だ。
それを比喩的に解釈し、「地上」を削除し、精神論に置き換えてしまう弱さがある。それでも弾圧を受けたのは神の深いご摂理によるのではないか。弾圧は、今後「最も大事な教理」である、主の再臨を否定することがないようにとの教訓だと思わされている。
書箇所 テサロニケの信徒への手紙一4章13~18節
説教題 「迫害の理由は再臨信仰」
お話 川﨑信二牧師
新聖歌