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2025/10/5 週報メッセージ

世界聖餐日 世界宣教日

川﨑 信二 

小林昭博氏(酪農学園大学教授)が次のように述べています。

「日本基督教団は10月の第1日曜日を『世界聖餐日・世界宣教の日』に定めています。前者は1930年代にアメリカの長老派教会で始まり、1940年にアメリカ全体に広まったエキュメニカルな運動であり、現在はカトリックとプロテスタント諸教派が相互の違いや多様性を認め合い、分断や対立から一致へと向かう超教派運動として世界中で行われています。後者は戦後に教団が世界聖餐日を採用するに当たり、世界の教会の一致の証として世界宣教のために協力し合うことを目的として定められ、現在は海外で働く宣教師やアジア圏から教団関係学校に留学している学生を覚える日になっています。教団は聖餐理解や宣教理解をめぐって対立や分断が続いていますが、その本来の精神に立ち返り、合同教会として相互の違いや多様性を認め合う世界聖餐日・世界宣教の日が実現するように願っています。」

 「教団は聖餐理解や宣教理解をめぐって対立や分断が続いています」という文言は「聖餐理解の違い」が世界宣教を妨げている、とも受け取れる矛盾した言葉にも思えます。

 私たちが最も大事にしていることが、対立の火種になるというのです。悲しいことです。

最も大事にしているキリストの十字架による救い。その恵みを想起する聖餐。その聖餐理解が違うことによる分断。互いに譲れない問題だけに深刻です。

さらに、カトリックとプロテスタントの大きな違いも聖餐理解なのです。カトリックのミサと私たちの礼拝が合同で行えないのは、聖餐の考え方が異なるからです。

紙面の関係で詳細は書けませんが、「祈り」では一致できるのです。それで世界祈祷日が生まれ、共に祈る時が設けられています。違いを強調し、互いに裁き合う前に一致できるところで一致する。

各派の伝統を越えて共に祈ることが世界宣教には必要であり、それがキリストの「一つの体」を世に証する第一歩となるのではないでしょうか。

2025/9/28 週報メッセージ

教会の交わり(コリント二1:10〜17)

川﨑 理子 

パウロは「クロエの家の人たち」⑾ からコリントの教会に起こっている問題を知らされました。それはコリント教会で派閥が生まれ、「パウロ派」「アポロ派」「ケファ派」「キリスト派」というように、分裂の危機にありました。

「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」⑽ とパウロは勧め、また「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」⒀ と嘆いてもいます。

「仲たがい」は「破れ」(スキスマ)を意味し、さらに「分裂」(シスマ)に進んでいく深刻な状態を指します。パウロは直ぐに手紙を書いて、一致して歩むようにと説きました。

では、「教会」は何によって一つとなるのでしょうか。教会が一つであるのはキリストが一人である、ということです。教会はキリストの体です。分けることはできません。

世の組織とは違います。教会における一致は、よく話し合い、お互いに譲り合い、妥協し合うところに生まれるものではないのです。人と人が折り合いをつけることではなく、一人の方、主イエス・キリストに固く結びつくものなのです。つまり、キリストによる一致、それが教会です。人間の考え、好き嫌いで仲間をつくり、一つになろうとするところにこそ、分裂や対立が生まれるのです。

先に「キリスト派」という言葉が出てきましたが、それは名ばかりで、キリストの名前を使って自己実現をはかろうと、自分達こそ「主」になろうとする者のことです。分断する教会をさらに掻き乱すので、他の教派よりもやっかいなグループでした。自分達が「主」ではなく、イエスこそ我が救い主です。

「パウロはあなたがたのために十字架につけられたのですか」⒀ パウロが見つめているのは「十字架につけられた主イエス」のみです。アポロもケファも私達の救い主にはなり得ないのです。

「教会の交わり」は、十字架の主を見つめることから始まります。罪の赦しによって、自虐的にならず、人を裁かず、一つ思いになって、同じ希望に生きることができるのです。

2025/9/21 週報メッセージ

年長者お一人ひとりをおぼえて

川﨑 信二 

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。 (Ⅱコリント4:16)

 教会における、いわゆる敬老祝事は日本基督教団の教会暦にはありませんし、行事暦にも記載がありません。

それでも9月の礼拝後に祝賀会をする教会はあります。礼拝の中で祝福式や祈りの時を持つ教会もあります。

桜ケ丘教会では先週、礼拝に於いて「年長者のための祈り」を主の前に捧げました。75歳以上を年長者として、教会員・客員・求道者、12名の年長者をおぼえて祈りました。礼拝に与れない年長の方々、病院等で過ごしておられる方々の霊肉が守られますよう共に祈ってゆきたいと思います。

日本同盟基督教団の式文に以下記されています。

「長寿を全うすることは、神の祝福です。『白髪は栄えの冠である。正しく生きることによってそれが得られる』(箴言16章31節)とあるように、教会に年長者が与えられていることは神の恵みです。本人にとっては深い感謝であり、若人にとっては大きな励ましです。したがって、教会において年長者をおぼえて祈ることは意義があります。」

「その日は主にのみ知られている。そのときは昼もなければ夜もない。夕べになっても光がある。」 ゼカリヤ14:17

祈祷 恵み深い父なる神様、敬愛する先輩方が、あなたの深いご摂理によってこの世に生を受けてから、長年の間御手のうちに守り導いてくださいましたことを心から感謝いたします。その間多くの喜びや悲しみの経験をさせてくださいましたが、特にその人生の途上で、信仰告白し救いにあずかることができましたことを心からお礼申し上げます。その生涯の中で、多くの知人、友人、肉親がこの世を去って行きましたが、全能者なるあなたが、この兄弟姉妹を病いや災いから守って、きょうまで支えてくださいましたことを心から感謝いたします。

願わくは、主よ、これから後この地上において生を許されている間、神の恵みと保護を与えて、信仰を深め、神の栄光をあらわす者としてください。

そのために聖霊の力を与えてくださいますように、心からお願いいします。

主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

アーメン

2025/9/14 週報メッセージ

「執り成す」

川﨑理子 

9月は、毎年忘れることができない、二人の女性の事を思い出します。一人は、22年前に天へ逝った母です。母の最期は眠るようでした。当日留学していた弟一家が、間に合うように「お母さん天国へ行くのもう少し待っていてね」と祈りましたが、叶いませんでした。母は、よく手紙を書いてくれました。病後はリハビリも兼ねて「御言葉」を中心に「教会」「教会員」の為に「毎日祈ってるから」と、必ず最後には、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」Ⅰコリント13:13 と書いてありました。

 もう一人の方は、伝道師時代に三ヶ月お宅に泊めて頂いた当時80歳の女性です。朝晩食事を共にし、榎本保郎先生著「旧約、新約1日一章」を用いてのデボーションは、本当に恵みのひとときでありました。まずは、自らの為に、そして、私、牧師、役員、教会員、求道者、家族の為に、祈りは続きます。最後は必ず「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」ローマ8:28の御言葉で終えていました。

 この方は私の誕生日には、早朝に電話かけてくださり、二人の子供の誕生日にも「祈ってますよ〜起きてる?」「この電話で起きました(笑)」「あらー」と、必ず私が、キツイなというタイミングでした。今思うと、神様が執り成してくださったのだと分かります。

「とりなす」=「執り成す」は、よいようにはからう。もめ事等の中に立っておさまりがつくようにする。なだめて機嫌よくさせるという意味です。私にとって、二人の女性は主の愛に満たされて「執り成し」の業「祈り」を教えてくれた信仰の先輩です。

 イエス・キリストは私の、私達の罪の為に十字架にかかり血を流して身代わりとなられました。十字架につけられた時に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」ルカ23:43と、神と、人間との執り成してとして十字架で、愛を示して下さいました。

永遠の命に至る道を示された私達は、恐れや不安から解き放たれて、復活の命に生きることができます。

2025/9/7 週報メッセージ

塩気のなくなった塩

川﨑 信二 

「自分自身のうちに塩を持ちなさい」(マルコ9;50)  

主イエスの時代、塩は既に防腐剤として用いられていた。毎日暑い日が続くと食物は傷み腐りやすくなる。冷蔵庫のない時代に保存する知恵があったとは驚きである。

 塩を畑に撒くと野菜が豊かに実る。主イエスは弟子たちに「あなたがたは地の塩である。」と言われた(マタイ5:13)。よく「世の腐敗を清めるクリスチャンの務め」と解釈される。「自分の存在が周囲のものを育て、世に影響力を及ぼすクリスチャンになる勧め」と理解されてきた箇所でもある。決してそれは悪いことではない。

 しかし、「塩」自身に塩気や塩味がなければ地上の人々を清めることはできない。つまり自分自身が清められていなければ周囲を清めることはできない、ということである。

かつて、ホーリネスの群委員長が「我等は日本基督教団を清める良心となろう」と言われたことがある。その言葉の背景には日本基督教団への批判があり、その健全化を心から願う祈りが込められていた。

けれども、見方をかえると「教団は汚れているが私たちは清い」というふうに誤解されやすい言葉でもある。

その頃、ホ群の内部では教団を離脱するか留まるか、で揉めていた時期であり、結局は分裂して、幾つかの教会が日本基督教団を出て、新たな教派を設立することになった。

教団に留まった私たちも「新生ホ群」という旗印をかかげ、再生の道を歩むことになった。教団を清めるどころか、むしろ分裂騒ぎで教団に迷惑をかけた、という反省が当時あったであろうか。「教団の良心」になる前に、私は本当に良心なのか、塩なのか、世の光なのか、を問わなければならない。

 私たち自身には罪はあっても、人を清める力などない。聖なる方は「わたしは聖である」(レビ記)と言われた主ご自身だけである。その聖の中に私たちも入れて頂ける。それがホーリネス。聖であるキリストを伝えることが「地の塩」であり、そのキリストがこの罪深い私の中に内住してくださる。それがホーリネスの恵みであると思う。

 「塩」は十字架にかけられた主ご自身のことなのです。