聖書箇所 ヘブライ人の手紙第11章39節~12章2節
説教題「完成車イエスを仰ぐ」
お話 川﨑 信二 牧師
新聖歌 20番 252番
聖書箇所 ヘブライ人の手紙第11章39節~12章2節
説教題「完成車イエスを仰ぐ」
お話 川﨑 信二 牧師
新聖歌 20番 252番
聖書箇所 イザヤ書6章1節~7節
説教題「献身の志」
お話 川﨑理子牧師
新聖歌 388番 391番
永遠の住み家(Ⅱコリント5:1〜10)
川﨑 理子
パウロは、地上の住み家は「幕屋」(一時的に住むための住居)だと語ります。彼は天幕造りの仕事をしながら伝道を続けました。伝道とは「神のひとり子であるイエス・キリストの十字架の贖いと、復活の命」を語ることです。
天幕造りの仕事はこの世で生きるために日々の生活の糧を得るために必要なことです。同時にこの世とは全く違う永遠の世界を語っているのです。
天の希望は「今ここに在る」。希望はあるが「地上の幕屋にあって苦しみもだえている」のが現実です。この世では「重荷を負っている」からこそ「天から与えられる住み家を着たい」(2.4)と切望するのです。この世で苦しむ体の上に永遠を着ることを心から望むのです。それは私たちの身近にもあります。
かつて、私が神学校へ行くことをとても喜んで下さった姉妹(当時短大の教授)から手紙が届きました。末期癌で東京の病院で入院治療中と書かれていました。御見舞に伺うとだいぶ痩せておられました。彼女は、家族を導けなかったこと、自らが本当に救われているのか、天国はあるのか、私自身そこに行けるのだろうか、と苦悩していることなどを話してくれました。まさに切実な言葉でした。
パウロは「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるから、ひたすら主に喜ばれる者になりたい」(7.9)と語ります。
死を目前にした時に姉妹は自身の体(地上の住み家)を抱えながら苦しんでいましたが、そこから目に見えない永遠の住み家へと心を移していったのです。信仰とは、イエス様の語られる言葉を信じ平安を保つことです。
イエス様は「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(ヨハネ14.3)と言われました。それは「全ての人のため」に用意してくださる場所です。「わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住み家」(5.1)が確実に備えられていることを。
しかもその住み家は「わたしのため」であり、「全ての人のため」に既に整えられています。この、人の考えの及ばない驚くべき主の救いに、主の御業の広さ深さに、心から感謝するものです。
年長者の霊性
川﨑 信二
更生教会の山口紀子牧師が同教会の月刊誌『ぶどうの樹』で岡本知之著『老いと信仰』(教団出版局/信仰生活入門シリーズ)という書籍を紹介されていました。
その書では、「高齢者」という呼称には人を二分する価値観が潜んでいる。「高齢期」とは「人を養う立場から養ってもらう立場に変わる時」という発想が背後にあり、生産性の有無で人を分ける、という考え方だというのです。
岡本先生は、人間の生産性の本質は、霊性・魂・体の健全さにこそある。聖書は人が「霊・心・体」から構成されると教えているのだ(Ⅰテサロニケ5:23)と指摘しています。
「霊性は人生が順風満帆、向かうところ敵なしといった時に実はもっとも低くなるのです。神など必要ないと高慢になりやすいからです。しかしこの時こそ本当の意味での『牧会』が必要になる時であり、そこに、人生の霊的成熟期を迎えた人々、つまり高齢者の果たす、大切な役割がある。」(『老いと信仰』14頁)というのです。
山口先生は「今まで出来たことが出来なくなる自分を受け入れること、人のお世話になること。それは謙遜でなければできません。謙遜にさせられるのです。切なさや痛みが伴います。」と述べ、「霊的成熟期に霊的生産性、霊的創造性が研ぎ澄まされる。」と記しています。
私はこれらのことから、人は小さくさせられる時こそ最も神に近づく時だと思わされました。与えられた健康や能力はやがて「神にお返しする」時が来ます。
かつてハンセン病で長島愛生園におられたある女性がこういう句を詠みました。
「目をささげ 手足をささげ クリスマス」
「返す」のも信仰ですが、さらに「ささげる」という捉え方は霊性がなければできません。主の御前に低くなり、感謝のうちに十字架の主を見上げて歩ませて頂きたいものです。
内なる人(Ⅱコリント4:16〜18)
川﨑 理子
パウロは「外なる人」は衰えていくとしても、「落胆しません」と語ります。「外なる人」とは見える部分、姿、衰え、老い等のことです。長生きをすればその分衰え続ける時間も長くなります。パウロの伝道者の生涯は波瀾万丈でした。どこへ行っても「ユダヤ人を迫害していた」「あのパウロ」でした。命も何度も狙われました。そんな生き方をすれば体もボロボロ、精神的にも追い込まれていくでしょう。また、「わたしにはひとつのとげがあり、そのとげを取り除くことはできなかった」と、彼自身、肉体的な弱さを持っていると告白しています。更にこの頃50歳を過ぎ、年齢的にも体力の変化を感じていたのではないでしょうか。
パウロは、この箇所で衰え続けることを悲嘆しているのではありません。むしろ「内なる人」の充実を語ります。それは、「外なる人」つまり「見える体」のことではなく、心の内、信仰的な目に見えない内面のことを指します。「内なる人は日々新たにされています。」との聖句は「信仰は毎日更新されていきます。」と受けとめることができます。日々衰えるのでなく日々更新です。
私は結婚する前の約2ヶ月間、当時伝道師をしていた教会がリフォーム工事のため、教会員の高齢の姉妹のお宅で共に過ごさせていただきました。88歳で1人暮らしをされていた姉妹に短い期間でしたがお世話になりました。
朝の祈祷、朝晩の食事9時半の晩祷他、規則正しい生活をしました。同じプロ野球チームが好きで熱い応援合戦をしたことを思い出します。姉妹の「外なる人は衰えて、私のようにシワシワおばあさんになっても内側は成長させて下さるのは神様だから安心ですよ。朝起きてまだ天国ではないと分かると一瞬がっかりするけどね」と穏やかに語る姿に「内なる人」は日々新たにされる信仰を見ました。
主を信じる者は年を重ねて尚更新続ける。成長して主の為に用いられる。なんと幸いなことでしょう。それは見えないものに目を注ぐ生き方です。私達は外なる人の終りを見つめつつ今を生きるのです。
あっぱれ!「玉鷲」!!
川﨑 信二
大相撲秋場所で通算連続出場1631回を果たし、角界1位に躍り出た鉄人「玉鷲(たまわし)」を皆さんご存じでしょうか。11月に40歳になる超ベテランの関取で幕内力士です。過去に幕内最高優勝を2回成し遂げたモンゴル出身の現役力士です(最高位関脇)。なんとなく地味で、人々からの印象が薄い力士でしたが、コツコツ努力し激しい突き押しと素早い動きで上位陣を苦しめ、勝っても負けても真っ向勝負、気持ちの良いお相撲さんであることが少しずつ認知されるようになりました。
インタビュールームでは、いつもニコニコして人当たりがよい。かといって勝負への執着が弱いのではなく、土俵にあがれば闘志むき出し、小細工はせず正々堂々、迷うことのない相撲を取り続けている、それが持ち味で、応援したくなる魅力的な人なのです。
美空ひばりが歌った「柔」という曲に「勝つと思うな 思えば負けよ 負けてもともと・・・」 という歌詞があります。常にチャレンジャー。謙虚さを失わず、若手に対しても胸を借りるつもりで、全力でぶつかる、その精神が清々しく映ります。
人間はもともと罪人です。聖書にこう書かれています。「正しい人はいない。一人もいない」(ローマ3:10)。「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」(同12:3)。
私たちも思い上がることなくコツコツと歩ませて頂きたい。同時にモンゴルの鷲のごとく、優雅に「翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)、生き生きとした信仰を常に持たせて頂きたいものです。
この世で長らえる限り主に向って歩みましょう。
―敬老の日に寄せて
聖書箇所 ヘブライ人への手紙第11条8~13節
説教題「天の故郷を熱望して」
お話 川﨑信二牧師
新聖歌 275番 248番
聖書箇所 コリントの信徒への手紙二 第5章1節~10節
説教題 「永遠の住み家」
お話 川﨑 理子 牧師
新聖歌 146番 468番
聖書箇所 ガラテヤの信徒への手紙6章1節~10節
説教題 「やわらかい心」
お話 川﨑信二牧師
新聖歌 206番「飼い主わが主よ」 251番「主イエスの御側に」
聖書箇所 コリントの信徒への手紙二 第4章16節~18節
説教題「内なる人」
お話 川﨑 理子牧師
新聖歌 199番「主を仰ぎ見れば」171番「今日まで守られ」