聖書箇所 ローマの信徒への手紙8章12~17節
説教題「神の霊によって子となる」
お話 川﨑理子牧師
新聖歌 137番 199番
聖書箇所 ローマの信徒への手紙8章12~17節
説教題「神の霊によって子となる」
お話 川﨑理子牧師
新聖歌 137番 199番
聖霊の時代を生きる
川﨑 信二
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2:1~4)
広島県の宮島にある“消えずの火”で知られる「霊火堂」が火事に遭い全焼した。空海の時代から1200年も灯されていると言われている“消えずの火”だが、燃えすぎてしまった。目に見える物は儚い、と改めて思う。
ペンテコステを迎え、聖霊降臨の恵みを覚える。聖霊について「炎のような舌」(使徒2:3)と表現されているが、会堂を燃やし尽くすことはない。信仰が燃える。魂が熱くなる、との意味である。つまり、物体ではなく目には見えない存在なのだ。しかも聖霊は火事で失われることはない。復活の主イエスの霊は永遠だからである。
ただし、私たちが祈ることを止めてしまわないように「“霊”の火を消してはいけません。」(テサロニケ一5:19)と勧められていることも確かである。
ペンテコステは「50日目」という意味である。主イエスの復活から数えて50。教会の歩みは数えながら終わりに向かう歩みである。教会暦は神の恵みを数えながら感謝を忘れないで生きるためにある。やがて、私たちの目に見えるこの肉体は全焼する。跡形もなく消えるが、聖霊による主イエスとの繋がりは途絶えることがない。この世の物質にではなく、見えない繋がりを大切にしたい。
ぶどうの木に繋がるように、聖霊により養分が満たされ、日々感謝しつつ、主の日(終わりの時)に向かいたいものである。
聖書箇所 使徒言行録1章12~14節
説教題「約束を信じて生きる」
お話 川﨑信二牧師
新聖歌 133番 132番
最初の愛に立ち返る
川﨑 信二
「……あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」 ヨハネの黙示録2:4-5
先週は母の日でした。世界中で、お母さんに「ありがとう」を伝える日となっています。母の日は教会暦にはありませんが、教会の中で始まった習慣です。
諸説ありますが、アン・リーブス・ジャービスの生き方をその娘が記念して、教会で「母の日」を開催したことに始まります。1908年5月10日のことです。母アンは、アメリカでの南北戦争の時に「敵も味方も区別しない。傷ついた兵士は誰かの息子だ」と北軍も南軍も隔たりなく看護し、戦後も互いの和解のために尽力した人でした。
娘アンナは手紙を書き、新聞社や政治家、実業家、聖職者に送り、心動かされた人たちによってこの運動は一気に全米に広がりました。その一人がデパート王ジョン・ワナメーカーです。5月第2日曜日が国民の祝日に制定されました。
今回初めて知ったことですが、娘アンナが母の愛を記念して始めた習慣でしたが、その彼女が皮肉にも「私が作った母の日を、消してくれ」と叫びながら、誰にも看取られずに精神病院で亡くなったというのです。理由は、素朴にお母さんに感謝する日としたかったのに、商業主義に利用され、創始の趣旨を思い起こすことができなくなったということ。花屋はこの日が近づくとカーネーションの値段を3倍に吊り上げ、グリーティングカード会社も、菓子メーカーも便乗して自分たちの利益をあげるために用いたのです。
そういう経済の潤いも決して悪いものとは思いませんが、クリスマスにしても、最近ではイースターも本来のイエス・キリストによる救いの出来事とは関係のないところで盛り上がっていることに残念な思いになります。
最初の趣旨、神様の愛に立ち返ることを遠ざけてしまう商戦には疑問を感じることがあります。
母の祈りに心を寄せたいと思う次第です。
聖書箇所 使徒言行録1章」6~11節
説教題 「天にのぼられた主イエス」
お話 川﨑理子牧師
新聖歌 131番 429番
永遠のお母さんは誰ですか
川﨑 信二
母の日を迎えている。ある宗派では主イエスの母となったマリアを「聖母」とし永遠のお母さんのように慕っている。マリアは崇拝される立場ではなく、普通の人間である。聖霊降臨の前に使徒たちと共に祈っていた(使徒1:14)彼女は女神ではなくイエスの弟子であり、神の僕であった。母なる神は存在しない。
むしろ、聖霊なる神にこそ母性的な側面がある。旧約に出てくるヘブライ語で「霊」と訳されているRuachという言葉には女性名詞が使われている。マリアを母胎として用いたが、聖霊によって身ごもった。聖霊が命を与える役割を担っているとも言えるだろう。
「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:25-27)
聖霊はマリアのように肉体をもった存在ではなく、見えない存在である。中世の芸術では、聖霊を聖母マリアと重ね合わせた表現で描写するものがあったが、聖霊とマリアは全く別である。
そもそも、人間の性を神に当てはめようとするところに無理がある。神は男性でもなく女性でもない。「父なる神」があるから「母」もあり、と見るのは人間の願望に過ぎない。父の要素、母性的な一面、両面を備え持つお方である。ちなみに、新約聖書ギリシャ語の「霊・息」(pneuma)は中性名詞だ。
父という言い方は、創造主とイスラエルの関係を表す比喩である。父・子・聖霊という概念は、神の家族の中に私たちを入れてくださる、という招きなのである。
主イエスご自身に全ての性がある。その名によって父との間をとりなしてくださる方だ。聖母にではなく、主イエスに直接に祈ること、十字架のイエスに祈ることが肝要だと思わされる。
聖書箇所 ヨハネによる福音書15章15~19節
説教題「お母さんをくださった神様」
お話 川﨑信二牧師
新聖歌 209番 475番
傷あとは主の愛のしるし
川﨑 信二
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」 (ヨハネによる福音書20:27)
傷痕は残る。忘れないために残る。私のために釘を打たれた主の愛を忘れないために。傷が消えると私たちは忘れてしまう。
私は以前、大腸に腺腫が見つかり、内視鏡で除去してもらった。開腹していないので傷痕もない。だから忘れてしまう。兄の献一牧師は40年以上も前に脾臓を摘出した。昔なので大きくお腹を切った。生々しい傷痕が今でもある。
トマスはイエスの傷痕に触れる体験をした。聖書を見ると触れる前に「わが主よ、わが神よ」(20:28)と悔い改めているので実際には触ってないのかもしれない。私のイメージだと、イエスがぐっとトマスの手を引き寄せ「ここだよ、これだよ」と傷痕を指でなぞらせたのではと思っている。彼はその凹みの感触を一生忘れることはなかったであろう。
五感で記憶する。五感……視覚、聴覚、嗅覚。香りは記憶に残る。純粋で高価な香油をイエスに塗ったマリア。華やかな香りが家いっぱいに広がった(ヨハネ12章)。それを記録したヨハネは晩年、遠ざかる記憶のなかで、あの時のあの香りだけは忘れなかったのだろう。傷痕もイエスの言と共に思い出す。「見ないで信じる者は幸いだ」と主は言われた。しかし、見て、触って、後悔してから主を信じる。復活された日、トマスにそのお姿を見せなかったのは、愛の傷を見せるためだったのではないか。
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。」 (ヨハネ一1:1)
聖書箇所 ヨハネによる福音書15章1~10節
説教題「主につながる枝」
お話 川﨑理子牧師
新聖歌 477番 聖餐式46番 317番
主イエスの死こそわが命
川﨑 信二
「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」
「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださる」 コリント二4:10、14
十字架のアクセサリーを身に着けていても文句を言う人は誰もいません。クリスチャンでなくても十字架のネックレスを着けていると「ステキね」と褒められます。十字架が当時のローマ帝国で最も残酷な死刑の道具だったのに気持ち悪いと思う人はいないのです。
4年前、パリのファッションショーにロープの輪をあしらったネックレスをしたモデルが登場し、それを手掛けたフランスの高級ブランド社が批判を浴びました。絞首刑の縄を模した、と物議を醸したのです。
英国を代表するラグジュアリーの一流会社は2019年ロンドンでの新作コレクションの展示会にて首吊り紐をデザインしたアクセサリーを発表。これに対し有名モデルの一人が猛烈に抗議をしたと言われています。
なぜ、それよりも酷い処刑道具である十字架には何も言わないのでしょうか。
それは主イエスの死が、私の救いに関係するからです。主イエスが死から復活された喜びを常に身に帯びることで、神様の愛を忘れないようにと願うからです。教会堂の屋根に高々と十字架をかかげていても「撤去してほしい」と言う人を見かけたことがありません。
主イエスの十字架の死がなければ、私たちに永遠の命はないのですから。
主の愛を身に着け、主の死を掲げてあゆむ私たちでありたいものです。