榊原紀惠子 のすべての投稿

2026/4/5 週報メッセージ

規格外だからこそ

川﨑 信二

イースターエッグ。卵は主イエスの復活の象徴とされている。ユダヤの過越祭で新しい命のシンボルとして、茹で卵を食べる慣わしが古くからあった。過越祭は、奴隷の地エジプトから聖地へ導かれたことを記念して行うものである。つまり卵には復活や再出発の意味があるのだ。

卵といえば、学生のころ養鶏場でアルバイトをしたことがある。ニワトリが産んだ卵を次々とケースの中に入れる作業があった。枠にピタッと収まる大きさのものを詰めていく。大きすぎるもの、また小さすぎるものは、いくら味が良くても取り除かれる。売り物にならないからである。だから、双子の卵などは養鶏場で目玉焼きにして美味しくいただくのである。モグモグといただきながら、質も量も満点なのに枠にはまらないだけで「資格なし」とレッテルを貼られることには疑問を感じたものだ。

では教会はどうだろうか。天国行きの資格はどれほど高いハードルなのだろうか。使徒パウロは自分のことを「無きに等しい者」(Ⅰコリント1:28)とし「罪人の中で最たる者です」(Ⅰテモテ1:15)と告白している。しかし、そういう資格なき者を救うから「救い」なのだ。規格外だからこそ、主イエスの十字架の血潮によって規格内となり、神の子とさせられるのだ。地上の常識では考えられないことである。

 以前、卵を食紅で赤く染める習慣があった。赤は十字架の血を表している。コロナ以降、茹で卵を提供する教会は減ったがその意味を汲み取りたい。

救いは無条件。一方的な神からの恵みである。能力とはいっさい無関係だ。主は、この私のために血を流してくださった。それにより、資格なき者にも主の復活によって天国が用意されている。まことに感謝である。主イエスのよみがえりを心から喜び、お祝いしよう。

2026/3/29 週報メッセージ

何もしない罪

川﨑 信二

世界のあちこちで軍事衝突や報復攻撃により民間人が巻き込まれている。軍備、民族、宗教、思想……長い歴史の中で複雑な要因が絡み合っているが、その根底には人間の罪があることを思わざるを得ない。受難週を迎えたこの時、十字架の主イエスを仰ぎ、平和を祈りたい。

ドイツのルター派牧師であり反ナチ運動組織、告白教会の指導者マルティン・ニーメラーが第二次大戦後に残した言葉を紹介したい。

『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』

ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者でなかったので何もしなかった。

それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども自分は依然として社会主義者ではなかった。そこでやはり何もしなかった。

それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかった。

さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった。 ― 丸山眞男 訳、「現代における人間と政治」(1961年

2026/3/22 週報メッセージ

主はわたしの羊飼い

川﨑 信二

主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。(詩編23:1/聖書協会・共同訳)

「マイ・ウェイ」という曲は教科書にも載っている、多くの人に知られている歌だ。かつてアメリカの歌手・俳優のフランク・シナトラが歌っていたもので、彼の代名詞と呼ばれるほど人々に親しまれた歌だった。「すべては心の決めたままに……迷わずに行くこと……信じたこの道を私は行くだけ」。私の道をゴーイングマイウェイ! と歌いつつ貫く、自分の力で道を切り拓くイメージ゙があった。

 フランク・シナトラは敬虔なカトリックの家庭で育ち、洗礼も受けている。有名になってからは教会から離れていた時期があった。晩年、彼はこの曲を歌うことが苦しくなったという。ファンから歌ってほしいとリクエストされるが、自分の道を思い通りに歩めていないことと、主が私の道を導いてくださったことを経験したからである。

ジェームス・ディーンやマリリン・モンローなど、若くして世を去ったスターに比べ、彼は長生きだった。しかし、長寿は自らの弱さと向き合うことを体験させられる。

詩編23編を書いたダビデは70歳で死んだ。当時としては長生きである。巨人ゴリアトを倒した羊飼いのダビデはその後国王となり世を治めた。しかし、多くの罪を犯し、晩年には幼子のようになり、「主よ、あなたこそ私の羊飼いです。私は飼われる羊に過ぎません」と告白したのだ。

羊のように、幼子のように、小さくなって、神を信頼して生きる。それが神と私たちの本来の関係である。

ある方の記念会が行われ、ありし日の彼女の生き方に思いを馳せた。たび重なる試練の中で、主に信頼して生きたその生き様と信仰に倣う者になりたいと思わされた。心を虚しくし、羊飼いである主を仰ぎたいものである。

2026/3/15 週報メッセージ

食前の祈りと賛美(テモテ一 4:1~5)

川﨑 信二 

       

受難節には十字架の主の苦しみを覚えて、自らも少し我慢し、節制する期間として過ごす信仰者がおられる。好きなお酒を断つ。甘い菓子を控える。できる範囲で抑制し、少しでも主の苦しみに寄り添う気持ちは尊いことだ。

ただ、これは任意であり各々の信仰によって目標を定めるのであって、やらない人を裁いてはいけない。十字架の主を見上げる機会として用いるのが趣旨である。

パウロがテモテに手紙を書いたこの時代には禁欲主義が蔓延っていた。「結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。」⑶ 

教会でも受難節には結婚式をしない教会がある。教会の信仰の姿勢として理解できるが、それを絶対化すると愛の精神(十字架の恵み)から外れていく危険性がある。

食事も、断食するよう強要するのではなく、感謝していただくことが最も大事なことである。

「神が造られたものはすべて良いものであり、感謝して受けるなら、何一つ捨てるべきものはありません。それは、神の言葉と祈りによって聖なるものとされるからです。」(4-5)

 「我らの日毎の糧を今日も与えたまえ。」主イエスが教えてくださった「主の祈り」は主に向って「与えてください」と祈ることを勧めている。求めると同時に「感謝の祈り」をささげることが大切。「今日こうしてご飯を頂ける幸せを感謝します!」と食事ごとに神に祈るのだ。

中田羽後作詞の賛美歌に「日々の糧を与え給う。恵みの御神はほむべきかな」という食前に歌う曲がある。

歌うこと。その流れでよく噛んで食べることは健康にも良い。霊肉共に健やかになるために、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝して過ごさせていただきたい。

命のパンとなられた、十字架の主イエスの肉と血を信仰をもって感謝して受け、心のなかに入れたいものである。

2026/3/8 週報メッセージ

主のもとへ還る

川﨑 信二

今週、私は「還暦」を迎える。そのイメージはよくない。子どもの頃、赤のちゃんちゃんこを着たお爺さんが杖をついている姿に幻滅したからだ。明治・大正生れの方が次々と還暦の装いに身を包む姿を見て「ボクはあんなふうになりたくない」と思ったものだ。

「還」は「元に戻る」という意味。「暦」は干支の12年周期を表す。60年で一巡し、生まれた年の干支に戻ることからそう呼ばれているらしい。60年で一巡。つまり丙午の年である。迷信から一級下の学年の生徒数が少なかった。

一巡し再出発。第二のスタート地点と考えれば前向きになれる。しかし、スタート地点がよぼよぼでは心もとない。身体も健康でその日を迎えたい。還暦に限らず、人生はその都度リセットが必要だ。主イエスという、立ち返る居場所がいつも備えられ、心が新しくなることは本当に感謝である。そもそも、今まで生かされてきたことが奇跡なのだから。

私のスタートは出生時から「死」を纏っていた。へその緒が首に絡まり瀕死の状態で世に出たのである。双子で未熟児。早産で死にかけて産まれた者が今日まで健やかに生かされていることに感謝したい。4月が出産予定日だったのに二人そろって学年が一つ上がってしまった。弟には申し訳ない。

同級生より勉強も体力も遅れていた。その上、忘れ物が多く、集中力がない。先生から叱責されていた。文房具を忘れる。ランドセルや靴を無くす。成人になってからも時々似たような失敗を続けている。人と比べて「ボクにはあれもない、これもない」と能力の乏しさばかりを嘆いていたが、それでも今日まで生かされてきた。

讃美歌を皆と共に歌い、神の言葉に励まされ、主イエスを賛美できる幸いを感謝せずにはいられない。聖日ごとに復活の主のもとに帰る。

干支の12年周期ではなく、丙午の60年周期でもなく、毎週スタート地点に還る。日曜日の朝、深い悔改めをもって十字架の主を仰がせて頂きたい。