榊原紀惠子 のすべての投稿

2023/2/26 週報メッセージ

誘惑と試練

朝位 フミ子 

 「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、〝霊〟に導かれて荒れ野に行かれた。」(マタイ4章1節)

 この「誘惑」という言葉は、誘惑と訳されるだけではなく、もう一つの言葉で訳されます。それは「試みる」「試練」というものです。本当に不思議なことに、誘惑と試練は聖書では同じ言葉で、聖書の文脈によって試練あるいは誘惑と使い分けられている言葉なのです。

 誘惑とは、その出来事を通して私たちが神様に躓き、神様への信頼を失って、神様から引き離されてしまうことだと言ってよいでしょう。その出来事が誘惑になるならば、私たちが信仰を失い、教会生活から離れ、神から引き離されてしまうことですから、私たちは神様のおられない世界に生きることになってしまうのです。

 反対に試練については、使徒パウロの有名な言葉があります。コリントの信徒への手紙一、10章12~13節で、試練には必ず逃れる道があると語られます。試練には必ず出口があると言われます。試練の先には、必ず逃れる道、出口が用意されています。それがどこにあるのか、それがいつなのか、私たちには分からないことですが、分かっているのは、神様は真実な方であるということです。ですから、神様は私たちに乗り越えられない試練や、耐えられない試練は決して与えられないわけです。私たちは試練の中でも神様に信頼し、神と共に歩み抜くならば、試練を通して、試練を経験する前よりもずっと深く神様との絆が固く結ばれる機会となると、使徒パウロは教えているのだろうと思います。

 私たちの人生の経験をふり返れば、私たち人間には、試練と誘惑をあらかじめ区別することはできないことが分かります。私たちにできることは、神さまと共に試練を歩みきったとき、神が備えてくださっている出口を出たときに、神様の守りと導きの確かさを知らされて、神への信頼がいっそう堅くされるということでしょう。

2023/2/19 週報メッセージ

恐れることはない。ただ信じなさい。

朝位 フミ子 

  「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」(ルカ8章50節)

 恐れるな。これは、恐れるのは不信仰でだらしがないぞということではなくて、聖書では神が共におられることに気づかせる時の言葉です。天使や神様が共におられることを思い出せ、神があなたと共におられるからもう大丈夫だ、何も心配しないで行けということです。ヤイロの信仰が失われないように、主イエスがここで彼を励まし力づけたのです。

 人間にはもうどうすることもできない絶望的な現実、死の現実を前にして、主イエスは、諦めるな、最後まで私と一緒に歩き続けなさい、どんなことが起こっても私から離れるな、私について来いと命じられたのです。人間の常識は、結論はもう出たので仕方がない、諦めようというものです。私たちも神の救いが待ちきれないで、すぐに自分の判断で結論を先に出そうとします。しかし人の常識に従うのではなく、主イエスの「私に最後まで従え」との御言葉に従って歩み出すのです。これが信仰というものです。信仰とは、人間が先走って自分の考えで結論を出したくなる時に、そこに踏みとどまって神に信頼し、神の救いを待つということなのです。私たちが、もう駄目だ、もう無理だ、もう何をしても無駄だから諦めようと思っている時に、主イエスは「私を信じる人は、もう駄目だということは絶対にないんだ」と強く呼びかけてくれます。

  「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば救われる」ということは、どんなに悲しいことがあっても、恐ろしいことがあっても、心が落ち込んでいても、主イエスから離れないで、最後までイエスについて行くということです。イエスのお力を最後まで諦めないで信じて、お祈りして救いを待ち続けることです。この御言葉に従って神と共に歩んで行きたいと思います。

2022/2/12 週報メッセージ

人を汚すもの

朝位 フミ子 

  主イエスは言われました。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(マルコ7章15節)ファリサイ派の人たちは、汚れたもの、悪いものは皆外にあって、自分の中、自分たちの内、心の中は清いと思っていました。しかしイエス様は、そうじゃない、外にあるものは皆清いものだ、お前たちの内側にあるものが汚れているんだ、あなたたちの内面、心の中が腐っているんだという話をしたのでした。イエス様は、外にあるものは全部清いものだ、神様がお造りになったものは最初から全部清いものなんだ、それなのに人から出て来るものが人を汚すんだとおっしゃいました。私たちは、いつの間にか、自分の心はきれいだと思っているところがあります。自分の方が正しくて、相手の方が悪いと思っています。しかし、イエス様は、悪いものは皆人間の心の中から出て来ると言われたのです。

  ファリサイ派の人は、世間的には立派な人たちでした。自分の内側はきれいだと思っていて、自分はいつも正しいと思っていました。だから、バリバリに隣人のことを裁くのです。自分が神様の側に立って、いつも人を裁くのです。自分の心はきれいで、自分は正しいと思っている人ほど、神様の目から見たら本当に困った人なのです。そういう人に対して、イエス様は、あなたの内側が腐っている、あなたの心の中がどうしようもなく腐っているから、あなたの中に人を裁く心がある、本当に赦されなければならないのは、あなたのその腐った心の中なのだと言われます。

 本当に努力しなければならない務めは、隣人を愛する務めです。その務めがズレている私たちは、外からイエス様を心の中にお迎えするのです。毎週の礼拝で、私たちの中にイエス様を迎える務めをしていきたいと思います。

2023/2/5 週報メッセージ

貧しくなると、豊かになる

朝位 フミ子 

  「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリ八・九)

 神が人になるために、キリストが神の豊かさを全部捨てて、貧しくなった出来事を伝えています。しかし、ある人はこのように言います。「キリストは神の子なんだから、ここで私たちを豊かにするために命を捨てて捧げても、何も困らないだろう。痛くも痒くもないだろう。神として当たり前のことだ。キリストは、そんなに大きな犠牲を払ってはいないのではないか。小さい犠牲なのではないか。キリストの豊かさは無限に、限りなくあるのではないか。」

 でも、それは現代人の発想です。古代の人々は、そうは考えませんでした。古代の人々は、誰かが豊かになるときには、誰かが貧しくなると考えました。逆に、誰かが貧しくなると、誰かが豊かになると考えていましたから、聖書の時代に生きた人たちには、無限という考え方はなかったのです。だから、主が私たちを豊かにするために貧しくなられたということは、主が私たちを豊かにするために、限りある命を捨てられて、本当に貧しくなられたということになるのです。

 キリストが自分の豊かさである命を無限に持っていたから捨てることができたのではなくて、キリストが私たちと同じ人間となって限りある命、限りある豊かさを全部捨てて、大きな犠牲を払ってご自分は貧しくなり、空っぽになってまで私たちを豊かにしたのです。主イエスは、ご自分を無にされ空にされて、ご自分の持っておられた恵みと命の全てを私たちにくださいました。私たちが豊かなのは、主イエスが空っぽになられたからです。主イエスの栄光とは、ご自分を空にして私たちと同じ貧しい人となり、私たちに全てをくださる恵み、私たちと一つになって私たちの死と滅び、罪を担い、私たちに神の子の栄光をくださる恵みなのです。

2022/1/29 週報メッセージ

山上の変容 1

朝位 フミ子 

  「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(マルコ9:2~3)

  高い山の上で3人の弟子たちは、イエス・キリストの姿が変わり光り輝いているのを見て、「これが神と一緒にいるときに経験することなんだ」と感じました。本当に、今自分たちと一緒におられる神様の姿を見ることができたわけです。だから、わざわざここでペトロが口をはさんでイエスに言ったのです。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。」(5節)ペトロは、この高い山の上に、この場所に、この先もずっといたいと思ったのです。ここに小屋を建てて、ずっとこの場所に住みたい。この場所から離れたくない。神様の臨在に触れることができて、神様と共にいることはこんなに嬉しいことなんだ、こんなに素晴らしいことなんだ、これ以上の喜びは他にないと、心の底から思ったのでした。

 ペトロが実感を込めて言うような、神様の臨在に触れる場所、それは私たちにとってはこの桜ヶ丘教会です。桜ヶ丘教会の礼拝の中に神様がいます。神様の臨在に触れる場所がここにあるのです。私たちがここにいることは、本当に幸せなことです。このことは決して間違っていないのです。

 私たちが今捧げている礼拝で、弟子たちのように、今ここで生きて働いておられる神様の臨在に触れるとき、そこにシャロームがあるのです。心の安息、平安、平和があるのです。そこに、感謝と喜びの満たしが確かにあるのです。私たちが、神の栄光が表されるこの礼拝の場所で、生きて働いておられる神の臨在に本当に触れたら、心が喜びで満たされ、心の中が温かくなる経験をしないはずはないわけです。