榊原紀惠子 のすべての投稿

2026/6/14  週報メッセージ

信仰にとどまり、さらに実を結ぶ教会に

川﨑 信二

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。 ヨハネ15:5

先週は桜ケ丘教会創立103周年記念礼拝を西海満希子牧師の説教により主の御言葉に聴きました。

板井康祐牧師の米国での入信、献身、自宅での開拓伝道について触れていただき、戦時中の苦難と戦後復興、板井牧師の逝去後の教会に歩みについて、西海夫妻の牧会の様子をうかがいました。困難のなかで主が教会を立て、導いてくださったことを知り感謝でした。

標記の聖句の「つながる」という言葉は「留まる」という意味で、くっついているだけでなく、そこに住むという意味があるということです。頭での理解ではなくイエス様の霊が私の心に入って、住んでくださる。主が私のなかで生きておられる、それを受けることが信仰だと知りました。さらに、神ご自身が主体的に私たちのなかに留まってくださるとの恵みに感謝した次第です。実を結ぶとは信仰のことであり、信仰者が増えるということ。桜ケ丘教会はそこに重きを置いて歩み続け、マンション教会の時代には特に教会学校におけるこどもたちへの伝道と教育に祈りと力を注いで、実際に今その実が結ばれていることを示され、共に主の聖名をあがめたことです。

103周年を迎えた教会。主の導きに従い、これからも、信仰の根を深くおろし、十字架の愛を伝える私たちとさせていただきたいと心から願うものです。

2026/6/7 週報メッセージ

創立記念日(6月1日)をおぼえて

川﨑 信二

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。

ヨハネ15:5A

桜ケ丘教会は1923年(大正12年)6月1日、初代牧師である坂井康祐福音使が東京府駒澤村世田谷新町の自宅で開拓伝道を開始したことに端を発します。

1924年、東洋宣教会ホーリネス教會第6回年会にて板井先生が定住福音使、自給福音使として任命されました。1930年、澁谷町栄通1-16に移転して「祈りの家澁谷ホーリネス教會」と改称。日本ホーリネス教会分離後、1937年「日本聖教会澁谷聖教会」となります。

 1941年、日本基督教団設立とともに教団に加盟し、「日本基督教団桜ケ丘教会」となり、今日に至っております。

 創立を記念して本日は西海満希子牧師に礼拝説教をしていただきました。先生は西海静雄牧師とご結婚され1970年から1994年まで本教会を牧会され、吉川教会および東京聖書学校舎監のお働きのために転任されました。板井牧師の逝去後、教会は専任牧師がいない時期を11年間過ごした後、1968年に西海静雄牧師を迎えました。多難な時代の中で伝道と教会形成に尽力されたご夫妻です。静雄牧師は2004年に逝去されました。満希子牧師の尊いご奉仕に心から感謝します。

 午後は「Immanuel」のお二人によりチャペルコンサートを開催いたします。Immanuel(インマヌエル)は「神が共におられる」という意味です。オリジナルの曲を中心に神様からの癒しの歌を届けてくださいます。どうぞご出席ください。

2026/5/31 週報メッセージ

父・子・聖霊

川﨑 信二 

「わたしと父とは一つである」 (ヨハネ10:30)

 本日は三位一体主日(聖霊降臨日の翌週)です。神はお一人(一体)です。かつ3つのペルソナ(ラテン語)を持つお方です。父なる神、子なる神、聖霊なる神、という3つの位格を持ちながらも本質は1つ、という意味です。

但し、「位格」を「人格」と訳すと、神が3人いるかのような、多神教的な錯覚に陥る危険性があるので注意が必要です。

標記の聖句は主イエスご自身の言葉です。主は「1」を強調されました。父と子は1つ。また「主とは、“霊”のこと」(コリント二3:17)であり、聖霊は「復活されたイエスの霊」のことです。

ペルソナの語源は「仮面」や「表面上の自分」という意味で、人間の言葉で説明するためのものであり、むしろ「本質は一体」の言葉の方を心に受けとめたいものです。

 「父・子・聖霊」と一般的には中黒(・)で並記します。3つの関係性、3つは同格であることを示していますが、「父なる神様、子なるイエス様、聖霊様!」と祈ると、対象が「3人の神様」になってしまうので、これは間違い。神は1人です。

新共同訳聖書の訳でペトロ二1:2を見ると、こう書かれています。「神とわたしたちの主イエスを……」。

「と(και)」は、文法上(シャープス・ルール)では、「~であり、かつ~である」と解釈されます。1つの冠詞が2つの名詞(神とイエス)を繋ぐ場合、「“わたしたちの神”であり、かつ“救い主であるイエス・キリスト”を」という解釈になります。両者は同じです。別人格ではありません。「父が上で、子が下」でもありません。主イエスこそ神なのです。(*新共同訳は誤解されやすい訳ですね。)

『使徒信条』に三位一体の神について告白されています。その中で主イエスの欄が圧倒的に紙面を割いています。それは主イエスこそが神の姿を現わしているからなのです。

2026/5/24 週報メッセージ

聖霊の時代を生きる

川﨑 信二 

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2:1~4)

 広島県の宮島にある“消えずの火”で知られる「霊火堂」が火事に遭い全焼した。空海の時代から1200年も灯されていると言われている“消えずの火”だが、燃えすぎてしまった。目に見える物は儚い、と改めて思う。

 ペンテコステを迎え、聖霊降臨の恵みを覚える。聖霊について「炎のような舌」(使徒2:3)と表現されているが、会堂を燃やし尽くすことはない。信仰が燃える。魂が熱くなる、との意味である。つまり、物体ではなく目には見えない存在なのだ。しかも聖霊は火事で失われることはない。復活の主イエスの霊は永遠だからである。

ただし、私たちが祈ることを止めてしまわないように「“霊”の火を消してはいけません。」(テサロニケ一5:19)と勧められていることも確かである。

 ペンテコステは「50日目」という意味である。主イエスの復活から数えて50。教会の歩みは数えながら終わりに向かう歩みである。教会暦は神の恵みを数えながら感謝を忘れないで生きるためにある。やがて、私たちの目に見えるこの肉体は全焼する。跡形もなく消えるが、聖霊による主イエスとの繋がりは途絶えることがない。この世の物質にではなく、見えない繋がりを大切にしたい。

ぶどうの木に繋がるように、聖霊により養分が満たされ、日々感謝しつつ、主の日(終わりの時)に向かいたいものである。

2026/5/17 週報メッセージ

最初の愛に立ち返る

川﨑 信二 

「……あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」  ヨハネの黙示録2:4-5

先週は母の日でした。世界中で、お母さんに「ありがとう」を伝える日となっています。母の日は教会暦にはありませんが、教会の中で始まった習慣です。

諸説ありますが、アン・リーブス・ジャービスの生き方をその娘が記念して、教会で「母の日」を開催したことに始まります。1908年5月10日のことです。母アンは、アメリカでの南北戦争の時に「敵も味方も区別しない。傷ついた兵士は誰かの息子だ」と北軍も南軍も隔たりなく看護し、戦後も互いの和解のために尽力した人でした。

娘アンナは手紙を書き、新聞社や政治家、実業家、聖職者に送り、心動かされた人たちによってこの運動は一気に全米に広がりました。その一人がデパート王ジョン・ワナメーカーです。5月第2日曜日が国民の祝日に制定されました。

 今回初めて知ったことですが、娘アンナが母の愛を記念して始めた習慣でしたが、その彼女が皮肉にも「私が作った母の日を、消してくれ」と叫びながら、誰にも看取られずに精神病院で亡くなったというのです。理由は、素朴にお母さんに感謝する日としたかったのに、商業主義に利用され、創始の趣旨を思い起こすことができなくなったということ。花屋はこの日が近づくとカーネーションの値段を3倍に吊り上げ、グリーティングカード会社も、菓子メーカーも便乗して自分たちの利益をあげるために用いたのです。

そういう経済の潤いも決して悪いものとは思いませんが、クリスマスにしても、最近ではイースターも本来のイエス・キリストによる救いの出来事とは関係のないところで盛り上がっていることに残念な思いになります。

最初の趣旨、神様の愛に立ち返ることを遠ざけてしまう商戦には疑問を感じることがあります。

母の祈りに心を寄せたいと思う次第です。