榊原紀惠子 のすべての投稿

2025/11/9 週報メッセージ

キリスト教書籍のこれから

川﨑 信二

イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブライ13:8)

去る11月3日は「文化の日」だった。以前「読書の秋」と言われたが「読者」も激減、「秋」もいつが秋なのか分からないこの頃である。そんな中、キリスト教書籍専門店も厳しい状況に置かれている。私がキリスト教書の仕事に携わっていた時はライバル会社の「いのちのことば社」や「CLC」(クリスチャン文書伝道団)も元気で、出版と文書販売にしのぎを削っていたが、今や全てが様変わりしている。

 4年前、コロナ禍でお茶の水クリスチャン・センターの2階にオアシスお茶の水店がオープンした。全国でキリスト教書店の運営を担ってきた70年の歴史をもつCLCが2020年に解散した。そこに新宿ライフセンター(いのちのことば社)が「オアシス」として入ったのだ。大嵐の中での船出となった。

キリスト教書店の現状は、もはや不振や低迷のレベルではない。30年前からキリスト教会の教勢低下、さらに活字離れ、本離れが重なって、苦戦が続いてきた。かつて1980年・90年代には全国に大小約120のキリスト教専門書店があったが、今はその半数以下。その間、閉店・再編がじわじわ広がりコロナ禍でそれが一気に加速した。NCC系の書店はもっと顕著に悪化している。日本基督教団出版局もその一つだ。それでも、救いを求めている方にとって「活字」は必要である。その活字はみことばが土台になっている。 

 時代は変わっても、みことばは変わらない。イエス・キリストの愛も廃れることはない。

 主イエスのことばを求める人に寄り添う働きが継続できるようお祈りください。

2025/11/2 週報メッセージ

召天された方々をおぼえて

川﨑 信二   

人は死んだらどこにいくのか。どういう状態になるのか。Ⅰコリント15章には「霊の体」になる、と記されているので地上の肉体とは違うのだろう。死を経験していない者にとって、死後の体については想像するほかない。

 召天、永眠、復活。死後の状態を表す言葉がある。私は「復活」がしっくりくると思う。理由は、主イエスが初穂として復活され、私たちにも復活を約束してくださったからだ。すなわち、私自身も体験できる恵みなのだ。

 召天は、地上から故人を記念するときに用いる言葉だ。遺族から見て、今は地上ではなく神のみもとにおられる。だから「召天者を記念する」のである。

永眠という言葉には、死後ずっと意識がないようなイメージがある。科学的には一番近い表現だとは思うが、死者は眠り続けるのではなく、目覚める時が来るのだ。

すなわち、神のもとで起きる。それが聖書的な死生観だ。

私は、永眠とは「永遠の安らぎ」という意味で理解している。

言い方はともかく、故人はいま、一番よいところで幸せを得ているといえよう。それが究極の、神の慰めである。

 死去を「凱旋」と表現する場合がある。ホーリネス系の教会では葬儀で「凱旋」と言う。地上の戦いを終えて、天に凱旋する。あまりピンとこないが、キリシタンへの迫害や弾圧されて殉教した人には正に凱旋だろう。厳しい試練に耐え抜いて死んだ人も凱旋。ただ、人間の功績ではなく、あくまでも神の召しであり、深いご計画によるものと言える。

科学的、あるいは生物学的な死では、その後、別の世界で生きることは不可能なことだ。しかし、私たちは主イエスの約束を信じ、そこに希望を置いて生きる民である。

故人との再会も期待できる。主イエスが愛する者と再び会ってくださったように、互いの再会も主イエスの愛によって果たされること、それが私たちの、今を生きる力となる。

死んでみないと分からないが、聖書には「希望は失望に終わることがない」

(ローマ5章)と書いてある。

主イエスの約束を信じ、この世の馳せ場をしっかりと走り抜きたいものである。

2025/10/12 週報メッセージ

十字架を潜って

川﨑 信二 

桜ケ丘教会は、外の通路の屋根に赤い十字架が横たわっている。その十字架をくぐると会堂の入り口にたどり着く。私たちの救いのために主は十字架で血を流され、死んでくださった。そのイエスの体を通って神の御国へと招かれる構造となっている。立っている十字架でなく、横になっている赤い十字架を見ると「主イエスの死」を連想させられる。主イエスの死を通ることは、主イエスの復活に与ることにほかならない。信じて、潜りたいものだ。

 三重県の某教会が30年ほど前に会堂を建築された。玄関は広く、誰でも、どんな人でも多くの人が入れるような造りとなっている。靴を脱ぎ、スリッパを履いて横長のロビーを歩いてゆくと段々と妙な気分になってくる。

通路が少しずつ狭くなっていくので圧迫感というか、何か落ち着かない気持ちになるのだ。奥の、最も狭くなっているところに細い扉があり、それを開けると礼拝堂が広がっていて、まさに天国のような空間が目に飛び込んでくる。

 上から見ると、「X」(クロス)の形をしていて、真ん中の交差しているところは点のように細い。点は一人。一人だけが十字架の死を経験された。主イエスの言葉を思い出す。

 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。

しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13、14)

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

(ヨハネ14.6)

弟子たちや多くの人がイエスさまと共に歩いてきた。しかし、ゴルゴタの丘には誰も着いて来られなかった。主イエスお一人が十字架の裁きを受け、救いを全うされた。

私たちは信じて、主の後に続き、十字架の門を通って、さらに信仰をもってその扉を開けたいものである。

そこには永遠の主、輝くイエスがおられ、手を広げて待っていてくださる。

2025/10/5 週報メッセージ

世界聖餐日 世界宣教日

川﨑 信二 

小林昭博氏(酪農学園大学教授)が次のように述べています。

「日本基督教団は10月の第1日曜日を『世界聖餐日・世界宣教の日』に定めています。前者は1930年代にアメリカの長老派教会で始まり、1940年にアメリカ全体に広まったエキュメニカルな運動であり、現在はカトリックとプロテスタント諸教派が相互の違いや多様性を認め合い、分断や対立から一致へと向かう超教派運動として世界中で行われています。後者は戦後に教団が世界聖餐日を採用するに当たり、世界の教会の一致の証として世界宣教のために協力し合うことを目的として定められ、現在は海外で働く宣教師やアジア圏から教団関係学校に留学している学生を覚える日になっています。教団は聖餐理解や宣教理解をめぐって対立や分断が続いていますが、その本来の精神に立ち返り、合同教会として相互の違いや多様性を認め合う世界聖餐日・世界宣教の日が実現するように願っています。」

 「教団は聖餐理解や宣教理解をめぐって対立や分断が続いています」という文言は「聖餐理解の違い」が世界宣教を妨げている、とも受け取れる矛盾した言葉にも思えます。

 私たちが最も大事にしていることが、対立の火種になるというのです。悲しいことです。

最も大事にしているキリストの十字架による救い。その恵みを想起する聖餐。その聖餐理解が違うことによる分断。互いに譲れない問題だけに深刻です。

さらに、カトリックとプロテスタントの大きな違いも聖餐理解なのです。カトリックのミサと私たちの礼拝が合同で行えないのは、聖餐の考え方が異なるからです。

紙面の関係で詳細は書けませんが、「祈り」では一致できるのです。それで世界祈祷日が生まれ、共に祈る時が設けられています。違いを強調し、互いに裁き合う前に一致できるところで一致する。

各派の伝統を越えて共に祈ることが世界宣教には必要であり、それがキリストの「一つの体」を世に証する第一歩となるのではないでしょうか。