榊原紀惠子 のすべての投稿

2026/1/18 週報メッセージ

阪神淡路大震災から31年

川﨑 信二

1995年1月17日㈫ 5時46分に起きた阪神淡路大震災から31年が経ちました。当時私は東京聖書学校の最終学年で卒業と初任地への準備をしている頃でした。聖書学校は前年より埼玉県吉川市に移転し、地震の揺れは全く感じませんでした。80年代に通った大学も被災しました。尼崎市に住んでいたことがあり、営業の仕事で阪神高速道路を大阪から神戸まで毎日往復していたその道路も橋桁ごと横転し、無惨な光景でした。

 桜ケ丘教会から東京聖書学校舎監に転任されて一年目の西海静雄牧師と後輩たちと共に、3月になってから車で被災地に行きました。見慣れた景色が変わり果てていたことにショックを覚えました。「私たちにできることは何か」。夏の伝道キャラバンで用いた手作りの紙芝居を持ってきて、仮設住宅に居るこどもたちを励まそうと広場に誘い、賛美歌やゲーム、聖書の話をしましたが、全く響きませんでした。こどもたちの目は虚ろで、不安のためか心が閉ざされているように感じました。

 一方的にこちらの用意したパフォーマンスは、それが神様の宣教に関することであっても通用するはずがありません。帰りの車の中で後悔し、彼らが求めていることにもっと寄り添えればよかったのに、と思いました。

4月に尾鷲教会に遣わされました。この経験から、自らのビジョンや宣教の旗を振りかざすのではなく、まずは相手の心を理解すること、いま何を必要としているのかを……。共に生きることから祈りへ導かれるのだ、ということを教えられたことです。

31年経っても消えない痛みを抱えつつ歩んでいる友人、家族の中で一人生き残り懸命に生きている知人。

 主の慰めと平安を祈るものです。日本は地震大国です。また様々な災害で被災された方々がおられます。生活が支えられ希望をもって歩むことができますように。

2026/1/11 週報メッセージ

イエス様、わたしを救ってください!

川﨑 信二

重いものを持ち上げる時、立ち上がる時に「よいしょ」という掛け声を使う場合があります。その語源がヘブライ語「イェシュア(Yeshua/ישוע/神よ、お救いください)」に由来するとの仮説があり、「救い」を求める祈りの言葉が変化して「よいしょ」になったとも言われています。確かに発音が似ているかもしれません。

 「イェ(Ye/ע」は「ヤ」とも発音され、神(ヤーウェ)を指します。「ヤ・イシュ」。「ヤ」=「神」、「イシュ」=「救い」。これはギリシャ語の「イエスース」(Ἰησοῦϛ)、ヘブライ語で「ヨシュア」(יהושע)となります。新約聖書の「イエス」は旧約聖書の「ヨシュア」と同じで、やはり「主が救ってくださる」という意味になるのです。男の子の名前に「よしや」と名付ける方がおられます。イエスだと恐れ多いけれど、ヨシュアなら「我が家と私は主に仕えます」(ヨシュア24章)という信仰に倣って、付けたいと思うのでしょう。

 そういえば、神輿をかつぐ時の掛け声にも「よいしょ」が使われているように思います。相撲の「どすこい」など神道と聖書の結びつきを語られる方もおられ、そこから「日ユ同祖論」(日本人とユダヤ人は同じ祖先から分かれた兄弟民族とする考え方)を主張される方もいます。そこまでは「どうかな?」と正直なところ思ってしまいます。

むしろ、神輿をかつぐ時に自己達成感のために「よいしょ」と叫ぶのか、神に助けを求めるのか。同じ言葉でも気持ち次第で変わるので、信仰をもって言葉にしたいものです。私たちはイエス様によって救われた身です。そのイエス様に救いを求めつつ歩めたら幸いです。ちなみに、「ホサナ」は「今救ってください」という意味です。

 いつでも、どこでも、どんな時でも、何をしていても、神に祈る私たちとさせていただきたいものです。

2026/1/4 週報メッセージ

初日の出

川﨑 信二 

年末は理子牧師の実家いわき市で過ごし、大晦日に牧師館に戻り年越しを子どもたちと共に過ごしました。

2026年を迎え、元日の朝いつものように大空公園に行きました。6時過ぎでしたが多くの人が芝生の上で東方を見上げ日の出を待っていました。ちょうど東側に雲が掛かっていて太陽は確認できませんでした。寒いので運動しながら待っていましたが、1時間半ほど経って明るくなっても見えず「今年は居ないな」と諦めて帰ろうとしたその時でした。「おお、出たぞ」と感嘆の声があがり、振り向くと雲と雲の間からハッキリと太陽の光が差していて眩しいほどでした。神様に年の始まりを感謝して教会に戻りました。

このことで感じたことは、「神様は見えなくても近くに居られる」ということ。心が不安の雲に覆われ、神が居ないと感じる時にも神は傍らにいてくださり、真ん丸の笑顔を見せてくださる、ということです。

もう一つ感じたことは「待つこと」です。神が居ないと諦め、祈りもしないで帰ろうとするなんて、しかも見知らぬ人の声で気づかされたことは年始から恥ずかしいことでした。(おじさん、ありがとう!)

もちろん、太陽が神ではなく、創造主である神を拝したことです。天使のようなおじさんの声に促されながら、今年も主イエスを仰いであゆみ始めたい。そう思った次第です。

2025/12/28 週報メッセージ

降誕節を迎えて

川﨑 信二 

都心にある教会の礼拝堂の中に大きなツリーが置いてあります。本物のもみの木に本物のリンゴが飾られています。ツリーの発祥は中世のドイツですが、元々は土着の異教的な発想から始まっています。もみの木や樫の木は常緑樹ですから葉が枯れない。つまり「永遠」を表すことから、それを飾って見ることで「私たちもいつまでも若々しく元気でいたい」という願掛けのような発想です。

きっかけはどうであれ、永遠の主イエスに心を向け、信仰的に若々しく希望をもって歩みたいものです。その教会の牧師の飾り付けへのこだわりは「本物」を用いること。生きている木を使い、美味しいリンゴを飾る。

私はそこまでのこだわりはありません。象徴として、それを見るものが神様に心を向けことができるなら素晴らしい媒体となります。しかし逆に、ツリーを拝んでしまえばそれが偶像となってしまいます。できれば「本物」が良いに決まっています。偽物の飾り、偽物のキャンドル、偽物の光(イルミネーション)。確かにそれらに命はありません。でも、これらは捧げ物ではなく、私たちが見て喜ぶものです。それでよいのです。

講壇に飾る花を「生花」にしている教会は多いとい思います。さすがに綺麗です。香りもよい。説教者は立場上講壇に腰かけていて生花の後ろ側になるので表の綺麗な花は見えません。クリスマスツリーの電飾や飾りも基本的に人から見える部分に付けるので裏側は地味です。

「献花」の向きも花が会衆に向けられています。神が見るのではなく私たちが見て慰められるためです。ですので、献花というよりは飾花です。

ただ、気持ちは神に捧げる思いで飾りたいものです。すべての奉仕が神に感謝して捧げるものです。

教会の一年はクリスマスから始まります。幼子イエス様を見上げて、感謝してあゆみましょう。

2025/12/24 クリスマス・イブキャンドルサービス

キャンドルサービス (ろうそくを灯しつつ)

聖書箇所 ヨハネによる福音書第1章1節~5節

説教題「暗闇を照らす救いの光」

お話 川﨑理子牧師

新聖歌 68番 久しく待ちにし 84番 ああベツレヘムよ 

    82番 牧人羊を 78番 荒野の果てに

    96番 我らは来たりぬ 76番 諸人こぞりて

    77番 きよしこの夜