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2026/3/1 週報メッセージ

日本ケズィック・コンベンションに参加して

川﨑 理子

神学生時以来の参加です。当時の会場は箱根小涌園でした。今回は、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会で行われ24日㈫のバイブル・リーディング1に出席し恵みに与りました。

ケズィックの主題は「聖なる者になるようにと召されている喜び」で、聖句は「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」(テサロニケ一4章3節/聖書協会共同訳)でした。

まず賛美を捧げ、御言葉への準備をしました。講師のイアン・コフィ先生は英国ムーアランドカレッジ神学校元副校長です。マタイ5章から「幸いなる神の祝福」と題して語られました。先生が語り、通訳の先生も語る。懐かしい気持ちになりました。

淀橋教会は正面奥に窓があり、射し込む日差しを障子が受けとめ、暖かい光が礼拝堂を包み込んでいました。

ちょうど箱根小涌園での祈祷所を思い出させました。そこは24時間開放されていて、いつでも行けるのでよく利用しました。特に卒業前でしたので、私以外の同級生は進路が決まっていて、着任前に英気を養おうと、館内の温泉巡りを楽しんでいました。

 私はそんな気分になれませんでした。補教師試験の合格を頂き、私を推薦してくれた東北教区の先生方も喜んでくださったのに行き先が未定なのです。なによりも母が祈り待ち望んでいる。母は当時、1年前に大病し、私の卒業式に出席する為に抗がん剤治療を頑張っていたのでそれを思うと重い気持ちになり、自然に足が祈祷所へと向かっていました。

ふと、峯野龍弘牧師の言葉を思い出しました。「ケズィックは霊的なクリニックです。病というものはその病巣をいち早く発見し治療することが最善です。霊的な病も同様です。このケズィック・コンベンションは、そうしたお互いの病を早期発見し、完治するために神が備えられた幸いなクリニック・センターです。主の御前に集い、御言葉により、霊的な健康状態をチェックしてみましょう」と。

 さっそく、神様に祈りました。「私は多分、霊的な病にかかっています。どうぞ癒やしてください。御言葉をください」と。

 癒やされたかは分かりませんが、不思議なことに全く不安、恐れ、心配はなくなっていました。神様にお任せしたら心が軽くなり、気がついたら学校へ帰る当日の朝ギリギリまで温泉に浸かっていました。主の平安!

2026/2/22 週報メッセージ

感謝しかない?

川﨑信二

冬季五輪ミラノコルティナオリンピックが熱戦のうちに終わりました。メダルラッシュでしたね。

試合後のインタビューで心境を表す言葉でよく「感謝しかないです」という言葉を耳にしました。最近「~しかない」という表現が使われるようになりましたが、以前はどんな言葉を用いていたのでしょう。

髙木美帆選手が「感謝の気持ちでいっぱいです」と言われた時に「ああそうだ。これこれ」と思い出しました。

「しかない」よりも「いっぱい」の方が満たされた感が個人的にはあるような気がします。

 「感謝しかない」という表現は、野球界で大谷翔平選手が日本ハム・ファイターズ時代の2015年頃からインタビューなどで頻繁に使用し、その後メディアを通じて世間に定着したと言われています。「〜しかない」というネガティブな表現を最高級の肯定に変える特別な言葉としてSNSなどで広まったようです。

元々は「~しか〜ない」という否定的な表現だが、「感謝」を強調する(他の選択肢がないほどに感謝している)ことで、特定のものを殊更に賞賛する文化が日本人のベースにあるのかもしれません。

キリスト教文化においても似ている部分があります。十戒の第一戒に「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20:2)とあります。私たちには本当に「神しかない」のです。

私の罪の身代わりに十字架刑で肉を裂き、血を流してくださったイエス・キリストのほかに救い主はいません。その意味でイエス様には感謝しかありません。

けれども、世代的なものなのか、私にはイエス様の愛に対して「感謝でいっぱいです」と応えるのがしっくりきます。各々が最高に満たされている表現で、イエス様の聖名を心から賛美したいものです。

 因みに「感謝でいっぱいいっぱい」と言うと逆の意味(不要です)になります。それでもくり返し、最高の、主への賛美の言葉を用い続けたいものです。

2025/2/15 週報メッセージ

奇跡を行うわけ(マルコ2:1〜12)

川﨑 理子

主イエスは故郷の近くガリラヤ湖を中心に弟子たちと共に宣教活動をされました。カファルナウムでは中風の人を癒す奇跡を行われました。

 体に麻痺があって自分では動けなかった人を4人の人たちが運び、屋根をはがして主イエスの目の前につりおろしたのです。主は「その人たちの信仰を見て」⑸ この人を癒されました。

 信仰とは、神に関する知識を持つことではなく、何とかしてもらいたいと必死に思うこと。主イエスなら治してくれる、という信頼をもつことです。並んでいる順番をぬかし、屋根を壊すことへの疑問がわいてきますが、主イエスに対する切実な求めと治してあげたいという彼らの気持ち。

 この4人の「信仰」に応え、主は「あなたの罪は赦される」と中風の人に語ります。癒しだけでなく「罪の赦し」を宣言されるのです。このことに律法学者は「神を冒涜している」⑺ と憤りますが、主イエスは「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」 ⑼ と言われました。さらに中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」⑾ と命じ、彼を癒されたのです。主イエスは「神の子」ですから、神ご自身ですから「罪の赦しの宣言」をも出来るのです。

 癒しも赦しも、どちらも難しいことですが、罪を赦すことは神しかできない。その権威が主イエスにはあるのです。

主イエスの十字架の出来事を見つめる時に、「あなたの罪は赦された」と宣言された代償として、ご自身が磔刑により死んでくださったことに思いを馳せます。罪は死です。赦しは癒しです。「起き上がり」とは、自力で立てないという身体の機能のことではなく、「死からの復活」を意味します。主イエスの死があってこそ命への回復があるのです。  最大の奇跡は、主イエスの十字架の死ですから

2026/2/8 週報メッセージ

人を支える御手

川﨑 信二

相田みつおさんの詩に「花を支える枝」という詩があります。

花を支える枝

枝を支える幹

幹を支える根

根はみえねんだなあ

最後の「あ」は、みつおさん直筆の味わい深い字で大きく書かれていました。

「手放しで、なんの努力もなしになるなんてものは、この世に一つもありません。目に見える花だけに心をうばわれないで、土の中の根を育てる努力、そのための土づくりの苦労など、つまり、目に見えないものの尊さのわかる心を育てたいものです。」ご自身による解説です。

 何か「縁の下の力持ち」的な感じがします。禅の影響を受けたみつおさん。なるほど、見えない所で努力している人がいてくれるおかげでこの世は回っている。災害の支援や復興のための努力には、政府の働きかけとは別に、人が見ていない所での日夜の努力によって進められていることを思い、その働きの尊さを感じます。

 一方で、この詩をキリスト教的に、聖書的に見るならば、人の努力も大切ですが、それを支えている見えない御手の働きこそ最も重要なことだと思わされます。神の御手で支えられている私たちなのです。人の功績ではなく、神の愛によって私たちは生かされている。この見えない御業こそ、私たちに本当の希望と力を与えるものなのです。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

コリント二4:18

2026/2/1 週報メッセージ

葬儀に参列して

川﨑 信二 

 伯父(父の兄)が98歳で主のみもとに召され、駿府教会で行われた葬儀に参列させていただいた。

福岡県の教会で5年、静岡県の駿府教会で33年牧会。狭心症のため1995年に67歳で隠退し、その後は九州の教会の歴史を編纂する仕事を生き生きとされていた。

伯父が或る悩める方に手書きで贈った詩が式次第の裏面に載せられていた。伯父の生き方そのものだと思った。

老人

人生の夕暮れどき

人はみな 働きに疲れ

老い衰えて

幼な子のように弱くなる

   そして

    ついに神のふところに帰る

     我が家に帰る幼な子のように

   かくて

    とこしえに み国に住み

    神の栄光を

     たたえ歌う天使の群に

伯父が息をひきとった日に伯母(父の姉)が100歳になった。誕生日会ではなぜか讃美歌「神共にいまして」を親戚一同で歌った。「また会う日まで 神の守り 汝が身を離れざれ」と。奇しくも伯父をみもとへ送る歌になった。

今は苦しみから解き放たれ、主と共にあることを信じ、またやがて私たちにも同じ道が備えられていることを確信するひと時となった。葬儀後に従兄姉たちと食事をし、久しぶりにゆっくり語らう時が与えられた。互いの信仰を確認し、残された日々を「悔いのないよう歩みたいね」と話し合った。

主が来たりたもうその時まで祈りつつ励みたいものだ。