榊原紀惠子 のすべての投稿

2026/1/4 週報メッセージ

初日の出

川﨑 信二 

年末は理子牧師の実家いわき市で過ごし、大晦日に牧師館に戻り年越しを子どもたちと共に過ごしました。

2026年を迎え、元日の朝いつものように大空公園に行きました。6時過ぎでしたが多くの人が芝生の上で東方を見上げ日の出を待っていました。ちょうど東側に雲が掛かっていて太陽は確認できませんでした。寒いので運動しながら待っていましたが、1時間半ほど経って明るくなっても見えず「今年は居ないな」と諦めて帰ろうとしたその時でした。「おお、出たぞ」と感嘆の声があがり、振り向くと雲と雲の間からハッキリと太陽の光が差していて眩しいほどでした。神様に年の始まりを感謝して教会に戻りました。

このことで感じたことは、「神様は見えなくても近くに居られる」ということ。心が不安の雲に覆われ、神が居ないと感じる時にも神は傍らにいてくださり、真ん丸の笑顔を見せてくださる、ということです。

もう一つ感じたことは「待つこと」です。神が居ないと諦め、祈りもしないで帰ろうとするなんて、しかも見知らぬ人の声で気づかされたことは年始から恥ずかしいことでした。(おじさん、ありがとう!)

もちろん、太陽が神ではなく、創造主である神を拝したことです。天使のようなおじさんの声に促されながら、今年も主イエスを仰いであゆみ始めたい。そう思った次第です。

2025/12/28 週報メッセージ

降誕節を迎えて

川﨑 信二 

都心にある教会の礼拝堂の中に大きなツリーが置いてあります。本物のもみの木に本物のリンゴが飾られています。ツリーの発祥は中世のドイツですが、元々は土着の異教的な発想から始まっています。もみの木や樫の木は常緑樹ですから葉が枯れない。つまり「永遠」を表すことから、それを飾って見ることで「私たちもいつまでも若々しく元気でいたい」という願掛けのような発想です。

きっかけはどうであれ、永遠の主イエスに心を向け、信仰的に若々しく希望をもって歩みたいものです。その教会の牧師の飾り付けへのこだわりは「本物」を用いること。生きている木を使い、美味しいリンゴを飾る。

私はそこまでのこだわりはありません。象徴として、それを見るものが神様に心を向けことができるなら素晴らしい媒体となります。しかし逆に、ツリーを拝んでしまえばそれが偶像となってしまいます。できれば「本物」が良いに決まっています。偽物の飾り、偽物のキャンドル、偽物の光(イルミネーション)。確かにそれらに命はありません。でも、これらは捧げ物ではなく、私たちが見て喜ぶものです。それでよいのです。

講壇に飾る花を「生花」にしている教会は多いとい思います。さすがに綺麗です。香りもよい。説教者は立場上講壇に腰かけていて生花の後ろ側になるので表の綺麗な花は見えません。クリスマスツリーの電飾や飾りも基本的に人から見える部分に付けるので裏側は地味です。

「献花」の向きも花が会衆に向けられています。神が見るのではなく私たちが見て慰められるためです。ですので、献花というよりは飾花です。

ただ、気持ちは神に捧げる思いで飾りたいものです。すべての奉仕が神に感謝して捧げるものです。

教会の一年はクリスマスから始まります。幼子イエス様を見上げて、感謝してあゆみましょう。

2025/12/24 クリスマス・イブキャンドルサービス

キャンドルサービス (ろうそくを灯しつつ)

聖書箇所 ヨハネによる福音書第1章1節~5節

説教題「暗闇を照らす救いの光」

お話 川﨑理子牧師

新聖歌 68番 久しく待ちにし 84番 ああベツレヘムよ 

    82番 牧人羊を 78番 荒野の果てに

    96番 我らは来たりぬ 76番 諸人こぞりて

    77番 きよしこの夜

2024/12/24 クリスマスイブ 礼拝

本日12月24日(水)18時からキャンドルサービスを行います。

どなた様もご自由にご出席ください。

イエス・キリストのご誕生の日を待ち望みつつ、心を温めつつ、ご一緒にひとときを過ごしてみませんか。

キャンドルの灯りの中で、チャペルの中で、神さまを賛美しつつ、ひとときをご一緒に!

2025/12/14 週報メッセージ

キャンドルを灯して待つ

川﨑 信二 

4本燭台があります。待降節に入ると、1本ずつキャンドルに点灯されます。キャンドルの灯りを見てクリスマスを待つ。灯りは「祈りの火」を現わします。目で灯りを確認しながら祈り続けるのです。「絶えず祈りなさい」。諦めずに祈り続けるものでありたいと思います。

4週目の日曜日に4本目に点灯され、クリスマス礼拝を行います。5本燭台という見慣れないものもあります。4週目の聖日はまだ待降節です。その週にイヴそして降誕日を迎えるので、その時に5本目を点けるわけです。4本燭台とは別に、イヴに大きく太い燭台を真ん中に立てて灯す場合もあります。待降節に紫色のキャンドルを使う教会もあります。「紫」は苦しみを表す典礼色です。

受難節の時と同じ色です。因みに7本燭台は受難節に7本のキャンドルに灯され、翌週より1本ずつ灯火が消えてゆき、主の受難日には全て消え真っ暗になります。「消灯礼拝(テネブレ)」と言います。主の十字架の苦しみを覚えるためです。

キャンドルの灯りは象徴です。命の象徴です。人の命は儚くも消えてゆきます。世界から光が失われた時に、主が輝く復活の姿で現れるのです。

逆に待降節は「点灯礼拝」となります。1本ずつ灯されます。それは、命である主が来られるのを、今か今かと待ち望み、備える意味があります。 主が来られるまでは苦しむのです。ですから、待降節には、キャンドル以外の飾付をしない教会もあります。降誕日を迎えてから喜ぶというのです。大事なことは、暗さの中に希望があるということ。光は希望です。

「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」 ヨハネ1:9

3本のろうそくは何を意味するでしょう。3本の十字架のように、両側の犯罪人は罪によって死にますが、真ん中の主の光(命)は消えず、罪人を永遠の楽園に導いてくださいます。真ん中のキャンドルの背が高いのは、主イエスだけが上げられ、主に繋がれば生きることを意味します。地上の光は全て消え、主の光が世を照らすのです。