榊原紀惠子 のすべての投稿

2025/11/23 週報メッセージ

収穫感謝日に思う

川﨑信二 

 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

マタイ6:33

   リビングバイブル

 神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。

 感謝祭という収穫を感謝する行事(Thanksgiving Day)がアメリカやカナダなど特定の祝日としてあります。日本のプロテスタントでは「収穫感謝日」また「収穫感謝礼拝」として果物や野菜を持参して祈りをささげる時を持っています。

 起源は、収穫を感謝して「神に礼拝をささげる」。それが始まりでした。当初は信仰的なものでしたが、現代では世俗的な文化行事として広く親しまれ、宗教を問わず多くの人が家族や友人と集まり共に食事をする場となっています。

 「祭」がフェスティバルやカーニバルのような、楽しいイベントとして地域を盛り上げる社交的な意味合いとなっています。そこには神への感謝よりも、互いにの喜びに焦点が当てられていて「人間中心」の要素が強くなっています。

「クリスマス会」という言い方も地域的な行事のような雰囲気があります。クリスマスの「マス」はミサのこと、礼拝を意味します。私たちも社会で生きる者として世俗イベントにも積極的に参加します。ただ、教会は教会でしか伝えられない、いのちの言葉を発信したいものです。

 ことに、収穫感謝日のように、祈りで始まった、信仰的な起源をもつ集いには、とりわけ最初の精神に立ち返る必要を覚えます。

 結婚式も神の前で誓約を交わすことがとても大事です。

人への感謝も大事ですが、神の前に心からぬかづく姿勢をとりたいものです。

 神を第一とすること。忘れやすいことですが、もう一度原点に返り、聖霊なる神と共に日々をあゆませていただきたいと願うものです。

2025/11/16 週報メッセージ

こどもの好きなイエス様(マルコによる福音書10章13〜16節)

川﨑 理子 

 子供の頃、母に連れられて通っていた教会学校で「こどもをまねく」という讃美歌(旧こどもさんびか48)があり「こどものすきなイエスさまよ」の歌詞を大きな声で歌った記憶があります。「こども」すなわち「わたし」を好きでいてくれるイエスさまを、好きだったからです。

 「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れてきた」(13)ことを「弟子たちは叱った」のです。

弟子から見れば、多忙なイエスさまに近づくことは「非常識」なことであり、子供たちからイエスさまをお守りしなくては、と思ったのでしょう。

「しかし、イエスはこれを見て憤り」(14)ました。この「憤り」とは、不公平な扱いに対する「正義の怒り」でした。

子供たちをご自身のもとに連れて来るのを妨げること程深刻なことはないのです。イエスは「来させなさい」、「子供のように神の国を受入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(14、15)と語ります。

「子供のように」とは、地位がなく、社会の為に貢献できない者こそ素直に神の国を求めることを表しています。

成長するに従い、家事を担い、働いて役に立つようになります。様々な力が身に着きます。身に着けたものを手放せなくなります。神よりも自分の力、人からの評価が気になり、神の国から遠ざかってしまうのです。

 イエスさまは、幼子として馬小屋で生まれ、神の子として「神の愛」を顕して下さいました。その「愛」は「十字架」そのものです。弱さの中にこそ神の愛が宿るのです。

八木重吉作「神を呼ぼう」という詩があります。

「さて、あかんぼは、なぜに、あんあんあんあん泣くんだろうか ほんとに、うるせいよ、

あんあんあんあん あんあんあんあん うるさかないよ、うるさかないよ

よんでるんだよ。かみさまをよんでるんだよ。

みんなも よびな。

あんなにしつこく よびな」

 待降節を前に、わたしに足りないものは何か、を教えられます。

2025/11/9 週報メッセージ

キリスト教書籍のこれから

川﨑 信二

イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブライ13:8)

去る11月3日は「文化の日」だった。以前「読書の秋」と言われたが「読者」も激減、「秋」もいつが秋なのか分からないこの頃である。そんな中、キリスト教書籍専門店も厳しい状況に置かれている。私がキリスト教書の仕事に携わっていた時はライバル会社の「いのちのことば社」や「CLC」(クリスチャン文書伝道団)も元気で、出版と文書販売にしのぎを削っていたが、今や全てが様変わりしている。

 4年前、コロナ禍でお茶の水クリスチャン・センターの2階にオアシスお茶の水店がオープンした。全国でキリスト教書店の運営を担ってきた70年の歴史をもつCLCが2020年に解散した。そこに新宿ライフセンター(いのちのことば社)が「オアシス」として入ったのだ。大嵐の中での船出となった。

キリスト教書店の現状は、もはや不振や低迷のレベルではない。30年前からキリスト教会の教勢低下、さらに活字離れ、本離れが重なって、苦戦が続いてきた。かつて1980年・90年代には全国に大小約120のキリスト教専門書店があったが、今はその半数以下。その間、閉店・再編がじわじわ広がりコロナ禍でそれが一気に加速した。NCC系の書店はもっと顕著に悪化している。日本基督教団出版局もその一つだ。それでも、救いを求めている方にとって「活字」は必要である。その活字はみことばが土台になっている。 

 時代は変わっても、みことばは変わらない。イエス・キリストの愛も廃れることはない。

 主イエスのことばを求める人に寄り添う働きが継続できるようお祈りください。

2025/11/2 週報メッセージ

召天された方々をおぼえて

川﨑 信二   

人は死んだらどこにいくのか。どういう状態になるのか。Ⅰコリント15章には「霊の体」になる、と記されているので地上の肉体とは違うのだろう。死を経験していない者にとって、死後の体については想像するほかない。

 召天、永眠、復活。死後の状態を表す言葉がある。私は「復活」がしっくりくると思う。理由は、主イエスが初穂として復活され、私たちにも復活を約束してくださったからだ。すなわち、私自身も体験できる恵みなのだ。

 召天は、地上から故人を記念するときに用いる言葉だ。遺族から見て、今は地上ではなく神のみもとにおられる。だから「召天者を記念する」のである。

永眠という言葉には、死後ずっと意識がないようなイメージがある。科学的には一番近い表現だとは思うが、死者は眠り続けるのではなく、目覚める時が来るのだ。

すなわち、神のもとで起きる。それが聖書的な死生観だ。

私は、永眠とは「永遠の安らぎ」という意味で理解している。

言い方はともかく、故人はいま、一番よいところで幸せを得ているといえよう。それが究極の、神の慰めである。

 死去を「凱旋」と表現する場合がある。ホーリネス系の教会では葬儀で「凱旋」と言う。地上の戦いを終えて、天に凱旋する。あまりピンとこないが、キリシタンへの迫害や弾圧されて殉教した人には正に凱旋だろう。厳しい試練に耐え抜いて死んだ人も凱旋。ただ、人間の功績ではなく、あくまでも神の召しであり、深いご計画によるものと言える。

科学的、あるいは生物学的な死では、その後、別の世界で生きることは不可能なことだ。しかし、私たちは主イエスの約束を信じ、そこに希望を置いて生きる民である。

故人との再会も期待できる。主イエスが愛する者と再び会ってくださったように、互いの再会も主イエスの愛によって果たされること、それが私たちの、今を生きる力となる。

死んでみないと分からないが、聖書には「希望は失望に終わることがない」

(ローマ5章)と書いてある。

主イエスの約束を信じ、この世の馳せ場をしっかりと走り抜きたいものである。