聖書箇所 マタイによる福音書5章9節
説教題「平和を生ぜしめる神」
お話 川﨑信二牧師(代読)
新聖歌 375番 446番
聖書箇所 マタイによる福音書5章9節
説教題「平和を生ぜしめる神」
お話 川﨑信二牧師(代読)
新聖歌 375番 446番
大波のように
川﨑 理子
桜ケ丘教会に着任後、お手伝いを続けてきた教区中高生キャンプですが、昨年度より教育部委員となり、今年は開会礼拝を担当いたしました。テーマは「私の賜物って何だろう(Ⅰペトロ4:10)」。
中高生と共に「賜物」や「互いに仕え合うこと」について御言葉に聴きました。最初のアイスブレイクでは自分自身を見つめ直すワークを行い、初参加のメンバーもすぐに打ち解け合うことができました。
夜のシェアリング前には、幼稚園の今月の賛美歌でもある「大波のように」を、私がジェスチャー付きで歌うと、かつて園児だった中高生たちが笑顔で合わせてくれました。キャンドルの灯りの中、神様の大きな愛が一人一人の胸に大波のように寄せ、広がっていくのを感じる豊かな証の時となりました。
翌日は「心の4つの窓」(心理学)を用いたワークを行い、自分も知らない自分を神様が知っていてくださることに気づく学びとなり、楽しく賑やかな時となりました。
この若い魂がこれからも主に導かれ、それぞれの教会に温かく迎えられますように。クリスマスの再会を楽しみに、皆が笑顔で帰路についた恵みのキャンプとなりました。
剣を鋤に、槍を鎌とする
川﨑 信二
主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。(ミカ4:3)
上記のミカ書の聖句はイザヤ書2章にもほぼ同じ言葉がある。預言者イザヤとミカは、紀元前8世紀、ほぼ同じ時代に活動していて、滅亡寸前の南ユダ王国に審きと回復の預言を語っている。
ミカは「モレシュト」という山里の出身。イザヤが貴族階級で、王に進言できる立場であったのと比べ、ミカは農村のどこにでもいるような人だった。ミカにとって鋤や鎌は日常生活で使う道具だった。そんな日常を奪うのが戦争である。鋤が剣に、鎌が槍に変えられてしまうのだ。
日本においても戦時中、鉄が不足し武器を造るために一般家庭では、鍋ややかんを軍に差し出さねばならない状況だった。その逆がミカの預言であり、戦争を終わらせる神の告知なのである。この平和ビジョンは日本国憲法の「平和主義」とも響き合っている。日本は再び戦争への道を進むのだろうか。防衛費倍増、敵地攻撃能力保有という軍拡への道を突き進むことのないよう祈るものである。
主イエスの平和は十字架の贖いによってもたらされる。主は「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」と言われ、権力者に抵抗する弟子たちをいさめ、十字架に向かわれた。主イエスの十字架が、敵意という隔ての壁を取り壊してくださったのである。敵意が日常を壊し、戦争へと向かわせる。敵意……私たちの心の問題である。正義を振りかざす前に、この私こそ、十字架の贖いを必要とする罪人であることを忘れてはならない。
主を信じる者が、主の教えに逆行することのないよう、剣にお金をかけるのではなく、日常を大切にし、毎聖日、主の山に登り、祈ってゆくお互いでありたい、と願わされている。
聖書箇所 エフェソの信徒への手紙5章21~6章4節
説教題「家族皆集まって」
お話 川﨑理子 牧師
新聖歌 145番 讃美歌21 544番
聖書箇所 使徒言行録 9章23~31節
説教題 「罪びとを信用する人」
お話 川﨑信二 牧師
新聖歌 216番 375番
君が代 日の丸
川﨑 信二
先週、大相撲名古屋場所が盛況のうちに終わった。千秋楽には結びの一番が終わった後に国歌斉唱と国旗敬礼の時がある。野球観戦でも「君が代」を起立して歌うことが求められることがある。
私はかつて「相撲の歌」として歌うことがあったが、今は歌うことも止め、起立もしないようにしている。それは戦時中に戦争遂行のために用いられていた軍国主義の象徴というイメージが拭えないからだ。日の丸を掲げて敵を攻撃し、日の丸を振って兵隊さんを送り出したという、多くの人を殺戮するために使われたことは言うまでもない事実である。降伏し敗戦となった時に、日章旗も変えるべきだったのではないか、とも思う。
クリスチャンが全てそう考えるべきだ、とは思っていない。職場や学校という組織なかで、そうせざるを得ない方もおられるだろうし、それこそ、するしないは自由だからである。その自由を行使して、私は敬礼しないようにしている。牧師ゆえに比較的にそれが出来る立場にあるし、それが許されるのが民主主義だと思っている。それでもその時の状況次第では私の振る舞いも変わってしまうかもしれないが……。
危険なのは、戦時中のように国歌権力により同じ思想を強要させられ、弾圧や処罰の対象になるような体制になってしまうことである。国家から迫害を受けた桜ケ丘教会に連なる者として、愛国主義が軍国主義に変化する危うさがあることを注視しつつ、武力に頼る国にならないよう祈ってゆきたい。主イエスの十字架は、攻撃ではなく、それを赦す愛そのものであることを忘れないようにしたい。
聖書箇所 コリントの信徒への手紙一12章12~26節
説教題「教会はキリストの体」
お話 川﨑理子 牧師
新聖歌 138番 343番
恐れではなく力と愛と思慮分別の霊
(テモテへの手紙二 1:1〜10)
川﨑 理子
21日㈫、「朝祷会」に奨励者として招かれて出かけました。東京に来てからは初めて(代々木朝祷会)でした。
朝祷会は1957年に大阪で14人のキリスト者による「大阪朝食祈祷会」として始まり、その後全国に広がりました。現在では約130会場で開催されており、様々な頻度で行なわれています。この集会はカトリック、プロテスタント、聖公会などの教派を超えた超教派運動としてイエス・キリストを信じる者たちが集まっています。
「代々木朝祷会」は7月21日で1621回。司会は救世軍の兄弟でした。彼は冒頭にこう言われました。
「朝位先生は朝祷会によくいらしてくださり、大きな声で祈ってくれました。先生が召された後の牧師先生がいない、と聞いておりました。桜ケ丘教会のことは気になっていましたので、本日は桜ケ丘教会の川﨑理子先生においでいただきまして本当に感謝しております。」
示された聖句に「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」⑺ とあります。
「力」は福音を知る勇気。「愛」は人に仕える心。「思慮分別の霊」は自分を制御する知恵です。
「神はわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。」⑼
この恵みに応えて、勇気をもって神に近づき、率先して人に仕え、自らの欲を抑えつつ、喜びをもって祈りの場へと出かけてゆきたいと思います。
主イエスの愛に押し出されて世に仕える者とならせて頂きたいものです。
キリスト者という呼び名
川﨑 信二
「……アンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった。」(使徒言行録11:26)
学生の頃、「おしん」という渾名で呼ばれていた。「しんじ」という名前と、戦中戦後を生き抜いた女性の人気ドラマから「我慢強い」イメージで、そう付けられたようだ。我慢強くはないが、人に声をかけられても恥ずかしくて言葉が出てこなかったために、何を言われても口答えしないで「耐えている人」と映ったのかもしれない。
「キリスト者」という渾名はパウロたちが熱心に伝道する姿から、ユダヤ人から揶揄されて付けられたとも言われている。主の弟子たちがいつもキリストの名を呼び(キリストは名前ではなく救い主という意味)、口にし、主を褒め称えていたのでそう呼ばれるようになったのだろう。
聖書学校の学生時代に宮崎県に伝道キャラバン隊を組んで実習に行ったことを思い出す。路傍伝道の一環で「わたしはクリスチャン」と描かれたTシャツを着させられ、真夏の商店街で踊りながら「ハレルヤ!わたしはクリスチャン」と歌わされた。恥ずかしかった。先輩たちは笑顔で主を賛美し、喜びに満ちていた。使徒たちがキリストの名で呼ばれる喜びと誇りを伝道の力に変えたように、私も恥ずかしがらずに「わたしはクリスチャンです」と告白できる者になりたい、と思わされた。
一人では心細い。キリストの名によって呼ばれる「キリスト隊」こそが教会の姿であるはずだ。
毎朝、「桜上水」と描かれたTシャツを着てジョギングをしている。笑顔でスキップもしている。周りからどんな目で見られているのだろうか(朝早いので人は少ないが)。
「わたしはキリスト者」と描かれたTシャツに替えてみようかな、と思うこの頃である。
聖書箇所 コリントの信徒への手紙二6章1~10節
説教題「恵みの時を生きる」
お話 川﨑理子 牧師
新聖歌 181番 182番