「はかりしれない愛」 (エフェソ書 3:14-21)
ひとまず「ヨハネ福音書の七つのしるし」を終了し、今月から「愛」について、何回かにわたるシリーズで考えていきます。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハネ4:10)。「ここにある」神の愛は聖書を通して、十字架を通して知る愛です。人間の罪を救うために、御子イエスは地上に来られ、十字架にお架かりになりました。これが「神の愛」です。
とはいうものの「神の愛」「十字架の愛」とは、何のことか理解に苦しむものですが、一面、救いを信じる私たちの心に、気高さといたわりをもって迫るものでもあります。現代の社会において、「愛」という言葉が氾濫していますが、私たちキリスト者は「神の愛」に焦点を合わせて学んでいきましょう。
エフェソ書では、パウロは獄中から、元気をなくしたエフェソの教会の人々に手紙を書き、今一度奮い立って「愛に根ざし、愛に立つ」ようにと励ましています。パウロは「キリストの愛」は「人知をはるかに超えた愛」 (19)であり、その愛を「広さ」「長さ」「高さ」「深さ」の視点から表現しています。
パウロはエフェソの人たちのために祈ります。「内なる人が強められるように」「キリストが内住するように」「神の愛をもっと知るように」「霊にあって満たされるように(成熟するように)」。これは同時に私たちの祈りの目標です。
私たちは日々の忙しさ、この世の営みに心を奪われて「神の愛を知ること」がおろそかになっていないでしょうか。
(8/6 山本師 説教)