「義と信仰と愛」について
朝位 真士
旧約聖書は「義」を「聖」などとともに神の属性と解する見方もあるもが、むしろ元来法廷用語であり、関係を表す言葉である。神は良い関係、社会的秩序を保証する。
新約聖書の義の概念は、ギリシャ的徳論において総括的位置を占めている。適正を意味し、沈着、洞察力、親切、博愛、忍耐、自制などと並んで出てくる。パウロにおける「神の義」は新約聖書の中心的使信出あり、神の前に立ち得ない罪ある人間が神の一方的な愛、神の子キリストの贖罪死、その血と肉に与る聖餐、古き自分に死ぬ洗礼により、赦しと救いに入る。
信仰とは、神に対する正しい関係を表現する概念、旧約において「信じる」に当たる動詞は「ヘエミーン」、「確かなもの、堅固なものにする」という意味である。新約における「信仰」の中心はイエス・キリストを信じる信仰である。それはイエス・キリストにおいて救いの業をなされた神への信頼を含んでいる。旧約にルーツをもつ「神の確かさへの信頼」という意味での信仰は、イエスの死と復活を中心とする宣教内容と結びついて展開される。ヘブライ人への手紙は「信仰を望んでいる事柄(神の約束)の確信、見えない事実の確認」として定義する。
愛を表すギリシャ語が4種類ある中で、新約聖書に現れるのは2つのみである。もっぱら神の愛、徹頭徹尾相手に仕える愛としてのアガペーと、一般的な愛を表すフィリアの2つである。後者は厳密には友情を表すのに用いられるが、それと同時に肉親同士の愛や恋愛、美しいものを求める情熱的な愛である。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22・37~39)「義」と「信仰」と「愛」のことばを再確認しよう。