2023/2/5 週報メッセージ

貧しくなると、豊かになる

朝位 フミ子 

  「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリ八・九)

 神が人になるために、キリストが神の豊かさを全部捨てて、貧しくなった出来事を伝えています。しかし、ある人はこのように言います。「キリストは神の子なんだから、ここで私たちを豊かにするために命を捨てて捧げても、何も困らないだろう。痛くも痒くもないだろう。神として当たり前のことだ。キリストは、そんなに大きな犠牲を払ってはいないのではないか。小さい犠牲なのではないか。キリストの豊かさは無限に、限りなくあるのではないか。」

 でも、それは現代人の発想です。古代の人々は、そうは考えませんでした。古代の人々は、誰かが豊かになるときには、誰かが貧しくなると考えました。逆に、誰かが貧しくなると、誰かが豊かになると考えていましたから、聖書の時代に生きた人たちには、無限という考え方はなかったのです。だから、主が私たちを豊かにするために貧しくなられたということは、主が私たちを豊かにするために、限りある命を捨てられて、本当に貧しくなられたということになるのです。

 キリストが自分の豊かさである命を無限に持っていたから捨てることができたのではなくて、キリストが私たちと同じ人間となって限りある命、限りある豊かさを全部捨てて、大きな犠牲を払ってご自分は貧しくなり、空っぽになってまで私たちを豊かにしたのです。主イエスは、ご自分を無にされ空にされて、ご自分の持っておられた恵みと命の全てを私たちにくださいました。私たちが豊かなのは、主イエスが空っぽになられたからです。主イエスの栄光とは、ご自分を空にして私たちと同じ貧しい人となり、私たちに全てをくださる恵み、私たちと一つになって私たちの死と滅び、罪を担い、私たちに神の子の栄光をくださる恵みなのです。