2018/08/19 週報メッセージ

   幼な子を私のもとへ                                                                 
                                                                                                               朝位 真士
  聖書のマタイ一八章一~五節に、「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである』」(マルコ九・三三~三七、ルカ九・四六~四八)と聖書に記されている。
 弟子たちはしばしば互いの順位争い(誰が誰より上の地位か)に心を奪われた。マタイは地上での順位争いを語る伝承を「だれが、天の国で一番偉いか」に改めているが、これでは弟子たちは天の国でも序列があるという前提をもっており、彼らの「天の国」理解が浅いものであることになる。偉い人の基準を求める弟子たち(二~五)に対し、イエスは序列という発想自体を否定し「子供を呼び寄せ」「子供のようにならなければならない」と教える。こうしたイエスの言葉は、彼の思想の中核と関連している。当時、子供は一般に愚かで不完全、無価値な者と見られていた。このような当時の常識に反して、イエスは子供の姿をあるべき信仰者のモデルとする。それは子供が親に対して無条件の信頼を抱き、親と一緒にいるとき大きな安心感をもつからであろう。
 私共の教会学校は、人数は少数であるが、毎週二~三家族の子供たちが出席している。そして、子供たちが献金の奉仕をし、お祈りをしている。先日は五歳の幼女が献金の奉仕をしたいと言って、電車で一時間以上かけて母親と出席した。車で一時間以上かけて家族で毎週出席している者もいる。教会の近くからも姉妹で出席している。この幼な子たちの姿に、私は前記のイエス様の御言葉が浮かんできた。子供たちに見習いたいものである。