2017/6/11 週報メッセージ

      詩「人生の祝福」
                                                                                                               朝位 真士
 ニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁に作者不明の「人生の祝福」という詩が刻まれていることを最近読んだ。
   大事をなそうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと、弱さを授かった。より
 偉大なことができるようにと、健康を求めたのに、より良きことができるようにと、病弱を与えられた。幸せになろ
 うとして、富を求めたのに、賢明であるようにと、貧困を授かった。世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求め
 たのに、神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった。人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのに、あらゆ
 ることを喜べるようにと、生命を授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞きとど
 けられた。神の意に沿わぬ者であるにもかかわらず、心の中に言い表せない祈りは、すべてかなえられた。私
 はあらゆる人生の中で、もっとも祝福されたのだ。
 
  私はこの祈りの答えを見て、私の祈りがいかに自己的であったかを深く反省させられた。確かに祈りは自分の願望を神に伝えることだが、しばしば自分の祈り通りにならないことがある。祈りが答えられないように思われることがある。例えば、教勢を倍加してくださいと長く祈っているが、なかなかその祈り通りには答えられていない。しかし私は考えた。人数が増加することよりも、数が少なくても一人ひとりの信仰が確立されて、大人の信仰者として自立して、自分で聖書を読み、祈り、キリストの証し人として働く人が出てくるように祈っていかなくてはいけないと、神様に示された。祈り通りに答えられなくても、神様の答えは最高の解答であるということである。