信仰とは
朝位 真士
朝位 真士
ヘブライ一一章一節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とある。聖書において信仰とは、神に対する正しい関係を表現する概念である。
一、旧約において「信じる」に当たる動詞は「確かなもの、堅固なものにする」という意味である。祈りの最後に用いられる「アーメン」も関連する用語である。神への信仰とは、神を確かなものとすること、すなわち、信頼に値する方としての神に信頼するということである。たとえば、創世記一五・六に語られるアブラハムの信仰とは、神の真実(確かな事)に信頼を寄せることであった。このように信仰とは神の確かさへの信頼であるがゆえに、信じないものは動揺せざるを得ない(イザ七・一~九)。
二、新約における信仰の中心はイエス・キリストを信じる信仰である。それは、イエス・キリストにおいて救いの業をなされた神への信頼であると同時に、イエス自身への信頼をも含んでいる。たとえば、福音書に記録されているイエスの癒やしの記事において、求めてくる者はイエスへの信仰(信頼)をもって彼に接近する(マタ八・
一、旧約において「信じる」に当たる動詞は「確かなもの、堅固なものにする」という意味である。祈りの最後に用いられる「アーメン」も関連する用語である。神への信仰とは、神を確かなものとすること、すなわち、信頼に値する方としての神に信頼するということである。たとえば、創世記一五・六に語られるアブラハムの信仰とは、神の真実(確かな事)に信頼を寄せることであった。このように信仰とは神の確かさへの信頼であるがゆえに、信じないものは動揺せざるを得ない(イザ七・一~九)。
二、新約における信仰の中心はイエス・キリストを信じる信仰である。それは、イエス・キリストにおいて救いの業をなされた神への信頼であると同時に、イエス自身への信頼をも含んでいる。たとえば、福音書に記録されているイエスの癒やしの記事において、求めてくる者はイエスへの信仰(信頼)をもって彼に接近する(マタ八・
一〇、マコ二・五、五・三四)。旧約にルーツを持つ「神(とイエス・キリスト)の確かさへの信頼」という意味での信仰は、イエスの死と復活を中心とする宣教内容(ケリュグマ)と結びついて展開する(ロマ一〇・九)。すなわち、キリストの十字架と復活において明らかにされた神の救いの確かさへの信頼、確信がキリスト教信仰の中核となった。たとえば、パウロはその点を「信仰によって義とされる」という信仰義認のテーマによって展開する。パウロによれば信仰は聖霊の賜物であり(Ⅰコリ一二・三、ガラ三・三)、信仰は従順(倫理)を生み出していく(ロマ一・五、一六・二六)。ヨハネ福音書の目的は「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」とされている。