癒しの祈り
朝位 真士
十一月三十日付のアパルームは、ヤコブの手紙五章一三~一六節、特に「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(一六節)でした。
最近、私を含めて病気になる方が教会関係者ならびに身内に多く出ています。イエス様は「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ九章一二~一三節)とおっしゃいました。イザヤ五三章四~五節には「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。/彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とあります。イザヤは苦難の僕としてのイエス様を語っています。
クリスマスが近くなってまいりました。私の身内、友人、知人の方々が、ここで語ることのできないほどの苦しい病に悩まされています。私自身も病を抱えながら、それらの方々の苦しみの何万分の一でも共有することができるでしょうか。主イエス・キリストご自身が、全人類すべての人々の悩み、苦しみに耳を傾け、私共のためにいやしの祈りをしてくださることは、なんと幸いなことでしょう。皆様、密室で教会で、病める友のためにいやしの祈りを切望します。やがて迎えるクリスマスに一人でもいやされて、集うことができることを祈りましょう。