主を信じる者」2020・8・9説教要旨

朝位真士

 今日はローマ10・1~13節を通して聖書を見ていきましょう。米田豊先生はこの箇所をイスラエルの失敗と、信仰による救いとして、1は同胞のためのパウロの願いと祈り2~3イスラエルの誤り4~8律法による義と、信仰による義9~11救いを受ける道12~13主の名を呼び求めるすべての人を救う福音とあります。

ローマ10・1~13節を見て下さい。この箇所では、信仰による救いを拒絶したことが、ユダヤ人が捨てられた原因であること、(3~4)、信仰による救いは神の企画と自由の賜物であって、旧約に預言されていること(5~11)、信仰による救いの範囲は限られておらず、一般的であること(12~21)。をしるすユダヤ人は神のために熱心であったが、それは知識による熱心ではなかった。(2)。すなわち神の御旨をわきまえての熱心ではなかった。ユダヤ人が神の義を知らなかったのは(3)、神がお知らせにならなかったからではない。神の義は律法と預言者(すなわち旧約)のあかしするところで(3・21)、神はこれをあまねく示しておられるのに(18-21)、彼らは心をかたくなにし、神の義を無視したので、知る事が出来なかったのであります。

5~13節は、律法による義に対して、信仰による義をあかしする為に、旧約から申命記(6-8、申命記30・12~14)、イザヤ書(11,イザヤ28・16)、ヨエル書(13,ヨエル2・32)など律法と預言者から適当に引用して、信じる者は(すべて)救われ(11,12)神に祈る(全ての人)は豊かに恵まれる(12)事を述べ、信仰とはただ心と口を働かせてする単純な事であると説く(8-10)救いのみ業はキリストにおいて成就しており、人の助けを必要としない。救いを得る道はただ信じるだけで、信仰による救いを得るのは実に容易で、ただ信じ、心でそれを口で告白して祈りの求め、またあかしすればよい(8~10)。ただしその救われるための信仰とは、キリストの復活を信じるのであります。(9)(口で、イエスは主であると告白)するとは、イエスを救い主として承認するだけでなく、口に言い表し、主の名を呼んで祈ることであり、叉イエスを救い主として信じることを証し、あかしすることは救いの完成に関係があります。信仰を告白し、受けて恵みを証することは、信仰生活において最も大切な事であります。(マタイ10・32~33)。p18引用しています。岸千年先生は10・1~4的をはずれた熱心(1~4)としてユダヤ人は、ユダヤ人は、確かに神に対して熱心であろうとしました。しかし、その熱心は、ゆがめられた熱心でありました。深い知識によらない熱心でありました。神の視野にたたない熱心は、馬車馬的な狭い熱狂を産み出す。神との交わりの内に、神によって導かれ。教えを受けることによって、生じる神の視野に立つ知識を、ユダヤ人たちは持ち合わせていませんでした。だから、神が預言者を通して、与えたうた、神のみまえに立つ道を見ることが出来なかった。しかし信仰によって、神の備えたもうものを心からよろこんで、受ける態度は、律法の与えられる前から、神が求めておられることであります。それを実証したものはアブラハムであった。律法には行為つきまとい、キリストには信仰がつきます。ユダヤ人の過失は、信仰によって神の御前に立つ道に、入らなかったことであります。10・5~13節では書かれた言葉と語られる言葉が記されています。

律法は書かれた言葉であります。モーセは、石の板に書き付けられた律法を神から受けた。しかし信仰による義という表現は、信仰のよって与えられる、神のみまえにたちうる資格であいます。さらにパウロは、話の筋を1歩勧めて、この信仰による義が、言葉に関係していることを告げています。主を呼び求める者には、例外なく救いが与えられるというパウロの言葉の中に神における徹底した一貫性をみるのであります。

結び

もう1度10・1~13節を見て下さい。カールバルトは、「神の言葉に」ついて、三つの形があると説明しています。第1は受肉の言葉としてのイエス・キリストであり、第2は書かれた神の言葉としての聖書。第3は語られた神の言葉としての説教だと語っています。第1のことは神御自身が人間の世界に入って来られ、神が人間になるという、イエス・キリストの「受肉」の出来事であります。第2は神の言葉である聖書は、このイエス・キリストを頂点とする「神の救いの歴史」を書き記したものであり、イエス・キリストひいては神へと人間を導くものであり、第2の神の言葉であります。そして第3に説教は、聖書を今ここで神がわたしたちに語るものとしての第3の神の言葉であります。信仰の言葉は、イエスを主と告白し、死者の中からいイエスの復活を信じるように導くものでありますから、人を救う力を持っています。「イエスは主です」との告白は、キリスト信仰の核心であり、聖霊の力のみが、この告白を可能にします(1コリ12・3)。