「神の憐れみ(あわれみ)」2020・7・19説教要旨

朝位真士

 今日はローマ9・1~18節を通して聖書を見ていきましょう。米田豊先生はこの箇所をローマ人への手紙は8章までで一段落を告げ、8章の高い経験からすぐ12章の実行の部分に続くべきであるが、教理の終わりの部分に9、10,11章の3章を挿入して、ユダヤ人の選びと福音の関係についてしるしています。信仰による救いとユダヤ人の選びとの調和は、かなり大問題であるが、パウロは「この3章において、信仰による救の道を信じない選民が捨てられたことについて、神のために弁明している。9章では神の絶対主権からこれを弁明し、10章では彼らの捨てられたのは彼ら自身の不信仰のためであることを述べて弁明し、11章では神の知恵ある計画から弁明している。パウロはまず同胞に対する大きな愛を言い表してから(1-3)、彼らの特権を数えあげ(4―5)、神の彼らに対する約束が無効になったのではないことを述べる。信仰による救いと彼らが捨てられた事の関係は、約束に矛盾しない(6-13)。選びは神の大権によることで、信仰による救いと神の選びの秘密は聖書にかなっている。(14-18)。信仰による救い神の選びの秘密は聖書にかなっている(19-23)。このように述べて、異邦人の召しと、選民に残された者のあることを語り(24-29)。かえって、異邦人が救われるのは信仰により、選民が救われないのは不信仰に為であることを説く(30-33)。

 ローマ9・1~18節を見て下さい。ここではイスラエル人に対する神の目的が全体で語られています。1-3パウロの同胞民族に対する切なる感情、4-5ユダヤ民族の7種の特権、6-13彼らに対する約束が無効になったのではないこと、14-18選びに関する神の大能と分解することが出来ます。岸千年先生はこの9章全体をイスラエルの救いを9章全体で語っています。1-5パウロの悩みパウロが、一瞬も忘れなかつた事は、同胞ユダヤ人の救いについてであった。

パウロ自身ユダヤ人であり、キリスト者を迫害した経験の持ち主でありながら、今は、キリストの証人である。彼はキリストの教えの宣教されるたびに、妨害し、時には宣教者の生命を危うくするような挙動にでたことさえもあった、にもかかわらず、パウロの心は、同胞のために燃えたのである。1-5節にパウロの人間としての暖かさを感じます。同胞が、キリストの救いに預かることと、パウロが、悪魔の手に渡されることが、交換条件になっています。6-13節を見て下さい。ここに神の選びー約束の子ここに、パウロは、神の光にてらされた選民イスラエルの実情をここに具体的例としてあげながら、神の御計画の実行にあたっては、人間にとっては、いつも疑問を含んでいるということをあきらかにしています。まず第1にパウロが問題にしたのは、神の言葉の有効性ということである。

何故なら、神の言葉の有効性が、確認されるなら、その言葉は、いつかは、必ず、成就するということも確認されるからである。次にパウロは、冷静にイスラエルの現実をながめる。その観察の結果は、次のようである。このことを追求すると二つの線が出てくる。

神の選びの計画―召しーアブラハムーイサクーヤコブー約束の子、エサウー肉の子。約束の子こそイスラエルであり、アブラハムの子孫にふさわしい内容を備えた者である。これに反して、同じアブラハムから出た者でも、その名にふさわしい備えない者たちは、肉の子である。9・14~18を見て下さい。神の真意が語られています。神は、御自身が、憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を、慈しみたもうのであります。ローマ9・15~16節を見て下さい。神の自由な意志の働きから、憐れみの行為が出てくる。出エジプト7・13、8・15、9・12を見て下さい。この言葉をパウロは引用したのであります。神の愛と憐れみに対し、憎しみと、心をかたくなにすることとは、人間の側の事態に応じ、神の御計画に従ってからみあって、具体化するのである。しかし神は、どこまでも愛であり、憐れみたもうおかたであることに変化をきたすことはない。エジプトの暴君パロに対して神がなさったことでさえ、憐れみの枠からはずれてはいなかった。同時に、神のイスラエル解放の御計画からも逸脱していなかった。この二つの交わる点こそ、エジプトの暴君の立たされた場所であり、その場所で、彼は1つの役割を演じたのである。それは、神の名が全世界に言いひろめられるためであった。

結び

 今日のポイント9・15~16節をもう1度見て下さい。この箇所はわたしが箱根のケジックコンベーションという聖会でスコットランドのジョジ・ダンカン博士のメツセージを聞き献身を決意した箇所でもあります。1970年頃のことであります。そこで決心して1年間祈って毎週土曜日に淀橋教会に行って、日曜日朝5時30分の早天祈祷会に出て、教会学校から礼拝、夕拝に出て千葉の市川の会社の寮に戻り、東京まで出て仕事をして、1年後退社して聖書学校に入学して、1975年に卒業して北九州復興教会、曽根集会所に19年間奉仕して1994年4月桜ヶ丘教会に赴任にて26年目を迎えております。このローマ9・15~16節のみ言葉にお祈りの中で導かれました。先生のメツセージは出3~4章のモーセの召命の記事でしたがその夜徹夜でお祈りして献身の召命が与えられました。出エジプト33・19p150ここで神の絶対主権が確認される。神の憐れみと慈しみは、一方的に神の選びであります。救いも全く神の恵みであり、憐れみであります。前日銀総裁であり、教団阿佐ヶ谷教会の役員でいらした速水優兄弟は人生の目標は神の召しに答えることだと言われました。まさしくその通りダと思います。私達の人生の根底に、我々の誕生の前から我々を知り、神の民とすることを定め、我々を選んで導かれる、神の御手が働いているのであります。このことを心に刻み、この神の召し、招きの御声を新しく聞き、神の民の一員として、神の国の建設のために励んで参りましょう。