「新しい契約」礼拝メッセージ 2021/7/25

朝位真士

聖書箇所「新約聖書」コリントの信徒への手紙一 

第11章17節~34節

「新しい契約」2021・7・25説教要旨

今日は1コリント11・17~34節を通して聖書を見ていきましょう。この11・17~34節は17~19教会内の紛争、20~22乱れた晩餐、23~27聖餐礼の制定、28~34自己吟味と裁き

当時コリント教会には、愛餐と言って、各自食物を教会に持って来て食事を共にする風習があった。ところがこの教会には分争があり、1つの場所に集まって愛餐をするときにも、富んでいる者と貧しい者とは食を異にし、富んでいる者は贅沢な物を飽きるほど食べながら、貧しい者を顧みず、そのために(神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめる)こととなり(21,21)、集会によってかえって損を受けるばかりであった(17)。パウロはこれを責め、真の晩餐礼を重んじることを力説した。教会はクラブではない。飲食によって交わるべき所ではない。「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖餐における喜びとである」(ローマ14・17)。この事に注意すべきであります。聖餐は洗礼と共にキリスト教会の2大礼典の1つであります。パウロはここに、この聖晩餐礼の制定の由来とその意義を示して(23~26)、軽々しくこれに預かってはならないことを警告する(27~30)。これは厳粛に守るべき礼典で、一片の儀式として軽々しく預かるようなことがあってはならない。これは主が弟子たちとの決別の最後の晩餐の時、制定された礼典で(マタイ26・26~28)、過去を顧みて十字架の贖いを記念すると共に、将来を望んでキリストの再臨を待つことを表す(26)。また、キリストの肉と血は魂を養う真の飲食物で、これによって現在、主との交わりを保ち、また未来において、必ず復活する保証を得るのである(ヨハネ6・54~56)。

 1コリント11・17~34節を見て下さい。ここは3つに分類されます。1・11・17~22現状についての批判。2・11・23~26主の晩餐の伝承。3・11・27~34主の晩餐の守り方この結論は11・25(わたしの血によって立てられる新しい契約)。(あなたがたのための)はイエスの十字架の体による「罪の赦し」「贖い」を意味し、(新しい契約)はエレミヤ31・31の預言がイエスの血によって成就したことを表す「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」p1237これが今日のキイワードの言葉です。これの成就が主イエス・キリストによって成就されたのです。11・33~34に実践的な指示を3つまとめています。1・晩餐のために集まる時は互いに待ち合わせよ。2・もし誰かが空腹であるなら、家で食べよ。3・その他はパウロがコリントへ行った時に決める。と語っています。もう1度11・17~22を見て下さい。ここでは乱れた聖餐が記されています。聖餐式は、目で見、手でさわり、舌で味わう事によって、キリストの十字架を思い起こすことであります。それゆえ聖餐式は目で見る福音と言われています。初代教会においては、聖餐式はキリスト者の会食(愛餐)と併せて行われていました。これら2つは密接な関係が合ったので、事実上は1つの式典と見なされていました。この食事は各自が食物を持ち寄り、互いに分け合ってなされた。こうしてかれらは兄弟愛を促進し、またキリストの犠牲の死を覚え、信仰を励まし合っていた。ところが各自持ってきた物を自分勝手に食べてしまうのである。富んでいる者は贅沢な物を飽きるほど食べながら、貧しい者を顧みなかった。会食の本来の目的である聖徒の愛の交わりは不可能である。彼らの集まりは益とならないで、かえって害になった。パウロはこのことを戒めたのである。11・23~26主の晩餐の次第であるここに2つのことが語られています。1・これはわたしのからだです。2・パンが「あなたがたのための」からだであると言うことは、イエスがその弟子たちのために御自分のからだを与え、彼らのために死ぬという意味である。杯は、わたしの血による新しい契約です。

3・「わたしを覚えて、これを行いなさい」11・27~34聖餐における正しい態度が語られています

結び

教会の礼拝は、神の恵みへの応答としておこなわれる人のわざのことであります。信じる者を義としてくださる神への感謝として行われるのであります。聖餐式が英語でユーカリスト(感謝)とよばれるのもそのためであります。聖餐式は、説教によって宣べ伝えられた神の真理をうらづけるものとして、また説教だけで宣べ伝えられなかった点を補うものとして、さらに時としては説教で誤りが宣べ伝えられたところを訂正するものとしても礼拝と強く結びついています。説教には主観的要素が多く、聖餐には客観的要素が多いといえます。最後にもう1度今日の1コリント11・25節を見て下さい。新しい契約エレミヤ31・31です。それは神がモーセを通して、律法によって与えられた古い契約ではない。私達の為に流されたキリストの血をとおして、なんらの功績にも所業にもよらず、神の恵みによって(それを信じさえすれば)救われるという新しい契約であります。わたしたちは聖餐において、実際のこのキリストにふれ、罪の赦しの保証を頂くのであります。すなわちわたしたちが具体的に神の恵みにあずかる最大の手段は、神の言葉と共に実にこの礼典であります。