朝位 真士
序
今日は1コリ1・26~31節を通して聖書を学んで行きましょう。この聖書の注解は米田豊先生のを参考にさせて頂きます。1~3挨拶と祝祷。4~7コリントの信者の霊の賜物のための感謝。8~9彼らの将来に関するパウロの確信。10~13分争に関する訓戒。14~17パウロの使命。18~25神の力また知恵であるキリストと、その福音のあかしー愚かに見える十字架。26~29弱く見える信仰者。30~31私達のすべてであられるイエス・キリスト。この1章全体として資格と経験。教会内の分争。神の知恵と力である十字架。と分解しています。
本
1コリ1・26~31節を見て下さい。この世の知恵は神の前には愚かなものであり、神なしの哲学や科学では信仰の奥義はわからない(19~20)。学問も知恵もない者であっても、イエス・キリストの救いの体験を握る時、世の学問や地位が与えることの出来ない幸福を受け、知者も学者も説明することの出来ない心や魂の大革新を実際に経験する(27~28)。実にキリストにある者は幸福であります。(キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとなられたのであります。(30)すなわち、私達はイエス・キリストにあって義とされ、彼にあってきよめられ、また彼にあってこの肉体があがなわれ栄化する。イエス・キリストは(神の知恵)(24)であると共に、また(私達の知恵)でもある。
パウロはコリント人が入信した時のことを思い出させる。この言葉は初代教会を構成していた人々の層を示しています。社会的地位を持った者、富める者が全然いなかったわけではありませんが、それらは多くはないと言われる。大部分は、教育程度の低い、地位も名誉ももたない貧しい人々であった。世間はそのような人々を重んじない。どうかした宗教は、金持ちが信者であるといって誇り、社会的有名人が来ると言って得意になっている。愚かなことである。神のなされたことは、この世の標準とは違っていることを知らなければならない。28節を見て下さい。この世の賢者・富者・権力者はかえってはずかせめられる結果となる。教会の発展した全歴史は、実に、無学者が学者に、卑しい人々が貴い人々に、打ち勝ってきた勝利の歴史である。ついに、ローマの皇帝も、大工の子イエス・キリストの前に、王冠を脱ぎすててひざをかがめたではないか。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。ここに救いの内容が全部書いてあるといっていい。人が何と言おうと、信じる者にとってキリストは「わたしたちの知恵である」そこに人生の根本の解決がある。イエス・キリストに頼る人(聖霊の力を受けた人)の知恵こそ、この世の哲学者の知識も遙かに及ばない知恵である。その知恵の中には、第1に「義」がある。「義」の内容は罪のゆるしである。私達は元来不義(罪)なる者で、神の御前に立ち得ざる者であった。しかるに、キリストは十字架においた、わたしたちに代わり、神のみ前に罪の値(死)を払われた。このようにして、
神はキリストにおいて自分の義を発見することが出来る。だから、わたしたちは自らに何らの義(いさおも力も)、なくて、唯信ずるだけで、義とされ(義と認められ)て、神の前に立ち得るものとされているのである。第2には、「聖」である。義とされた者は、消極的に、自分にあった罪を赦されただけではない。積極的に、自分になかった義をおわされる。このようにして、恵みの中に成長し、ますます神を喜ばせ、善きわざに励み、神に奉仕してゆく力を与えられる。これが聖められることの意味である、第3には「あがない」である。これは唯罪よりのあがないだけでなく、悪魔(罪の原因)と永遠の死(罪の結果)からの全き救いである。それは「誇るものは主を誇れ」と書いているとおりである。人間が自分の知恵を信じ、自分の力を頼って満足している処に、滅びの道がある。しかし愚かと見える福音の中に、神の知恵があり、そこに救いがある。そして、それは、ただ神の恵みによってのみ与えられる。だから人はとるに足りない自分の知識を誇り、自分の力を誇ってはならない。けれども、信仰による救いを体験している者は、心から主を誇りたくなるであろう。いや、誇らずにはおられないのであります。わたしに何の誇るものはない、栄光は主にのみあれ、ここの引用句はエレミヤ9・23からきています。p1194を見て下さい。
結び
もう1度1コリ1・26~30節をみてください。マタイ11・25~30節をみてください。p20~21。ここ言われている「知恵」とは人間に隠されている神の救いの計画に関する神の知恵であって、その知恵を実現した方がイエス・キリストであった(ローマ11・33,コロサイ2・3)。パウロはこの知恵を説明するために「義」「聖め」「贖い」の3つの言葉を出しています。パウロはコリントの信徒に向かって、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分の体を持って、神の栄光を現わしなさい」(6・20)と勧めています。それゆえキリスト者は社会的には自由人であり、同時に「キリストの属する奴隷」(7・22)なのであります。
私達にとってキリストがなんであるかをパウロは4つに分けている。1・キリストに従うときにのみ、私達は人生の道を真っすぐ歩み、キリストに聞き従う時にのみ、われわれは真理の声を聞く。彼こそはまさに人生の達人であります。2・キリストは義である。神との正しい関係を意味している。神が我々のためになさって下さったみわざのゆえにキリストを通してはじめて達成することの関係である。3・キリストは聖である。キリストの臨在の中にあってのみ、人生はあるべき姿の人生たりうるのであります。4・キリストはあがないである。イエス・キリストは人を、過去の罪から、現在の無力から、そしてまた将来の恐怖から、救い出すことのできるお方である。