朝位真士
序
今日は1コリント14・20節から40節を通して聖書を学んで行きましょう。この20~25節異言や預言を語る目的と結果。26~33公会の秩序。34~35公会における婦人の心得。26~40結論的勧め。となっています。そして26節以下に、2つの要点があります。この2つはまた、14章の2つの中心点でもあります。その1つは(すべては徳を高めるためにすべきであります)(26)徳を高めるとは、家を建て上げるように、教会また信者個人の恵みを増進させつことで、14章にはこの言葉が多く用いられています(3、4、5、12、17,26)。
もう1つは40節「すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」とあります。異言を語るものがしばしば熱狂的に興奮し、公会の秩序を乱すことがあり、また婦人が集会中におしゃべりしたので、特にその事を戒めたのであります。(34)。ここで今日の主題である「神は無秩序の神ではなく、平和の神である(33)。秩序を重んじなければならない。(34節)は婦人の伝道を禁じたのではありません。旧約にも、新約にも婦人の預言者がいました。
本
1コリント14・20~40節を見て下さい。「兄弟たちよ」もう1度改めて呼びかける。ものの考え方では、何が教会を益することに役立つかを、充分よく考えてことを運んでもらいたいとパウロは語っています。21節はイザヤ28・11~12からである。旧約のそのままでないのは、多分パウロがギリシャ語訳を用い、しかも記憶によって自由に引用したからでありましょう。このように、異言は信者のためではなく、未信者のためのしるしであるが、預言は未信者のためでなく、信者のためのしるしである。パウロは、預言が異言にまさることを述べた後で、そのことに関して礼拝全体はどうあるべきかを語っています26~33節を見て下さい。コリントの教会は、聖霊に導かれて、各自が思い思いに「讃美したり、教えたり、黙示を話たり、異言を話たり、解き明かしたり」(26)するものであった。預言する者は、感情のおもむくままに長い話をして、人に迷惑をかけ、それを意にかえさなくなりがちであります。それはキリスト者として不健全な状態であります。預言する者は、自分の霊を自分の知力と意思で統制しなければなりません。預言はいわゆる神がかりとは違い。節度を失った熱狂ではありません。預言は正常な精神によってなされるべきであります。「それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです」(33)。私達の信じる神は「平和の神」であり、秩序を愛する神であります。その神の子である私達は、神の嫌われることをすべきではありません。33~40節を見て下さい。ここでは女性にふさわしくということが語られています。
パウロは、これらの事を主イエス・キリストの使徒として、主かえあの命令によってなしたことを、それもことごとく正しい判断を下したことを述べています。最後にパウロは繰り返して、「預言することを熱心に求めなさい」と勧め(37)、また異言を話すことも禁じてはいけません」(39)と教えています。異言も聖霊の賜物である以上、それを排斥すべきではない。ただし、礼拝の秩序を乱さないように40節「すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい」という一文を各自肝に銘じなければならない。それが集会におけるほかならない愛の原則なのです。
結び
今日の主題テーマ「神は平和の神である」神は無秩序の神ではなく、平和の神である。
秩序をなくして喧騒を極めるような集会であるならば、どんなにそれが熱心に行われても、決して教会の徳を高めない。だから一切の集会は秩序を維持しなければならない。その根本理由は、実に私達の信じる神こそ「平和の神」であり、秩序を愛される方であります。神は乱れの神ではない。その造られた世界にも、乱れない法則があり、」整然とした秩序があります。それを御自分の意思と目的に従って正しく導かれます。こうして神は混乱と喧騒を何より嫌われる方であります。もう1度40節を見て下さい。この句は、教会の実際問題について、今までいろいろと教えてきた言葉の結びの言葉であります。預言を求め、異言も認める、しかし、すべてのことが極端に流れず、常軌を逸せず、秩序正しく行われなければならないという。教会秩序の維持こそ。パウロが、強く望むところであります。私達が、現在行っている公同礼拝も、「適宜にかつ秩序ただして」行われているかどうか、常に省みなければなりません。霊的であると思われている礼拝は、ややもすると、熱狂と無秩序がみられる。
他方秩序と静粛をもって行われる礼拝には、はつらつとした聖霊の力が欠けて、ただ機械的に千変一律に行われているような感じがする。霊の賜物が十分生かされて、活気に溢れ、しかも厳粛にして順序正しい礼拝がすべての教会で持たれたいものであります。