「神の恵みに感謝」2020・8・2説教要旨

朝位真士

 

私たちキリスト者は神のあわれみや恵みを盛られる器で、それによって神の「栄光の富」また「神の恵みの絶大な富が示されるのであります。(エフェソ2・7)怒りの器は神の裁きのため、あわれみの器は神の恵みのための器で、1つは神の義を表すもん、1つは神の愛を表すものとして用いられる。私たち異邦人信者は、なんの功績もなく、またなんの価値もなく、(義を追い求めなかった)ばかりか、かえってただ罪を追い求め、神に背を向けてわがまま勝手な生活を送っていたものであるが、救われた今は(義、すなわち信仰による義を得た)のである。(30,3・22―24)。けれども選民たるイスラエル人は、正しい律法を熱心に守っていたが、その目的の義を得ることが出来なかった。それは、行いによって得ようと努力したからである。彼らは自分の力に頼ったため、せつかくの救い主につまづいていたのである。(31,32)。彼らが力を尽くして追い求めてもなお得られなかった義を、神は価なしに私たちに与えて下さった。このお恵みを深く感謝し、「あわれみの器」としての本文を全うしたいものでる。

 ローマ9・30~33節を見てください。ここでは信仰か行為かということが記されています。パウロは、いわゆる救いにおける神の知恵の輪に直面して、その輪の跡切れを解決するものは何かという問いを出しているのであります。信仰か行為か。どちらに軍配があげられるのでしょう。この問いに対してパウロは、自分の体験から解答を出しています。「つまづきの石、さまたげの岩」こそ、救いの知恵の輪の「かなめ」である。しかも、その「かなめ」が、隠されています。それを見つけるのは、信仰か、行為か、パウロはもちろん、「信仰のみ」というのであります。神のみ前に立つ資格を得ることこそ、人類の最大の目標であります。イスラエルも、その他の民族を、それを望んでいました。ちようど、ウサギと亀とのかけくらべのように、イスラエルに伍して、他民族も走った。しかし、イスラエルの方が優位であつた。イスラエルには他民族のもたない乗り物があったからであります。それが律法であります。イスラエルは、神のみ前に出るための乗り物を持ちながら、運転を誤ったのであります。神の方向に進路をむけないで、自分の方向に向けてしまった。神に逆行したのであります。ウサギの油断に等しい決課になりました。それは、自分の行為によって神への道をうち開く行為でありました。他の民族は,律法を持たなかったので、律法を彼らのために代わって完全に履行してくださった神の子を乗り物としました。それが信仰であります。

神の子イエス・キリストは、取るに足りないように見えながら、実は、かけがえのない神の知恵であり、無力に見えながら、無限の力をお持ちでありました。これが躓きの石といわれる理由であります。詩編118編のこの言葉はキリストを象徴しています。したがってキリストは愛の人であり、また憐れみに富んだお方であります。ですから「石」は、愛またあわれみをあらわしています。このローマ9章の内容から推察して、パウロは、神の真意こそ、愛しようとし、あわれみもうとする意志であることを告げています。しかも人間の罪のゆえに、其の憐れみが、「つまづく石」として与えられていますのであります。信仰によって、それが得られるためであります。わたしたちには不可解であります。しかし、神様の側には不正はありません。不徹底はありません。あまりにも徹底されていますので、私たちは理解できません。だから信仰がひつようなのであります。へブル11・1~3p414「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人達は、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって、創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」とあります。ここに、信仰によって生きた人々のことが証されています。特徴的な言葉は「信仰」ということばです。これはピステスというギリシャ語ですがこれは信頼。誠実、真実という意味があります。私たちは神様に対してピステスをしていますでしょうか。これは私自身に神様が問われている質問です。皆様は如何でしょうか。

結び

もう1度ローマ9・30~33節を見てください。ここでは異邦人の救いと、ユダヤ人が見捨てられたことと、この2つの立場が生じた理由を述べています。

33節はイザヤ8・14,28・16p1073、とp1103の引用です。(1ペテロ2・6,8)p430を見てください。人が信仰による義の道を追い求める事をためらうのは、そこに十字架というつまづきが置かれているからである。しかし私たちは「失望させられることがない」。この約束は、終わりの日に罪に定められることはないということであります。

来るべき終末の審判に耐え得るためには、キリスト信じる信仰によって神の義をいただく以外に道はありません。その救いの道にそびえるキリストの十字架につまづかない人は幸いであります。