朝位真士
序
今日は1コリ3・1~9節を通して聖書を学んで行きましょう。この処は3章で三種類の人。価値ある奉仕。神の宮。1~2コリント信者の肉に属する者であることを嘆く。3~4肉に属する証拠である妬みや争い。5~9伝道者の使命と神との関係。が述べられています。3章始めに(霊の人)また(肉に属する者)という言葉がありました。ここに三種類の人がいます。先ず(生まれながらの人)、すなわち生まれ変わっていない人である。キリスト教の感化を受けて、思想的に変化し、あるいは洗礼を受けて、教会に連なっていても、新生の体験を持っていない者はこの部類に属します。次に(肉に属する者(1)また(肉の人)(3)で、(キリストにある幼子)とあるように、新生はしましたが、まだキリスト教徒の完全な領域に達していない人であります。パウロはここで、コリント信者が肉に属する者であることを責めています(3,4)。党派心、妬み、争いなど肉の行い(ガラテヤ5・19~20)のある者は、肉に属する者で、まだきよめられていない証拠であります。肉に属する者は、荒野放浪中のイスラエルの民が、神に救われたのちにもエジプトのものを慕い、不信仰や不平に陥ったように、神の恵みを受け、恵みのうちにおりながら、時々世を慕い、神にそむくことがあります。第3の(霊の人)とは、全く清められて(キリストの思いを持)ち、すべての事をわきまえる者である(2・15~16)。で弟子たちもペンテコステ以前は肉に属する者で、彼らのうちに高慢、ねたみ、野心、争いなどがあったが、ペンテコステの霊を受けてきよめられて初めて全き聖の人となった。アブラハムは霊の人、ロトは肉に属する者、ロトの妻は生まれながらの人であります。私達はどの部類に属しているでしょうか、5~9節では伝道者は神の御手の中にある単なる器であります。
本
1コリ3・1~9節を見て下さい。コリント教会に属する者多くの者は、「肉に属する者」すなわち「キリストにある幼子」で、霊的発育を遂げていない、信仰上の未熟者である。しかし、素直に育てば、円熟のキリスト者になり得るのであります。コリント教会は、組織も完備し、集会も盛んであり、社会事業も活発であった。しかし、教会員の霊的生活は未だ幼稚でありました。4節から5節を見て下さい。人間的な行動であります。彼らはただキリストから与えられた賜物を活かして奉仕しただけであります。いわば、神の手にある器具にほかならない。その知識も弁舌も、その熱心も、またその得る結果も、みな神にある。教役者は、ただこれを適当に活用する、管理人(スチュワード)に過ぎません。3・6~9節を見て下さい。神がパウロを用い、アポロを通して、福音の種をまき、これに水を注いで、成長させて下さる。だから、「大事なのは」パウロでもなく、アポロでもなく、「神のみ」である。めざすところは、神の栄光とキリストのからだなる教会建設であります。「わたしたちは神の同労者」であります。「あなたがたは神の畑であり、神の建物である」。
結び
もう1度1コリント・3・1~9節を見て下さい。
コリント教会には大別して3種類の人がいました。
1・生まれながらの人間(2・14)―生まれ変わってない人
2・肉に属する人(3・1)―キリストにある幼子
3・御霊に属する人(3・1)―霊的に成長している人。
この三種類の人間を旧約聖書のアブラハム物語からあげるとすれば、アブラハムは「御霊に属する人」。アブラハムのおいロトは「肉に属する人」。ロトの妻は「生まれながらの人間」であったといえます。(創19・26~29)p27
次に伝道者の使命と神との関係(3・5~9)。
パウロは第1に人は人を信仰に導く道具にすぎないと語っています。(5)
第2にパウロは信仰を成長させるのは神であると教える。(6)
9節では伝道者が「神の協力者」であるといっています。これは神の御心に従って神と共に働く者、すなわち神に仕える者のことであります。
パウロはまた教会を神の畑、神の建物にたとえていますが、「畑」は6~7節と関連して教会が有機的に成長していく面を描いたものであり、「建物」は10節以下と関連させて教会の各部が相互に関連していくことを語ったものであります。