朝位真士
序
今日はローマ13章1~7節を学んで行きましょう。ローマ12章では教会の一員としてキリスト者の生活を語ったが、13章では社会の一員としてのキリスト者の生活をしるす。12章の主題は献身、及び愛であり、13章の主題は、服従、愛および正しい行いであります。私達は教会内において良き信徒であるだけでなく、教会外においても良き市民、国民でなければならない。神に献身して奉仕する信者は、市民として叉国民としては、権威者に服従し、愛と義の生涯を送る者であります。真の信者は、この両側面において模範的でなければならない。
本
ローマ13章1~7節を見て下さい。この13章全体は社会人としてのキリスト者の義務を語っています。1~5権威者に服従すべき義務、6~7納税の義務。8~10律法を完成する愛、11~14キリスト再臨の切迫とその準備。となっています。さて12章の初めに神に対する献身を説いたが、13章の初めには世の権威者に対する服従を説いて(1~2)います。全ての権威の源は神であります。この世の権威者は(彼が神を信じると否とにかかわらず)神が摂理のうちに立てられた者で、神に代わって治める者でありますから、私達はこれに服従しなければなりません。(第1ペテロ2・17p430引用)これがキリスト教の基本的道徳であります。キリスト者は、社会の秩序を乱す闘争運動などは、キリスト者の参加すべき者ではありません。勿論神の御心に違反する為政者にたいしては毅然とした態度を表明すべきです。信仰を脅かす事柄にたいしてはノウといわねばなりません。私達ホーリネスの群れは政府の宗教弾圧に対しては毅然とした態度を表明しました。信者は皆、主にあって自由な者であります。しかし、聖書は、王や権威者に服従することを説いています。全ての権威は神によって立てられています。(ダニエル2・21,37)p1381,1383、それゆえ、神に献身する者は、信仰に矛盾しない限り人の権威に服従する。権威に背く者は神に背く者である(2)。全ての権威者は、未信者であっても、私達を保護し、安全におらせるための神の僕であり、神を代表して悪人を罰するのであり、いたずらに刑罰を施すことありません(4)。それゆえ、悪を行うなら刑罰を恐るべきでありますが、善を行うなら恐れるには及ばない。かえってほめられる(3)、それゆえ、ただ刑罰を恐れて従うのではなく、神に対する義務であることを思い、良心の命じるところに従って服従すべきであります。(5)よき市民、国民の資格は、隣人に対する愛と、自分の生活におけるきよめであります。来週の8節以下にこの2つのことを記しています。(愛は律法を完成する)十戒も、神を愛し人をあいすることに総括されます。(マタイ22・37~39)p44。愛は神と人とに対して果たすべき義務で、この愛の他、何人も負債として果たすべきものはない。愛があれば(律法を完成する)(13・8~10)。
結び
もう1度13・1~7節を見て下さい。
この13章は、キリスト教的政治倫理、すなわち政治権力に対するキリスト者のありかたを教えたものとして有名な箇所であります。この場合ヨハネ黙示録13章が引用されました。p467参照ローマ13章が権力者を「神に仕える者」として社会の秩序を整える正義を実践する限りにおいて「権威に従うべき」であると教えるのに対して、ヨハネ黙示録が書かれた時代は、政治権力が皇帝礼拝を強要し、弾圧をもって絶対服従を迫り、ローマ帝国は悪魔から遣わされた獣の姿で描かれています。それゆえ、これに抵抗することはキリスト者の使命であります。(黙示13・10)「ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。」p467と書かれています。政治権力への抵抗として、現代で最も徹底した姿勢を示したのは、第2次世界大戦末期のディートリッヒ・ボンへッファーでした。彼は世界侵略とユダヤ民族撲滅を目指すナチスの政治が、人間の限界を超えた悪魔的支配であると判断し、それを阻止するために、緊急手段としてのヒットーラー暗殺計画を支持し、担いました。その計画は事前に発覚して、彼は死刑に処せられましたが、これは黙示録13章の1つの担い方であります。このような中で、教会は、人間のエゴイズムを直視し、十字架の福音がそれに打ち勝ち、神が十字架においてこの罪と戦い、罪人を裁くと共に新たに生まれ帰らせて、罪と戦う者とされる事実を宣べ伝えなければなりません。そして教会において福音を聞いてキリストと出会った者が、地の塩、世の光としてこの世に出て行くことによって、道徳的導きとなるのであります。