「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2025/9/14 週報メッセージ

「執り成す」

川﨑理子 

9月は、毎年忘れることができない、二人の女性の事を思い出します。一人は、22年前に天へ逝った母です。母の最期は眠るようでした。当日留学していた弟一家が、間に合うように「お母さん天国へ行くのもう少し待っていてね」と祈りましたが、叶いませんでした。母は、よく手紙を書いてくれました。病後はリハビリも兼ねて「御言葉」を中心に「教会」「教会員」の為に「毎日祈ってるから」と、必ず最後には、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」Ⅰコリント13:13 と書いてありました。

 もう一人の方は、伝道師時代に三ヶ月お宅に泊めて頂いた当時80歳の女性です。朝晩食事を共にし、榎本保郎先生著「旧約、新約1日一章」を用いてのデボーションは、本当に恵みのひとときでありました。まずは、自らの為に、そして、私、牧師、役員、教会員、求道者、家族の為に、祈りは続きます。最後は必ず「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」ローマ8:28の御言葉で終えていました。

 この方は私の誕生日には、早朝に電話かけてくださり、二人の子供の誕生日にも「祈ってますよ〜起きてる?」「この電話で起きました(笑)」「あらー」と、必ず私が、キツイなというタイミングでした。今思うと、神様が執り成してくださったのだと分かります。

「とりなす」=「執り成す」は、よいようにはからう。もめ事等の中に立っておさまりがつくようにする。なだめて機嫌よくさせるという意味です。私にとって、二人の女性は主の愛に満たされて「執り成し」の業「祈り」を教えてくれた信仰の先輩です。

 イエス・キリストは私の、私達の罪の為に十字架にかかり血を流して身代わりとなられました。十字架につけられた時に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」ルカ23:43と、神と、人間との執り成してとして十字架で、愛を示して下さいました。

永遠の命に至る道を示された私達は、恐れや不安から解き放たれて、復活の命に生きることができます。

2025/9/7 週報メッセージ

塩気のなくなった塩

川﨑 信二 

「自分自身のうちに塩を持ちなさい」(マルコ9;50)  

主イエスの時代、塩は既に防腐剤として用いられていた。毎日暑い日が続くと食物は傷み腐りやすくなる。冷蔵庫のない時代に保存する知恵があったとは驚きである。

 塩を畑に撒くと野菜が豊かに実る。主イエスは弟子たちに「あなたがたは地の塩である。」と言われた(マタイ5:13)。よく「世の腐敗を清めるクリスチャンの務め」と解釈される。「自分の存在が周囲のものを育て、世に影響力を及ぼすクリスチャンになる勧め」と理解されてきた箇所でもある。決してそれは悪いことではない。

 しかし、「塩」自身に塩気や塩味がなければ地上の人々を清めることはできない。つまり自分自身が清められていなければ周囲を清めることはできない、ということである。

かつて、ホーリネスの群委員長が「我等は日本基督教団を清める良心となろう」と言われたことがある。その言葉の背景には日本基督教団への批判があり、その健全化を心から願う祈りが込められていた。

けれども、見方をかえると「教団は汚れているが私たちは清い」というふうに誤解されやすい言葉でもある。

その頃、ホ群の内部では教団を離脱するか留まるか、で揉めていた時期であり、結局は分裂して、幾つかの教会が日本基督教団を出て、新たな教派を設立することになった。

教団に留まった私たちも「新生ホ群」という旗印をかかげ、再生の道を歩むことになった。教団を清めるどころか、むしろ分裂騒ぎで教団に迷惑をかけた、という反省が当時あったであろうか。「教団の良心」になる前に、私は本当に良心なのか、塩なのか、世の光なのか、を問わなければならない。

 私たち自身には罪はあっても、人を清める力などない。聖なる方は「わたしは聖である」(レビ記)と言われた主ご自身だけである。その聖の中に私たちも入れて頂ける。それがホーリネス。聖であるキリストを伝えることが「地の塩」であり、そのキリストがこの罪深い私の中に内住してくださる。それがホーリネスの恵みであると思う。

 「塩」は十字架にかけられた主ご自身のことなのです。

2025/8/31 週報メッセージ

そして、今(使徒20:25〜38)

川﨑 理子

「……あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることはないとわたしには分かっています。」(25)

 エフェソの人々へのパウロの遺言(決別説教)が書かれています。

 「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。」(28)

 パウロは「教会とは何か」を語ります。教会とは「神が御子の血によってご自分のものとなさった」のが神の教会なのです。

 「教会」とは、建物のことではなく、十字架で血を流された主イエス・キリストを神として礼拝する者達の群れです。「教会」は父・子・聖霊との神の交わりの中に入れられた集まりです。つまり「教会は神のもの」です。一人一人が神に愛されているのです。

 しかし、教会には「残虐な狼が」が入り込んでくる危険性があります。異なる教えや偽教師が教会を荒らし、その教えに惑わされ、心変わりをしてしまう信者も出てくるというのです(29,30)。

 教会の現実、人間の弱さをパウロはよく知っています。だからこそ、別れる前にきちんと警告しているのです。

 大事な事を「3年間教え」(31)続けてきました。「悔い改めとイエスへの信仰」(21)、「神の恵み」(24)、「御国」(25)、「神の計画」(27)についてです。教会は「神のもの」。後に続く私達にこの福音が委ねられ、神から伝道の業を託されています。長老(指導者)や信者にしっかりと受け継ぎ、主イエスの救いを語り続ける使命に生きるようにとパウロは遺言を残したのです。

 「そして、今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」(32)

 「造りあげる」とは教会堂のことではなく、信仰の共同体を「建てる」ことです。主イエスが教会を建てあげてくださいます。

 私達はその恵みを受け継ぎ、主の委託に応えてゆきたいものです。

2025/8/24 週報メッセージ

力を捨てよ

川﨑 信二 

「主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。

『力を捨てよ、知れ。わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。』」 詩編46編

 この箇所は、武力に依り頼むのか、それとも平和の主に依り頼むのか。主を見上げ、主に祈ろう、という主題が込められています。当時、イスラエルは王制度を敷き、軍隊を持って敵の攻撃から自国を守ろうとしていました。現代のイスラエルと同じく、周囲の国々との緊張関係が絶えませんでした。弱小国がとるべき道は、大国に屈し従属するか、隣国と協定を結んで大国に反抗するか、中立政策をとるか、極めて難しいかじ取りを迫られていました。

 周辺国の軍事環境によって政策が見直されていく。今の日本において、中国やロシア、北朝鮮の軍事力強化によって、わが国の防衛姿勢を変えなければ周辺国に太刀打ちできない、と考える人たちが増えています。

 日本は島国ですが、今は海を越えてミサイルが飛んでくる時代です。軍事防衛に関しては意見が分かれます。当時の聖書の時代を見つめながら、私たちキリスト者が平和を覚えてどのように生きるか、を考えたいと思います。

 預言者イザヤが主張したのは、政策ではなく、先ず神に頼ることです。2章4節に具体的な戦略が示されています。

「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」

 人を殺す武具ではなく、農作業の道具。つまり、命を生み出ものです。私たちは、主の教えを学び、戦いのことは二度と学ばないようにしたい、と願わされます。

 主イエスの時代に、人々は「イエスに政治的な指導者となってもらって、ローマ帝国を屈服させてほしい」と願っていました。けれども主イエスは愛の道を選ばれ、十字架の死を遂げてくださいました。この犠牲の死こそ、救いと平和の道なのです。

2025/8/17 週報メッセージ

祈 り (マタイによる福音書6:6〜13)

川﨑 理子 

「祈り」とは、いったい何でしょうか? 祈りとは「神様との対話」と言う人もいますし、「願いごとを述べること」「感謝すること」「賛美すること」と言う人もいます。

 イエスは弟子たちの「わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11:1)との願いに応えてこう言われます。

「奥まった部屋」で「隠れたところにおられる」神に祈りなさい(マタイ6:6)。人前でなく、誰も見ていない所で、全てを神に集中して祈りなさい、と勧めているのです。  

まさに「くどくど祈る」姿は人を意識した偽善であり、「彼らのまねをしてはならない」(マタイ6:7)と主は忠告されるのです。

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6:8)と言われた上で、あえて「こう祈りなさい」と「主の祈り」を教えてくださったのです。

主の祈りは週報に記載されています。聖書では「天におられる父よ」という訳で始まります。「父よ」という呼びかけは「アッバ」と言い、子供が「お父ちゃん!」と話しかける時の言葉です。これは、神様が私達と親密な関係になってくださったことを意味します。子なるイエス様が心の底から信頼している父への呼び方は、私達にも神を「お父さん」と呼ばせていただける恵みを示しています。

この呼びかけが祈りです。神様と私達は親子です。イエス様のとりなしによって、神の子とさせていただいたのです。なんと幸いなことでしょう。子どもの全てを知り尽くしておられる父なる神様に向って祈ることができるようになったのです。

親しい呼びかけのあと、「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心が行なわれますように」と、神による救いの完成を祈ります。後半は、私達の祈りです。

「必要な糧を今日与えてください」「わたしたちの負い目を赦してください」「誘惑に遭わせず」「悪いものから救ってください……」。

「主の祈り」はイエス様が「こう祈りなさい」と教えくださった祈りです。

私達に近づき、親しくなってくださった神の呼びかけに応えて「アーメン」と主を賛美しましょう。

2025/8/10 週報メッセージ

主のわざによる教会

川﨑 信二 

よく「あそこの教会は〇〇牧師の教会だよね」と言われます。教会は牧師の教会ではなく、信徒の教会でもなく「主の教会」。健全な教会は人ではなく、神ファーストです。

桜ケ丘教会は創立102年の歩みを進めています。『創立100周年記念誌』を見ると、1923年に板井康祐福音使が、世田谷新町のご自宅で伝道を始められたことが記されています。個人の篤い信仰が神に用いられたことが分ります。

「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって」(ピリピ2:13口語訳)、板井先生の祈りを神が「よしとされた」(同)ことを感謝します。

1925年に「駒澤新町112にて集会所を借用し、伝道開始」。板井先生は駒澤ホーリネス教會に任命されています。リバイバルと共に教勢が伸び、1930年に「駒澤教會は澁谷に伝道所を設けて板井康祐が澁谷に転居(栄通1-16)。「祈りの家澁谷ホーリネス教會と称する」ことになり、さらに日本ホーリネス教会の分裂事件により、1937年「日本聖教会澁谷聖教会の伝道者として板井康祐が任命」されます。「渋谷駅前の桜ケ丘(澁谷區櫻丘五)に家を借り」、板井先生は澁谷を主として駒澤を巡回地として兼任することになりました。「桜ケ丘」の名称は「渋谷の櫻丘」から来ています。

1941年、日本基督教団成立と共に教団に加盟しました。

世田谷新町、駒沢、渋谷栄通、渋谷桜丘と板井先生のご決断により転々とされています。ホーリネスや日本基督教団の事情、また戦争や宗教弾圧によって拠点を変えているのです。

教会は解散させられ、1944年、板井先生は「杉並区下高井戸1丁目の借地に家を購入し、疎開」。現在の場所の近くとなります。戦後、そこに信徒たちが再結集し、教会が形成されてゆきます。牧師個人宅を開放し、復興が始まったのです。

ホーリネス教会は監督制でしたが、少しずつ個人から教会組織へと整い始めます。ことに「無牧」の時には信仰が試され、教会が成長していきました。教会規則は「この教会は〇〇」という言葉で始まります。牧師よりも「信徒の規定」が先に書かれています。牧師中心の教会は牧師が居なくなった時に揺れます。しかし、主を中心に信徒の方々が信仰をもって歩むときに、教会は祈りの内に前進するのです。

教会は主のものです。この教会も主の教会です。

2025/8/3 週報メッセージ

日本伝道の幻を語る

川﨑 理子 

「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。」マルコによる福音書16章15節

7月29日㈫〜30日㈬ 日本伝道の幻を語る会が、新宿西教会を会場にして行われました。「幻を語る会」は「日本キリスト伝道会」の「宣教」を担う働きとして上記の御言葉を中心に進められてきました。

 「日本キリスト伝道会」は1963年「1千万救霊」の幻が与えられて創設されました。今年2025年で62周年を迎えます。「幻を語る会」は今年で第56回です。

 主講師は大嶋重徳先生(鳩ヶ谷福音自由教会牧師)で、講演「若者と高齢者、ともに居場所となる教会」と、宣教大会「私の民がたくさんいるから」と、2回の御用をして下さいました。先生は幼少期から教会へ通い、教会学校で育ちました。学年が上がるたびに、一人、また一人と仲間がいなくなる〜こぼれていく~と、先生は表現されていました。

その体験から「礼拝式」を見直したこと、御言葉の分かち合いを通して「演じなくてもよい教会の交わり」を立ち上げたことを話されました。弱さを出せる場所、若者と高齢者が神様に役に立てることが「居場所になる教会」である、と。

 宣教大会では「恐れないで」「語り続ける」(使徒18:9)恐れに陥りやすい私達をよく知っておられる神様が、「あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから」(使徒18:10)。

なぜ、私達が主に出会ったのですか? それは「わたしの民」と呼んでくださる神の招きに応えたからでしょう、と大嶋先生は私達に問いかけておられました。

 「そこで、パウロは1年6か月の間腰を据えて彼らの間で神のことばを教え続けた」(使徒18:11)

「腰を据える」とは「本気を出す」こと。主に贖われて、罪赦された者として「本気」で神の愛を語りたい。「私にしかできない」ことをさせて頂きたい、と願わされたことです。

 二日目は「ビジョンを語ろう!」「文書伝道は心にしみる」(守部喜雅氏)、「賛美は心を開く」(須郷祐介氏)、「映像は遠隔地にも礼拝を届ける」(川村秀夫氏)の話を興味深く伺い、その後の小グループでの話し合いでは、皆のお顔が輝いていました。

感謝感謝の二日間でした。

2025/7/27 週報メッセージ

これに聞け

川﨑 信二 

 山に登られた主イエスは祈っているうちに「顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」。いわゆる「変貌山」の出来事です。ペトロは「ひどく眠かった」(ルカ9:32)ので「夢」かと思いがちです。しかし仲間(ヤコブ、ヨハネ)も同じ体験をしているので夢ではありません。

 主イエスは以前「死からの復活」(ルカ9:22)また「神の国」(9:27)について言及しています。夢ではなく、ここは「天国の入口」かと思います。ペトロは興奮して言います。

 「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

 小屋。極めて地上的な言葉です。天国には住まいは要りません。彼は偉大な人物を見て「夢なら消えないでほしい」と、この地上に引き留めておきたかったので「仮小屋」的な発言となったのでしょう。

 しかし、地上よりも天国が大切です。その天国の鍵を握っているのはモーセ(律法)でしょうか。エリヤ(預言)でしょうか。モーセもエリヤも鍵は持っていません。天国の鍵は主イエスが持っておられるのです。

雲が現れ、モーセやエリヤが隠れてしまい、雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」と言う声が聞こえました。「これ」とは他でもないイエス・キリストのことです。「雲」は見えない世界。地上にこだわる者、この世に未練のあるペトロを目覚めさせてくれたのです。

 先にペトロは「あなたこそ神のメシアです」と告白しましたが、それは政治的メシアであって、この世の権力者を期待していたに過ぎないのです。エジプトからイスラエルを導き出したモーセのような、天から火を降らせたエリヤのような「力の指導者」を待ち望んでいました。主イエスは王様になる気はなく、十字架の死に至るまで謙遜な方でした。その主の顔が輝き、服が真っ白に輝いたのです。

「あなたこそメシア」と告白したペトロでしたが、「三つの小屋を」と言ってしまいました。3つ……主イエスを旧約の二人と同列に並べていたこと。告白は立派でしたが、信仰の中身は間違いだらけでした。

 十字架の、謙遜な主イエスだけが我らの住まい、我らの栄光です。この方に聞き従いましょう。

2025/7/20 週報メッセージ

愛に生きる人

川﨑 信二 

かつてクリスチャン政治家として、北村徳太郎という人がいました。彼は運輸大臣、大蔵大臣までされた方で、福祉国家建設に情熱を傾けました。ゆりかごから墓場まで、これこそ理想の国家と信じ、福祉国家北欧を視察したのです。

しかしそこで彼が見たものは、無気力、頽廃の様でした。彼は福祉国家に絶望し、幻滅したのです。にも拘らず、よりよき社会を建設することは、意義あることです。しかし、神なき社会はどのように改造しても、自ずと限界が出てきます。究極は、人間が社会を動かすのですから。

地上に平和を創り出すのも、よりよき社会を建設するのも「神の業」であるから、人間の力でやり遂げようとするならばどんな善行でも行き詰まることになるでしょう。

北村徳太郎の理想国家の建設は失敗に終ったのでしょうか。しかし、その主にある愛の業は豊かな実を稔らせたことを一言述べておきたいと思います。実に北村は我が家にとって忘れられない恩人でした。

私の祖父川﨑義敏が佐世保教会の牧師であった昭和18年3月に47歳の若さでクモ膜下出血のため急逝し、祖母と7人の遺児たちが路頭に迷う事態となった。その時高知教会長老の北村長老が遺児献金を全国に募ってくださり、自らも援助され、戦中戦後の厳しい時代を未亡人の祖母と父たちは生き抜くことができたのでした。

祖父の死は川﨑家にとって試練でしたが、北村長老と教会の温かい支えをいただいた遺児たちは全員信仰告白に導かれ、3人が牧師となり、さらに次の世代もまたその次の世代も救いの恵みをいただています。

政治の、華やかな舞台では思うようにならなかったとしても、目の前にいる悩める友を救いに導いた功績は大きいと思います。神の業は国家制度という形よりも、むしろ、愛に生きる人を通して、信仰の実として現われることを改めて思わされた次第です。よきサマリア人の喩えは「異邦人や敵をも愛する」ことを意味します。私は、それ以前に、身近な同胞や家族にさえも、愛を注いでいるだろうか、目の前の人を愛せなくて大きなビジョンを語る資格などない。「小事に忠実」を痛感させられています。

2025/7/13 週報メッセージ

ささげもの(Ⅱコリント8:1〜15)

川﨑 理子 

この箇所はエルサレム教会への献金について「マケドニア州の諸教会」に倣ってささげてほしいと、パウロがコリントの信徒達へ語っているところです。マケドニアの諸教会は決して豊かではなく、むしろ激しい迫害の中で貧しかったのですが、エルサレム教会の危機を聞き、それぞれの力以上に「自発的」に「慈善の業」と「奉仕」(3、4)をしている、というのです。

豊かだったエルサレム教会がどうして危機的な状況に陥ったのかは分かりませんが、マケドニアの信徒達は率先して献げ、「神の恵み」⑴に立って支援しているのです。

だから、あなたたちも同じように「やり遂げなさい」とパウロは勧めているのです。

 実は、コリント教会は慈善の業を(去年から他に先がけて)始めたのですが「献金」をする方向性に疑問を持つ者達が出てきて、止まってしまっていたのです。

 この支援の業には「震災後の復興」と重なるところがあります。復興の最初はハード面に力を入れます。それと並行してソフト面のケアも必要です。こちらは心身への働きかけですからデリケートです。どちらも「何時まで」「どこまで」支援するのかを悩み、挙げ句の果てに休止する場合が出てきます(本当は継続性が必要)。支援する目的が分からなくなり、行き詰まることがあり得るのです。

 パウロは「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」⑺と励まします。更に「主イエス・キリストの恵みを知っている」⑼ のだから、その恵みを他の貧しい人とも分かち合う」ようにと諭しています。

「支援」が目的ではなく、神から頂いた豊かな信仰をもって、神に向かって献げる思いで支援の業に励むのです。

 主イエスはご自身を捧げました。十字架こそ恵みです。これを忘れると自発的な思いが薄れ、義務感に包まれます。ささげものは義務ではなく感謝の応答です。主の献身に私達も応えたいものです。

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」⑼