「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2026/10/4 週報メッセージ

主が何をしてくださったかを覚える

川﨑 信二

本日は世界聖餐日です。聖餐は、教会に与えられた特別な恵みです。近年、信徒数が減少し、教会そのものも減少しています。そのような時代に、私たちは教会として何を大切にし、何を次の世代へ残していくのでしょうか。

この世と歩調を合わせ、様々な行事を企画することも大切です。地域の人々と交わり、共に喜び、共に歩むことも必要でしょう。

しかし、世の中にあるものと同じことだけをしていては、そこに「教会らしさ」を見いだすことは難しいのかもしれません。教会でなくてもできることは、他の集いでもできます。

では、教会にしかできないこと、最後まで残るものは何でしょうか。それはやはり聖餐です。主の晩餐にあずかり、主イエス・キリストを覚えることです。

主イエスは、「飲むたびに、わたしの記念として行いなさい」と語られました(Ⅰコリント11章)。

聖餐は、私たちが何を成し遂げたかを確認する時ではありません。主が私たちのために何をしてくださったかを覚える時です。パンを裂き、杯をいただく度に、私たちは十字架を仰ぎます。そこに示された主の愛を、繰り返し心に刻むのです。それは、みもとに召されるまで続きます。

教会が後の世に残すべきものは、主イエスを覚える信仰です。そして、十字架に示された神の愛を受け続けることです。どれほど時代が変わり、教会の姿が変わっても、主の晩餐を喜び、そこに心からあずかる教会でありたいと思います。

世界聖餐日に、改めてその恵みを覚え、主イエスを仰ぎましょう。

2026/9/27 週報メッセージ

心に励ましを得るため

川﨑 理子

「彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを得るためなのです。」(エフェソの信徒への手紙6章22節)

ティキコという人が、獄中にいたパウロからエフェソ教会に遣わされます。パウロは伝言や獄中での様子を手紙に託し、ティキコに運ばせたのです。それは単なる郵便配達ではなく、パウロの意志を忠実に伝えることへの信頼から、彼が選ばれたのです。

 22節には、「彼から心に励ましを得るため」とあります。私たちは、経験したことのない状況に置かれることがあります。苦しみの現実(獄中での生活)を伝えることも大切です。しかし、そのただ中におられる神の現実を伝えたいのです。

 神はどのような時にも共にいてくださいます。主イエスは私たちの罪と苦難を背負い、私たちを神の子として、平安と永遠の命に与らせてくださいました。この神の助けと恵みを抜きにして、私たちの現実を語ることはできません。

 パウロが「わたしの様子を知って」と言うのは、歩みの中に働いておられる神の助けを知ってほしい、ということです。神は今日も、キリスト者の信仰と生活の中で働き、助け、導いてくださいます。

 そのことを知る時、心に励ましが与えられます。距離や会えない、という壁を越えて、キリストにある者は一つの群れとして共に祈り、平安と希望をもって歩んでいくのです。それが教会の姿です。

2026/9/30 週報メッセージ

感謝して今を生きる

川﨑 信二

必要なものは

天から頂きました

これ以上

ほしいものはありません

枯れてゆく秋の花

一番幸せな時です   ※ヒャクニチソウの画と共に

『星野富弘カレンダー2026』(9月)に載っている作品で今回新作として公開された作品ですが、星野さんの晩年に描かれたものかどうかはわかりません。星野さんの晩年を考えると、本当に胸に迫る言葉です。特に最後の、「枯れてゆく秋の花/一番幸せな時です」という逆説が印象的です。

「枯れていく=衰えていく=失っていく」という普通なら寂しさを感じる時期を、星野さんは「一番幸せな時」と言っているのです。しかも、「必要なものは天から頂きました」という言葉が先に置かれていることで、この詩が単なる人生訓ではなく、星野さんが長い人生の中で培ってきた信仰の告白として読むことができると思います。

星野さんが主のみもとに召されたのが2年前ですから、どうしても「人生の終わり」を重ねて読んでしまいます。ただ、そこには「死を待つ人の諦め」ではなく、「もう十分に与えられている。だから、失われていく時さえ幸せなのだ」という、とても静かな感謝があります。それは怪我により車いすの生活となったことから主イエスとの出会いが与えられたことが大きいのだと思います。弱さの中にあって、いつも主が共にいてくださることを感じていたのではないでしょうか。

 年を重ねるごとに、神に近づく。齢と共に自らはますます小さくなりますが、それゆえに謙虚な心を持って神に向かうものでありたい、と願わされています。

2026/9/13 週報メッセージ

羊飼いのいない群れを見て

川﨑 信二

日本基督教団の『教団新報』は、以前は月2回発行されていましたが、現在は月1回の発行となっています。

教会数や教師数の減少、事務局の人員不足など、さまざまな事情があるのだと思います。最近の『教団新報』を読んでいて、特に目に留まるのが、誌面最後の「教師の去就」の欄です。就任、辞任、隠退、死去などが記されています。その中でも、「就(代)」「辞(代)」という表記が多くなっていることに気づきました。「代」とは代務者のことです。

本来、代務者が辞任すると、主任担任教師が就任するという流れが考えられます。しかし、長い無牧師の期間を経て、教会も教師も病み、代務者交代に至ることもあります。

代務者は一つの教会だけではなく、他の教会にも仕えなければならないことがあります。代務であっても、主任担任教師と変わらないような働きを求められることもあります。

そのような教会と教師が増えている現状を思うと、教会も教師も疲弊することなく、喜びをもって礼拝を捧げられる環境を、どうすればつくることができるのかと祈らされます。

これからの教会は、今までの形を変えていかなければならないのかもしれません。しかし、そのような不安の中にあっても、私たちは主イエスを見上げます。

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ……」。(マルコ6:34)

主は、飼う者のいない群衆を見過ごされませんでした。深く憐れみ、御自分のもとへと招いてくださいました。

教会の未来が見えにくく、不安を覚える時にも、私たちには羊飼いがおられます。教会の形が変わっても、主イエスが私たちの羊飼いであることは変わりません。

不安の中にある一人ひとりの群れを、主イエスがこれからどこへ導いてくださるのか。その御声に耳を傾けながら、主の愛に支えられて、ともに歩んでゆきたいと思います。

2026/9/6 週報メッセージ

死者を敬うこと、神を仰ぐこと

川﨑 信二

  亡くなった方や遺骨を「1柱(ひとはしら)、2柱(ふたはしら)」と数えることがあります。「柱」という数え方は、神道において神を数える単位に由来しています。日本では古くから、亡くなった人を敬い、その人を御霊として祀る風習があって、故人や遺骨、位牌にも「柱」が用いられてきました。

 しかし、私たち主に繋がる者としては、「1人、2人」あるいは「1名、2名」と数える方がよいのではないでしょうか。「柱」という言葉には、単なる日本文化としての意味だけではなく、人を神格化し礼拝の対象とする宗教的な意味合いが含まれるからです。御霊も人に対してではなく、神の霊(聖霊)に対して用いるのが聖書的です。

 亡くなられた家族に語りかけること自体が悪いわけではありません。故人を思い出し、感謝を伝え、そのことで心が慰められることもあるでしょう。しかし、私たちは死者に祈り求めるのではなく、神様に祈る者です。人を礼拝することなく、神様だけを仰ぎたいと思うのです。

 人に意見を聞くことは大切です。主イエスが5000人に食べ物を与えようとされた時も、フィリポに尋ねると、彼は「200デナリオンあっても足りない」と答えました。

一方、アンデレは5つのパンと2匹の魚を見つけました。弟子たちがそれぞれの考えや持っているものを出し合う中で、主イエスが大きな御業をなしてくださいました。

 教会も同じです。互いに意見を聞き、語り合いながら歩みます。しかし、その中心におられるのは主イエスです。人の価値観や評判も参考にしながら、まず主を仰ぎ、共に祈り、御心を求めて話し合っていく。そのような中で、私たちは神様の御業を見させていただくのです。

 悲しみの中にある時も、死者に頼るのではなく、私たちの祈りを聞いてくださる神に信頼して歩みたいと思います。

「死人に伺いを立てる者があってはならない」(申命記 18:11)

2026/8/30 週報メッセージ

イエス様の声

川﨑 信二

私たち牧師は、エアコンの効いた礼拝堂で、マイクを用いて御言葉を取り次ぎます。聖書の解き明かしを聞くために集まった皆さんに語るのですから、福音を届けるには恵まれた環境です。路傍伝道でさえ、今ではスピーカーを使うことができるので大声を発する必要はありません。(新宿で路傍伝道の様子を先日見かけました。)

では、イエス様はどうだったのでしょうか。マイクもスピーカーもありません。ガリラヤ湖畔で大勢の人々に語られたイエス様の声は、どれほど大きかったのでしょう。

ガリラヤ湖周辺には、斜面がすり鉢状になった場所があり、地形や湖面の反射によって、声が遠くまで届きやすい自然の音響効果があったと考えられています。イエス様は、そのような場所で群衆に御言葉を語られました。イエス様の声がどんなトーンだったのか、野太い渋い声だったのか、あるいは品性のある落ち着いた美声だったのか。一度でいいからその肉声を聞いてみたい、と思うのは私だけでしょうか。

そのことよりも、私が心を留めたいのは、声の大きさではなくイエス様が「何を語られたか」です。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

私たちにはマイクがあります。しかし、どれほど設備が整っていても、語るべき福音がなければ意味がありません。イエス様が届けられた福音を、私たちも今日、心を込めて語り、また謙虚に耳を傾けたいと思います。

2026/8/23 週報メッセージ

鐘の音に思う

川﨑 信二

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

(マルコによる福音書1章15節)

先週は牧師家族4人で磐城教会の礼拝に出席しました。

桜ケ丘教会には屋上に大きな鐘があり、礼拝前には私が鐘を鳴らしています。磐城教会にも鐘があり、礼拝堂の入り口に置かれた小さな鐘が、礼拝前に時を告げるように鳴り響いていました。教会員の方が順番に鳴らしているそうですが、その音色が何とも心に沁み、礼拝に向けて私自身の心も整えられる気持ちになりました。

「どうしたら、あんなふうに鳴らせるのだろう。私もあんなふうに鳴らしてみたい」と思いました。

振り返ってみれば、私の鐘の鳴らし方は一本調子で、音だけは大きい。神田川近くの家にまで届くほどだそうですが、その音が果たして人の心に響いているのか。それどころか、もし不協和音になっていたら……と不安な気持ちになる時があります。

かつて「鐘を鳴らすのはあなた」という歌のフレーズがありましたが、聖書において時を告げるのは神様です。主イエスは「時は満ちた」と告げられました。救いの時が来たことを、神ご自身が知らせてくださったのです。

つまり、鐘を鳴らしグッドニュースを届けてくださるのは神自身ですし、神の国をくださるのも主イエスの業であり、私たちの業ではありません。だから、私たちは神の御言葉に聴き、従うのです。それが幸福の道です。

しかし、その知らせを人々に伝えるために、神様は私たち人間をも用いてくださいます。私たちの小さな働きを通して、救いの福音を知らせ、道行く人々を主イエスのもとへと招いてくださるのです。

鐘の大きさではなく、その音色が人の心に届くことこそ大切です。私自身も、ただ大きな音を響かせるのではなく、主イエスへと人を招く音色を、この教会から響かせることに心を注ぎたい、と願わされています。

2026/8/16 週報メッセージ

 大波のように

川﨑 理子

桜ケ丘教会に着任後、お手伝いを続けてきた教区中高生キャンプですが、昨年度より教育部委員となり、今年は開会礼拝を担当いたしました。テーマは「私の賜物って何だろう(Ⅰペトロ4:10)」。

中高生と共に「賜物」や「互いに仕え合うこと」について御言葉に聴きました。最初のアイスブレイクでは自分自身を見つめ直すワークを行い、初参加のメンバーもすぐに打ち解け合うことができました。

夜のシェアリング前には、幼稚園の今月の賛美歌でもある「大波のように」を、私がジェスチャー付きで歌うと、かつて園児だった中高生たちが笑顔で合わせてくれました。キャンドルの灯りの中、神様の大きな愛が一人一人の胸に大波のように寄せ、広がっていくのを感じる豊かな証の時となりました。

翌日は「心の4つの窓」(心理学)を用いたワークを行い、自分も知らない自分を神様が知っていてくださることに気づく学びとなり、楽しく賑やかな時となりました。

この若い魂がこれからも主に導かれ、それぞれの教会に温かく迎えられますように。クリスマスの再会を楽しみに、皆が笑顔で帰路についた恵みのキャンプとなりました。

2026/8/9 週報メッセージ

剣を鋤に、槍を鎌とする

   

                    川﨑 信二

主は多くの民の争いを裁き

はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。

彼らは剣を打ち直して鋤とし

槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向かって剣を上げず

もはや戦うことを学ばない。(ミカ4:3)

上記のミカ書の聖句はイザヤ書2章にもほぼ同じ言葉がある。預言者イザヤとミカは、紀元前8世紀、ほぼ同じ時代に活動していて、滅亡寸前の南ユダ王国に審きと回復の預言を語っている。

 ミカは「モレシュト」という山里の出身。イザヤが貴族階級で、王に進言できる立場であったのと比べ、ミカは農村のどこにでもいるような人だった。ミカにとって鋤や鎌は日常生活で使う道具だった。そんな日常を奪うのが戦争である。鋤が剣に、鎌が槍に変えられてしまうのだ。

日本においても戦時中、鉄が不足し武器を造るために一般家庭では、鍋ややかんを軍に差し出さねばならない状況だった。その逆がミカの預言であり、戦争を終わらせる神の告知なのである。この平和ビジョンは日本国憲法の「平和主義」とも響き合っている。日本は再び戦争への道を進むのだろうか。防衛費倍増、敵地攻撃能力保有という軍拡への道を突き進むことのないよう祈るものである。

主イエスの平和は十字架の贖いによってもたらされる。主は「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」と言われ、権力者に抵抗する弟子たちをいさめ、十字架に向かわれた。主イエスの十字架が、敵意という隔ての壁を取り壊してくださったのである。敵意が日常を壊し、戦争へと向かわせる。敵意……私たちの心の問題である。正義を振りかざす前に、この私こそ、十字架の贖いを必要とする罪人であることを忘れてはならない。

主を信じる者が、主の教えに逆行することのないよう、剣にお金をかけるのではなく、日常を大切にし、毎聖日、主の山に登り、祈ってゆくお互いでありたい、と願わされている。

2026/8/2 週報メッセージ

君が代 日の丸

川﨑 信二

 先週、大相撲名古屋場所が盛況のうちに終わった。千秋楽には結びの一番が終わった後に国歌斉唱と国旗敬礼の時がある。野球観戦でも「君が代」を起立して歌うことが求められることがある。

 私はかつて「相撲の歌」として歌うことがあったが、今は歌うことも止め、起立もしないようにしている。それは戦時中に戦争遂行のために用いられていた軍国主義の象徴というイメージが拭えないからだ。日の丸を掲げて敵を攻撃し、日の丸を振って兵隊さんを送り出したという、多くの人を殺戮するために使われたことは言うまでもない事実である。降伏し敗戦となった時に、日章旗も変えるべきだったのではないか、とも思う。

 クリスチャンが全てそう考えるべきだ、とは思っていない。職場や学校という組織なかで、そうせざるを得ない方もおられるだろうし、それこそ、するしないは自由だからである。その自由を行使して、私は敬礼しないようにしている。牧師ゆえに比較的にそれが出来る立場にあるし、それが許されるのが民主主義だと思っている。それでもその時の状況次第では私の振る舞いも変わってしまうかもしれないが……。

 危険なのは、戦時中のように国歌権力により同じ思想を強要させられ、弾圧や処罰の対象になるような体制になってしまうことである。国家から迫害を受けた桜ケ丘教会に連なる者として、愛国主義が軍国主義に変化する危うさがあることを注視しつつ、武力に頼る国にならないよう祈ってゆきたい。主イエスの十字架は、攻撃ではなく、それを赦す愛そのものであることを忘れないようにしたい。