「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2024/11/17 週報メッセージ

共に居てくださるイエス様

川﨑 理子 

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

マタイによる福音書28章20節

降誕節前の聖日を歩む中でこの御言葉に出会いました。復活されたイエス様が弟子達を世に遣される時に語られた言葉です。この言葉にイエス様の愛がつまっています。

イエス様はまた居なくなります。昇天されるからです。

イエス様の姿、形は消え失せますが聖霊となって私達と共に歩んで下さる、というお約束の言葉です。

私達の人生は様々な問題や痛みにより傷つく事があります。そんな時必死に神様を探し求めます。しかし、私達が自分の問題に集中すればするほど神様を見失っているということがあります。探し求めているはずなのに見つからないのです。それでもイエス様は私達の傍に居て下さいます。「いつもあなたがたと共にいる」と。

すなわち必死に探している私達と共にイエス様はいる。なんと感謝なことでしょう。「いつも」とは「どんな時でも」「苦しい時こそ」と言い換えることができます。

娘からLINEで写真が送られてきました。すっかり冬支度仕様に模様替えした部屋と、大好きなディズニーのアドヴェントカレンダーが映っていて「今から開けるのが楽しみ!」とコメントが添えられていました。私もそれを見て初めて自分の為に(今までは子供の為に)アドヴェントカレンダーを購入しました。可愛いらしくて一目惚れでした。(作れたら良かったのですがなにせ不器用なので)。

イエス様が全ての人を救う為にお生まれになったことをワクワクしながら毎日朝開けて、待ち望みたいと思います。

主は今日も私達と共にいて下さいます。聖霊により揺るがないイエス様の臨在を示して下さいます。

2024/11/10 週報メッセージ

礼拝と教育

川﨑 信二 

ある日曜日、CS礼拝の説教をする前に初めてきた子どもに少し聖書の説明をしました。その際に「後でテストするから覚えておいてね」と言うと「なんか嫌だな、腹立つ…」という正直な答えが返ってきました。私はハッとさせられ気をつけなければと、思わされたことです。

教会学校は学校と名がつくように教育面も担っています。昔、日曜学校と呼ばれた時代にはしつけや生活面のマナーまで教えていました。現代の教会学校でも分級では聖書教育を実施している教会が多数あり、教育も教務の1つではあります。

しかし、教会学校はCS礼拝と分級からなるのです。礼拝は教育の範疇を越えます。子どもも大人も同じく神の僕として主の前で額づくのです。上から教えるのではなく、共に御言葉に聴く姿勢が大切です。

 同時に、教師の信仰で礼拝が守られます。あるいはそこに集った信仰者による礼拝と言えます。

幼い子どものほとんどが洗礼を受けていません。その意味で教師が先ず喜び勇んで主の前に出るのです。

子どもを見守るとか、子どもを悟らせるとか、礼拝ではそんな姿勢ではなく、一緒に主に従う心構えが必要です。

子どもに〇〇させる、ではなく、自ら神の子どもとして謙虚になり、初心に返って主イエスを仰がせて頂きたいものです。

2024/11/3 週報メッセージ

キリスト教的供養

川﨑 信二 

イエスが彼らの中にお立ちになった。そして“やすかれ”と言われた。

 (ルカ24:36口語訳)

「供養」を辞書でみると「死者の霊に供え物などをして、その冥福を祈ること」とあります。冥福・・・つまり死者の「あの世での幸せ」を願い供えることです。その思い、その気持ちはとても尊いことです。その気持ちを具体的な供え物という形に表すことが供養なのだと思います。

キリスト教では「供養」や「冥福」という考え方がなく、死者への対応も違います。死者は神の領域に移されたので人の力ではどうにもならない。人間の行為(祈りや献げもの等)を死者に届けることは出来ないと考えます。

もう一つは、死者は既に幸福を得ているので、供養や冥福を祈る必要がないほどに満たされているという教えです。聖書の教えは死後の「復活」や「永遠の命」を説きます。

主イエスご自身が死から復活され、私たちもその復活に与ることができる、という希望です。「永眠」ではなく「復活」(Ⅰコリント15:50-55)です。目覚めて、起きて、そして生きるのです。感謝なことです。

ですから、死者は平安であり祝福されている故に、私たちは神を賛美するのです。

けれども、遺族の悲しみに配慮する必要があります。冒頭の御言葉は悲しんでいる弟子達に、復活された主が語られたものです。「やすかれ!」「あなたに平安があるように」。この主の言葉をもって遺族の悲しみに寄り添い、共に神を仰ぐのです。生かされている私たちが出来ることは神に祈ること、そして遺族の方々に復活の希望を伝えることです。死者に対しては、出来れば生前に心を尽くし、後悔することがないよう愛することが大切です。けれども死は突然訪れます。準備がないまま、悔いを残したまま天に送ってしまうことがあります。

キリスト教における「供養」とは(私の勝手な考えですが)、死者に対して生前に出来なかったことを神に委ね、キリストを通して愛する人に届けることではないでしょうか。

むしろ、死者が幸せであることを信じ、遺された家族が平安を得ることが大切です。「やすかれ!」との主の言葉にすがりつつ、残された日々を希望のうちに歩みたいものです。

2024/10/27 週報メッセージ

ハロウィンの扱いについて

川﨑 信二

 キリスト教の聖書信仰とハロウィンの思想とは全く相容れないもので、取り扱いにはある程度の注意が必要です。

 それでもパウロは「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」(ローマ14;1-3)と述べています。

 ハロウィンを悪魔的なものとして祝うべきではないという教派がある一方で、何も問題はないという教会もあります。私は個人的には「単なる遊び」と考えていますが注意は必要だと思っています。一般の人はキリスト教の祭りだと勘違いしている方が意外と多く、それ故に気をつけたいと思うのです。

キリスト教国と言われているアメリカで民間行事として定着しているために誤解されやすいのです。更に毎年10月31日に行われるのがカトリックの死者を覚えるミサ(11月1日)の前夜祭に位置付けられているためです。これを宗教的な意味合いはないと考えるならば何の問題もありませんが、やはり「魔女狩り」「悪霊」「ゾンビ」など死後の捉え方は聖書とは違います。

元々は古代ケルト人の祭りが起源だとされ、収穫祭でしたが、カトリックの地方の土着の民族宗教と混ざって、生きている者と死んでいる者との交流期間として死者の今を覗き見る、いわば仏教のお盆に似ている思想から来ています。真剣に信じている人がいる限り、「遊び感覚」は失礼になりますが、これを宗教と捉えるか、の問題です。

遊び…但し、死は人生の最大の課題ですから、死を恐れ、悩み苦しむ人々への配慮が必要です。全て自由ですが、遊びで行うとしても互いに節度と常識をもって、プラス楽しくやれたら良いのではないでしょうか。

2024/10/20 週報メッセージ

献身の志

川﨑 理子 

 イザヤ書6章には、神からイザヤが預言者として「召命」を受けた様子が記されています。

①いつだったのか。「ウジヤ王が死んだ年」(1)。南ユダの王ウジヤが死んだのは紀元前740年。ウジヤ王は神を畏れ敬う王でイザヤはウジヤ王を信頼していましたが、ウジヤの晩年は彼の高ぶりにより神に打たれてしまいます。

祭壇の香を自ら焚こうとして祭司に止められ皮膚病となったのです。それは祭司しかできない聖務を王の力で行おうとした越権行為でした。それまでの成功体験が自身を神格化させてしまったのでしょう。ウジヤ王が死ぬことは南ユダの滅亡を暗示していました。

②どのように召されたのか。「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。」圧倒的な主の姿と神の栄光が神殿満ちていました。更にセラフィム(天使的な存在)が「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と神が聖であることを地震と煙によって現し、この圧倒的な聖なる姿を見せてイザヤを召したのです。

以前、洗足木曜日にお互いの足を洗うという体験をし、垢まみれ桶の水を見てその汚れに驚いたことがありました。それまで気づきませんでしたが私自身がいかに汚れた者であるかを知らされました。

イザヤの口にセラフィムが火を触れさせて「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」と告げました。ウジヤ王は自分の高ぶりに気づきませんでした。神様は謙遜な者を召されます。いえ、圧倒的な聖によって謙虚にさせて従わせるのです。イザヤには罪の自覚がありました。

「誰を遣わすべきか」との主の声にイザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と答えます。

「まさか私ではないでしょう。」と思っていたイザヤを神様は用いるのです。真の謙遜は拒否ではなく、積極的な信仰と従順です。

今私達は、圧倒的なイエス様の愛に触れています。この十字架の「愛」に感謝して応え、遣わされてまいりましょう。

2024/10/13 週報メッセージ

伝道者養成と各神学校を覚えて

川﨑 信二 

 桜ヶ丘教会はホーリネスの群の神学校、東京聖書学校を支援しています。東京聖書学校は今日に至るまで伝道者を各教会とそれぞれの宣教の場へと送り出してきました。同校は献金によって運営されています。神学校日のこの時に在学生3名と、教授、講師、事務など関係者のために祈りたいと思います。東京聖書学校報№30をご覧ください。11月23日に2025年度新入生のために第1回入学試験が行われます。受験志願者が与えられますように、また必要が満たされますようお祈りください。

「神学校日(伝道献身者奨励日)」は先述の働きのために祈り、支える日として設けられ、今年は10月13日です。

日本基督教団認可神学校は関西学院大学神学部、同志社大学神学部、東京聖書学校、東京神学大学、日本聖書神学校、農村伝道神学校の6校です。教団立の学校は東京神学大学となっています。

 

 中村公一氏の「礼拝を彩る教会暦」にこう記されています。

1961年から毎年10月第2主日を神学校日として、そのために献金することを制定して実施している。

 また、従来1月第3主日に行われていた伝道献身者奨励日は、1963年から神学校日と同じ日に守るようになった。

一方、1961年以前から東京神学大学が10月第2主日を神学校のための献金の日としていて、それが教団全体として他の認可神学校も含めて覚えて献げよう、ということになった。

 東京聖書学校は全寮制の学校ですが、近年は入学生の事情に配慮した受け入れを行っています。日本聖書神学校は夜間の学校で勤務しながら学べます。神学校に行かずCコース受験制度で(数年間にわたり検定試験を受けて)教師になる道もあります。また、教団以外の教派を超えた神学校が各地に多数あります。

主に召された方々の志が全うされるため、学びの環境が整えられるように、この働きを覚えてお祈りくださり、ご支援くださるようにとお願い申しあげます。

2024/10/6週報メッセージ

永遠の住み家(Ⅱコリント5:1〜10)

川﨑 理子 

 パウロは、地上の住み家は「幕屋」(一時的に住むための住居)だと語ります。彼は天幕造りの仕事をしながら伝道を続けました。伝道とは「神のひとり子であるイエス・キリストの十字架の贖いと、復活の命」を語ることです。

 天幕造りの仕事はこの世で生きるために日々の生活の糧を得るために必要なことです。同時にこの世とは全く違う永遠の世界を語っているのです。

 天の希望は「今ここに在る」。希望はあるが「地上の幕屋にあって苦しみもだえている」のが現実です。この世では「重荷を負っている」からこそ「天から与えられる住み家を着たい」(2.4)と切望するのです。この世で苦しむ体の上に永遠を着ることを心から望むのです。それは私たちの身近にもあります。

 かつて、私が神学校へ行くことをとても喜んで下さった姉妹(当時短大の教授)から手紙が届きました。末期癌で東京の病院で入院治療中と書かれていました。御見舞に伺うとだいぶ痩せておられました。彼女は、家族を導けなかったこと、自らが本当に救われているのか、天国はあるのか、私自身そこに行けるのだろうか、と苦悩していることなどを話してくれました。まさに切実な言葉でした。

 パウロは「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるから、ひたすら主に喜ばれる者になりたい」(7.9)と語ります。

 死を目前にした時に姉妹は自身の体(地上の住み家)を抱えながら苦しんでいましたが、そこから目に見えない永遠の住み家へと心を移していったのです。信仰とは、イエス様の語られる言葉を信じ平安を保つことです。

 イエス様は「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(ヨハネ14.3)と言われました。それは「全ての人のため」に用意してくださる場所です。「わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住み家」(5.1)が確実に備えられていることを。

しかもその住み家は「わたしのため」であり、「全ての人のため」に既に整えられています。この、人の考えの及ばない驚くべき主の救いに、主の御業の広さ深さに、心から感謝するものです。

2024/9/29週報メッセージ

年長者の霊性

川﨑 信二 

 更生教会の山口紀子牧師が同教会の月刊誌『ぶどうの樹』で岡本知之著『老いと信仰』(教団出版局/信仰生活入門シリーズ)という書籍を紹介されていました。

その書では、「高齢者」という呼称には人を二分する価値観が潜んでいる。「高齢期」とは「人を養う立場から養ってもらう立場に変わる時」という発想が背後にあり、生産性の有無で人を分ける、という考え方だというのです。

岡本先生は、人間の生産性の本質は、霊性・魂・体の健全さにこそある。聖書は人が「霊・心・体」から構成されると教えているのだ(Ⅰテサロニケ5:23)と指摘しています。

「霊性は人生が順風満帆、向かうところ敵なしといった時に実はもっとも低くなるのです。神など必要ないと高慢になりやすいからです。しかしこの時こそ本当の意味での『牧会』が必要になる時であり、そこに、人生の霊的成熟期を迎えた人々、つまり高齢者の果たす、大切な役割がある。」(『老いと信仰』14頁)というのです。

山口先生は「今まで出来たことが出来なくなる自分を受け入れること、人のお世話になること。それは謙遜でなければできません。謙遜にさせられるのです。切なさや痛みが伴います。」と述べ、「霊的成熟期に霊的生産性、霊的創造性が研ぎ澄まされる。」と記しています。

 私はこれらのことから、人は小さくさせられる時こそ最も神に近づく時だと思わされました。与えられた健康や能力はやがて「神にお返しする」時が来ます。

かつてハンセン病で長島愛生園におられたある女性がこういう句を詠みました。

「目をささげ 手足をささげ クリスマス」

「返す」のも信仰ですが、さらに「ささげる」という捉え方は霊性がなければできません。主の御前に低くなり、感謝のうちに十字架の主を見上げて歩ませて頂きたいものです。

2024/9/22週報メッセージ

内なる人(Ⅱコリント4:16〜18)

川﨑 理子 

パウロは「外なる人」は衰えていくとしても、「落胆しません」と語ります。「外なる人」とは見える部分、姿、衰え、老い等のことです。長生きをすればその分衰え続ける時間も長くなります。パウロの伝道者の生涯は波瀾万丈でした。どこへ行っても「ユダヤ人を迫害していた」「あのパウロ」でした。命も何度も狙われました。そんな生き方をすれば体もボロボロ、精神的にも追い込まれていくでしょう。また、「わたしにはひとつのとげがあり、そのとげを取り除くことはできなかった」と、彼自身、肉体的な弱さを持っていると告白しています。更にこの頃50歳を過ぎ、年齢的にも体力の変化を感じていたのではないでしょうか。

パウロは、この箇所で衰え続けることを悲嘆しているのではありません。むしろ「内なる人」の充実を語ります。それは、「外なる人」つまり「見える体」のことではなく、心の内、信仰的な目に見えない内面のことを指します。「内なる人は日々新たにされています。」との聖句は「信仰は毎日更新されていきます。」と受けとめることができます。日々衰えるのでなく日々更新です。

私は結婚する前の約2ヶ月間、当時伝道師をしていた教会がリフォーム工事のため、教会員の高齢の姉妹のお宅で共に過ごさせていただきました。88歳で1人暮らしをされていた姉妹に短い期間でしたがお世話になりました。

朝の祈祷、朝晩の食事9時半の晩祷他、規則正しい生活をしました。同じプロ野球チームが好きで熱い応援合戦をしたことを思い出します。姉妹の「外なる人は衰えて、私のようにシワシワおばあさんになっても内側は成長させて下さるのは神様だから安心ですよ。朝起きてまだ天国ではないと分かると一瞬がっかりするけどね」と穏やかに語る姿に「内なる人」は日々新たにされる信仰を見ました。

主を信じる者は年を重ねて尚更新続ける。成長して主の為に用いられる。なんと幸いなことでしょう。それは見えないものに目を注ぐ生き方です。私達は外なる人の終りを見つめつつ今を生きるのです。

2024/9/14 週報メッセージ

あっぱれ!「玉鷲」!!

川﨑 信二 

 大相撲秋場所で通算連続出場1631回を果たし、角界1位に躍り出た鉄人「玉鷲(たまわし)」を皆さんご存じでしょうか。11月に40歳になる超ベテランの関取で幕内力士です。過去に幕内最高優勝を2回成し遂げたモンゴル出身の現役力士です(最高位関脇)。なんとなく地味で、人々からの印象が薄い力士でしたが、コツコツ努力し激しい突き押しと素早い動きで上位陣を苦しめ、勝っても負けても真っ向勝負、気持ちの良いお相撲さんであることが少しずつ認知されるようになりました。

インタビュールームでは、いつもニコニコして人当たりがよい。かといって勝負への執着が弱いのではなく、土俵にあがれば闘志むき出し、小細工はせず正々堂々、迷うことのない相撲を取り続けている、それが持ち味で、応援したくなる魅力的な人なのです。

美空ひばりが歌った「柔」という曲に「勝つと思うな 思えば負けよ 負けてもともと・・・」 という歌詞があります。常にチャレンジャー。謙虚さを失わず、若手に対しても胸を借りるつもりで、全力でぶつかる、その精神が清々しく映ります。

人間はもともと罪人です。聖書にこう書かれています。「正しい人はいない。一人もいない」(ローマ3:10)。「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」(同12:3)。

私たちも思い上がることなくコツコツと歩ませて頂きたい。同時にモンゴルの鷲のごとく、優雅に「翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)、生き生きとした信仰を常に持たせて頂きたいものです。

この世で長らえる限り主に向って歩みましょう。

―敬老の日に寄せて