「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2025/12/28 週報メッセージ

降誕節を迎えて

川﨑 信二 

都心にある教会の礼拝堂の中に大きなツリーが置いてあります。本物のもみの木に本物のリンゴが飾られています。ツリーの発祥は中世のドイツですが、元々は土着の異教的な発想から始まっています。もみの木や樫の木は常緑樹ですから葉が枯れない。つまり「永遠」を表すことから、それを飾って見ることで「私たちもいつまでも若々しく元気でいたい」という願掛けのような発想です。

きっかけはどうであれ、永遠の主イエスに心を向け、信仰的に若々しく希望をもって歩みたいものです。その教会の牧師の飾り付けへのこだわりは「本物」を用いること。生きている木を使い、美味しいリンゴを飾る。

私はそこまでのこだわりはありません。象徴として、それを見るものが神様に心を向けことができるなら素晴らしい媒体となります。しかし逆に、ツリーを拝んでしまえばそれが偶像となってしまいます。できれば「本物」が良いに決まっています。偽物の飾り、偽物のキャンドル、偽物の光(イルミネーション)。確かにそれらに命はありません。でも、これらは捧げ物ではなく、私たちが見て喜ぶものです。それでよいのです。

講壇に飾る花を「生花」にしている教会は多いとい思います。さすがに綺麗です。香りもよい。説教者は立場上講壇に腰かけていて生花の後ろ側になるので表の綺麗な花は見えません。クリスマスツリーの電飾や飾りも基本的に人から見える部分に付けるので裏側は地味です。

「献花」の向きも花が会衆に向けられています。神が見るのではなく私たちが見て慰められるためです。ですので、献花というよりは飾花です。

ただ、気持ちは神に捧げる思いで飾りたいものです。すべての奉仕が神に感謝して捧げるものです。

教会の一年はクリスマスから始まります。幼子イエス様を見上げて、感謝してあゆみましょう。

2025/12/14 週報メッセージ

キャンドルを灯して待つ

川﨑 信二 

4本燭台があります。待降節に入ると、1本ずつキャンドルに点灯されます。キャンドルの灯りを見てクリスマスを待つ。灯りは「祈りの火」を現わします。目で灯りを確認しながら祈り続けるのです。「絶えず祈りなさい」。諦めずに祈り続けるものでありたいと思います。

4週目の日曜日に4本目に点灯され、クリスマス礼拝を行います。5本燭台という見慣れないものもあります。4週目の聖日はまだ待降節です。その週にイヴそして降誕日を迎えるので、その時に5本目を点けるわけです。4本燭台とは別に、イヴに大きく太い燭台を真ん中に立てて灯す場合もあります。待降節に紫色のキャンドルを使う教会もあります。「紫」は苦しみを表す典礼色です。

受難節の時と同じ色です。因みに7本燭台は受難節に7本のキャンドルに灯され、翌週より1本ずつ灯火が消えてゆき、主の受難日には全て消え真っ暗になります。「消灯礼拝(テネブレ)」と言います。主の十字架の苦しみを覚えるためです。

キャンドルの灯りは象徴です。命の象徴です。人の命は儚くも消えてゆきます。世界から光が失われた時に、主が輝く復活の姿で現れるのです。

逆に待降節は「点灯礼拝」となります。1本ずつ灯されます。それは、命である主が来られるのを、今か今かと待ち望み、備える意味があります。 主が来られるまでは苦しむのです。ですから、待降節には、キャンドル以外の飾付をしない教会もあります。降誕日を迎えてから喜ぶというのです。大事なことは、暗さの中に希望があるということ。光は希望です。

「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」 ヨハネ1:9

3本のろうそくは何を意味するでしょう。3本の十字架のように、両側の犯罪人は罪によって死にますが、真ん中の主の光(命)は消えず、罪人を永遠の楽園に導いてくださいます。真ん中のキャンドルの背が高いのは、主イエスだけが上げられ、主に繋がれば生きることを意味します。地上の光は全て消え、主の光が世を照らすのです。

2025/12/7 週報メッセージ

主を賛美しよう

川﨑 信二 

先週、アドヴェントに入り、べアンテ・ボーマン先生とルリ子先生をお迎えしてチャペルコンサートを行いました。チェロとピアノ演奏、お証を通して、神の不思議な計画と救いを知る機会となりました。感謝いたします。

先生方は、1999年12月よりクリスマス・チャペルコンサートを続けてくださり、今年で27回目の開催となりました。前牧師の朝位眞士牧師・フミ子牧師の時代にこの礼拝堂が建てられて間もない頃に来てくださり、それから毎年途切れることなく演奏とみことばのご奉仕をしてくださり、今年もすばらしい音色が会堂に響きわたりました。

今年は午後のみの開演となり、日頃は来ることができない信仰の友や他教会のメンバーも来てくださり、誠に心強く、励まされたことです。

 毎年、ボーマン先生が初めに弾いてくださる曲に心が震えます。フィンランドでこの曲に出会い、感動されたとのこと。「主に向ってハレル・ヤ」という曲です。ヘブライ語で「ハレル(共に賛美)・ヤ(偉大な神を)」。神を賛美せよ!

1974年に米国の歌手リンダ・スタッセン・ベンジャミンがイースターのために作詞作曲した「Sing Hallelujah To The Lord」という曲です。「Sing Hallelujah To The Lord, Sing Hallelujah To The Lord」と繰り返すシンプルな歌詞ですがメロディに乗ってじわじわと心に沁みてくる名作です。この歌は香港の200万規模の抗議デモで、祈りの叫びとなった曲でもあります。

日本では日本バプテスト連盟『新生讃美歌』に収録されている「主を賛美しよう」という曲です。歌詞は「主をさんびしよう 主をさんびしよう 主をさんびしよう 主に向いハレルヤと主をさんびしよう」。

内容は単純ですが、人生で最も大事なことが歌われています。「ハレルヤ」には「主に栄光を」という意味もあります。クリスマスを待ち望むこの時期に、謙虚に、また、心の底から湧き出る祈りをささげたいものです。人の功績ではなく、主に栄光を!

2025/11/30週報メッセージ

五島列島を訪ねて

川﨑 理子 

11/18~11/20「五島の世界遺産教会巡り」のツアーへ参加しました。五島列島へ生まれて初めて行きました。

 五島のキリシタン弾圧の歴史を岡山先生がまとめてくださった資料で、当時の、主を信じ、その信仰を公に告白したキリシタンとは、どのような人々であったのか、胸に迫るものがありました。

 実際に集落や教会堂を見た時に、厳かで且つ流れている空気になんとも言えない気持ちになりました。景色は、弾圧を受けた時と変わらないような穏やかな感じでした。

五島のキリシタンに対する迫害は、下五島の久賀島にはじまり、中通島、頭ヶ島にも及びました。旧五輪教会堂は18世紀以降、五島藩が久賀島に移民を受け入れ、漁業や農業で既存の集落と互助関係を築きながら、ひそかに共同体を維持していたというのです。

「教会」が世界遺産ではなく、久賀島の集落が世界遺産なのだと。頭ヶ島天主堂も然り。19世紀、潜伏キリシタンの一部は病人の療養地として人が近づけなかった頭ヶ島を移住の適地として選び、仏教徒の開拓者のもとで信仰をカモフラージュしつつ秘かに共同体を維持しました。

奈留島の江上集落「江上天主堂」には建物に十字架がない。19世紀、潜伏キリシタンの一部は奈留島の人里離れた海に近い谷間に移住。信仰をひそかに続け、解禁後はカトリックに復帰。江上天主堂を建設。十字架がないのは、「潜伏」の終焉を可視的に示しているとのこと。この天主堂を見た時に涙があふれてきました。

 牢屋の搾殉教記念教会には、久賀島に捕囚された人達が六坪の空間に約200人が極度の睡眠不足と飢餓の中で閉じ込められた。理由は、子供が信仰を捨てなかったからだと。また、「転べ、転べ」と言われても信仰を捨てなかった方々の洗礼名の石碑を見て、これも涙しました。

 他にも堂崎天主堂、江袋教会、青砂ヶ浦教会、旧鯛ノ浦教会(被爆レンガを一部使用)。車窓から水ノ浦教会、中ノ浦教会を見ました。本当に充実した旅でした。

 今私達は「教会へ行っています」と言える時代に生かされています。この時代がいつまでも続きますように。

2025/11/23 週報メッセージ

収穫感謝日に思う

川﨑信二 

 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

マタイ6:33

   リビングバイブル

 神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。

 感謝祭という収穫を感謝する行事(Thanksgiving Day)がアメリカやカナダなど特定の祝日としてあります。日本のプロテスタントでは「収穫感謝日」また「収穫感謝礼拝」として果物や野菜を持参して祈りをささげる時を持っています。

 起源は、収穫を感謝して「神に礼拝をささげる」。それが始まりでした。当初は信仰的なものでしたが、現代では世俗的な文化行事として広く親しまれ、宗教を問わず多くの人が家族や友人と集まり共に食事をする場となっています。

 「祭」がフェスティバルやカーニバルのような、楽しいイベントとして地域を盛り上げる社交的な意味合いとなっています。そこには神への感謝よりも、互いにの喜びに焦点が当てられていて「人間中心」の要素が強くなっています。

「クリスマス会」という言い方も地域的な行事のような雰囲気があります。クリスマスの「マス」はミサのこと、礼拝を意味します。私たちも社会で生きる者として世俗イベントにも積極的に参加します。ただ、教会は教会でしか伝えられない、いのちの言葉を発信したいものです。

 ことに、収穫感謝日のように、祈りで始まった、信仰的な起源をもつ集いには、とりわけ最初の精神に立ち返る必要を覚えます。

 結婚式も神の前で誓約を交わすことがとても大事です。

人への感謝も大事ですが、神の前に心からぬかづく姿勢をとりたいものです。

 神を第一とすること。忘れやすいことですが、もう一度原点に返り、聖霊なる神と共に日々をあゆませていただきたいと願うものです。

2025/11/16 週報メッセージ

こどもの好きなイエス様(マルコによる福音書10章13〜16節)

川﨑 理子 

 子供の頃、母に連れられて通っていた教会学校で「こどもをまねく」という讃美歌(旧こどもさんびか48)があり「こどものすきなイエスさまよ」の歌詞を大きな声で歌った記憶があります。「こども」すなわち「わたし」を好きでいてくれるイエスさまを、好きだったからです。

 「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れてきた」(13)ことを「弟子たちは叱った」のです。

弟子から見れば、多忙なイエスさまに近づくことは「非常識」なことであり、子供たちからイエスさまをお守りしなくては、と思ったのでしょう。

「しかし、イエスはこれを見て憤り」(14)ました。この「憤り」とは、不公平な扱いに対する「正義の怒り」でした。

子供たちをご自身のもとに連れて来るのを妨げること程深刻なことはないのです。イエスは「来させなさい」、「子供のように神の国を受入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(14、15)と語ります。

「子供のように」とは、地位がなく、社会の為に貢献できない者こそ素直に神の国を求めることを表しています。

成長するに従い、家事を担い、働いて役に立つようになります。様々な力が身に着きます。身に着けたものを手放せなくなります。神よりも自分の力、人からの評価が気になり、神の国から遠ざかってしまうのです。

 イエスさまは、幼子として馬小屋で生まれ、神の子として「神の愛」を顕して下さいました。その「愛」は「十字架」そのものです。弱さの中にこそ神の愛が宿るのです。

八木重吉作「神を呼ぼう」という詩があります。

「さて、あかんぼは、なぜに、あんあんあんあん泣くんだろうか ほんとに、うるせいよ、

あんあんあんあん あんあんあんあん うるさかないよ、うるさかないよ

よんでるんだよ。かみさまをよんでるんだよ。

みんなも よびな。

あんなにしつこく よびな」

 待降節を前に、わたしに足りないものは何か、を教えられます。

2025/11/9 週報メッセージ

キリスト教書籍のこれから

川﨑 信二

イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブライ13:8)

去る11月3日は「文化の日」だった。以前「読書の秋」と言われたが「読者」も激減、「秋」もいつが秋なのか分からないこの頃である。そんな中、キリスト教書籍専門店も厳しい状況に置かれている。私がキリスト教書の仕事に携わっていた時はライバル会社の「いのちのことば社」や「CLC」(クリスチャン文書伝道団)も元気で、出版と文書販売にしのぎを削っていたが、今や全てが様変わりしている。

 4年前、コロナ禍でお茶の水クリスチャン・センターの2階にオアシスお茶の水店がオープンした。全国でキリスト教書店の運営を担ってきた70年の歴史をもつCLCが2020年に解散した。そこに新宿ライフセンター(いのちのことば社)が「オアシス」として入ったのだ。大嵐の中での船出となった。

キリスト教書店の現状は、もはや不振や低迷のレベルではない。30年前からキリスト教会の教勢低下、さらに活字離れ、本離れが重なって、苦戦が続いてきた。かつて1980年・90年代には全国に大小約120のキリスト教専門書店があったが、今はその半数以下。その間、閉店・再編がじわじわ広がりコロナ禍でそれが一気に加速した。NCC系の書店はもっと顕著に悪化している。日本基督教団出版局もその一つだ。それでも、救いを求めている方にとって「活字」は必要である。その活字はみことばが土台になっている。 

 時代は変わっても、みことばは変わらない。イエス・キリストの愛も廃れることはない。

 主イエスのことばを求める人に寄り添う働きが継続できるようお祈りください。

2025/11/2 週報メッセージ

召天された方々をおぼえて

川﨑 信二   

人は死んだらどこにいくのか。どういう状態になるのか。Ⅰコリント15章には「霊の体」になる、と記されているので地上の肉体とは違うのだろう。死を経験していない者にとって、死後の体については想像するほかない。

 召天、永眠、復活。死後の状態を表す言葉がある。私は「復活」がしっくりくると思う。理由は、主イエスが初穂として復活され、私たちにも復活を約束してくださったからだ。すなわち、私自身も体験できる恵みなのだ。

 召天は、地上から故人を記念するときに用いる言葉だ。遺族から見て、今は地上ではなく神のみもとにおられる。だから「召天者を記念する」のである。

永眠という言葉には、死後ずっと意識がないようなイメージがある。科学的には一番近い表現だとは思うが、死者は眠り続けるのではなく、目覚める時が来るのだ。

すなわち、神のもとで起きる。それが聖書的な死生観だ。

私は、永眠とは「永遠の安らぎ」という意味で理解している。

言い方はともかく、故人はいま、一番よいところで幸せを得ているといえよう。それが究極の、神の慰めである。

 死去を「凱旋」と表現する場合がある。ホーリネス系の教会では葬儀で「凱旋」と言う。地上の戦いを終えて、天に凱旋する。あまりピンとこないが、キリシタンへの迫害や弾圧されて殉教した人には正に凱旋だろう。厳しい試練に耐え抜いて死んだ人も凱旋。ただ、人間の功績ではなく、あくまでも神の召しであり、深いご計画によるものと言える。

科学的、あるいは生物学的な死では、その後、別の世界で生きることは不可能なことだ。しかし、私たちは主イエスの約束を信じ、そこに希望を置いて生きる民である。

故人との再会も期待できる。主イエスが愛する者と再び会ってくださったように、互いの再会も主イエスの愛によって果たされること、それが私たちの、今を生きる力となる。

死んでみないと分からないが、聖書には「希望は失望に終わることがない」

(ローマ5章)と書いてある。

主イエスの約束を信じ、この世の馳せ場をしっかりと走り抜きたいものである。

2025/10/12 週報メッセージ

十字架を潜って

川﨑 信二 

桜ケ丘教会は、外の通路の屋根に赤い十字架が横たわっている。その十字架をくぐると会堂の入り口にたどり着く。私たちの救いのために主は十字架で血を流され、死んでくださった。そのイエスの体を通って神の御国へと招かれる構造となっている。立っている十字架でなく、横になっている赤い十字架を見ると「主イエスの死」を連想させられる。主イエスの死を通ることは、主イエスの復活に与ることにほかならない。信じて、潜りたいものだ。

 三重県の某教会が30年ほど前に会堂を建築された。玄関は広く、誰でも、どんな人でも多くの人が入れるような造りとなっている。靴を脱ぎ、スリッパを履いて横長のロビーを歩いてゆくと段々と妙な気分になってくる。

通路が少しずつ狭くなっていくので圧迫感というか、何か落ち着かない気持ちになるのだ。奥の、最も狭くなっているところに細い扉があり、それを開けると礼拝堂が広がっていて、まさに天国のような空間が目に飛び込んでくる。

 上から見ると、「X」(クロス)の形をしていて、真ん中の交差しているところは点のように細い。点は一人。一人だけが十字架の死を経験された。主イエスの言葉を思い出す。

 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。

しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13、14)

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

(ヨハネ14.6)

弟子たちや多くの人がイエスさまと共に歩いてきた。しかし、ゴルゴタの丘には誰も着いて来られなかった。主イエスお一人が十字架の裁きを受け、救いを全うされた。

私たちは信じて、主の後に続き、十字架の門を通って、さらに信仰をもってその扉を開けたいものである。

そこには永遠の主、輝くイエスがおられ、手を広げて待っていてくださる。