「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2025/4/20 週報メッセージ

主の復活日を記念して

川﨑信二 

主イエスが十字架の死を経て、墓の中からよみがえられた日を英語でイースター(Easter)と言い、ドイツ語でオスターン(Ostern)と言います。クリスマス休暇と同様にイースターでもスーパーマーケットは閉じているとのことです。そんな大事な日ですが、エオストレ(Eostre)というゲルマン神話の春の女神を由来としています。イースターには異教的な意味があったのです。日本でもイースターを祝う習慣が定着しつつあるようですが、その本当の意味を知っている人がはまだまだ少ないと思います。

イースターは横文字でカッコいい響きで、クリスチャンも使っている言葉ですが、「主が復活された日」であること、私たちの罪と死から主イエスが勝利された日であることを先ずお覚えたいものです。

春の到来や命の芽吹き、そういう明るいイメージは良いのですが、自然界の暖かさが、主イエスの絶大な功績を隠してしまうことがないようにと思います。

命のシンボルとしてイースターエッグやうさぎが登場します。それは単にひよこが可愛いというだけではないのです。堅い殻を破って雛が出てくる、それは番兵が見張る墓、大きな石で封印された墓から甦ってくださった主イエスの姿を想起させます。多産のうさぎは、救われるものが次々と起こされる様子を表しています。可愛いキャラクターが主イエスの恵みを妨げないよう、常に真理の解き明かしをしてゆきたいものです。クリスマスでも同様です。神秘的な雰囲気に心が奪われて、主イエスが何をして下さったのか、そこから外れてしまいやすいのです。教会暦を宣教の機会として用いたいと思いますし、かくいう私自身が主イエスの新しい命と喜びに生かされたいと心から願わされています。

主イエスは日曜日の朝に復活されました。安息日がユダヤ教の土曜日から日曜日に変わったのは主の復活を喜ぶようにと、ニカイア会議で定められました。毎日曜日がイースターとも言えます。この日に心からの感謝を表したいと思います。

2025/4/13 週報メッセージ

主イエスの尊い受難をおぼえる

川﨑 信二

受難節の典礼色は紫色で節制や悔改めを表します。ちなみに待降節も紫色で「待つ」という準備期間となります。

復活日礼拝の前週の日曜日は「受難週」または「棕梠の聖日」(枝の主日)と呼ばれます。受難週の木曜日は十字架の前日で「洗足木曜日」と呼ばれ、最後の晩餐の夜です。桜ケ丘教会ではもより教会受難週礼拝に参加し、今年は千歳船橋教会で共に祈りを捧げます。

金曜日は主の受難日または受苦日、「聖金曜日」と呼ばれ、主イエスの受難に思いをはせる日になっています。

 土曜日は暗黒土曜日。「聖土曜日」と呼ばれ、「陰府にくだり」と告白されているごとく、主がどん底まで降りてくださったことを、この時に改めて覚えたいものです。

 主の十字架は聖餐式と深く関わっています。聖餐は、パンとぶどう液とをもって行う聖礼典です。主は十字架上でご自身の肉を裂き、血を流して私たちを罪から贖ってくださいました。パンは私たちのために裂かれたキリストの身体を現わし、ぶどう液は私たちのために流されたキリストの御血を現わすのです。その十字架の死を前に主は弟子たちと食事をともにし、ご自分の死を象徴してパンを裂き、ぶどう酒を分けられた。これが聖餐式の起源です(Ⅰコリント11:23-31)。

 また、復活された主が弟子たちの前でパンを裂かれた時、その様子から弟子たちは十字架の意味を悟ったのです(ルカ24:30、31)。

弟子たちは主が生前にくり返し十字架の死を予告されていたのにそれに気づくことができませんでした。

 その悔いから、くり返し聖餐を行うことで主の救いの恵みを記憶に留めることに努めてきました。

私たちも主の愛と、私たちの罪を忘れないよう、十字架の主を仰ぎつつ歩ませて頂きたいものです。

2025/4/6 週報メッセージ

教会規則(案)の学び③ 未陪餐会員

川﨑 信二 

第11条① 聖餐にあずかる資格のある信徒を陪餐会員、聖餐にあずかる資格のない信徒を未陪餐会員とする。

② 礼拝に出席し、献金そのほかの教会員としての責任を負う信徒を現住陪餐会員、それ以外の信徒を不在会員とする。

③ 不在会員であって、3年以上所在が不明である者、ならびに3年以上礼拝に出席せず、教会員としての責任を負わない者は、役員会の議を経て、別帳に移すことができる。

④別帳に移された後、相当の期間たってなお教会との関係が回復されない者は、役員会の議を経て、除籍する事ができる。

 

 未陪餐会員は前回述べたように、幼児洗礼を受けて信仰告白式を終えていない方のこと言います。未陪餐…すなわち、まだ聖餐式に与れない会員のことです。幼児が成長し、罪を自覚し、自ら信仰を言い表す可能性がある場合は末陪餐会員ですが、例えば知的障がいの重症度によって、また末期的な病状で自ら告白できない場合の洗礼においては、保護者や家族の信仰により教会役員会の議を経て、陪餐会員となり得るのです。個人が告白できない時、民の信仰が問われます。すなわち教会の信仰が問われるのです。

 聖書では、家族ごと救う記事、神の民の一員としての信仰が示されています。

 ヨシュアが「わたしとわたしの家は主に仕えます」(ヨシュア24:15)と告白したように神の家族(教会)の信仰です。

 パウロとシラスが獄中にて看守の求めに「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と勧めた時(使徒16:31)、「…自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた」(同16:33)。この家族の中に乳児もいた、あるいは認知症を患う年長者もいたかもしれない、という解釈です。

 信仰は、個人と神との関係が基本ですが、世帯主や家族が告白する、代理の信仰があり得るのです。友人や周囲の人の信仰によって主の前に連れて来られる例が聖書に出てきます。

4人の男たちが中風の人を運んできて、屋上から天井を破って病人を主のもとにつり降ろした行為を主が「信仰」と見なし癒してくださいました。病人本人の信仰ではなく、友達の熱意です。「身代わりの信仰」です。

 危篤の病床で準備会をする時間がない時、教会の信仰によって洗礼を授けられることがあるのです。

2025/3/30 週報メッセージ

教会規則(案)の学び② 幼児洗礼

川﨑 信二

第7条① この教会の信徒を父母とする幼児は、父母の申し出により、役員会が承認した上で、父母の信仰にもとづいてバプテスマをおこなう。

 ② この場合、本人が信仰を告白できるようになった時、信仰告白式をおこなう。

③ 信仰告白式をおこなう場合の手続きは、バプテスマの場合に準じる。

第8条① 聖餐にはバプテスマを受けた信徒があずかるものとする。

 ② 幼児バプテスマを受けた者は、信仰告白式をおえるまでは聖餐にあずかることができない。

 

 本教会の伝統では馴染みのない「幼児洗礼」について、です。

幼児洗礼は、信仰者の保護の下にある幼児が、神の恵みの契約によって教会に招かれている、という信仰に基づいて行われます。教会役員会は、親あるいは保護者の信仰による願いにより、親あるいは保護者を試問し、幼児洗礼の執行を決定します。教会と保護者は、幼児を、聖霊とみ言葉の働きの中で養育する責任を負い、幼児が信仰告白に導かれ、陪餐会員として教会に連なることができるように祈り続けます。

 幼児といっても物心のつく前ですから生まれて間もない頃に受洗するのがふつうです。教会として小児会員(未陪餐会員)として受け入れます。

私は1歳7ヶ月の時に弟と共に福岡県の羽犬塚教会で幼児洗礼を受けています(司式・酒匂春美牧師)。覚えていませんが…兄も妹も、父や叔父・叔母たちも、祖父も、従兄妹たちも幼児洗礼を受け、その後、全員信仰告白に至っております。

 主イエスは最後の晩餐にて弟子たちの足を洗われました(ヨハネ13章)。主は「わたしのしていることは、今は分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われました。自覚のない受洗です。やがて、分かった時に罪の自覚(裏切りを悔改めて)と共に、信仰を告白し、主に従う者とさせて頂くのです。

 幼児洗礼は祝福式とは違って、父・子・聖霊の名による水のバプテスマです。後に公に信仰を告白して現住陪餐会員となります。その際に再度受洗はしません。告白のみです。洗礼は1度きりの恵みだからです。

 親の信仰とは、親が連なる教会の信仰のことです。それは民の信仰であり、神の家族としての信仰であり、教会が担う、祈りの責任のことです。

2025/3/23 週報メッセージ

教会規則(案)の学び① 教会の信徒

川﨑 信二 

教会役員会にて教会規則案が決議され、4月27日の教会総会に議案として提出されます。内容は教会員に配布されていますので事前にご確認ください。この規則は日本基督教団教規(準則)に基づくもので、いわば教会に必要な最低限のものが定められています。

既に宗教法人規則(世俗法)をもっていますが、教会規則は教会法といって信仰の事柄を扱っています。これは国家権力でさえも介入できない教会のアイデンティティなのです。今回はその中で重要なものを取り上げます。

第2章 信徒

第5条 この教会の信徒は、バプテスマを受けてこの教会に入れられた者、および転入会を承認された者をいう。

第6条 バプテスマを受けることを志願する者は、役員会が信仰の試問をおこなって、承認した上で、礼拝においてバプテスマをおこなう。

 バプテスマは洗礼のことです。復活の主イエスは使徒たちに「あなたがたは行って、すべての民を弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい」(マタイ28:19)と命じられました。

最後の晩餐で、弟子の裏切りに対する十字架の死による赦しと救いを主ご自身が示されました。ですから、罪を悔い改めて信仰を告白するのです。受洗は主の弟子となることを意味します。罪を自覚することが受洗の前提となります。

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。(ローマ10:9-10)

 まず、心で主イエスを神であると信じること。そして神と人との前で公に信仰を言い表すこと。洗礼は神の業ですが、人の意志を神が用いて下さいます。

洗礼はイエスの受難と復活と関わっていて(ローマ6:3-5)、

主イエスが流された水と血によって罪が赦されるという理解になります(ヨハネ19:34)。教会員は復活された主の体(教会)に繋がる者となるのです。

2025/3/16 週報メッセージ

受 難 節

川﨑 信二   

 教会暦では受難節を過ごしています。日本基督教団では受難節または四旬節といい、カトリックでは大斎節と称し、主イエスの十字架の苦しみを覚える期間を指します。

今年は3月5日(灰の水曜日)から4月19日(主の復活日の前日)までの46日間となります。これは日曜日を除く40日間であり、ゆえに四旬節ともいう訳です。日曜日は主の復活を記念する祝祭日ですので「受難」から外されています。この期間を少しでも主の苦しみに倣い、断食をしたり、酒を我慢したり、各々の自由な信仰的判断で節制して過ごします。中世の頃は義務的な節制でしたが近代以降は自らの選びにより自粛する教会が増えました。教派によってはこの時期は結婚式を控える教会もあります。

「40」は特別な準備期間を示す数字です。モーセは出エジプトのあと、民と共に40年荒野を彷徨っています。約束の地に入る準備期間という意味付けです。

主イエスは公生涯の前に40日間荒野で断食されました。教会は歴史において、復活日の前の40日間を準備期間としてイースター当日に受洗する伝統が生まれました。洗礼を直ぐに受けさせるのではなく、準備期間を経て、晴れて喜びの日を迎える。それは主イエスに倣う、という背景があるのです。

 私は、日本語の「受難節」という言葉がその意味をよく表していると思います。主イエスが十字架で苦しまれたことがはっきり示されていて、そのことで私の罪の赦しと救いのためであることが分かるからです。

英語では「レント」(Lent)という語が用いられますが、この言葉は元々ゲルマン語で「春」を表します。「受難」と「春」とではだいぶニュアンスが違ってきます。

以前のこどもさんびかにこんな歌詞があります。

「小さい命が土の中。外の寒さに負けないで、虫も蛙も待っている。春が来るのを待っている」(詞/佐伯幸雄/1979)

 忍びつつ待つ期間、という意味ではレントよりも受難節が適しています。響きは横文字のほうがカッコ良いのでしょうが、意味が伝わりません。言葉の使い方はともかく、主がこの私の罪のために十字架で磔にされ、肉を裂き、血を流され、惨めな死を遂げられたことを忘れないように、この時を過ごさせて頂きたいと願わされています。

2025/3/9 週報メッセージ

湖上を歩く主イエス  マタイ14:22〜36

川﨑 理子 

「それからすぐイエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。」(22) 

「イエスは弟子たちを強いて…。」弟子たちがイエスを残して自分達だけ舟に乗ることを躊躇していたのに無理やり舟に押し込んだことが分かる。しかし主イエスは「祈るためにひとり山にお登りになった。」(23)

一人で父なる神と向き合う時間が欲しかった。バプテスマのヨハネの死を知り、友の無残な死への悲しみ、またご自分の命も狙われることへの葛藤、すべての人の救いの為に十字架への道を歩むための決意。その為に「ひとり人里離れた所に退かれた」のである。

そんな中で後を追ってくる病人や空腹の人達。主イエスは群衆を満腹にさせ、病人を癒し、エネルギーを費やした。充電する為にも、なんとしても「ひとり」になりたかった。どうしても「父なる神との交わり」=「祈り」が不可欠だったのだ。「夕方になっても、ただひとりそこにおられた」(23) ほどに霊的な恢復が必要だった。

 弟子たちの乗った舟は「既に陸から何スタディオンか離れており逆風のために波に悩まさていた。」(24)

風に抵抗せず戻った方がよいのに律儀に主の言葉を守り、夜が明けるまで抗っていた。まだ暗い中、湖の上を歩いてきたイエスの姿は弟子たちには幽霊に見えた。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と主は直ぐに「しっかりしなさい。勇気を持ち続けなさい」と励ましてくださった。憂いを帯びた一人ぼっちの主イエスが父との交わりで新たな力を得、頼もしい言葉を発しておられる。

主イエスの言葉にペトロが応答し、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(28)と立ち上がった。「来なさい。」(29) 主の言葉に喜んで舟から飛び降り、水の上を歩き始め、主に向って進んだペトロだったが、「強い風」に気がつくとたちまち「怖くなり」沈みかけた。「主よ、助けてください」と叫ぶペトロの手を主が捕まえ「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」(31)と一喝された。「薄い」は原語で「小さい」の意。つまり「小さい信仰」。ここで主イエスはペトロを責めているのではない。からし種一粒の信仰があれば良い。

「イエスと歩きたい」という願いだけで良い。その求めに主は応えてくださるのだ。私たちも主の方へ進みたい」と願う小さい信仰をもって歩ませて頂きたいものである。

2025/3/2 週報メッセージ

新しい神殿  マタイ21:12~17

川﨑 理子 

「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。」⑿

ヨハネ2:15では「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し…」とあります。このものすごい剣幕のイエスの姿は私にとって強烈なものでした。この行動の理由は「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」⒀との主イエスの言葉からうかがえます。

 強盗の巣とは神殿の敷地で商売をして自分達の利益だけを考えている人達のことです。彼らは「祭司」達と結託して弱者からお金を多めに取って私腹を肥やしていたのです。主の神殿に仕えるはずの祭司が金儲けを優先させていたわけです。しかも、遠方からようやくエルサレムにたどり着いたばかりの礼拝者に水を差しだすどころか、捧げ物のための両替だと言って多額のお金を要求するのです。神殿の精神は腐り、祭司も堕落していました。

「境内では、目の見えない人や足の不自由な人達がそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。」(14)さらに「『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか」(16)と言われた主イエスの言動には、当時、神殿から最も遠くに置かれ、祭司たちから差別を受けていた方々にこそ神の愛を届けるべきとの意思がうかがえます。

 神殿に入れない、憐れむべき方々。目の見えない人、足の不自由な人達そして幼い子供たちのすぐ近くにいてくださる主イエス。新しい神殿とは、見える立派な建物のことではなく、主イエスご自身のことです。

私達も神の近くに行く資格のない者ですが、主によって神の御国に入れてもらえるようになったのです。後にエルサレム神殿はローマ軍によって破壊されます。

主はそのお身体を十字架に明け渡し処刑されます。この方こそ清い、生ける神殿なのです。私達を罪から清め贖うために、差別を受け苦しんでいる人達を救うために、十字架への道をお独りで歩み始められたのです。わが心に主の愛を宿しましょう。

2023/2/23 週報メッセージ

神癒 ―究極の癒し―

川﨑信二

以前「病は気から」ということを載せました。信じて治療するのと、疑って仕方なくするのとでは効果が全く違う、とも言われています。

サプリメントで膝の痛みが改善したという声を聞きます。「プラセボ効果」といって、効果のない成分で作られた偽物の薬でも、効果があると信じて飲むことで本当によくなったと感じることがあり、それは心理的作用によるものだ、というものです。

もちろん、効果のあるサプリメントもあるので一概には言えないでしょうが、信じて服用すると治りが早くなる、ということでしょう。本人が治癒をあきらめ、医師を信頼せず、自暴自棄になってしまうと治るものも治らない、という訳です。

 聖書が語る福音はどうでしょうか。福音は信じると、確かに絶大な効果はありますが、私たちの信心の深さよりも、信じる対象が何か、が重要です。そもそも信仰の対象が偽物ではなく本物であることが大前提であり、それが主イエスのことですし、主イエスの十字架と復活の福音です。

パウロが「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(Ⅰコリント15.4)と語ったように、人間の信心だけでは救いはありません。「鰯の頭も信心から」と信じる対象は偽物でも、信じる私が居れば大丈夫?? そんなことはありません。自分の死も、自分の死後のことも分からない者を、信用できるはずがないのです。

「鼻で息をしているだけの人間に頼るのをやめよ」(イザヤ2.22)と言われているように「魂も体も滅ぼすことのできる」(マタイ10.28)神に頼るべきだ、と主イエスご自身が述べられています。主イエスのみを見上げて歩みましょう。