「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2026/10/18 週報メッセージ

もう一度息が吹き込まれて
川﨑 信二

33年前、マンション時代の桜ケ丘教会に通っていた頃、毎聖日、一人の老婦人が心を込めて足踏み式のリードオルガンを奏でておられたことを思い出します。2年前、牧師として桜ケ丘教会に赴任した時、そのオルガンは礼拝堂にありましたが、長く使われていませんでした。
新しくグランドピアノも備えられ、その美しい音色と奏楽者の演奏に、礼拝のたびに平安を与えられています。それでも、眠ったままのオルガンが気になっていました。
そのような中で、「このオルガンを弾きたい」と願う奏楽者が与えられました。眠っていたオルガンに、再び息が吹き込まれたのです。ペダルを踏んで空気を送り、その空気によって音が生まれる姿を見ていると、まるで神の息が吹き込まれ、オルガンが生き生きと喜んで主を賛美しているように感じます。

「器楽」という言葉があります。楽器は演奏されてこそ、音楽を奏でる器となります。「モノ」は用いられてこそ、その命が生かされるのです(被造物としての)。
それは私たちも同じではないでしょうか。声も、体も、賜物も、能力も、創造主なる神をほめたたえるために用いてこそ、生きた器となります。

「主を賛美するために民は創造された」(詩編102:19)
そして、「後の世代のために」(同)、主を賛美することを受け継ぎ、伝えていくことも私たちの使命です。
主に向かって歌い、持てるすべてを用いて主を礼拝する。主イエスによる救いを感謝し、与えられた人生を主のために用いる。そこに私たちの喜びと生きがいがあります。

33年前に聞いたオルガンの音が、今また新しい奏楽者によって響いていることを思うとき、世代を越えて主を賛美する恵みを覚えます。感謝します。

2026/10/11 週報メッセージ

共に収穫の主に仕える

川﨑 信二

 本日は神学校日です。特に東京聖書学校を覚え、祈りを捧げたいと思います。

 「収穫は多いが、働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(マタイ9:36~38)との御言葉を心に留めます。東京聖書学校の特色の一つは、実践的な訓練です。全寮制なので学生は寝食を共にし、机上の学びだけでは得られない人間性を養います。主イエスが弟子たちと生活を共にしながら訓練されたことを思い起こします。

 しかし近年、入学者は減少し、オンラインで授業を受ける学生も増えています。家庭や仕事、遠距離など、様々な事情で入寮できなくても、献身したいという思いを学校が受け止め、今日に至っていることに感謝したいと思います。確かに以前とは異なる学びです。それでも出校日を設け、年に数回は学校に集まり、共に学ぶ機会が与えられています。かつてのような路傍集会を授業で行うこともなくなりました。

 けれども、働き手が少ない時代に、献身する人を起こしてくださる主の御業を、私たちは喜びたいのです。また、オンラインで学ぶ神学生も、日曜日には近くの教会で神学生として御言葉の奉仕や牧会を担うなら、そこにも実践的な学びがあるでしょう。実際に、そのように歩んでいる学生もいます。教会にとっても神学生との交わりは恵みです。

 もちろん、すべてを捨てて入寮し、主に仕えようとする若い魂が起こされることも願います。働き手の少ない教会の現実の中で、収穫の主が働き手を満たしてくださるよう、東京聖書学校と神学生たちのために祈りましょう。

 教会もまた、祈りと交わりをもって神学生を支え、共に主の収穫に仕え、互いに、主の召しに応える歩みを続けたいと願います。

2026/10/4 週報メッセージ

主が何をしてくださったかを覚える

川﨑 信二

本日は世界聖餐日です。聖餐は、教会に与えられた特別な恵みです。近年、信徒数が減少し、教会そのものも減少しています。そのような時代に、私たちは教会として何を大切にし、何を次の世代へ残していくのでしょうか。

この世と歩調を合わせ、様々な行事を企画することも大切です。地域の人々と交わり、共に喜び、共に歩むことも必要でしょう。

しかし、世の中にあるものと同じことだけをしていては、そこに「教会らしさ」を見いだすことは難しいのかもしれません。教会でなくてもできることは、他の集いでもできます。

では、教会にしかできないこと、最後まで残るものは何でしょうか。それはやはり聖餐です。主の晩餐にあずかり、主イエス・キリストを覚えることです。

主イエスは、「飲むたびに、わたしの記念として行いなさい」と語られました(Ⅰコリント11章)。

聖餐は、私たちが何を成し遂げたかを確認する時ではありません。主が私たちのために何をしてくださったかを覚える時です。パンを裂き、杯をいただく度に、私たちは十字架を仰ぎます。そこに示された主の愛を、繰り返し心に刻むのです。それは、みもとに召されるまで続きます。

教会が後の世に残すべきものは、主イエスを覚える信仰です。そして、十字架に示された神の愛を受け続けることです。どれほど時代が変わり、教会の姿が変わっても、主の晩餐を喜び、そこに心からあずかる教会でありたいと思います。

世界聖餐日に、改めてその恵みを覚え、主イエスを仰ぎましょう。

2026/9/27 週報メッセージ

心に励ましを得るため

川﨑 理子

「彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを得るためなのです。」(エフェソの信徒への手紙6章22節)

ティキコという人が、獄中にいたパウロからエフェソ教会に遣わされます。パウロは伝言や獄中での様子を手紙に託し、ティキコに運ばせたのです。それは単なる郵便配達ではなく、パウロの意志を忠実に伝えることへの信頼から、彼が選ばれたのです。

 22節には、「彼から心に励ましを得るため」とあります。私たちは、経験したことのない状況に置かれることがあります。苦しみの現実(獄中での生活)を伝えることも大切です。しかし、そのただ中におられる神の現実を伝えたいのです。

 神はどのような時にも共にいてくださいます。主イエスは私たちの罪と苦難を背負い、私たちを神の子として、平安と永遠の命に与らせてくださいました。この神の助けと恵みを抜きにして、私たちの現実を語ることはできません。

 パウロが「わたしの様子を知って」と言うのは、歩みの中に働いておられる神の助けを知ってほしい、ということです。神は今日も、キリスト者の信仰と生活の中で働き、助け、導いてくださいます。

 そのことを知る時、心に励ましが与えられます。距離や会えない、という壁を越えて、キリストにある者は一つの群れとして共に祈り、平安と希望をもって歩んでいくのです。それが教会の姿です。

2026/9/30 週報メッセージ

感謝して今を生きる

川﨑 信二

必要なものは

天から頂きました

これ以上

ほしいものはありません

枯れてゆく秋の花

一番幸せな時です   ※ヒャクニチソウの画と共に

『星野富弘カレンダー2026』(9月)に載っている作品で今回新作として公開された作品ですが、星野さんの晩年に描かれたものかどうかはわかりません。星野さんの晩年を考えると、本当に胸に迫る言葉です。特に最後の、「枯れてゆく秋の花/一番幸せな時です」という逆説が印象的です。

「枯れていく=衰えていく=失っていく」という普通なら寂しさを感じる時期を、星野さんは「一番幸せな時」と言っているのです。しかも、「必要なものは天から頂きました」という言葉が先に置かれていることで、この詩が単なる人生訓ではなく、星野さんが長い人生の中で培ってきた信仰の告白として読むことができると思います。

星野さんが主のみもとに召されたのが2年前ですから、どうしても「人生の終わり」を重ねて読んでしまいます。ただ、そこには「死を待つ人の諦め」ではなく、「もう十分に与えられている。だから、失われていく時さえ幸せなのだ」という、とても静かな感謝があります。それは怪我により車いすの生活となったことから主イエスとの出会いが与えられたことが大きいのだと思います。弱さの中にあって、いつも主が共にいてくださることを感じていたのではないでしょうか。

 年を重ねるごとに、神に近づく。齢と共に自らはますます小さくなりますが、それゆえに謙虚な心を持って神に向かうものでありたい、と願わされています。

2026/9/13 週報メッセージ

羊飼いのいない群れを見て

川﨑 信二

日本基督教団の『教団新報』は、以前は月2回発行されていましたが、現在は月1回の発行となっています。

教会数や教師数の減少、事務局の人員不足など、さまざまな事情があるのだと思います。最近の『教団新報』を読んでいて、特に目に留まるのが、誌面最後の「教師の去就」の欄です。就任、辞任、隠退、死去などが記されています。その中でも、「就(代)」「辞(代)」という表記が多くなっていることに気づきました。「代」とは代務者のことです。

本来、代務者が辞任すると、主任担任教師が就任するという流れが考えられます。しかし、長い無牧師の期間を経て、教会も教師も病み、代務者交代に至ることもあります。

代務者は一つの教会だけではなく、他の教会にも仕えなければならないことがあります。代務であっても、主任担任教師と変わらないような働きを求められることもあります。

そのような教会と教師が増えている現状を思うと、教会も教師も疲弊することなく、喜びをもって礼拝を捧げられる環境を、どうすればつくることができるのかと祈らされます。

これからの教会は、今までの形を変えていかなければならないのかもしれません。しかし、そのような不安の中にあっても、私たちは主イエスを見上げます。

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ……」。(マルコ6:34)

主は、飼う者のいない群衆を見過ごされませんでした。深く憐れみ、御自分のもとへと招いてくださいました。

教会の未来が見えにくく、不安を覚える時にも、私たちには羊飼いがおられます。教会の形が変わっても、主イエスが私たちの羊飼いであることは変わりません。

不安の中にある一人ひとりの群れを、主イエスがこれからどこへ導いてくださるのか。その御声に耳を傾けながら、主の愛に支えられて、ともに歩んでゆきたいと思います。

2026/9/6 週報メッセージ

死者を敬うこと、神を仰ぐこと

川﨑 信二

  亡くなった方や遺骨を「1柱(ひとはしら)、2柱(ふたはしら)」と数えることがあります。「柱」という数え方は、神道において神を数える単位に由来しています。日本では古くから、亡くなった人を敬い、その人を御霊として祀る風習があって、故人や遺骨、位牌にも「柱」が用いられてきました。

 しかし、私たち主に繋がる者としては、「1人、2人」あるいは「1名、2名」と数える方がよいのではないでしょうか。「柱」という言葉には、単なる日本文化としての意味だけではなく、人を神格化し礼拝の対象とする宗教的な意味合いが含まれるからです。御霊も人に対してではなく、神の霊(聖霊)に対して用いるのが聖書的です。

 亡くなられた家族に語りかけること自体が悪いわけではありません。故人を思い出し、感謝を伝え、そのことで心が慰められることもあるでしょう。しかし、私たちは死者に祈り求めるのではなく、神様に祈る者です。人を礼拝することなく、神様だけを仰ぎたいと思うのです。

 人に意見を聞くことは大切です。主イエスが5000人に食べ物を与えようとされた時も、フィリポに尋ねると、彼は「200デナリオンあっても足りない」と答えました。

一方、アンデレは5つのパンと2匹の魚を見つけました。弟子たちがそれぞれの考えや持っているものを出し合う中で、主イエスが大きな御業をなしてくださいました。

 教会も同じです。互いに意見を聞き、語り合いながら歩みます。しかし、その中心におられるのは主イエスです。人の価値観や評判も参考にしながら、まず主を仰ぎ、共に祈り、御心を求めて話し合っていく。そのような中で、私たちは神様の御業を見させていただくのです。

 悲しみの中にある時も、死者に頼るのではなく、私たちの祈りを聞いてくださる神に信頼して歩みたいと思います。

「死人に伺いを立てる者があってはならない」(申命記 18:11)

2026/8/30 週報メッセージ

イエス様の声

川﨑 信二

私たち牧師は、エアコンの効いた礼拝堂で、マイクを用いて御言葉を取り次ぎます。聖書の解き明かしを聞くために集まった皆さんに語るのですから、福音を届けるには恵まれた環境です。路傍伝道でさえ、今ではスピーカーを使うことができるので大声を発する必要はありません。(新宿で路傍伝道の様子を先日見かけました。)

では、イエス様はどうだったのでしょうか。マイクもスピーカーもありません。ガリラヤ湖畔で大勢の人々に語られたイエス様の声は、どれほど大きかったのでしょう。

ガリラヤ湖周辺には、斜面がすり鉢状になった場所があり、地形や湖面の反射によって、声が遠くまで届きやすい自然の音響効果があったと考えられています。イエス様は、そのような場所で群衆に御言葉を語られました。イエス様の声がどんなトーンだったのか、野太い渋い声だったのか、あるいは品性のある落ち着いた美声だったのか。一度でいいからその肉声を聞いてみたい、と思うのは私だけでしょうか。

そのことよりも、私が心を留めたいのは、声の大きさではなくイエス様が「何を語られたか」です。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

私たちにはマイクがあります。しかし、どれほど設備が整っていても、語るべき福音がなければ意味がありません。イエス様が届けられた福音を、私たちも今日、心を込めて語り、また謙虚に耳を傾けたいと思います。

2026/8/23 週報メッセージ

鐘の音に思う

川﨑 信二

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

(マルコによる福音書1章15節)

先週は牧師家族4人で磐城教会の礼拝に出席しました。

桜ケ丘教会には屋上に大きな鐘があり、礼拝前には私が鐘を鳴らしています。磐城教会にも鐘があり、礼拝堂の入り口に置かれた小さな鐘が、礼拝前に時を告げるように鳴り響いていました。教会員の方が順番に鳴らしているそうですが、その音色が何とも心に沁み、礼拝に向けて私自身の心も整えられる気持ちになりました。

「どうしたら、あんなふうに鳴らせるのだろう。私もあんなふうに鳴らしてみたい」と思いました。

振り返ってみれば、私の鐘の鳴らし方は一本調子で、音だけは大きい。神田川近くの家にまで届くほどだそうですが、その音が果たして人の心に響いているのか。それどころか、もし不協和音になっていたら……と不安な気持ちになる時があります。

かつて「鐘を鳴らすのはあなた」という歌のフレーズがありましたが、聖書において時を告げるのは神様です。主イエスは「時は満ちた」と告げられました。救いの時が来たことを、神ご自身が知らせてくださったのです。

つまり、鐘を鳴らしグッドニュースを届けてくださるのは神自身ですし、神の国をくださるのも主イエスの業であり、私たちの業ではありません。だから、私たちは神の御言葉に聴き、従うのです。それが幸福の道です。

しかし、その知らせを人々に伝えるために、神様は私たち人間をも用いてくださいます。私たちの小さな働きを通して、救いの福音を知らせ、道行く人々を主イエスのもとへと招いてくださるのです。

鐘の大きさではなく、その音色が人の心に届くことこそ大切です。私自身も、ただ大きな音を響かせるのではなく、主イエスへと人を招く音色を、この教会から響かせることに心を注ぎたい、と願わされています。

2026/8/16 週報メッセージ

 大波のように

川﨑 理子

桜ケ丘教会に着任後、お手伝いを続けてきた教区中高生キャンプですが、昨年度より教育部委員となり、今年は開会礼拝を担当いたしました。テーマは「私の賜物って何だろう(Ⅰペトロ4:10)」。

中高生と共に「賜物」や「互いに仕え合うこと」について御言葉に聴きました。最初のアイスブレイクでは自分自身を見つめ直すワークを行い、初参加のメンバーもすぐに打ち解け合うことができました。

夜のシェアリング前には、幼稚園の今月の賛美歌でもある「大波のように」を、私がジェスチャー付きで歌うと、かつて園児だった中高生たちが笑顔で合わせてくれました。キャンドルの灯りの中、神様の大きな愛が一人一人の胸に大波のように寄せ、広がっていくのを感じる豊かな証の時となりました。

翌日は「心の4つの窓」(心理学)を用いたワークを行い、自分も知らない自分を神様が知っていてくださることに気づく学びとなり、楽しく賑やかな時となりました。

この若い魂がこれからも主に導かれ、それぞれの教会に温かく迎えられますように。クリスマスの再会を楽しみに、皆が笑顔で帰路についた恵みのキャンプとなりました。