朝位真士
序
今日はローマ8・12~17節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの8章を律法の下からの解放。内住の御霊の働き。勝利の凱歌。1~2キリストにある自由。3~4律法の要求を満たすキリストのあがない。5~13肉に従わず霊のよって起きる生活。14~17神の子たる者の特権。と分解しています。そして8章の主題は「御霊、御霊」である。大別すると私達の生涯に関するいのちの御霊(2~13)、私達の資格に関する神の子たる霊(14~17)、私達の苦しみに関する望みと慰めの霊(18~25)、私達の弱さに関する祈りの霊(26、27)。私達の境遇に関する勝利の霊(28、29)となる。31節以下は8章の結論である。そして8章は勝利の凱歌をもって終わる。この大変化は、きよめられて聖霊に満たされた結果である。
本
今日の8・12~17節を見て下さい。ここでは1口で表現するならば神の子たちといえます。神によって創造された最初の人、アダム、とエバ最初の父また母は、創造主である神によってゆるされた範囲の自由をもっていたにちがいない。しかし、悪の力の誘いによる正常な神関係の喪失によって、神によって許された自由をも失ったのである。その代わりに、人間は、悪の力との関係において、悪に走る自由をえた。
つまり、罪に落ちた人間は、ただ1つの自由だけを持っている。それは悪ヘの自由である。これは奴隷的意志に結び付くものである。もし、人間が、悪の力の奴隷状態から脱出することが出来れば、そのとき、神との正常な関係が回復されるのである。パウロは、「肉」と「霊」という2つの言葉によって悪の力の下の状態と神の力の下の状態とを描き出すのである。
肉に従っていきるとは、反神的な力の奴隷となっていたことに義理を感じて、「反神的な力に調子を合わせて生涯をささげつづけるなら」ということで、「生きる」は、「歩む」よりも強い調子を出しているのである。このような生き方の結果は自動的に「死」より外はないということになる。いま1つは、霊によってからだの働きを殺すという生き方である。「霊によって」とは、「肉」によっての」正反対である。聖霊の働きのもとにあって、これに調子を合わせるように導かれる事によって、反神的な肉の同盟者であるからだの働きを積極的に窒息させていくのである。
「からだのはたらきを殺すこと」は、人間のもっている自然の力の努力ではなくて、むしろ、神によってさずけられた働きだからである。聖霊が、キリストの死とよみがえりとを証するところ、そこに積極的に、悪の力に抵抗する力が与えられるのである。聖霊のみ業が活動最中に起こる出来事こそ、「わたし」にとっての奇跡的現実なのである。
合理的に筋を立てて述べられない領分がある。しかも、「わたし」は現実に、「からだの働きを殺す」というはなばなしいことをやってのけているのである。これをキリストにおける実存とか終末的出来事とかいってもよいでしょう。このような生き方が、身についてくれば、神の御霊に導かれている者という光栄ある名が与えられるのである。このような者は、また、神の子であるともいわれる。神の子は神を父と呼ぶことを許されています。神の子は、キリストと有機的に、また生命的につながりを持っているからである。そのキリストは「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで従順であられた」。神関係において、これほど典型的な態度はないのである。
神の子のあり方はここに、その全貌が示されているのである。「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう」とイエスはいわれた。神の子は、神の相続人、キリストと共同の相続人としての資格は、キリストのなかで与えられる。その資格の第一は、キリストと共に死ぬことにほかならない。死ぬには、従順を必要とする。死ぬことは、反神的不従順と絶縁することであるからである。悪魔との絶縁は、神との結縁を意味し、死から脱出して、永遠のいのちの相続人とされることである。
結び
もう1度ローマ8・12~17節を見て下さい。ここに神の子供とされるキリスト者が描かれています。特に8・16節に注意してください。神の子供としての身分を与えられることは、当然法的な権利が伴う。それは「相続人」(8・17)ということばで表される。相続するものは神の国で、相続人とは神の支配にあずかる者のことである。キリストは現在すでに神の国の支配者として御父の右にあって支配しておられる。
しかがって私達は、キリストの統治に共にあずかる者となるのである。「キリストとの共同相続人」とはこのことであります。ただしその際に、キリストが相続人として栄光の座に着座するために、まず十字架の苦難を通られたことを思い起こさなければならない。「私達がキリストと、栄光をともに受ける」ためには、キリストと苦難を共にしなければならない。キリストの御霊を受け、御霊の導きをうけることは決して熱狂的な事柄ではない。私達はキリストによって神の子として導かれ、霊の賜物を注がれて、神の国の相続人として立てられていることを思い、「神の国と神の義を求め」(マタイ6・33)のために「キリストと共に苦しんで」(8・17)愛の業に励み、キリストと共にその栄光をも受ける希望をもって歩みたいものであります。