朝位真士
序
今日は子供祝福式礼拝ですが、今日はフィリピ2・1~11節からイエス・キリストの模範を学んで行きましょう。この手紙は獄中書簡と言われています。この書簡は獄中の中でフィリピの人々に語った手紙です。この教会はマケド二ヤの東の端にあるその地方第一の町で、当時ローマの植民地であった。(使徒16・12)。この地は、パウロがヨーロッパ大陸に伝道した最初の土地として有名です。彼が第二回伝道旅行の際、トロアスにいた時、夜、幻の中に1マケド二ヤ人が現れて、「マケド二ヤに渡ってきて、私たちを助けてください」と懇願するのを聞き、聖霊の特別な導きによって、そこに行き、伝道したのであります(使徒16・6節以下)。その時、ルデヤを始め熱心な信者が起こった。しかしパウロ達は迫害に会い、投獄されたが、神の力によって救い出され、そこの獄吏一家が救われるに至った。それは紀元53年頃のことであった。その後紀元58年頃に、第3回伝道旅行の際、パウロは再びこの地を訪ねた。
本
フィリピ2・1~11節を見て下さい。ここでは信者の生涯の模範であるイエス・キリスト(今も主は卑しい奉仕のうちに御自身を再現される)この2章1~4節は一致と謙遜に関する勧め。5~11節は謙遜の模範であるキリストの姿とその高挙。まず1~5節を見て下さい。ここでは交わりの一致が延べられています。フィリピの教会でパウロは実際的な一面をここで語っています。すべてのキリスト者は、キリストとの関係において同じ体験ももっているのですから、それに根ざして、お互いの間に一致をあらわさなければなりません。1節のキリストによる勧めは、キリストによる慰め、助け、はげまし、愛の励ましは、キリストに基づく力づけの意味であります。キリスト者の交わりは、お互いにキリストの慰めと励ましをもたらし合う交わりである。ともにイエスを主と告白することによって、聖霊によって生まれ変わったお互いのい間に交わりに目覚めさせられ、同情と理解とを相互に深く持つことを、教会において学ぶのであります。もし、教会の中にこうしたものがいくつかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、1つの思いになって、わたしの喜びを満たしてほしいとパウロは願っています。信仰の交わりは、そういう余裕と忍耐とを、愛と謙遜によって持つ、この交わりの具体化こそ、パウロの喜びを完全なものにする。ピリピの教会に人たちも、このことを理解して、そこでは、党派心や虚栄が克服されて、お互いにへりくだった心をもって交わりが成される。愛において、自分のことばかりでなく、他人のことも考えるとき、自己中心的な考えでなく、他人の立場や問題を同情し、また尊敬する心が生じ、互いに人を自分よりすぐれた者として取り扱ってゆくことが出来ます。キリストは、隣人たちを、その道具として、御心を成される。隣人は、愛の働き場であると共に、愛をうける場でもあります。そして、キリスト御自身の比類のない謙遜がつぎの
2章6~11節に語られています。ここではキリストの謙遜と高挙が語られています。
この箇所は、2つの部分に分類されます。5~8節は、イエスの謙遜について、9~11節は、それに対して神がイエスを高く挙げられたことを述べています。
結び
もう1度2・1~11節を見て下さい。ピリピ教会の中には、利己的野心を満足せようとした人々がいました。イエス・キリストが意図されただ1つのものは、たとい奉仕されることになったとしても、人々に奉仕することであった。ピリピ教会の中には、自分が人々から注目されたいと願う人々がいた。しかしイエスが意図されたただ1つのものは、人々の目が神に集中することであります。このように、キリストに従う者は、いつでも自分のことではなく、他の人々のことを考え、自分の栄光ではなく神の栄光を考えなければならない。キリストの模範をもう1度聖書2・6~11節を見て下ださいここにキリストの模範を見ることが出来ます。今日は子供祝福式ここに子供のような素直なキリストを見ることができます。
謙遜と愛を持つて、教会に人々に仕えて参りましょう。