「礼拝メッセージ」カテゴリーアーカイブ

「キリストに倣う者でありなさい」2021・7・18説教要旨

朝位 真士

今日は1コリント11・1~16節を学んで行きましょう。この11章部分は男女の地位。聖晩餐礼典の意義。1私にならいなさいとのパウロの勧め。2~16男女の地位と婦人のかぶり物の問題。ある注解書ではこの部分は3つに分けることができます。(1)11・2~3守るべき伝承と秩序。(2)11・4~6礼拝でのかぶり物。(3)11・7~16かぶり物についての根拠

1コリ11・1~16節を見て下さい。(1)始めにパウロはコリント人らを(立派だと思う)(称讃する)と言う。それはパウロのことをよく記憶し、伝承を固く守っているからだと言う(2節)。つまり11・23以下の聖餐に関する伝承と15・3節以下の告知された福音の内容を彼らが固守していることをパウロは称讃している。だがそれに加えて(知っておいてほしい)ことを3節で述べる。(すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神)。これは「創造の秩序」を示した創2・18~23のラビ的注解と解される。これは神の支配はキリストによって全ての男女に及び、同様にキリストの支配は全ての男女に及ぶことを示しています。しかも男はキリストに従うことによって神に従い、女はそのような男に従うことによって神とキリストの支配下に立つことを示している。ゆえにこれは創造論的・キリスト論的秩序と解される。(2)4~6この秩序に基づき、礼拝における男と女のかぶり物について述べる。パウロはここで女も男同様公然と(祈ったり、預言したりする)ことを認める。

その場合、男は頭にかぶり物をかぶってはならないことを命じる。男はキリストにあって、かぶり物なしに主の栄光を反映し得ると考えられたからである。(7,2コリ3・18)。これに対して女がかぶり物をしないことは、頭を侮辱することになるから、髪の毛を切ってしまいなさい。と命じる(6)。女が人前でかぶり物をすることは当時の習慣として一般化されていた。(3)7~16始めに(男は神の姿(像)と栄光を映す)ことと(女は男の栄光を映す)ことが示される。8節以下はこれに対する論証。(女が男から出て・・・男のために造られた)というのは創2・18以下のラビ的注解で、男と女の創造の秩序である。11節パウロはこれに加えて(主においては、男なしに女はなく、女なしには男は)ないと言う。これは(主において)の「救いの秩序」である。パウロによれば「創造の秩序」を廃棄しないし、止揚しない。ただ(主において)こそ(女が男から出た)ということと12節(男も女から生まれ、またすべてのものが神から出ている)ということが実現する。ここで女がかぶる物をするのは「み使いたちにために頭に権威を持たせるため」(頭に力の印をかぶるべき)という(10節)のはどういう意味であろうか。これをみ使いたちの性的誘惑(創6・1以下)から女を守るためと解釈する者もいる。しかしパウロはみ使いたちの性的誘惑についてはどこにも語っていないので、この解釈は当たらない。「権威」「力」を(自由)と解して女性がかぶり物をするのは、礼拝における自由の印と見る解釈もある(フランシスコ会聖研)。しかし、これはみ使いたちの超自然的な力に対する女性の弱さを守る防御の印と解してよい。この部分の結びとして、かぶり物をかぶることの賛否を読者自身の判断と自然理解に委ねると共に教会の習慣に従うよう勧める(13~16)。

結び

もう1度11・1~16節を見て下さい。当時ギリシャでは、男子は頭に物をかぶらず、婦人はかぶるのが通例であった。パウロはこのギリシャ人の風習を尊重し、それに霊的意味を加えて、4~5に語っています。しかし婦人がかぶらないのは服従しないことを表すので、恥ずべき事であるという。当時奴隷の女や姦淫の女は髪をそっていた。物をかぶらないのは(髪)をそったのと全く同じだからそれを恥じて物をかぶりなさいというのである(6)。ここでもう1度11・1節を見て下さい。「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。」自分の覚悟を述べてきたパウロは、大胆にこう呼びかける。非常な確信を持って、信者に迫り得たパウロは本当に素晴らしいと思います。しかしその確信は、決して、独りよがりの者ではありません。「私がキリストにならう者であるように」と言うところに、彼の深い謙遜が示されています。キリストは「御自身を喜ばせることなく」(ローマ15・3)、「おのれをむなしくして僕に形を取り」フィリピ2・7、「ご自身をいけにえとしてささげ」られたエペソ5・2。パウロはこの主イエス・キリストにならった。パウロは、愛の為に、喜んで自分を束縛させた。叉同胞の救いのためには、自分は滅びてもよいと思い(ローマ9・3)、同信の共のためには自分の生命をも与えたいと願った(一テサ2・8)

まことにパウロは、わたしたちが模範として、仰ぐに足る人物であるこれはすなわちイエス・キリストに従ったパウロであるその模範はイエス・キリスト様であります。主イエスは私達の罪のために身代わりとして十字架で死に3日目に復活された活ける神主イエス・キリスト様です。このかたに倣って行きましょう。

「神の栄光を現わしなさい」2021・7・11説教要旨

朝位真士

今日は1コリント10・14~33節を通して聖書を学んで行きましょう。この10・14~33節は偶像に関する警告。14~22聖餐における聖徒の交わりは偶像礼拝を避けるべきことを要求する。23~30再び、偶像にささげた肉を食べる事について、キリスト者自由の制限、31~33飲食における愛の道。

聖書を見て下さい。10・14~33節14節以下は、偶像とそれに供えた肉を食べることについての、再度の警告である(8・4、7)。悪の霊が偶像を用いて人々を迷わせ、真の神を真理から離すのである。偶像礼拝に加わり、(悪霊どもの杯)を飲むことは、聖霊によって主の肉と血を受けるわたしたちのなすべきことではない。(20,21)。昔、供え物を食べる祭司たちが祭壇と関係を持つように(18)、主の肉と血を味わう聖餐にあずかる者は、主と1体となり、その聖徒の交わりに入るので(16,17)、このような者は偶像に遠ざからなければならないのは勿論であるが(14)。偶像そのものは存在するものではないが、偶像礼拝の背後には悪霊の勢力があるからである(19-22、申命32・17)、しかし、キリスト者は偶像信者と交わってはならないというのではない(1こり5・10)。彼らに招かれてもなされることもあり、偶像にささげたあと市場に売る肉を出されることもある時、(いちいち良心に問うこともしないで)食べてもさしつかえないが((25~27)、もしその事を特に注意され、あるいはそれによって私達の信仰が試みられるような場合には、その人の良心のために食べてはならない(28,29)。すべてのことが自分にとって別に悪いわけでもなくても(しかしすべてのことが益になるわけではない)、私達は自分の利益を求めないで他の人の益を求めるべきである。(23,24)。要は(飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである(31)。自分は自由をわきまえていても、そのために人にそしられたり(30)、また人をつまずかせたりしてはならない(32)。かえってどうにかして人を救う為に、自分の益ではなく、人の益を求め、(すべての人に喜ばれるように努め)なければならない(33)。わたしたちの言行は、人の救いのために利益とならなければならない。

パウロの書きぶりからすると、コリント教会のキリスト者の中には、信仰の自由の名のもとに、偶像の宮で偶像にささげられた肉をおおぴらに食べて弱い兄弟たちを躓かせていた者がいたようです。もっぱら主にある兄弟姉妹に対する愛の配慮の為に身を慎むようにという線で勧めを8章でしていました。しかしここに至ってパウロは別の角度かあるこの問題に警告を発しています。キリスト者は、聖餐によってキリストと1体になっているのである。それにもかかわらず、そのキリストにある者が偶像にささげられた物を食べるなら、彼は偶像と1体となる。悪の霊は偶像を用いて人々を惑わし、彼らを真の神と真理から引き離す。サタンは、人間が真の神以外のものを拝むことを喜ぶ。人間が偶像の宮で礼拝することは、悪霊を喜ばせることにはかならないのであります。パウロは自由制限の精神を31節を見て下さい。

「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしる、何をするにしても、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」自分のためではなく、人のためにという配慮は素晴らしい。しかし私達キリスト者は、それ以上に神の栄光のためにという祈りと願いをもたなければならない。そうする時初めてわたしたちは自分より他人のことを真に第1に考えて生きられるようになるのであります。パウロは世界的視野に立って、32,33と行っています。パウロは8章以来長く続いた「偶像にささげた肉」についての考察を閉じる。

結び

もう1度1コリント10・31節を見て下さい。「だから、飲むにも食べるにも、」また何事をするにも、全て神の栄光にためにすべきである。これはキリスト者生活の大原理であります。わたしたちが、この世に生かされている究極の目的は「神の栄光のため」であります。だから、日常生活のすべてにおいて、このことを念頭におおて生活しなければならない。そしてその目的は32節33節です。パウロはここにキリスト者の心がけを述べたが、ここでは自分の覚悟を語っています。「多くに人が救われるために」、「彼らの益を求めて」つねに自分の行動を定めたのであります。一人でも多くの人が救われる為に、喜んで自分の自由を制限しようというのであります。

新約学者ウイリアムバークレーは「わたしたちは、同胞にたいして果たすべき義務を念頭においたとき、はじめて、すべてのことを神の栄光にためにすることができるのである。また、キリスト者の自由は自分のためにではなく、他者のために与えられているのだということを念頭においたとき、初めて、同胞に対して果たすべき義務を考えることができるのである」と記しています。

「賞を得なさい」2021・6・27説教要旨

朝位 真士

今日は1コリント9・19~27節を通して聖書を学んで行きましょう。この9・19~27節は真の奉仕の方法と報い、19~23人をキリストに導く為の奴隷的態度、24~27勝利の冠を得る為のパウロの克己の生涯。パウロは自ら進んですべての人の奴隷になった(19~23)、(できるだけ多くの人を)主に導くために、(ユダヤ人には、ユダヤ人のように)(弱い人には弱い者に)なったとは、自分の信仰と主義を曲げて人に迎合し、八方美人的にだれにも妥協したというのではない。彼は決してそんな人ではなく、ただあらゆる人種あらゆる階級の人の魂を救うために、すべてに人に譲歩し、自分を彼らの標準において、彼らの友となったのである。それは(なんとかして幾人かを救うためで、(22,ローマ11・14)、(福音のために、わたしはどんな事でもする)という(23)。ここに彼の謙遜と熱心が表れています。伝道者は勿論であるが、誰に向かっても福音をあかししてその魂を救おうと心がける者は、この愛による

同化性を持たなければならない。この愛のある者だけが人をとらえる。

 1コリント9・19~27節を見て下さい。この終わりには、勝利者となることを、競技の例を引いて勧め、自分の克己の模範を示しています(24~27)。当時オリンピックと同様の競技が2年ごとにコリント市郊外で行われ、全ギリシャを熱狂させた。それに加わる選手は、10ヶ月も前から特別に克己節制して練習し準備しあったという。まして霊界の競技場で

勝利の月桂冠は、朽ちない、いのちの冠である(25)、わたしたちの信仰生活や奉仕は、目標にない競争ではなく、必ず上からの賞与がある(フィリピ3・14)。私達の信仰の戦いは(信仰生活と奉仕は戦いである)、空を打つような拳闘ではなく、(26)、目に見えない敵が現実に存在する。これを思う時、緊張しないわけにはいかない。ことに克己自制の必要がある(27)。(服従させる)とは、「奴隷として引きずり回す」というような言葉で、肉体の欲や安逸に機会を得させないために、これを征服すべきことを言う。そうしなければ、審査に合格せず、賞を得ることが出来ない。パウロは自らを(すべての人の奴隷)にしただけでなく絶えず用いられる器となるために、主人が奴隷を打ったように、(自分の体を打ちたたいて服従させた(27)。パウロにはキリストの愛から離れさせられる恐れは少しも無かったが(ローマ8・38~39)、用いられる器としての特権を奪い去られることを恐れて、大いに刻苦勉励したのである。真の愛とは、外側から相手に与える同情ではなく、相手の立場に自分を置いて、相手と同じ気持ちで物を見たり、感じたりすることである。これはとても自分の力ではできることではありません。賜物として神から与えられる愛に根ざしてのみできることであります。パウロはこの愛を求めるようにと私達に命じています。(1コリント14・1p317)

結び

もう1度9・24~27節を見て下さい。ここに自分に対する厳しさここでパウロは、福音の宣教者が、福音を伝えられて救われた者と共に救いの完成を目指して努力すること、つまり自己訓練をすべきことをといています。パウロが、救われた者が、救いの完成をめざして努めることである。(ローマ8・23,フィリピ3・21)。パウロは信仰生活には、克己の精神が必要であることを述べています。コリントもギリシャ都市で、スポーツははなやかであった。全国から青年男女が集まって、栄冠を競うた。競技の種目はランニング、跳躍、円盤投げ、レスリング、拳闘の類いであったと言われる。市民はこれらのことをよく知っていた。その出場選手の全てが、栄冠を得るのではない。優勝者はただ1人である。同じように、キリスト者も、万人注視の中に、信仰生活のコースを走っている。しかし用心しないと、途中で落伍する者もでる。だから、最後に主より栄えの冠りを受ける者となるためには、心して励み努めなければならない、パウロは自分は朽ちない冠を目指して走っている。その目標ははっきりしている。これはパウロの確信であった。信仰生活において打つべきところはどこであるか。それは他でもない。「自分のからだ」であるすなわち、肉の欲を制して、霊の力に従わせることである。そうでないと、口先でどんなに立派なことを

説いても、生活がそれに伴わないと、多くの人をつまずかせ、主を裏切ることになる。こうして最後の審判の日に、「失格者」の烙印押されて、外にすてられるであろう。その恥と悲惨を思うべきである。私達は信仰だけで救われる。しかし、その信仰は生ける信仰でなければならない。生ける信仰には、生ける生活が必ず出てくるはずであります。それはまことに緊張した不断の努力でなければならない。

最後にエリックのことについてこのToKYOの大会の歴史と物語のなかp13からp34引用します。

福音宣教の喜び」2021・6・20説教要旨

朝位真士

今日は1コリント9章1~18節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの9章全体を伝道者の権利と克己。福音宣伝の責任。勝利者の節制と語って、1~3パウロの使徒たること。4~6使徒としての彼の権利と自由。7~15伝道者の生活に関する律法の与える権利と、パウロの自己放棄。16~18彼の福音宣伝の責任と報い。19~27真の奉仕と報い。

19~23人をキリストに導くための奴隷的態度。24~27勝利の冠を得るための彼の克己の生涯と分解しています。

1コリント9・1~18節を見て下さい。パウロには、使徒として教会からの供給を受けて生活し、また他の使徒のように妻を持つ権利と自由があるはずであり(4~5)、天幕造りをして働きながら自給伝道をする必要はないはずであった(6、使徒18・3)。福音を宣べ伝える者が福音によって生活することは当然の事であり(14)、伝道者が信者から物質上の供給を受けることは当然の権利であり、霊の恵みを与えて肉体に必要な物をもって報いられることは決して分に過ぎたことではない(7、11)。これは律法の示す権利であり、神の定められた道である(8-10、13,14)。けれどもパウロはこの当然の権利さえ放棄して、天幕造りの労働をしながら、伝道したのは、福音の宣教の業にいささかも妨げにならないようにとの心からであった(12,15)。パウロが福音宣教のためにこれほど大きな克己犠牲の生活を送った精神は、私達すべての伝道者が見習わなければならない。伝道者が当然の権利を用いずに、

克己犠牲の生活を送って奉仕に専念し、信者は聖書の命じるように伝道者を敬い尊び、その労をねぎらい、豊にそれを報いる心があってこそ、教会は進歩し、強固に発展するのであります。パウロは、福音宣教の大使命のために選ばれ、主に捉えられたものであります。好むと好まざるとにかかわらず、その責任を免れることはできない。熱心に宣べ伝えたからといって誇るべきことはなく、怠れば実に災いであるという(16,17)。彼はそのために使徒としての権利を用いないばかりか(12)、むしろすすんですべての人の奴隷となった。それはできるだけ多くの人を主に導くためであると言っています。この9章1~18節はパウロの誇りを語っています。16節を見て下さい。「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、わたしがどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います」と言っています。つまり福音宣教は神によって課せられたパウロの義務であったのです。このように、パウロが使徒であることの証拠は、彼のあり方そのものに現れていますが、特にキリストの福音宣教を神から委託されていること(17)と、「私の働きに実」(1)であるコリント教会の存在であった。

結び

もう1度8・15~18節を見て下さい。

パウロは生活の料(しろ)を得るためでなく、ただ福音を伝えた。しかし、福音を伝えること自体を別に誇っていない。何故ならば、それはパウロにとってやむにやまれないことであったのである。彼は、神によって、福音宣教のために捕らえられていた(フィリピ3・1から11節p364)もしそれを怠るならば、神の御心に反し、自分の使命に不忠実となる。そうなれば実に災いである。こうして、狂える者のように、ひたむきに伝道の業に励んだのである。パウロは物質的報酬を受けずに伝道した。それでは、伝道には、何も報いはないかといえばそうではない。伝道それ自身が報いである。そして他人に経済的負担をかけずに働くことの中に、大いなる誇りがあり、喜びがある。彼が求めたものは、物質的援助ではなく、福音宣教からくる内なる喜びであり、高い誇りであったことがわかります。最後に付け加えておきたいことは9・4~9節を見て下さい。パウロはここに1つ1つ権利を挙げています。1・教会より経済的支持によって生活することをさしています。2・妻帯の権利をいっています。3・

第1のものを別の言葉でいっただけであります。パウロ自ら天幕造りをしながら伝道した(使徒18・3)働く伝道者に、権利のあることを裏書きしています。伝道者が教会より経済的援助をうけることは、むしろ当然ありますが、パウロはあえてその権利を使用しなかった。旧約聖書申命記25・4引用ですが、牛でさえ、働く時には、食を得ることが出来る。それが神の律法であるならば、神の為に働く人が、その報酬をえることは当然といわねばならない。

けれどもパウロは自給伝道したのであります。それは個人によって色々です。私の場合は九州では会堂建設のため妻フミ子牧師が音楽教室をしてその月謝を会堂献金に献げました。皆さんも会堂建築のため信者の皆さんが多額の献金を献げられたのです。そして今日このような立派な音響装置の完備した礼拝堂でチャペルコンサートーに岸先生やベアンテ先生や高田先生などの音楽関係のプロの方々をお呼びすることが出来て感謝です。

2021/6/20 週報メッセージ

聖書を読もう                                                       朝位 真士 

  私は毎日、詩編と箴言とコヘレトの言葉を拝読して、大変恵まれています。リビングバイブルの解説(緒論)には次のようにあります。人はどのような思いも神の前にさらけ出すことができ、神はそれを祝福されます。本書には、悲しみと喜び、怒りと平安、疑いと信仰、悔い改めと賛美などが表されています。また過去の回想、現在生きていることの苦しみ、輝かしい未来の幻もあります。多くの箇所で、神から遣わされる救い主イエス・キリストの受難や栄光の姿が示唆されています。

 「詩編」と日本語に訳されているヘブル語は「テヒリーム」で、その本来の意義は「賛歌」です。英語のPsalm は、ギリシャ語訳(七十人訳)からきたもので、新約聖書にはこの名称が使用されています。ルカ20・42「ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで』と。」ヘブルの正典においては、詩編は「諸書」(ケスービーム)と呼ばれる第三区分の最初に位置しています。

 次に箴言は、充実した人生を送るための教訓集です。人々を悔い改めに導く働きをする預言者の教えや、人々の礼拝を導く祭司たちの教えを補うものとして、神から与えられたものです。箴言には、神の知恵とともに、もともと人間に備わっている知恵や常識などもあり、それぞれ日常生活に役立つものです。何世紀にもわたって言い伝えられてきた格言も集められていて、子どもの訓育、社会正義、道徳、行儀作法などについて種々語られています。                                                               

  コヘレトの言葉は、神から離れて平安を見つけようとした人が、そこにはむなしさしかないことを悟るという光のない人生論を展開しながら、人生の疑問に対する唯一の解答を結論づけています。それは「神を恐れ、その命令に従いなさい。これこそ人間の本分です」(12・13)というものでした。この積極的な考えが導き出されるために、神のない生活がいかに不毛かを語っています。

 さあ皆さん、詩編、箴言、コヘレトの言葉に挑戦してみてください。あなたの生活が変化すると思います。 

「キリスト者の自由」2021・6・13説教要旨

朝位真士

 今日は1コリント8章全体を通して聖書を見ていきましょう。私の尊敬する米田豊先生はこの8章全体を2つにまとめています。1つはキリスト者の自由。2つは知識より愛。分解(偶像にささげた肉を食べることへの可否について)そして尚4つに分解しています。

1・1~3知識と愛。2・4~6偶像のむなしいこと。3・7~11良心の問題。4・12~13まことの愛。と分解しています。コリント教会に起こった問題は、偶像に供えた食べ物キリスト者は食べてもよいかどうかという問題である。これは単に食べる食べないというだけのことではなく、偶像に対する信仰の問題であって、特に偶像礼拝に直面して生きていかなければならない私達日本人キリスト者にとって実に身近な重大な問題である。当時、偶像に供えられた犠牲の肉はその一部を祭司が食べ、残りは供えた者が自宅へ持ち帰って食べるか、市場へ放出されていた。それゆえ市場ではいつも偶像にささげられた食糧品が売られていた。そのため何らかの形で偶像と接蝕しない肉はほとんど手にはいらないのが実情であった

 さて聖書8・1~13節を見て下さい。ユダヤ人は、偶像に供えられた肉を食べれば偶像に汚されるとして決して食べなかった。この考えはキリスト教にも入り、ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者のために定めた4つの禁止事項の中にも「偶像に供えた物」を避けるべきことが教えられている(使徒15・29)p244参照。コリント教会には、偶像に汚されることを恐れ、供え物の肉を食べまいとする人と、偶像の神など実在しないのだから偶像に供えられた食べ物を食べても何の害もないと言って、大胆に食べる人がいた。1~2節を見て下さい。このような知識はやたらに自己中心的で高慢な態度を取らせる結果になりやすい。

パウロは、愛のない知識は建設的ではなく、破壊的であるから、これに愛を加える必要を説いています。4~6節を見て下さい。異教徒が信じているような性質を持つ偶像は実在しない。それらは神ではなく、ただの木片、石片にすぎない。天地万物の創造主であられる

唯一の神以外に神はないのであります。唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私達もこの主によって存在するのです。悪霊や偶像は神でも主でもない。父なる唯一の神と唯一の主なるイエス・キリストだけが創造者なる神であります。7~13節を見て下さい。ここに信仰の弱い者に対する配慮が述べられています。

そこでパウロは教会の信仰の弱い人に対する愛から来る自由の制限を勧めています。13節に兄弟をつまづかせないために、「わたしは今後決して肉を口にしません」というパウロの決意は、弱い兄弟たちに対する実に尊い愛であります。弱い兄弟をいたわるパウロの姿がここに見られます。それはあくまでも、キリストの愛による配慮であります。

結び

私達が何を知っているかというよりも、私達が神に知られているということが大切であり、神を愛する者すなわち兄弟を愛する者(1ヨハネ4・21「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」p446私たちは互いに愛し合い、互いに徳を建てるために助け合い、互いに信仰の進歩を図るために力を尽くさなければなりません。そのためには信仰の弱い信者を躓かせないために、キリスト者自由をも制限しなければならない場合があります。キリストの真理を知っているからといってむやみに人を裁いたり、あるいは議論を戦わせてかえつて人を躓かせるようなことは、神様の御旨を悲しませることであります。「知識は人を高ぶらせるが、愛は人を造り上げます」私達教会に古く長いお互いはわたしを含めて反省しなければならないことは、新しい方々に対してもっと気を遣わなければならないと思います。

マルチンルターが「キリスト者の自由」とは1言でいえば「キリスト者という者は、すべてのものから自由である、そしてすべてのものに奉仕する」という、たつた2つのことを克明に語っています。そして教会を離れては私共の信仰は無い。これは宗教改革者が徹底的に言った言葉であります。そしてルターは9つのことを信仰と教会について語っています。

1・御言葉によって神を信じない信仰は長続きしない。

2・信仰は心と思いと意志とを1つにする聖霊の一途さを意味する。

3・自らを人間として認める謙遜。

4・自由な隣人への愛。

5・信仰は心に受けてものについて語り、聞いた言葉を言葉に表す。

6・真のキリスト者は言葉は少なく、多く行う、行わない者はキリスト者ではない。

7・恐れなく大胆に信仰を告白し、御言葉を人々に宣べ伝える事はキリスト者の生活について最高のものである。

8・キリスト者のすべての業は、神の賜物であり、恵みである。

9・教会はすべての神の言葉を聖書に照らして検討する。

大変含蓄のある言葉であります。

2021/6/6 創立98周年記念特別礼拝 岸義紘先生「ろばの子に乗る奇跡」

聖書箇所 マタイによる福音書第21章1節~11節 

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

イエスはエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエス」と言った。

2021年5月30日礼拝メッセージ

朝位フミ子牧師

讃美歌294番 1みめぐみゆたけき 主の手にひかれて この世に旅路を 歩むぞうれしき たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ みあとをゆくこそ こよなきさちなれ 4世の旅はてなば 死のかわなみをも 恐れず越えゆかん みたすけたのみて たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ みあとをゆくこそ こよなきさちなれ

主題「キリストによる一致」2021・5・30説教要旨

                      朝位フミ子

エフェソ人への手紙について、主イエスの使徒パウロからという

書き出しで始まっています。さて、本書はフィリポ、コロサイ、フィレモンへの手紙

と共に「獄中書簡」と呼ばれてきましたが、この手紙はこの2年の間に、ローマにおいて

書かれたものです。多くの入獄経験をして、福音のために大使の役を果たすことが出来

たのは、ローマでカイザリヤの裁判を待っていた期間であった。といいます。

本論

本日は、エフェソ人への手紙2章11~22節を「キリストによる一致」と題して、主イエス・キリストが異邦人をどのように救いに導き、ユダヤ人と一致させたかを学びましょう。

これを3つに分けてお話をしたいと思います。

Ⅰは2・11~12 かつてのユダヤ人と異邦人との関係

Ⅱは2・13~18 キリストによる和解

Ⅲは2・19~22 神の家族と住まい

Ⅰはかってのユダヤ人と異邦人との関係 2・11~12、11節からいよいよエフェソへの手紙の大テーマの1つ、ユダヤ人と異邦人との問題が展開されています。

  1. 異邦人は無割礼の者と呼ばれていた。
  2. 異邦人はメシヤの希望を持っていなかった。
  3. 異邦人はイスラエル人の社会から除け者にされていた。
  4. 異邦人は約束されたいろいろな契約には縁がなかった。
  5. 異邦人はこの世の中で希望もなく神もない者であった。

確かに、異邦人は神なき者であったために、キリストが来られるまで、絶望を味わっていた。

 Ⅱキリストによる和解2・13~18

13節から、異邦人は「キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となりました。一挙に「霊的な神の国」に近づけられ、救い主の祝福の中に入れられたのです。キリストという一人格の出現によって異邦人もユダヤ人も手を取り合うことができたのです。14節に「キリストは私達の平和であります。」

パウロはユダヤ人と異邦人が1つとなり、敵意が平和になったと主張しています。

それはキリスト御自身が十字架上で身代わりとして献げて下さったからです。

「隔ての壁」とは、神殿の境内地の中で、ユダヤ人と異邦人とを分け隔てたシンボルだったのです。キリストによって打ち壊されたのです。

 Ⅲ神の家族と住まい。2・19~22

19節(1)今や異邦人は、ユダヤ人と同じように神の聖なる民の中に含まれた。

(2)異邦人は、部外者であったけれども、今や「同じ信仰」によって神の家

    族に加わったのです。      

 (3)建物です。パウロは、建物の土台は「使徒」と「預言者」である。

教会とは建物の1部分で、キリストは教会を建築する石です。全教会の隅のかしら石はキリストです。

建物は、大きく成長し、建物の中には、神がお住まいになることが出来るように。

結論

 教会の一致は、キリストから来るのです。神と和解した私達は、恐れなく神に近づいて行くことが出来るのです。

私達は色々な所から集まって、教会を形成しています。

神の家族ですからお互いに愛をもってキリストにある一致を基礎として、努めようではありませんか。

初代教会の誕生 2021/5/23 礼拝メッセージ

聖歌539 1見ゆるところによらずして 信仰によりて歩むべし 何をも見ずまた聞かずとも 神のみ約束にたち 歩めよ信仰により 歩め歩め疑わで 歩めよ信仰により 見ゆるとこにはよらで 3おのが清きを持てちこう エホバの神はまことなり そのみことばを信ずるものに なしあたわぬことあらじ 歩めよ信仰により 歩め歩め疑わで 歩めよ信仰により 見ゆるとこにはよらで

説教 朝位真士