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2015/3/1 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                                        朝位 真士
  前回に引き続き「神の民に賜った宣教の務め」を記載します。
 ⑥御言葉の奉仕者は絶えず成長します。そのために、常に聖書をひもとき、祈り、御言葉の研鑽に励み、練達の人となるべきです。「わたしに倣う者となりなさい」(フィリ3・17)と語れる者となる必要があります。御言葉の奉仕者が成長し、生涯を伝道に献げることを願い、全体教会(教団)がさまざまな仕方で支え、必要な神学教育を施すだけでなく、さらにその後も研鑽の場を設け、生涯のある時期研鑽に専念する機会を備えるなどの制度を整えることは本質的に必要なことです。(エフェ4・11、Ⅱテモ3・15、Ⅰテサ5・16~22、Ⅱテモ4・2、Ⅰテモ4・12)
 ⑦信徒もまた、御言葉の奉仕者と共に教会形成と伝道に参加します。信徒は何よりも第一に、礼拝および諸集会に参加する務めを重んじる必要があります。また、教会の健全な成長(礼拝、伝道、奉仕、交わりなど)のために祈り、務める必要があります。また、献身のしるしとして自分の財を献げることにより、教会の維持発展に資する務めがあります。旧約聖書の十分の一献金は望ましい基準です。(ネヘ8・10、出29・42~45、使2・46~47、エフェ4・16、ロマ12・6~8、申14・22、Ⅱコリ9・7、マラ3・10)
  ⑧福音宣教において、信徒の果たしうる役割にははなはだ大きいものがあります。また、御言葉の奉仕者の「献身」と同じ意味で、すべての信徒がその全生涯を主体的にささげる「献身」に生きるようにと招かれています。
 ⑨御子は御国を来たらせるために、十字架にかけられました。それゆえ、十字架の福音を宣べ伝える教会もまた、十字架のしるしを帯びることになります。「証し」は「殉教」にまで至り得るものです。ただし、命を捨てることだけが殉教ではなく、むしろ、キリスト者が信仰に堅く立って歩む毎日が殉教とも言えるでしょう。ギリシャ語では「マルテュリア」という言葉が「証し」をも「殉教」をも意味します。(マタ16・25、コロ1・24、フィリ1・29、3・13~14、使14・22、ロマ12・1、Ⅱテモ3・12)

2015/2/22 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                       朝位 真士
  前回に引き続き「宣教の主体であられる神」を記載します。
 (2)神の民に賜った宣教の務め
 ①神はその民である教会に宣教の務めと福音の言葉とを与えられました。したがって、教会の務めは宣教によって福音の前進に奉仕することです。(マコ5・18~19、ロマ10・15)
 ②キリストの体である教会に属するすべてのキリスト者は、受洗と同時に祭司としての職務に任ぜられ、その全存在と全生涯が神の召しにあずかっています。また、そのために必要な霊の賜物をも与えられています。この「全信徒祭司性」の教えが、今日十分に回復される必要があります。そのために、教師も信徒も絶えず聖書の御言葉によって養われ、成長しなければなりません。
 ③「祭司」の務めとは、礼拝共同体としての教会を形成し、神を礼拝する民となることであり、宣教と執り成しの
務めを担うことです。(Ⅰペト2・5、同2・9、ロマ12・1~2、エフェ4・11~16、Ⅰコリ12・4~31)
 ④全信徒祭司性とは、教師と信徒の区別を解消しようとするものではありません。天に昇られたキリストは、この地上に教会をお建てになるために、教会の中から「使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師」(Ⅰエフェ4・11)などを任命し、各々に必要な霊の賜物を与えられました。これらの御言葉の奉仕者は、信徒と共に宣教の務めにたずさわります。
 ⑤御言葉の奉仕者は、喜びと勇気をもって福音を宣べ伝え、聞こえる御言葉である説教と見える御言葉である聖礼典のために仕え、自分の全生涯を献げます。この務めは教会形成の中心となります。また、その人はただこの使命のゆえに、教会の中で敬われる存在です。(エフェ4・11、ヨハ20・21、同21・15~19、Ⅰテモ1・18、同4・12、Ⅱテモ4・1~5)

2015/2/15 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                      朝位 真士
  前回に引き続き「宣教の主体であられる神」を記載します。
 (一)神の永遠のご意志 ①神は教会を永遠の昔より愛し、「御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1・4)さらに神は、この教会を通し、罪人をご自身と和解させるために、救いのご計画を立て、世の終わりまで、救済史に導かれます。(2コリ5・19、ローマ11・33~36)
 ②宣教がそもそも可能であるのは、神が人間を一方的な「恵みの選び」によって救いへと選ばれたからです。神の選びは、人間の業や功績によってではなく、神ご自身の永遠に変わることのないご意志によるものです。神の選びが確かであるゆえに、わたしたちは自分の救いに関して恵みの選びが成就することを確信し、それと同じように隣人の救いを熱望し忍耐強く祈り、かつ伝道することができます。(エフェ1・4~6、同2・4~6、同1・10、ヨハ15・16)
 ③また、わたしたちは伝道する時、実際に御言葉を語っておられるのは、わたしたちではなく、神の霊であると知ることによって、力づけられます。(マタ10・20)
 ④人間は「神のかたち」に造られていますので(創1・27)、神と出会うまで、平安を得ることができません。神に愛され、網を愛するとき、わたしたちはさらに、神がお与えくださった自分の隣人や家族、職業などを愛するようになり、真に幸いな人生を歩むようになります。人生とは、そのことを発見するための旅路であるとも言えます。(ヘブ11・13~16)
 ⑤同様に、世界史の究極の意義は、恵みの選びが成就することです。それゆえ、世界史の終わりは、救済史の完成です。そのとき、新しい天と新しい地が現れ、わたしたちは朽ちないものへと変えられ、永遠に神を賛美するでしょう。(エフェ1・11~12、1コリ15・50~55、黙21・1~4)                               

2015/2/8 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                      朝位 真士
 前回に引き続き「三位一体の神の招き」を記載します。
 (3)私たちの使命と喜び
 ①教会の主イエス・キリストは、天においても地においても一切の権能を授けられ、人間のすべての問いに対する究極の答えとなられました。また、キリストが父からこの世に遣わされたように、キリストはわたしたち教会をこの世に遣わされます。まだその外にいる神の民が一人でも多く、1日も早く神の国の喜びに共にあずかるよう、福音宣教の務めにたずさわらせるためです。(マタ28・18~20、ヨハ20・21、使18・9~10)
 ②宣教は神が始めてくださった「善い業」(フィリ1・6)に由来します。神の国の喜びが罪人にまで伝えられるとき、その道具として用いられる教会もまた「天の大きな喜び」(ルカ15・7)にあずかります。反対に、もし福音宣教をなおざりにするなら、教会は福音の喜びそのものを失い、みずからの存在意義を失うだけでなく、「役に立たない僕」(マタ25・30)として見捨てられます。(Ⅰコリ9・16、ヨハ3・29、同4・36)
 ③宣教という神の業が、人間の思いによってではなく、神の御心にかなって実を結ぶよう、聖書の言葉に基づいて、その務めを吟味することは大切です。(マコ13・35~37、Ⅰコリ1・21)
 Ⅱ宣教の主体であられる神
 宣教が現になされていることは、前章で述べられました。ここでは、それが神の永遠のご意志、すなわち、神の「恵みの選び」の中に根拠と必然性を持っていること、さらに、宣教においては神がそのご計画を立て、実際にも宣教の主体として働いておられることの中に確かな可能性があることが示されます。そのことによって、宣教にたずさわるわたしたちの喜びは確実なものであることが確認されます。                               

2月の声

イメージ 1写真:K/Kさん提供
2月は、太平洋側にも雪を降らせ、東京でも大雪が降ったりします。
明日2月5日も、雪が積もるような天気予報です。
今週2月1日の礼拝では、詩編からお話をいただきました。
朝位フミ子先生のメッセージでした。
主は羊飼い わたしには何も欠けることがない
主は わたしを青草の原に休ませ 憩いのほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる
主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる
死の陰の谷を行くときも わたしは災いをおそれない
あなたがわたしと共にいてくださる
あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける
                          詩編23編1~4
死の陰の谷とは、私達が自分の罪の中に歩くときをさしているというお話でした。主が、魂を生き返らせてくださる。
鞭と杖は何を指すのか。主は鞭をもって、また杖を与えてくださり、私達が正しい道に行くために、弱らないように力づけてくださる。
毎日、主の宮の中で、祈りつつ,感謝して歩んで行きたいですね。

2015/2/1 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                             朝位 真士
  前回に引き続き「三位一体の神の招き」についてです。
 (2)歴史の中で実現する神の招き
 ①父なる神は、この神の国の実現のために、時満ちて御子を人として
お遣わしになりました。また、御父と御子は聖霊を絶えずお遣わしになり
ます。(ヨハ20・21、同14・26、マコ1・14~15、フィリ2・6~11)
 ②聖書によれば、神の国は受肉したイエス・キリストの十字架と復活
によって、すでにこの地上に先取りの形で確立されています。それがす
なわち、神の民によって構成されるキリストの体なる教会です。神の国
はこの教会において存在し、広まりつつあり、歴史の終わりにおいて完
成されます。(マコ1・14~15、マタ28・18~20、イザ52・7、ロマ10・
14~15、黙21・3~4)
 ③「福音」は、神の国が来たことをあまねく告げ知らせます。福音は
神からの良い知らせ、すなわち神の言葉であり、この神の言葉は、「言
が肉となった」(ヨハ1・14)イエス・キリストの出来事そのものです。
この「言」を聖霊の権威によって証ししている聖書および説教の言葉も、
同じく神の言葉です。わたしたちキリスト者は神の言葉を聞くことによっ
て造り変えられ、わたしたちのすべての言葉と行いが、この神の言葉を
指し示す「証し」となります。(ヨハ5・39、Ⅱテモ3・1、ルカ4・21、
Ⅰテサ2・13)
  ④ここからただちに、「宣教」とは、第一義的には、福音を宣べ伝え
ること、すなわち「伝道」のことであると結論されます。ただし、真実
な伝道は必ず「証し」を生みだします。(ロマ10・17)

2015/1/25 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                                          朝位 真士
  教団常議委員会による「改訂宣教基礎理論」を紹介したいと思う。まず「三位一体の神の招き」。(1)神の招き。
 
  主は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・28)と言
 われました。三位一体の神は、ご自身の喜びに満ちた交わり、すなわち、「永遠の生命(または、神の国)」
 へと、罪人をお招きくださいます。この神の憐れみに満ちたご意志を人々に伝達することが、宣教です。
 (Ⅰヨハ1・3以下)
  神は礼拝と賛美を受けるにふさわしいお方です。神の国の究極の姿は、被造物がこぞって神を賛美し、す
 べての栄光を神に帰する喜ばしい礼拝です。人間はそのために「神のかたち」に造られ、神の国へと招かれ
 ています。その最高の幸福と喜びは、礼拝の中で神を賛美することの中にあります。(創1・27、出5・1、黙 
 4・11、エフェ1・3~5、詩22・23、同84・5、同102・19、コロ3・16)
 
 日本基督教団は、長い間、社会派、福音派という区分けで、お互いの立場を固守してきた。教団総会は、日本基督教団17教区、1700の教会・伝道所の中から選出された約400名の方々が出席して、2年に1度開催されている。教団内の諸問題について議論・議決され、実施されてきている。いろいろな社会的問題もあるが、ここ数年の会議内容の特色は、「伝道する教団」というキャッチフレーズに表されている。教団全体が本気になって「伝道(宣教)」に力を注ぎ出しているのは、大変喜ばしいことである。
 次回は、「歴史の中で実現する神の招き」について、「改訂宣教基礎理論」より学んでいきたい。そして、とにかく、伝道第一を貫こう!!

2015年はどのように過ごされていますか

イメージ 1写真:K/Kさん提供
 今年の冬も、各地で大雪のニュースが流れています。雪国の除雪作業の大変さを思いながら、皆様が安心して生活できるようにと願い祈りつつおります。
 お正月気分も過ぎて,日常生活が戻りましたでしょうか。私は、昨年、親しい友人が天に召されたことを通し、いろいろなことを考えさせられました。
 私達の命は、神様からいただき、この世で出会う事が赦され関係性を持ち、共に過ごします。その事は何と素晴らしいことなのでしょう。友人が、近所にいていつでも会えると思っていたわけですが、そうでは無くなったとき、本当に寂しいものです。
良く、高齢者の方々で、ご近所の方が天に召され話相手も少なくなって寂しいという方のお話をお聞きします。友人は50代後半の若い女性でした。「主は与え,主は取られる。」という御言葉を思い出します。
友人がご紹介くださった多くの方とは、今後とも親交をはかり、御一緒に主を賛美できたらと思います。
 神様が共にいてくださり導いてくださいますから、今年もしっかりと主につながり、実り多き日々を過ごしたいと思います。今日一日に出会えたことを感謝し、主に栄光を帰することができますように。
 

2015/1/18 週報メッセージ

   「断食祈祷聖会」に出席して                                                                 
                                                                                                          朝位 真士
                                                                 
  私は1月12日~14日の断食聖会に部分参加をいたしました。講師は著名な先生ばかりで、最初は長く北陸で伝道されたY牧師でした。「日本に適した伝道方策」として、パウロの「ユダヤ人にはユダヤ人のように」(Ⅰコリ9・20)という言葉から、「日本人には日本人のように」と日本人の考え方や感じ方に合った伝道方策はと考えて浮かんだのは、「蓮如」のことだったと語られました。500年以上前に五七歳で北陸の吉崎に来て、わずか4年で北陸は変えられ、真宗王国と呼ばれるようになりました。蓮如から受けた教えとインスピレーションは、大きな指針となりました。先生は浄土真宗の牙城に、ゆだねる伝道として三つのポイントを語られました。①みことばにゆだねる。(使徒20・
32)②他の人に教える力のある忠実な人にゆだねる。そして初代教会は「弟子の数がふえて行った」。(使徒6・7)③「ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。『あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。』」(ヨシュア13・1)と、しめくくられました。ちなみに先生は私と同じ羊年です。
 次にO牧師で、ミッションスクールの院長をされた後、現在は東京のある教会の牧師です。彼は「私たちは『祈れ』と神から待たれている」と題して、「祈りは神の御許によじ登る登山に似ています。私たちには、日常性、世俗性という重力が働いています。その重力に抗して登攀すること、それが祈りです。祈りは神から待たれ、促され、引き出されてくるものだからです。私たちは、神から『祈れ』と待たれているのです。待たれていることを知って、応答する誠意が引き出されます。呼応の相互性こそ、人間の深い喜びです。」と語られました。 

2015/1/11 週報メッセージ

   2015年ホ群新年聖会に出席して
                                                                                                          朝位 真士
 
  2015年1月2日(金)、教団小松川教会でホ群首都圏新年聖会が開催された。今回の主題は「終末における希望」(Ⅰペトロ4・7)で、聖会Ⅰの司会佐々木羊子師(TBS吉川教会)、立証・音楽ユース、説教山口紀子師(更生教会)、聖会Ⅱの司会柏明史師(茅ヶ崎恵泉教会)、立証阿部晋也神学生(東京聖書学校)、音楽東京聖書学校、説教島隆三師(東調布教会)であった。
 テキストであるⅠペトロ4章7~11節を引用する。「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。」この箇所から、若い山口師が大変ソフトに具体的な事例を引用されながら語られ、よく理解できた。特に、実年齢を三で割ると二四時間の人生時計の時刻になるという内容に、襟を正された。終末・再臨が近いからこそ、全力を尽くして主の業に励まねばならないと教えられた。
  島先生のメッセージは、流石に長い牧会者であり東京聖書学校の校長らしい重厚なものであった。特に、思慮深く、身を慎んで、よく祈り、何よりもキリストの愛をもって、心を込めて愛し合わなければならないということが印象深く残った。ハレルヤ!!