榊原紀惠子 のすべての投稿

2014/8/24 週報メッセージ

   「第46回日本伝道の幻を語る会」に出席して
                                                                                                      朝位 真士
  私は8月18日(月)~20日(水)迄、市川サンシティ・ホテルで開催された「第四六回日本伝道の幻を語る会」に出席いたしました。今回は3人の主講師、中野雄一郎師(JTJ宣教神学校SA・元国際部学長、北米ホーリネス教団巡回伝道者)、小友聡師(教団中村町教会牧師、東京神学大学教授)、藤井圭子先生(医師・キリスト伝道会エバンジェリスト)でした。出席者は名簿上94名で、ファミリーアワーの時は170名以上でした。席上献金(3日間)627,638円と100US$、予約献金782,000円、合計1,409,638円と100US$でした。主題は「今こそ福音の時」ーこの終末の時代にーで、主題聖句は「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1・14~15)
 1日目、開会礼拝は司会朝位師、説教深谷師。講演Ⅰは司会森師、講演中野師。「今こそ、福音の時第1夜」は司会佐々木師、音楽槙氏(オーボエ)、説教小友師。2日目、早天祈祷会は司会深谷(美)師、説教吉本師。講演Ⅱは司会深谷師、講演小友師。ファミリーアワーは司会西海師、説教藤井女史、音楽永島陽子氏(メゾソプラノ)。「今こそ、福音の時第2夜」は司会横山師、説教中野師、音楽永島陽子氏。3日目、早天祈祷会は司会森下師、説教趙師。幻を語る会は司会米田兄、朝位師、発題比嘉師「終末における宣教」、小西優子師「音楽伝道」、遠藤兄(ロングライフ社長)「終活伝道」。出席礼拝は司会尾島兄、説教森師(キリスト伝道会会長)等でした。
 今回の集会は私の人生にとってかけがいのないチャレンジな集会でした。特に2日目の夜、中野雄一郎先生のメッセージの後、先生ご自身が聖霊の導きで招きをされ、約八割の方々が前に出て主の前に新たな決断をしました。

2014/8/17 週報メッセージ

   琴平教会を問安して                                                                 
                                                                                                        朝位 真士
  先日、夏期休暇をいただき、フミ子牧師と息子憲義牧師の牧会する日本キリスト教団琴平教会を問安することができました。琴平教会は1950年1月高松教会の琴平集会(里見麻於宅)に始まり、長尾薬局の榎井集会を経て、1957年4月榎井伝道所開設、1958年7月25日榎井中ノ町に教会建設、教会堂献堂をもって教会創立記念日とし、名称を琴平教会に変更しました。1975年第2種教会。1990年11月榎井塚狭に移転建築。今年で教会創立56周年になります。場所は〒766‐0004、香川県仲多度郡平町榎井387‐6、℡0877‐75‐1810。主任担任教師、朝位憲義。現住陪餐43名、礼拝26名、CS10名、経常会計5,433,499円。
 祈りの課題としては、①新しく赴任した牧師の働きのため、②新しい教会形成の支えのために、③何よりも主日礼拝を第一に守ること、④聖書を毎日読み、御言葉を蓄えること、⑤他者のため日々覚えて祈り、御言葉を伝えることがあります。教会員のある方は、「琴平教会は朝位憲義牧師を迎え、地域に根ざした新しい教会形成を目指します。教会員は新しい歩みに神様の導きを祈りつつ心を一つにして前進することを願っています。皆様の祈りの中に覚えてくだされば幸いです」と語っていました。
 私たちが行って驚いたことは、教会堂が超近代的で、約135坪の敷地に約90坪の建坪だったと思います。建築費は約7千万円ですが、東京なら1億数千万円以上するのではないかと思います。田圃の中で、夜はサーチライトに十字架が浮かび、県道からもはっきりと見えました。教会員の方は若い牧師を迎え、本当に神の家族として、主イエス・キリストを中心とした愛における交わりという雰囲気でした。どうぞ皆様、日本の地方伝道教会のためにお祈りをしていただきたいと思います。

2014/8/10 週報メッセージ

   最近考えている事
                                                                                                           朝位 真士
  『教会論入門』(桑田秀延著)の「教会の様相」によると、今日世界に存在するキリスト教は大別するとロマカトリック教会、ギリシャ正教会、プロテスタント教会となります。桑田先生は「教会とは何か」という中で、二つの聖句を引用されています。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合」(第1コリント3・11~12)とあり、教会建設の土台はすでにすえられており、この土台はイエス・キリストであるということです。その2は使徒20・28、「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群の監督者に任命なさったのです」というのであります。これは常識や人間の頭脳から引き出された考えではありません。ただ聖霊によってキリストへの信仰を与えられたもの(第1コリント12・3)のみがとらえ告白することの出来る信仰告白であります。その信仰というのも漠然とした信仰ではなく、イエス・キリストと彼における贖罪の信仰であり、こうした明確な信仰が教会信仰の基底には要求されているのです。
 次に聖書が教会の名称としてかかげている重要な言葉に「神のイスラエル」(ガラ6・16)というのがあります。これは神の民を意味し、旧約以来の伝説をつぐ大切な言葉です。ここで取り上げたいのは「キリストのからだ」です。聖書がかかげている教会の名称中で、最も重要で基本的なことばです。キリストの教会は、歴史的には彼の死と復活の後、ペンテコステの際開始されました。神の救い、経綸は旧約時代より始められ、時が満ちてイエス・キリストが地上に遣わされました。これが福音の出来事で、神の救済史の中心的事実であります。

2014/8/3 週報メッセージ

   ホ群首都圏夏期聖会に出席して
                                                                                                          朝位 真士
  7月22日~24日迄、ホ群首都圏夏期聖会に出席しました。今回は第25回(通算61回)で、主題は「ホーリネスの豊かさ」。エフェソ3章18~19節、「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」という聖句が与えられました。
 今回は25の教会と東京聖書学校から78名の出席者が与えられました。神学生は12名全員が参加しました。講師は、横山基生師、横山義孝師、横山好江師、西海満希子師、深谷春男師、朝位真士、というメンバーでした。聖会委員会の発案で「第25回ホ群首都圏夏期聖会の栞」を作成しました。その中に「聖会の目的は、聖会参加者一人ひとりが、豊かな恵みを、聖会を通して与えられ、その経験が属する教会の祝福となることです。聖会は、ホーリネスの伝統を持つ教会で、普段の礼拝とは別に持たれてきた集会です。修養会とは呼ばず、聖会と呼びます。聖会では、より豊かな神の恵みを求めます。聖なる神の前に真実に立ち、自らも誠実に応答する集いです。メッセージを語る教師たちも、祈りつつ備えます。参加者一人ひとりが積極的に参加するところに主の豊かな恵みが注がれます。積極的参加とは霊的成長への渇望といえます。2泊3日はあっという間に過ぎます。聖会への心備えをしっかりして、豊かなときを持ちましょう」とあります。
 私は今回の聖会の最後のメッセンジャーとして、エフェソ6章10~20節を通して「救霊とホーリネス」というテーマで30分間語らせていただき、無事に会を閉じることができました。お祈りありがとうございました。

8月の空

イメージ 1写真:K/Kさん提供
毎日暑い日々が続いています。
7月も過ぎてしまうと、何故か心残りがして、今年の7月ともお別れなのだと、猛暑の中で、あれやこれや考えるものですね。
思えば、私達の人生は、アッと言う間に1年が過ぎて、年齢ばかりが足し算されて行くような感じもします。
それでも、主とともに歩む事は、何と幸いな事でしょう。全てを受け入れていただき、失敗からは学ぶ事を教えていただき、怠惰に過ごしてしまった後も諦めないで希望を持つことの大切さをもう一度考えるように導いてくださいます。
 
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3章16節
 
7月27日の礼拝のお話の箇所でした。
聖書の御言葉の恵みを、当たり前のように受けられる時代に生きる者として、これらの言葉を、心に刻み、味わって過ごすことの素晴らしさを考えながら、教会生活ができたら幸いですね。
 
 
 

2014/7/27 週報メッセージ

   最近考えている事
                                                                                                        朝位 真士
  教会についてここ2~3回書いていることを今回も語ってみましょう。エペソ人への手紙に「このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、聖なる神のすまいとなるのである」(1章21~22節)と記されています。今回も『教会論入門』(桑田秀延著)より引用させていただき、考えてゆきたいと思います。
 
  この世界にあるキリスト者のあり方は、個人キリスト者が聖書を読んで信仰に生きるというだけでなく、教
 会という信仰の共同体として1900年の間歴史の中で戦いつづけてきた信仰の群れの流れの中へ、自分も教
 会も教団も明確な信仰をもって参加するという、教会信仰の生きた意識がたいせつです。キリスト者は単なる
 個人キリスト者としてあるのでなく、昔からあり今日あり主の再臨まで至る主の教会のメンバーとしてその中
 であるべきです。今日世界に存在するキリスト教会は大別するとロマ・カトリック教会、ギリシャ正教会、プ
 ロテスタント教会となります。宗教哲学者トレルチは、歴史上のキリスト教を教会型と分派型と神秘主義の三
 類型に分けています。
  教会型の教会というのは、内面だけでなく現れた面にも意を注ぎ、教会が一つの組織体に形成されることを
 重んずる型の教会と見てよい。この教会の利点は、一つの組織体として形成され、個々の教会、教職信徒み
 なが、そのもとに統一せられていることです。欠点は、内なる信仰的生命が伴わないで、形成された儀式や教
 義のみが横行するようになる危険性があります。
  分派型の教会は、ヨーロッパでは教派と同義に用いている。よい点は、外形より内的生命を重んずるが、同
 時に熱狂的で既存の教会や社会に対して非協力的で、極端な思想や行動となって現れる場合がある。
                                                                つづく

2014/7/20 週報メッセージ

   最近考えている事
                                                                                                       朝位 真士
  先週よりの続きですが、「教会」とは何かというテーマに対して参考になる、『教会論入門』(桑田秀延著)を見ていきたいと思います。今回は「教会は、常識によってでなく聖霊により、信仰によって理解される」の中から学びたいと思います。
 
  教会のことを聖書は「キリストのからだ」とよんでいますが、端的にいうとこれはイエス・キリストが今日
 も生きて歴史の中で働いてい給うとの信仰であります。今日生きて働いているキリストの霊が聖霊の信仰で
 あり、キリスト者と結びついて今日現在の歴史の中で生きて働いているキリストのからだが教会の信仰である
 といえましょう。現在のキリストの信仰のうちには、聖霊の信仰とともにキリストのからだなる教会の信仰が含
 まれており結びついているのです。こうしたキリストは常識や人間の知性の対象ではなく、信仰の事柄です。
 教会の深い理解は、キリストの理解と同様、聖霊の啓示により信仰によってとらえられるものと認めざるを得
 ません。教会の深い理解はキリスト信仰の基礎の上に成立します。教会の深い意味は、常識や人間の知性
 の領域には隠されており、聖霊の啓示によりキリスト信仰と結びついて理解され把握されるものと私は信じま
 す。
 
  「教会の基礎がイエス・キリストである」ことを示すテキストとしては、マタイ16・16~18、第1コリント3・10~11、使徒20・28があります。「キリストのからだなる教会」についてのテキストは、エフェソ1・22、4・11~16、第1コリント12・12~27、ローマ12・4~5、コロサイ1・24、「福音の宣教について」は、マタイ28・18~
20、第2テモテ4・1~2、コロサイ1・25~29、ローマ10・14~15、第1コリント1・18~25、第2コリント5・
19等です。次回も「教会」について学びましょう。
 

7月の祈り

イメージ 17月13日の日曜日はいかがお過ごしでしたか。
桜ヶ丘教会では、お昼には、皆様で御一緒にお食事の時間を持つことが出来ました。
共に、食事の時を過ごすことができることは、何と幸いな事でしょう。
 
90周年誌の原稿をまとめておりますが、会員の皆様の一つ一つの思いが伝わってきて、それぞれの生活と神様との交わりを感じております。
 
過ぎ去った時も、今も、いつの時にも、神様は私達と共にいてくださると確信できます。
 
M姉妹が、長年昼食のご用意をしてくださり、私達は当たり前のように、食事をいただいておりました。
M姉妹の、お心遣いは並大抵のことではなかったと感じます。それは、近頃、私も食事の用意をさせていただくからです。
いつも、謙虚に、少しも偉ぶることなく美味しいお食事をご用意くださったM姉妹の健康が、いつまでの主に守られ、健やかでいてくださいますように。
ご高齢の方々、どなたも、この夏もお元気に乗り切ることができますように、お祈りいたします。

2014/7/13 週報メッセージ

   最近考えている事
                                                                                                        朝位 真士
  私が最近考えている事は、「教会」とは何かという事です。神学者の桑田先生の『教会論入門』からいくつかの事を学んでみましょう。
  
  教会ということによって何を考えるでしょう。それは会堂のことではないのでしょう。会堂よりもその教会
 に属している教師や信徒をより重要に考えるべきでしょう。しかし、ほんとうは、何よりもイエス・キリスト
 の教会を心にいだくべきでしょう。聖書によると教会は「キリストのからだ」として全体の教会であることを
 理解すべきで、教会には歴史的な伝統や系列があり、それによって教会の考え方もいろいろちがった所が出
 てきます。こうした中にあって、教会とはいったい何か、その意味は何かが問題となります。
  教会は聖書の説く大きな信仰である。
    教会、エクレシアは、もともとギリシャ市民の集会とか議会とかの意味から、キリストの民の意味に転用さ
 れたもので、新約聖書のうちに数多く用いられています。旧約聖書には、主の民、神に選ばれた選民の思想
 信仰があり、神はその民イスラエルを用いて、歴史の中でその経綸を行い給うと信ぜられ、これは旧約の重
 要な思想であり、大きな信仰であります。新約における教会信仰は神の民がキリストの民となっている点で新
 しい展開があるわけです。これは具体的にはイエスの死の前においてでなく、死と復活の後、使徒言行録に
 記されている聖霊降臨日の出来事として生起しています。この時はじめて最初のキリスト教会が生まれたわ
 けです。
 
  教会の思想と信仰とは遠く旧約に根ざし、新約の使徒行伝において生きた信仰の事実として歴史の中に生起した、聖書に基づく大きな信仰であるとのことであります。次回は、「教会は、常識によってでなく聖霊により、信仰によって理解される」という事を、先生の本より学びたいと思います。

2014/7/6 週報メッセージ

   教団教誨師研修会に出席して
                                                                                                           朝位 真士
  6月30日~7月1日迄、国立オリンピック記念青少年総合センターで開催され、日本キリスト教団の教誨師94名のうち30名余の人々が集まった。西東京教区からは4人の中の2人が参加した。今回の講師は、元ヤクザの親分で、府中刑務所で服役していた鈴木啓之先生(府中刑務所教誨師、シロアムキリスト教会牧師)であった。17歳より17年間ヤクザの世界に身を置いて、刑務所に入所していた時、教誨師のメッセージを聞き、クリスチャンになり、献身して牧師となられた方である。彼が「ネバー・ギブアップ」(あきらめないで)という題で本当に熱く生き生きと語る姿に、「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリント5・17)という御言葉が浮かんだ。先生が講演の中で語った最も印象深い御言葉は、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し……」(イザヤ43・4)であった。お話の中で先生が語られた、①チャンス、②チェンジ、③チャレンジという三つのCは、私に熱烈な印象を与えた。
 先生は救われて25年になり、府中刑務所の教誨師も10年以上なさっている。例話として登場した収容者の証しに神様の愛の力を感じた。彼は医者であったが、強姦殺人で刑務所で16年服役した。出所してキリスト教信者となり、全く新しい生き生きとした生き方を始めた。
 余談になるが、私は帰り道、私が教誨している少女少年院を出院した少女と参宮橋で再会した。彼女の方から声をかけてくださった。私は少女の将来のため、祈りの手を下げてはならないと思った。