聖書 マタイによる福音書第26章49節、27章29節、28章9節
説教題「三つの挨拶」
お話 柏 明史 牧師
新聖歌 221番 188番
聖書 マタイによる福音書第26章49節、27章29節、28章9節
説教題「三つの挨拶」
お話 柏 明史 牧師
新聖歌 221番 188番
「悲しみの道」(ルカ書 23:26-31)
主イエスが死刑の判決を受け、ビラト官邸からゴルゴタの丘まで、自ら十字架を背負って歩かれたおよそ1キロほどの道を ヴィア・ドロローサといいます。日本語では「悲しみの道」「苦しみの道」と訳されています。わたしたちがこのヴィア・ドロローサについて学んだり、黙想したりする時には、荘重で厳粛な思いに立たされます。
現在のヴィア・ドロローサは、石畳の路地で、狭く、曲がりくねった道です。道の両側には、小さな店(土産物)が並び、熱気と活気に満ち、そしていつも観光客、巡礼者であふれかえっています。歴史家ヨセフスの『ユダヤ古代史』によれば、当時、過越祭であり、エルサレムへの世界各地からの巡礼者は270万人に及び、市街は芋を洗うような混雑状態だったとのこと。
イエス様は最後の晩餐の後、一睡することもなく、逮捕、尋問、裁判で引き回され、ムチで打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架の横木を担いで、刑場までふらつきながら歩かれたのです。
クレネ人シモンは、たまたまローマ兵と目が合ったがゆえに、横木を代わって運ぶように命令されました。ローマに支配されていた時代のユダヤ人の労役義務でした。「なぜ、正装して出かけてきた巡礼日に、血だらけの十字架を担がねばならないのか」「なぜ、自分がこのような不運な目にあうのか」と怒りと憤懣に満ちていました。シモンは歩きながらその男の顔をのぞきました。刑場を追い出されてからも、彼のことが気になって遠くから眺めていました。その男が十字架上で、神に祈られる声、「父よ。彼らをお赦しください」と人々を赦す言葉を聞いて、震えるような感動を覚えました。やがてその男が十字架上で死んだときは、彼自身もすっかり変えられていたのです。
(3/3 山本師説教から)
「完全な成長に向かって」(ヤコブ書 1:1-8、12)
キリストを信じて救われた者が、なぜそれ以上に成長することが必要なのでしょうか。それは、救われたということは、神さまとの関係を回復したことであり、天国に向かって第一歩を進めたに過ぎないのです。私たちの魂は、天国に向かって成長していかなければならないからです。
私たちはかつて洗礼を受けました。キリストの福音を信じて救いを得、霊的な幼子として誕生しました。霊的な幼子は、純粋な、みことばの乳を飲んで育ちます。私たちキリスト者も、み言葉(聖書)をたくさん読み、その深い意味を理解し、自分の栄養にしていく必要があります。
私たちが成長していくうえで、さまざまな「試練」「訓練」がやってきます。①ヤコブ書は「試練」を、むしろ「喜べ」(2)と前向き、ブラス思考にとらえるように勧めます。②また試練から「忍耐」(3)が生じます。聖書の忍耐には「苦しみに耐える」こと以上の深い意味があるのです。それは「神のご計画を待つ心、ゆだねる心、信頼する心」が養われることです。③さらに「試練」を耐え忍ぶ人は、「命の冠」をいただく」(12)と約束されています。
私たちクリスチャンの成長の最終ゴールは「キリストに似た者」となることです。創世記3章は、アダムの罪により、私たちの、神のかたちが歪んでしまったというのです。しかしパウロは、私たちは再び「主と同じ姿に造り変えられていく」(Ⅱコリント3:18)と明言するのです。
今一度、私たちは着実に霊的に成長しているか顧みてみましょう。私たちは、神の子として、恵みから恵みへ、信仰から信仰へ、昨日より今日、今日より明日、日ごとに新しくされ、変えられ、成長しているでしょうか。成長させてくださるのは神さまです。その神さまは、私たちが幼子から成人(大人)へと成長することをどんなに期待しておられるでしょうか。 (2/25山本師説教)
聖書箇所 ルカによる福音書第23章32節~43節
説教題「父よ彼らをお赦しください」
お話 山本修一牧師
新聖歌 114番 385番
聖書箇所 ルカによる福音書第23章26節~31節
説教題「悲しみの道」
お話 山本修一牧師
新聖歌 105番 282番 49番
「被告席に立つ神」(マタイ書 26:57-68)
C.S.ルイスは「被告席に立つ神」というエッセー集の中でこのように述べています。「現代に生きる私たちも、神様を全く無視している訳ではない。私たちも、神様の言葉に、耳を傾けることもあるし、神様を信じることもある。しかし、問題なのは、その耳の傾け方、その信じ方である。現代人は、まるで神様を、被告席に立たせているかのように取り扱っている。神様を被告席に立たせておいて、その神様に様々な質問をして答えさせている。これはどういうことなんですか?なぜこうなのですか?あなたは神として、一体何をしているのですか?それらの答えに、自分が納得している限りにおいて神様を信じている。しかし、それは信仰ではない。信仰とは、自分は被告席に立ち、神様を裁判官として、神様の問い掛けに答えていくことである。」まさにルイスの言う通りですが、人類はその初めから、神様を被告席に立たせて、神様に文句を言い、神様を責めています。
最初の人アダムは、「あなたが、私と共にいるようにしてくださったあの女が、木から取って与えたので食べました」と言って神を責めています。今朝の箇所では大祭司たちは、神の子主イエスを、実際に被告席に立たせて裁いています。大祭司たちは「今の生き方を変えなさい」と、悔い改めを迫る主イエスが邪魔だったのです。そんな彼らに対して主イエスは、たった一言語られました。「あなた方の神であるこの私が、今、ここに、こうして、被告席に立たされ、裁かれ、こぶしで叩かれ、唾をかけられている。それは、あなた方を救うためなのだ。あなた方が、その生き方を変えて、父なる神の愛の中に生きるようになるために、私はここに、こうして被告席に立っているのだ。」主イエスは、ただ一言話された後は、ただ黙々として、十字架へ道を歩まれました。受難節の時、主イエスのこの御心を、この愛を、この御苦しみを、心に刻みつつ歩んで行きたいと思います。(2/18 柏明史師説教)
聖書箇所 ヤコブの手紙 第1章1~8節 12節
説教題「完全な成長に向かって」
お話 山本修一牧師
新聖歌 375番 444番
「成長しなさい」 (成長シリーズ①)
(Ⅱペトロ書3:14-18)
本日から説教のテーマが「イエス・キリストを知る」から「成長」に変わります。
思えばペトロこそ、主イエスにあって著しく成長した人物の一人でした。漁師の出身であり、粗野で、向こう見ずで、口より行動の方が早いタイプの人でした。そのペトロはさまざまな試練や失敗を重ね、とくに聖霊を受けてから、大きく成長し愛の人に変わったのです。 晩年はキリスト教徒が迫害されていたローマに乗り込みますが、皇帝ネロに捕らえられ、逆さ磔になって殉教したと伝説では伝えられています。
このペトロが晩年に2通の手紙を書きます。この手紙Ⅱを閉じるにあたって、遺言のように「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」(18)と語ります。ここでの成長とは、霊的成長、私たちの魂の成長のことをいいます。キリスト者は、救われればそれで終わりではなく、その後、霊的に成長していく存在です。
霊的に成長することは、第一はすべて「神の恵み」によるものであり、決して私たちの努力や功績によるものではありません。第二は「神の業」であります。私たちが信仰によって救われたのも神の御業によるものでした。第三は「イエス・キリストの知識」において成長するのです。イエス・キリストを知れば知るほど、イエス・キリストとの関係は親密になり、霊的に成長するのです。
最後に、霊的な成長は、神さまの命令です。「成長しなさい」とは、時々ではなく、思い立ったときでもなく、「成長し続けなさい」(現在進行形)の意味なのです。ある教師が言います。「信仰の中断あるいは停滞は、信仰の後退ですよ。」
(2/11 山本師説教)
「わたしの主、わたしの神よ(ヨハネ書20:24-29)
(イエス・キリストを知る④)
「イエス・キリストを知る」の4回目です。
私たちはパウロの残した「キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」という信仰告白を学んでいます。どうしてイエス・キリストを知ることが、「特権」であり、「特別の恵み」であり、「絶大な価値」といえるのでしょうか。
本日の聖書箇所から、「キリスト・イエスを知る」ことは、「人格的な主イエスとの出会い」であり、究極的な意味では、「復活されたイエスに出会う」こと、「圧倒的に臨在するイエスの前に立つ」ことであることを教えられます。
トマスは、「他の弟子たちが、復活のイエス・キリストを見た」と言っても、疑った人物として知られています。主の復活に対して「自分の目で見て確認しなければ」と懐疑的な立場を取っていました。そもそも信仰とは疑いを持たないことではありません。自分の疑問や疑いを率直に神とイエスさまに「主よ、なぜなのでしょう」と問いかけることも大切です
その後、トマスは復活のイエスに出会い、声をかけられ、そのあまりの感激に(すばらしさに)、ひれ伏して、心からなる信仰告白を捧げたのです。「わたしの主、わたしの神よ」との告白は、キリスト教信仰の核心であると言えます。
「わたしの」という言葉が大切です。「彼のため」、「彼女のため」ではなく、この「わたしのため」に、ご自身の命を捨ててくださった(ガラテヤ2:19、20)「主イエス・キリスト」を、あがめ信じる告白だからです。
今、私たちも、「わたしの主、わたしの神よ」と告白し続けましょう。(2/4 山本師説教)
「イエス・キリストを深く知る(フィリピ書3:1-11)
(イエス・キリストを知る③)
今年の教会標語聖句「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」をさらに学びましょう。本日は3回目。「イエス・キリストを深く知る」というタイトルなのに、どうしてパウロの話なのでしょうか。パウロを学ぶのは、イエス・キリストを深く知るためです。
パウロはユダヤ人で熱心なパリサイ派でした。キリスト教徒を迫害、弾圧していました。そのパウロがダマスコ途上で、衝撃的な出来事があり、そのことにより劇的に信仰・価値観などが変えられたのです。それは復活のイエス・キリストとの決定的な出会いでありました。パウロにとってイエス・キリストを知るとは、復活のイエス・キリストとの出会いであり、そのイエスを愛することであり、「そのイエスを信じることが救いである」という信仰でありました。
このところからある牧師から厳しく教えられます。
①「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」(8)にパウロは驚嘆していますが、私たちはなんと無関心・無感動でしょうか。私たちの価値観が変わらないのはなぜでしょうか。
②パウロはこの世における自分の有利に思える状況((お金、財産、名誉、学歴、能力、実績、友人…)(5-6)を「塵あくた」(排泄物)ととらえたのに、私たちは人生・生活が少しでもプラスになるように、なぜ塵あくたを求めているのでしょうか。「肉に頼る信仰」「人間の肉によって救いを得ようとする信仰」(4)を大切にしているからでしょうか。
③パウロは「キリストのゆえにすべてを損失と見なした」(7)のに、私たちは、キリストを信じながら、なんとかその一部でも手に入れたいと、物欲しげに求めているのではないでしょうか。
(1/28 山本師説教)