「改訂宣教基礎理論」二次草案
朝位 真士
前回に引き続き「三位一体の神の招き」を記載します。
(3)私たちの使命と喜び
朝位 真士
前回に引き続き「三位一体の神の招き」を記載します。
(3)私たちの使命と喜び
①教会の主イエス・キリストは、天においても地においても一切の権能を授けられ、人間のすべての問いに対する究極の答えとなられました。また、キリストが父からこの世に遣わされたように、キリストはわたしたち教会をこの世に遣わされます。まだその外にいる神の民が一人でも多く、1日も早く神の国の喜びに共にあずかるよう、福音宣教の務めにたずさわらせるためです。(マタ28・18~20、ヨハ20・21、使18・9~10)
②宣教は神が始めてくださった「善い業」(フィリ1・6)に由来します。神の国の喜びが罪人にまで伝えられるとき、その道具として用いられる教会もまた「天の大きな喜び」(ルカ15・7)にあずかります。反対に、もし福音宣教をなおざりにするなら、教会は福音の喜びそのものを失い、みずからの存在意義を失うだけでなく、「役に立たない僕」(マタ25・30)として見捨てられます。(Ⅰコリ9・16、ヨハ3・29、同4・36)
③宣教という神の業が、人間の思いによってではなく、神の御心にかなって実を結ぶよう、聖書の言葉に基づいて、その務めを吟味することは大切です。(マコ13・35~37、Ⅰコリ1・21)
Ⅱ宣教の主体であられる神
宣教が現になされていることは、前章で述べられました。ここでは、それが神の永遠のご意志、すなわち、神の「恵みの選び」の中に根拠と必然性を持っていること、さらに、宣教においては神がそのご計画を立て、実際にも宣教の主体として働いておられることの中に確かな可能性があることが示されます。そのことによって、宣教にたずさわるわたしたちの喜びは確実なものであることが確認されます。
Ⅱ宣教の主体であられる神
宣教が現になされていることは、前章で述べられました。ここでは、それが神の永遠のご意志、すなわち、神の「恵みの選び」の中に根拠と必然性を持っていること、さらに、宣教においては神がそのご計画を立て、実際にも宣教の主体として働いておられることの中に確かな可能性があることが示されます。そのことによって、宣教にたずさわるわたしたちの喜びは確実なものであることが確認されます。