榊原紀惠子 のすべての投稿
2015/3/29 週報メッセージ
齋藤 文博
多くの思い出があり、それら全てを書いてしまいますと、とても指定された文字数では足りなくなってしまいます。そのくらい私にとって桜ヶ丘教会でのご奉仕は、心に残るものでありました。
その中でも一番感謝なことは、学校の用事以外で主日礼拝を休むことなく守れたことであります。今年度は、親知らずを4本抜いたり、中耳炎になったりと体調不良なことが多々ありましたが、神様に守られて1年間走りぬくことができました。
もう一つには、教会学校が1年間休むことなく守られたことであります。子ども達が少ない中、小学校に入学するために勉強におわれなかなか礼拝を守れないお友達や、家庭の用事等で礼拝を守れないお友達、体調を崩して礼拝を守れないお友達、ときにはお友達一人で礼拝を守るという時もありましたが、とにかく教会学校にお友達がいなくて守ることができなかったということがなかったことは、本当にすばらしいことであると思います。そして、来年度新しいお友達が教会学校に加えられようとしております。しかし、まだまだこの地域には、救われるべき魂が多くあります。もちろん、子ども達だけでなく大人の方々も同様であります。
大きなマンションが建設されつつあり、駅ナビにも桜ヶ丘教会が登録され、スマイル合唱団にも教会を使っていただいたりと、桜上水に桜ヶ丘教会があるということを、地域の方々に知っていただける機会が多くなり、感謝であります。多くの魂が救われ共に神様を賛美し、神様の御言葉に耳を傾け、その御言葉を握り1週間を神様と共に歩む者へと変えていただきたいと思います。 在主
2015/3/22 週報メッセージ
「改訂宣教基礎理論」二次草案
朝位 真士
引き続き「宣教の内容」(1)中心としてのキリストの出来事-罪の赦し-
⑤御子イエス・キリストの十字架において起こった中心的な事柄は、人間の罪を取り除くことです。すなわち、キリストは、わたしたちの現実を憐れみ深い目でご覧になり、そのもっとも深いところにまで根を下ろしている闇の部分に立ち向かってくださいました。ただし、それは驚くべき仕方で、すなわち、御子が御父に従い、全人類の罪を身代わりに背負って十字架上で「呪いの死」を死なれる、という仕方において起こりました。これにより、罪は完全に取り除かれました。(ヨハ1・29、同5・19、同12・31、同17・1~5、ロマ8・3、フィリ2・6~11、ガラ3・13)
⑥父なる神は死に至るまで従順であられた御子を義とし、死人の中からよみがえらせました。そして、これを受け入れ、キリストによる罪の赦しを信じる人を神は価なしに義とされます。したがって、「神みずから義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされる」(ロマ3・26、口語訳)のです。(ガラ3・13、マコ15・34、フィリ2・6~9、ロマ3・25~26、同10・10、同3・28)
⑦信仰によって義と認められた者は、すでに罪の支配領域から恵みの支配領域へと移されています。その人にはなお罪との戦いが残っていますが、今すでに不安や思い煩いから解放され、神との交わり(永遠の生命)を与えられているゆえに、神と隣人を愛する生活に踏み出すことができます。(2コリ5・17、ロマ6・11、同8・38~39、1ヨハ3・2、ガラ5・1)
⑧「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとり」(1テモ2・5)です。したがって、人類を救う福音はただ一つ、イエス・キリストの御名による救いです。(申6・4、使4・12、ガラ1・6~7、ロマ10・14~17)
春の陽ざしを感じながら
2015/3/15 週報メッセージ
(1)中心としてのキリストの出来事ー罪の赦し
②福音の内容は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハ3・16)という御言葉に要約されます。この福音は、今この歴史の中ですでに現実となっています。罪人が神と和解させられ、礼拝と賛美へと招かれているからです。(ロマ5・6~
③人間は自分を神としようとして罪を犯し、神との平和を失いました。神は聖なるお方ですから、本来ならば、人間を罪を見過ごすことがおできになりません。罪人である人間は聖なる神と対立しており、神が義であるか、それとも人間が義であるか、言い換えれば、神が滅びるか、それとも神が人間を滅ぼすか、どちらか一つでしかありえない由々しい事態が生じたことになります。(ヨシュ24・19~20、イザ6・1~5、同57・15)
④しかし、人間は罪の結果としての悲惨さのただ中にいながら、それが自分の罪のゆえであるとは認めず、他者に責任を負わせようとします。それゆえまた、自分の悲惨さについての認識もきわめて不十分です。しかし実は、自分がなお生かされているのは、憐れみ深い神の限りない忍耐と寛容によることなのです。(創3・5、同3・12~13、ロマ2・4、同6・23)
2015/3/8 週報メッセージ
朝位 真士
(1)キリストの心を具体化していない教会であったから。①聖書に基づかない教会。②日本社会に迎合している。③知的信仰に偏った。④伝道・運営がへた。⑤教会の疲弊・閉塞感。
(2)島国的劣等感の束縛。①日本社会から教会が離れ過ぎた。②日本人の和魂洋才。③島国という特性から来る問題。④クリスチャンの西洋コンプレックス、排他性、閉鎖性。⑤敗戦による縮み。
(3)牧師・指導者が未熟だった。①牧師・指導者の心が狭い。②牧師の説教が悪い。③牧師の伝道力が弱い。④神学教師・牧師の実践神学が弱い。⑤用語の選択を誤った。
以上のような内容であった。5人の共同研究者のうち二人は、私が個人的に親しい方である。私共の教会にも毎年チャペル・コンサートに講師として来られているK牧師もその一人である。私はこの共同研究の発題を聞き、本を著者より取り寄せた。もう一度自分の牧会者・伝道者としてのありかたを考えさせられた。
3月に入りました
2015/3/1 週報メッセージ
朝位 真士
前回に引き続き「神の民に賜った宣教の務め」を記載します。
⑥御言葉の奉仕者は絶えず成長します。そのために、常に聖書をひもとき、祈り、御言葉の研鑽に励み、練達の人となるべきです。「わたしに倣う者となりなさい」(フィリ3・17)と語れる者となる必要があります。御言葉の奉仕者が成長し、生涯を伝道に献げることを願い、全体教会(教団)がさまざまな仕方で支え、必要な神学教育を施すだけでなく、さらにその後も研鑽の場を設け、生涯のある時期研鑽に専念する機会を備えるなどの制度を整えることは本質的に必要なことです。(エフェ4・11、Ⅱテモ3・15、Ⅰテサ5・16~22、Ⅱテモ4・2、Ⅰテモ4・12)
⑦信徒もまた、御言葉の奉仕者と共に教会形成と伝道に参加します。信徒は何よりも第一に、礼拝および諸集会に参加する務めを重んじる必要があります。また、教会の健全な成長(礼拝、伝道、奉仕、交わりなど)のために祈り、務める必要があります。また、献身のしるしとして自分の財を献げることにより、教会の維持発展に資する務めがあります。旧約聖書の十分の一献金は望ましい基準です。(ネヘ8・10、出29・42~45、使2・46~47、エフェ4・16、ロマ12・6~8、申14・22、Ⅱコリ9・7、マラ3・10)
⑧福音宣教において、信徒の果たしうる役割にははなはだ大きいものがあります。また、御言葉の奉仕者の「献身」と同じ意味で、すべての信徒がその全生涯を主体的にささげる「献身」に生きるようにと招かれています。
⑨御子は御国を来たらせるために、十字架にかけられました。それゆえ、十字架の福音を宣べ伝える教会もまた、十字架のしるしを帯びることになります。「証し」は「殉教」にまで至り得るものです。ただし、命を捨てることだけが殉教ではなく、むしろ、キリスト者が信仰に堅く立って歩む毎日が殉教とも言えるでしょう。ギリシャ語では「マルテュリア」という言葉が「証し」をも「殉教」をも意味します。(マタ16・25、コロ1・24、フィリ1・29、3・13~14、使14・22、ロマ12・1、Ⅱテモ3・12)
2015/2/22 週報メッセージ
朝位 真士
前回に引き続き「宣教の主体であられる神」を記載します。
(2)神の民に賜った宣教の務め
②キリストの体である教会に属するすべてのキリスト者は、受洗と同時に祭司としての職務に任ぜられ、その全存在と全生涯が神の召しにあずかっています。また、そのために必要な霊の賜物をも与えられています。この「全信徒祭司性」の教えが、今日十分に回復される必要があります。そのために、教師も信徒も絶えず聖書の御言葉によって養われ、成長しなければなりません。
務めを担うことです。(Ⅰペト2・5、同2・9、ロマ12・1~2、エフェ4・11~16、Ⅰコリ12・4~31)
2015/2/15 週報メッセージ
朝位 真士
前回に引き続き「宣教の主体であられる神」を記載します。
(一)神の永遠のご意志 ①神は教会を永遠の昔より愛し、「御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1・4)さらに神は、この教会を通し、罪人をご自身と和解させるために、救いのご計画を立て、世の終わりまで、救済史に導かれます。(2コリ5・19、ローマ11・33~36)