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3月第5日曜日の礼拝

イメージ 1桜の花も華やかに咲き始め、心が弾む春の日々です。
今日は、午後から曇り、小雨というあいにくのの天気になりました。
桜の花が行ってしまいそうなので、少し足踏みしていただけると、来る4月も、ささやかに桜の下を歩くことが出来そうです。
さて、3月29日の聖日は、神学生から、お別れのメッセージをいただきました。
「雄々しくあれ 主が共に歩いてくださる」
力に満ちた人生とは、主が共に歩かれる人生と教えて頂きました。
この世の基準でいう成功者の道とは違っていると思います。
このことを、しっかり心に受け止め、どのように生きることが大切なことか、考えて、雄々しく、力をこめて生きたいと思います。
礼拝の後に、お別れの食事会をいたしました。
24名の方々が、昼食に残ってくださり、感謝の思いを伝えるひとときを過ごすことが出来ました。
神学生の歩みが、主から祝福され、さらに日本の宣教に力をあたえていただけるように心から祈ります。
主に栄光あれ!

2015/3/29 週報メッセージ

   桜ヶ丘教会
                                                                                                        齋藤 文博
  1年間、桜ヶ丘教会というすばらしい教会にて、ご奉仕させていただき、また教会学校、主日礼拝、夕礼拝を共に守らせていただけたこの恵を心より感謝いたします。
 多くの思い出があり、それら全てを書いてしまいますと、とても指定された文字数では足りなくなってしまいます。そのくらい私にとって桜ヶ丘教会でのご奉仕は、心に残るものでありました。
 その中でも一番感謝なことは、学校の用事以外で主日礼拝を休むことなく守れたことであります。今年度は、親知らずを4本抜いたり、中耳炎になったりと体調不良なことが多々ありましたが、神様に守られて1年間走りぬくことができました。
 もう一つには、教会学校が1年間休むことなく守られたことであります。子ども達が少ない中、小学校に入学するために勉強におわれなかなか礼拝を守れないお友達や、家庭の用事等で礼拝を守れないお友達、体調を崩して礼拝を守れないお友達、ときにはお友達一人で礼拝を守るという時もありましたが、とにかく教会学校にお友達がいなくて守ることができなかったということがなかったことは、本当にすばらしいことであると思います。そして、来年度新しいお友達が教会学校に加えられようとしております。しかし、まだまだこの地域には、救われるべき魂が多くあります。もちろん、子ども達だけでなく大人の方々も同様であります。
 大きなマンションが建設されつつあり、駅ナビにも桜ヶ丘教会が登録され、スマイル合唱団にも教会を使っていただいたりと、桜上水に桜ヶ丘教会があるということを、地域の方々に知っていただける機会が多くなり、感謝であります。多くの魂が救われ共に神様を賛美し、神様の御言葉に耳を傾け、その御言葉を握り1週間を神様と共に歩む者へと変えていただきたいと思います。                        在主

2015/3/22 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                                       朝位 真士
 引き続き「宣教の内容」(1)中心としてのキリストの出来事-罪の赦し-
 ⑤御子イエス・キリストの十字架において起こった中心的な事柄は、人間の罪を取り除くことです。すなわち、キリストは、わたしたちの現実を憐れみ深い目でご覧になり、そのもっとも深いところにまで根を下ろしている闇の部分に立ち向かってくださいました。ただし、それは驚くべき仕方で、すなわち、御子が御父に従い、全人類の罪を身代わりに背負って十字架上で「呪いの死」を死なれる、という仕方において起こりました。これにより、罪は完全に取り除かれました。(ヨハ1・29、同5・19、同12・31、同17・1~5、ロマ8・3、フィリ2・6~11、ガラ3・13)
 ⑥父なる神は死に至るまで従順であられた御子を義とし、死人の中からよみがえらせました。そして、これを受け入れ、キリストによる罪の赦しを信じる人を神は価なしに義とされます。したがって、「神みずから義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされる」(ロマ3・26、口語訳)のです。(ガラ3・13、マコ15・34、フィリ2・6~9、ロマ3・25~26、同10・10、同3・28)
 ⑦信仰によって義と認められた者は、すでに罪の支配領域から恵みの支配領域へと移されています。その人にはなお罪との戦いが残っていますが、今すでに不安や思い煩いから解放され、神との交わり(永遠の生命)を与えられているゆえに、神と隣人を愛する生活に踏み出すことができます。(2コリ5・17、ロマ6・11、同8・38~39、1ヨハ3・2、ガラ5・1)
 ⑧「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとり」(1テモ2・5)です。したがって、人類を救う福音はただ一つ、イエス・キリストの御名による救いです。(申6・4、使4・12、ガラ1・6~7、ロマ10・14~17)

春の陽ざしを感じながら

イメージ 1主を畏れることは知恵の初め
箴言第1章7節
3月は卒業式など、旅たちの季節でもあります。
同時に、新たな4月の時にむかい、主を畏れて時を迎える緊張感を覚えます。
イースターの喜びを思いながら
今年も春の季節が間近にあることを感謝します。
桜ヶ丘教会では
2014年度も、主に祝福され様々な事柄が心に残るものとなりました。
この世の知識や私達の分別を越えた主のお恵みによって、当教会の歩みを確かなものとさせていただいています。
主の御名を賛美いたします。

2015/3/15 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案                                                                                                                          朝位 真士
  引き続き「宣教の内容」について記載します。宣教の内容は、神がご自身に背いたわたしたちをなおみもとにお招きくださる「和解の福音」です。福音においては、まず第一に、わたしたちの罪がただキリストの義によってのみ赦されたこと、したがって、その義はただ信仰のみによって与えられることが語られなければなりません。ただし、この罪人の義認は、同時に聖化と召命とを必然的に生み出すものであることが、福音の中には含まれています。
 (1)中心としてのキリストの出来事ー罪の赦し
 ①宣教内容には「日本基督教団信仰告白」との一致が求められます。したがって、神学校には日本基督教団信仰告白に基づく伝道者養成・神学教育を行う責任があります。
 ②福音の内容は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハ3・16)という御言葉に要約されます。この福音は、今この歴史の中ですでに現実となっています。罪人が神と和解させられ、礼拝と賛美へと招かれているからです。(ロマ5・6~
11、2コリ5・18~21)
 ③人間は自分を神としようとして罪を犯し、神との平和を失いました。神は聖なるお方ですから、本来ならば、人間を罪を見過ごすことがおできになりません。罪人である人間は聖なる神と対立しており、神が義であるか、それとも人間が義であるか、言い換えれば、神が滅びるか、それとも神が人間を滅ぼすか、どちらか一つでしかありえない由々しい事態が生じたことになります。(ヨシュ24・19~20、イザ6・1~5、同57・15)
 ④しかし、人間は罪の結果としての悲惨さのただ中にいながら、それが自分の罪のゆえであるとは認めず、他者に責任を負わせようとします。それゆえまた、自分の悲惨さについての認識もきわめて不十分です。しかし実は、自分がなお生かされているのは、憐れみ深い神の限りない忍耐と寛容によることなのです。(創3・5、同3・12~13、ロマ2・4、同6・23)                                                               

2015/3/8 週報メッセージ

   研究会Fグループの発題を聞いて   
                                                                                                           朝位 真士
 
 私はかつて、「断食聖会」においてY牧師の「日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか」という発題を聞いたことがある。5人の共同研究者による研究発表を小冊子にまとめたもので、著者の一人S牧師の許可を得て、もう一度日本宣教の弱点を考えてみたい。簡単に記すと三つの論点になる。
 (1)キリストの心を具体化していない教会であったから。①聖書に基づかない教会。②日本社会に迎合している。③知的信仰に偏った。④伝道・運営がへた。⑤教会の疲弊・閉塞感。                         
 (2)島国的劣等感の束縛。①日本社会から教会が離れ過ぎた。②日本人の和魂洋才。③島国という特性から来る問題。④クリスチャンの西洋コンプレックス、排他性、閉鎖性。⑤敗戦による縮み。             
 (3)牧師・指導者が未熟だった。①牧師・指導者の心が狭い。②牧師の説教が悪い。③牧師の伝道力が弱い。④神学教師・牧師の実践神学が弱い。⑤用語の選択を誤った。                                   
 以上のような内容であった。5人の共同研究者のうち二人は、私が個人的に親しい方である。私共の教会にも毎年チャペル・コンサートに講師として来られているK牧師もその一人である。私はこの共同研究の発題を聞き、本を著者より取り寄せた。もう一度自分の牧会者・伝道者としてのありかたを考えさせられた。             

3月に入りました

イメージ 1春の嵐や桜の開花の時期がニュースになるのを待つ頃となりました。
早いものですね。梅の花は、見頃の時期を迎え、各植物園などでは、梅の花を目当てに訪れる方が増えているようです。
教会では、イースターを待ち望みつつ、3月を過ごします。先週の礼拝では、自分の知恵や力に頼っていないか、祈りと神への絶対的な信頼によって生活をしているかなどについてお話を伺いました。
本日は、仕える者になることについてのお話でした。
イエスの教えは、この世とはまったく対照的である。福音は逆説を含んでいる。捨てることによって獲得する。謙遜によって栄光を得る。
イエス様のこの世での歩みは、十字架の死に至るまで謙遜であられ、復活の栄光を与えられた。
「最も偉い者は誰か。」
この世の考えに、私達は染まってしまっていないだろうか。
イースターの時を待ち望みつつ、主に生きるとは何かを実生活で味わいつつ過ごしましょう。

2015/3/1 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                                        朝位 真士
  前回に引き続き「神の民に賜った宣教の務め」を記載します。
 ⑥御言葉の奉仕者は絶えず成長します。そのために、常に聖書をひもとき、祈り、御言葉の研鑽に励み、練達の人となるべきです。「わたしに倣う者となりなさい」(フィリ3・17)と語れる者となる必要があります。御言葉の奉仕者が成長し、生涯を伝道に献げることを願い、全体教会(教団)がさまざまな仕方で支え、必要な神学教育を施すだけでなく、さらにその後も研鑽の場を設け、生涯のある時期研鑽に専念する機会を備えるなどの制度を整えることは本質的に必要なことです。(エフェ4・11、Ⅱテモ3・15、Ⅰテサ5・16~22、Ⅱテモ4・2、Ⅰテモ4・12)
 ⑦信徒もまた、御言葉の奉仕者と共に教会形成と伝道に参加します。信徒は何よりも第一に、礼拝および諸集会に参加する務めを重んじる必要があります。また、教会の健全な成長(礼拝、伝道、奉仕、交わりなど)のために祈り、務める必要があります。また、献身のしるしとして自分の財を献げることにより、教会の維持発展に資する務めがあります。旧約聖書の十分の一献金は望ましい基準です。(ネヘ8・10、出29・42~45、使2・46~47、エフェ4・16、ロマ12・6~8、申14・22、Ⅱコリ9・7、マラ3・10)
  ⑧福音宣教において、信徒の果たしうる役割にははなはだ大きいものがあります。また、御言葉の奉仕者の「献身」と同じ意味で、すべての信徒がその全生涯を主体的にささげる「献身」に生きるようにと招かれています。
 ⑨御子は御国を来たらせるために、十字架にかけられました。それゆえ、十字架の福音を宣べ伝える教会もまた、十字架のしるしを帯びることになります。「証し」は「殉教」にまで至り得るものです。ただし、命を捨てることだけが殉教ではなく、むしろ、キリスト者が信仰に堅く立って歩む毎日が殉教とも言えるでしょう。ギリシャ語では「マルテュリア」という言葉が「証し」をも「殉教」をも意味します。(マタ16・25、コロ1・24、フィリ1・29、3・13~14、使14・22、ロマ12・1、Ⅱテモ3・12)

2015/2/22 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                       朝位 真士
  前回に引き続き「宣教の主体であられる神」を記載します。
 (2)神の民に賜った宣教の務め
 ①神はその民である教会に宣教の務めと福音の言葉とを与えられました。したがって、教会の務めは宣教によって福音の前進に奉仕することです。(マコ5・18~19、ロマ10・15)
 ②キリストの体である教会に属するすべてのキリスト者は、受洗と同時に祭司としての職務に任ぜられ、その全存在と全生涯が神の召しにあずかっています。また、そのために必要な霊の賜物をも与えられています。この「全信徒祭司性」の教えが、今日十分に回復される必要があります。そのために、教師も信徒も絶えず聖書の御言葉によって養われ、成長しなければなりません。
 ③「祭司」の務めとは、礼拝共同体としての教会を形成し、神を礼拝する民となることであり、宣教と執り成しの
務めを担うことです。(Ⅰペト2・5、同2・9、ロマ12・1~2、エフェ4・11~16、Ⅰコリ12・4~31)
 ④全信徒祭司性とは、教師と信徒の区別を解消しようとするものではありません。天に昇られたキリストは、この地上に教会をお建てになるために、教会の中から「使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師」(Ⅰエフェ4・11)などを任命し、各々に必要な霊の賜物を与えられました。これらの御言葉の奉仕者は、信徒と共に宣教の務めにたずさわります。
 ⑤御言葉の奉仕者は、喜びと勇気をもって福音を宣べ伝え、聞こえる御言葉である説教と見える御言葉である聖礼典のために仕え、自分の全生涯を献げます。この務めは教会形成の中心となります。また、その人はただこの使命のゆえに、教会の中で敬われる存在です。(エフェ4・11、ヨハ20・21、同21・15~19、Ⅰテモ1・18、同4・12、Ⅱテモ4・1~5)

2015/2/15 週報メッセージ

   「改訂宣教基礎理論」二次草案
                                                                                      朝位 真士
  前回に引き続き「宣教の主体であられる神」を記載します。
 (一)神の永遠のご意志 ①神は教会を永遠の昔より愛し、「御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1・4)さらに神は、この教会を通し、罪人をご自身と和解させるために、救いのご計画を立て、世の終わりまで、救済史に導かれます。(2コリ5・19、ローマ11・33~36)
 ②宣教がそもそも可能であるのは、神が人間を一方的な「恵みの選び」によって救いへと選ばれたからです。神の選びは、人間の業や功績によってではなく、神ご自身の永遠に変わることのないご意志によるものです。神の選びが確かであるゆえに、わたしたちは自分の救いに関して恵みの選びが成就することを確信し、それと同じように隣人の救いを熱望し忍耐強く祈り、かつ伝道することができます。(エフェ1・4~6、同2・4~6、同1・10、ヨハ15・16)
 ③また、わたしたちは伝道する時、実際に御言葉を語っておられるのは、わたしたちではなく、神の霊であると知ることによって、力づけられます。(マタ10・20)
 ④人間は「神のかたち」に造られていますので(創1・27)、神と出会うまで、平安を得ることができません。神に愛され、網を愛するとき、わたしたちはさらに、神がお与えくださった自分の隣人や家族、職業などを愛するようになり、真に幸いな人生を歩むようになります。人生とは、そのことを発見するための旅路であるとも言えます。(ヘブ11・13~16)
 ⑤同様に、世界史の究極の意義は、恵みの選びが成就することです。それゆえ、世界史の終わりは、救済史の完成です。そのとき、新しい天と新しい地が現れ、わたしたちは朽ちないものへと変えられ、永遠に神を賛美するでしょう。(エフェ1・11~12、1コリ15・50~55、黙21・1~4)