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2024/4/14 週報メッセージ

「諦めかけた時に」 (ヨハネ21:1-14)

 エルサレムで復活された主イエスが再び会って下さる。今度はガリラヤで弟子たちにその姿を現された。ガリラヤ湖は一番弟子ペトロが献身する前にこの湖で漁師をしていた、いわば召命の原点の場所でした。「人間を取る漁師にしよう」と主イエスの招きを受けたあの場所、網も大事なものも全て捨てて従った転機の場所でした。伝道者になった元漁師が今また「私は漁に行く」(3)と逆戻りの生き方をしようとするのです 。

漁に出かけた彼らは夜通し漁を試みたが1匹も獲れませんでした。虚しい思いで岸に向かうとイエスが立っておられ「舟の右側に網をおろしなさい」と言われ、その通りにしてみると網が破れそうなほどの大漁となったのです。

誰かが(多分ヨハネ)「主だ」と叫び、裸だったペトロは湖に飛び込んだ、と書かれています。ずぶ濡れのペトロに岸にて暖をとらせ、炭火でこんがり焼けた魚とパンを用意して下さる主。イエスとの食卓は最後の晩餐を想起させます。エマオ途上の2人の弟子の目が開かれたのも食卓でした。聖餐式にてパンとぶどう液を頂く時に、イエスがこの私の罪のために十字架で肉を裂き、血を流されたことに心を留めます。この箇所は召命の原点であり罪の原点に立ち返るための教えです。

ペトロは「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたと一緒に行く覚悟です」と豪語したが、結局主を見捨てて逃げてしまった。イエスから離れようと伝道者を辞めて故郷ガリラヤに戻ろうとする者にも声をかけてくださる主イエス。

私たちが諦めても、主は諦めない。何度も声をかけて下さるのです。再献身。傲慢な私に、自分の罪に気づかせてもう一度弟子にして下さる。その主の呼びかけに謙虚に従ってゆきたいものです。

(4/7 川﨑信二師説教)

2024/4/7  週報メッセージ

説教断片  「イエスは生きておられる」 (ルカ24:13-35)

 イースターおめでとうございます。本日はルカ24章の、「エマオへの道」から学びます。

 第一に、二人の弟子たちは、「目が遮られて」(16)、その旅人が何者かがわかりませんでした。彼らは、失意と悲しみにうちひしがれていました。彼らの目は、「偏見、思い込み、誤解」のため、正しいメシア観、御子イエスを理解することができなかったのです。やがて旅人の聖書の解き明かしを聞くうちに、「心が燃える」体験をしたり、聖餐を思わせるようなパンを裂く行為を見て、霊的な「目が開かれて」復活のキリストだとわかったのです。

だれもが神の言葉に触れ、心が燃えるような経験をするわけではありませんが、教会に来るとなんだか心が安らぐ、説教を聞いて心が迫られる、何らかの感動を覚える、…こういう一つひとつの小さな経験を大切にしていきたい。聖書を慕うところにだけ、御霊は働かれるのです。

  第二に、「エマオへ行く道は」、失意と落胆の道であり、命から死へ(滅び)向かう道でありました。それに対して 「エルサレムに引き返す道」(33)は、真の生き方に変えられる希望と夢の道であり、死から命へと向かう道でありました。夢なく、希望なくエマオへの道を歩く、これがわたしたちの人生の縮図でした。

 第三に、この物語では、「イエスは生きておられる」(23)が中心の聖句です。これはルカ自身の心からなる信仰告白であり、証しでありました。ルカは何としてでも、この福音書の読者に「主は、今、現実に、生きておられる」ことを強調しているのです。確かに「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブ13:8)。

私たちも日々の信仰生活の中で、「イエスは生きておられる」ことの小さな事実・しるしを探し求めていきましょう。 

(3/31 山本修一牧師説教)

2024/3/31 週報メッセージ

「十字架上の死」(マタイ書 27:45-61)

今週から受難週に入ります。

牧師として十字架の学びは特別なものがあります。第一に、福音の奥義である十字架を語ることがゆるされることは、大きな喜びです。第二に、十字架は、あまりに高く、広く、深い真理です。どこまで把握しているかという不安もあります。第三に、十字架を学べば学ぶほど十字架の痛みを覚え、気が滅入ってきます。イエス様の御身体に殴られ、打ちつけられ、突き通された恐ろしい傷を思い浮かべると、胸が締め付けられます。そしてその痛み、苦しみは私の身代わりであったことを思う時に、自分の罪深さ、愚かさに心責められるのです。

十字架は、午前9時に始まり、午後3時に息を引きとれられました。正午から突然全地が暗くなりました。それは人間の罪に対する神の裁きが、人間の罪を背負われた主イエスに臨んだことをあらわしています。

主イエスは、十字架上の6時間の間に、「七つの言葉」を語られたといわれています。一つ一つがまことに感動的で重みのある言葉です。

第一は、息も絶え絶えの中で、ご自分のことより、十字架につけた人たちの赦しを祈る言葉(ルカ23:34)、第二は、もうひとりの犯罪人に救いを約束された言葉(ルカ23:43)、第三は、母マリアの将来を案ずる言葉(ヨハネ19:26、27)、第四は、父なる神様に見捨てられた、断絶された悲痛な叫び(マルコ15:34)、第五は、唯一、肉体的な苦痛を訴える言葉(ヨハネ19:28)、第六は、すべての神のわざ(贖い)と苦痛が首尾よく終了した、完了したことの安堵の叫び(ヨハネ19:30)、第七は、最期の言葉は、父なる神への信頼に満ちた、美しい言葉(ルカ23:46)。

この一見、理不尽に思える十字架がなければ、私たちの救いはあり得ませんでした。最後にイザヤ書53章を開いて、この時を過ごしましょう。

(3/24 山本修一師説教)

2024/3/24 週報メッセージ

「三つの挨拶」(マタイ書 26:49、27:29、28:9)

 マタイによる福音書2649節、2729節、289節。これら三つの御言葉の中には、共通する「ある言葉」が含まれています。ゲツセマネで主イエスを裏切った時、ユダは、主イエスを捕らえる合図として「先生、こんばんは」と言って、主イエスに接吻しました。この「こんばんは」と訳された言葉。ピラトの兵士たちが、主イエスを嘲り、侮辱して言った言葉。「ユダヤ人の王、万歳」。この「万歳」と訳された言葉。復活された主イエスが、マグダラのマリアに現れて言われた、「おはよう」という言葉。これら三つの言葉のギリシア語の原語はどれも同じで、「カイロー」という言葉です。当時、この言葉は日常の挨拶の言葉として、極めて頻繁に使われていました。ユダは、極めて日常的な挨拶の言葉をもって、主イエスを裏切ったのです。裏切りは、厳しい迫害や拷問によってもたらされるとは限りません。ごく普通の生活の中で、私たちは日常的に主を裏切り、御心を悲しませていることが多いのです。また私たちは、ごく普通の言葉をもって、日常的に主の御名を辱めているのでないでしょうか。しかし主は、そんな私たちの全てをご存知の上で、尚も私たちを愛してくださり、「父よ、彼らをお赦しください」と執り成しの祈りをささげてくださり、十字架の上で新たな血を流し続けて下さっています。そして朝毎に私たちに「おはよう」と愛に満ちたお言葉をかけて下さるのです。私たちが主を裏切り、主の御名を辱めた、その同じ言葉を、愛の言葉に変えて返して下さるのです。何という愛でしょうか。信仰とは、この主の愛を「ありがとうございます」と言って、素直に受け取っていくことなのです。主は、今朝も朝霧の立ち込める道の向こうで、私たちを待っておられます。そして爽やかな微笑みをもって「おはよう」と語り掛けてくださっています。私たちも、思い切り明るく、思い切り爽やかに、そして思い切り喜んで、「イエス様、おはようございます」と応えていきましょう。

3/1柏史師説教)

2024/3/17 週報メッセージ

「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ書 23:32-43)

ルカ23章32、33節はイエスの十字架刑の様子が書かれています。

主イエスは、息も絶え絶えに、十字架を背負って「悲しみの道」を、歩かれました。ゴルゴタに着くとすぐに十字架に架けられます。ルカは「一人は右に一人は左に、犯罪人が十字架につけられた」(32-33)と記します。

十字架刑は、目も背けたくなるような悲惨な刑罰でした。そこには想像を絶する肉体的な苦痛があり、人々のあざけりとののしりを受けるという精神的な苦しみがありました。これに対して聖書の描くイエスの十字架刑の様子は、簡潔で抑制的です。

十字架上のイエスの第一声は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らない…」でした。十字架上の犯罪人は激痛と呼吸困難のなかから出てくるのは、呪いや怒りの言葉でありますが、主イエスは「彼らの」罪の赦しを求められたのです。イザヤも預言していました。「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」(イザヤ53:12)。

主イエスの赦しの祈りは、まことに神聖で、高貴で、無限の愛であり、驚くべきことでした。この祈りによってもうひとりの犯罪人が救われ、刑を指揮したローマの百人隊長や部下も救われたのです。

初代教会の役員であったステファノは、民衆に石で撃ち殺される寸前、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)と大声で叫んで眠りについたのです。そしてキリスト教の迫害者であったパウロはステファノの祈りに心揺さぶられました。

  主イエスは死をかけて、私たちにも、十字架の愛による「赦し」と「とりなしの祈り」を教えられたのです。

3/10 山本師説教から)