榊原紀惠子 のすべての投稿

「愛の讃歌」2021・8・29説教要旨

朝位真士

今日は1コリント13章全体より聖書を学んで行きましょう。ここでは最上の賜物である愛。愛の分析と価値分解は最上の賜物である愛。1-3愛の賜物は無益であること(愛の必要)4-7愛の性質8-12愛の最も優れた者である理由(愛の永続性)13最も大いなる愛。と分解しています。

1コリント13章1~13節を見て下さい。この愛は人情の愛ではなく、神の愛である。ただ一片の感情の愛ではなく、行為において表れるべきものであります。太陽の光線をプリズムによって分析すると美しい七色が現れるとうに、ここでこの愛を分析して、その特質を示す(4―7)。あるいは積極的面から、また消極的面から示していますが、その1つ1つは、私達がそれに照らして自分の心と生涯を反省する鏡であります。この愛は、修業によって得られるものではなく、聖霊によって与えられる神の愛で(ローマ5・5)、この愛の色々な行為は御霊の結ぶ実であるということに注意すべきであります(ガラテヤ5・22~23)。これは祈り求めるべき神の賜物で、知識にも預言にも勝って価値あるものであります(8)信仰と望みと愛との三つは、キリスト者生活の三原則であります。ドラモンド博士は、「世界最大のものは愛である」と言われた。実に愛は神の性質であります。キリスト教の神髄は愛である。これはまた、キリスト教の目的、またいのちであるとも言えます。愛がなければキリスト教はありません。私達の行動はすべて愛の動機によらなければ、神の御前になんの益もない。パウロここに、愛とは何か、その性質を述べておりますが、要するに、愛とはいつさいの悪を行わないもの、しかしそれだけでは満足しないで、更に進んですべての善を行う者であります。1-3節を見て下さい。「律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」ということの一句に尽きる」(ガラ5・14)。これは12・31と言ったゆえんであります。ある教師がこの13章を3度読んで反省し熟思したいと言われた「1度読んでこの愛が自分のうちにあるかどうかどうかを考え、2度読んで主がこの愛をもって私達を愛されたことを思い、3度よんで信じる者に聖霊によってこの神の愛が注がれることを信じなさい」と、言われた。きよめられ、聖霊に満たされる時に、この愛が全うされるのであります。

結び

この13章は有名な愛の讃歌であります。よく結婚式の時に司式する者が引用する処であります。パウロは、信者の求めるべき最もすぐれた道として、愛を推奨する。「愛を追い求めなさい」と14・1にも勧告しています。コリント人は知識の賜物を特に重んじました。しかしそれはややもすると、人をして高慢にすることがあります。そして、そこから、分争が起こるしかし、愛は、そうではありません。すべてを結びつけます。愛は誰でも持ち得ます。そして愛は、全ての賜物によい方向づけをなし、一切の働きに動機づけをするという意味において、他のどの賜物よりも偉大であり、また永続的であります。他の賜物は、それが愛によって活用される時にのみ善となり、神に栄え、人には喜びとなる。だから「尊いのは愛によって働く信仰だけである」(ガラ5・6)と言うことが出来ます。私達が、神に他の賜物を求める場合も、愛の理由によるので無ければ、祝福はありません。まことに、信仰が土台であれば、愛はその上層建築である。信仰が根であれば、愛は花である。本当の信仰のあるところには、必ず愛の内容がなくてはならない。愛がなければ、どのような強固な信念も、またどのような人目をそばだたせる事業も、一切空しい。このゆえにすべての信者が、まずどの賜物よりも愛を慕い、愛を求めるべきであります。パウロはこうした愛を思い、愛について語ろうとした時、こころはおのずから高鳴って1つの歌となった。こうして、ここに、この愛の讃歌が生まれたのであります。1-3総論ともいうべく、4-7は愛の各論であり、8以下はその結論であります。最後にもう1度13章13節を見て下さい。信仰と希望と愛の3つを並べることは、パウロの特徴であります。第1テサロ二ケ1・3「信仰の働き、愛の労苦、キリストに対する望み」、私達は、主の再臨の時においても、なお主を信じ、なお主を望み、なお主を愛するでありましょう。来世もまた信仰と希望と愛の生活であります。こうして、この3つは、神と共に永遠であります。しかし「このうち最も大いなるものは愛である」何故でしょうか。信仰こそ根源であり、信仰から希望もうまれ、愛も出てくるのが、キリスト教の教えです。愛は、信仰や希望に比べて、直接神の一番深い属性に通じ、そして一番包括的でもあります。「信仰」は地から養分を吸い上げる根であって、イエス・キリストに結び

ついて命を得る。「希望」は成長し、その命によって伸びていく枝であり、神の永遠の栄光にあずかる望みである。「愛」は、その枝が結ぶ実であり、キリストを通して神から与えられる賜物であります。また聖霊の実はガラテヤ5・22-23p350「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という9つの聖霊の果実であります。

2021/8/22 週報メッセージ

共に歩んで

朝位 真士 

  桜ヶ丘教会の担任教師であり、朝位真士の妻であり、二人の子どもの母親である朝位フミ子牧師について、夫また同労者の立場より、思いつくままに述べてみたいと思います。

 朝位フミ子師は、1973年3月にホーリネスの群の教団認可神学校である東京聖書学校を卒業後、教団小松川教会(主任原登牧師)の伝道師として3年間御用し、教団北九州復興教会担任教師であった私との結婚のために1976年4月、同教会の伝道師として赴任して、山中日出刃牧師のもと、夫婦で担任教師として奉仕に当たりました。北九州復興教会の清水会堂で、教会学校、奏楽、家庭集会の奉仕をしました。山中牧師が開拓していた曽根という場所も兼任し、日曜日の朝は、清水会堂の礼拝に出席し、午後は曽根集会所の礼拝に出席し、奏楽の奉仕をしました。1976年から1994年3月まで18年間、本教会(清水会堂)で主に奏楽や教会学校の教師等の御用をしつつ、曽根集会所の午後礼拝や開拓伝道に従事しました。最初は農家の民家を借用して、そこで礼拝、教会学校、祈祷会等の集会を行い、長男(憲義、1977年誕生、現琴平教会牧師)の子育てをしつつ、教会の諸集会で私と共に奉仕しました。ちょうどその時期に清水会堂の新会堂建設があり、新会堂予約献金のため、フミ子師は音楽の賜物を活用し、曽根にて音楽教室を開き、全額を献げました。私が多額の予約献金をしたために、フミ子師は子育てをしながら教会の御用に励みました。その間に、娘が誕生し、二人の幼子を育てながら、教会の奉仕に力を注ぎました。私たちはまだ三十代から四十代の働き盛りの年齢でした。本当に神様に感謝しています。つづく。

2020/8/22 週報メッセージ

朝位 真士

 油井英子牧師の説教より

  親類牧師のメッセージ集を読んで教えられました。

 信仰とは、漢字で、信じ仰ぐと書きます。そこには、信じる対象者、仰ぐ対象者がいなくてはなりません。日本人の多くは、神社仏閣や石地蔵などがあると、別に何が祭ってあるのか、対象者など確認することなく、手を合わせています。なにさまがおわしますかは知らねども、ただありがたさに涙こぼるる。これが、ほとんどの日本人の宗教心なのではないでしょうか。しかし、お稲荷さんは、きつねを神の使いとして祭ってあるものです。ですから、京都の伏見稲荷大社を中心として、全国津々浦々にある稲荷神社を拝んでいる人達は、キツネを拝んでいるのです。中には、自分の家の庭やビルの屋上などにまで、小さな祠(ほこら)を作ってキツネを拝んでいる場合を少なくありません。それでは、金比羅さんの正体はなんでしょう。ワニです。金比羅とは、梵語でワニを意味します。それは、インドのガンジス河に住むワニが仏法の守護神として仏教に取り入れられたものが日本に伝わったのです。むかし、歌にされている金比羅船に乗って大阪などから、続々と四国の金比羅参りに行ったわけです。ワニのことを英語でアリゲーターと言いますが、人々は、ありがたや、ありがたやと言ってアリゲーターを拝むために金比羅参りをするのが、一つのブームにまでなっていたのです。

 キツネやワニやイワシの頭など、すべて被造物ですから、いくら拝んでも、答えは返ってきません。手で作った偶像を拝んでいるのとまったく同じです。それならば、キリスト様にも、手を合わせるかというと、そうはいきません。キリスト教は外国の宗教だと思っているのです。仏教だって、インドから始まった外国の宗教であることなど考えません。日本古来の宗教だと思っているのです。私たちの信仰の対象者は、天地万物の創造主なる神です。この神は、ご自分の言葉によって万物を造られた、無から有を生じさせる全能者です。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11:1)

2021/8/15 週報メッセージ

エリック・リデルの偉業                                                  朝位 真士 

 東京オリンピック用の小冊子「大会の歴史と物語」を福音伝道の目的で配布している。この小冊子のテーマは、オリンピックの歴史を含めた、アカデミー賞(作品賞)受賞映画「炎のランナー」の主人公エリック・リデルの生涯の証である。

 エリック・リデルは1921年から1925年まで137回のレースに出場して93回優勝した。1924年のオリンピックはパリで行われることになり、本人もイギリス国民も100メートルでの金メダルを期待した。エリックは大きな信仰の試練に遭遇する。オリンピック100メートルの予選が日曜日に行われることになった。幼い頃からキリストを信じていたエリックは、神を礼拝する日曜日にスポーツ競技に出ることをためらい、不参加を決意。しかし、エリックは別の曜日に行われた400メートルに出場し、47.6秒という世界記録で優勝した。すべて「神を第一」とする彼の信仰によるものである。

 彼はその後、当時、戦争、洪水、飢饉にあえぐ中国への福音宣教に召された。1925年、エリックは23歳の若さで中国へ向かった。天津を中心に20年近く福音を伝えていたが、戦火が激しくなり捕虜として収容され、1945年に病死。獄中においても福音を伝え続けたエリックは、与えられた人生のすべての行程を走り尽くしチャンピオンとして天国にゴールインした。罪によって破壊されたこの世に、私たちの安住の地はない。私たちの本当の国籍は天にある(フィリ3:20)。

 皆さん、この際に是非この冊子を読んでください。弁護士の佐々木満男先生は、上の内容を熱く語ってくださった。オリンピックのことについて賛否両論があると思う。このコロナウイルス・パンデミックの状況で実行したことは、本当に意見が分かれることと思う。しかしこの時期に、クリスチャンでありオリンピック勝利者であるエリック・リデルの偉業について、小冊子を通して学ぶことができたことは、私にとって大変有意義なことであった。ローマ8:28、「万事を益とする」神に栄光を帰したい。

「キリストの体」2021・8・8説教要旨

讃美歌285番 1番 主よみ手もて ひかせたまえ ただわが主の 道を歩まん いかに暗く けわしくとも みむねならば われいとわじ 4番 この世を主に ささげまつり かみのくにと なすためには せめもはじも 死もほろびも 何かはあらん 主にまかせて 

朝位真士

今日は1コリント12・12~31節を見ていきましょう。この12・12~14キリストの体である教会の有機的一致。15~27肢体の一致の必要。28~30賜物による種々の職務。31最高の霊的欲求。ここでは、教会、教会と信者との関係、信者相互の関係を説く。教会はキリストをかしらとする1つのからだで、信者個人個人は皆その肢体(12-14)。(からだが1つであっても肢体は多く)ある。肢体が多くあるのは、またその肢体のそれぞれの力と働きが異なるのは、教会を維持するのに欠くことのできない務めをさせるためである。すなわち、目は目の用をなし、鼻は鼻の用をする。手は手、足は足、互いにその務めは異なるが、皆ひとしく全身を維持するために働く。おのおのの肢体にはそれぞれの使命があり、互いに助け合ってからだを保ってゆくべきで、自分だけ孤立すべきでなく(15-20)、また、自ら高かぶって他を卑しめたり退けたりすべきではない(21)。最も弱い者、最も卑しいと思われる者は特に顧みなければならない(22-25)。このように信者は、おのおのその賜物を異にし、したがって務めが異なっていても、皆互いにからだのために働き、教会の徳を建てる。それゆえ、賜物のいかんによって人を軽んじたり卑しめたりしてはならず、また互いの間に党派を立て、分裂するようなことがあってはならない。信者はすでに1つのからだの肢体で、利害を同じくし、苦楽を共にする者である。(もし1つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、1つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ)26。これは、キリスト者間の当然あるべき麗しい一致同情である。指の先にけがをしても全身の活動や気分に影響するように、教会内の「最も小さい者」のひとりの苦しみも、全体に響くほどでなければならない。こうして「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」キリスト者的同情が表れるのである(ローマ12・15)

1コリント12・12~31を見て下さい。ここでは私達の体のことを考えて見ましょう。神はむだなものは何1つ造られない。またよく観察すると、1つの器官は多くの目的のために造られている。各器官が実に便利に造られており、どれも欠くことができないのであります。それは教会でも同じで、1見役に立たないように見える人が実に教会に欠くことのできない重要な存在だったりします。その人に適した働きが必ず、そしてたくさんあります。こんことによって私達は多くの問題を解決することが出来ます。特にパウロは言おうとしているのは、キリストのからだなる教会のあり方であります。12・12~13節を見て下さい。また各自の信仰生活においても同じであります。12・8~11を見て下さい。更に神は、他より劣っていると見えるところをことさらに尊んで体全体の調和を図り、分裂をなくし、各部分が互いにいたわり合ってキリストのからだとしての栄光を現わすことを望んでおられる(12・22~27)。また私達は霊的には、キリストのからだという有機的統一体に属しているのであって、1人1人はその器官であります。だから1人の問題はまた全体の問題なのです。

12・26節を見て下さい。からだの各器官はそれぞれ使命を持ち、どれ1つを欠いても全体は存在しないのであります。それと同じように、わたしたちキリストにある者は各自に与えられた分を感謝し、最善を尽くして全体のために奉仕すべきであります。これがキリストに栄光を帰す道であります。

結び

もう1度1コリント12・27~31節を見て下さい。初代教会における働き人としての種類が8つ挙げています。始めの3つは使徒、預言者、教師は教えることをなす者で、次の2つは力あるわざを行う者、いやしの賜物を持つ者は実際的活動に属する者で、その次の2つは補助者、管理者は教会の事務や政治に関する役目であり、最後に異言を語る者が置かれています。人にはそれぞれ異なった賜物があります。また教会には異なった奉仕活動の分野があります。すべての人が同じ任務につくことは、適当でないばかりか、それでは教会活動は正常に運営されない。違った人が、違った任務を分担して、互いに助け合ってこそ、教会は生かされる。高い地位やはなやかな働きをする人だけが、教会に必要な人ではありません。ここに「みんな」という字が何回もくりかえされていますが、教会ではこのみんなが分に応じて、それぞれ貢献したいと思います。最後に12・31節を見て下さい。これは12章の結尾の句であると共に13章へのつなぎとなる言葉である「更に大いなる賜物」は教会生活において最も大切な賜物であります。外面的にははなばなしい活動する力も神の賜物である。しかし、たとい外に表れなくても、多くの人を益し、真に教会の徳を立ててゆくものがあれば、それこそわたしたちがまず何よりも「熱心」に慕い求むべきものであります。それは一体何か。1コリント13章にパウロが調子も高く歌いだした愛がそれであります。これこそ聖霊の賜物にうち一番尊いものなのです。

2021/8/8 週報メッセージ

新約聖書の執筆次第

朝位 真士 

  日本基督教団発行の聖書事典によると、新約聖書には27の文書が含まれている。ヘブル2・3~4には「この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます」とあり、ルカ1・1~2には「わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって御言に仕えた人々が伝えた」とある。これらの「はじめに聞いた人々」「最初から親しく見た人々」は、それらの見聞や経験を直ちに書きあらわそうとはしなかったようである。それにはいくつかの理由が考えられる。当時においては、第一にイエスの霊が彼らの間に生きて導いてくださっているとの信仰があり、第二に彼らはイエスの目撃者であり、イエスの記憶が新たであったし、第三には、この世は間もなく「過ぎ行く」であろうし、キリストの再臨は迫っているとの信仰があったからであり、第四に、すでに当時存在しており、また読み慣れていた旧約聖書が初代信徒にとって神の言であって、その中にイエスの預言と事実を発見していたのであるから、それ以外に別な文書を書きあらわす必要を感じなかったわけである。もっぱら口伝えに「証し」をし、福音を「宣べ」つたえていた。

 この点については、ドッド(C・H・Dodd)が、使徒行伝のはじめに記してあるペテロたちの説教やⅠコリ15章のはじめなどから総合して、当初の「証し」はイスラエルに対する神の約束が今や成就した、ダビデのすえから待望のメシヤ、ナザレのイエスが到来したのだと語る。彼はよき業をなし、力ある奇跡を行ったが、神のみむねにより十字架につけられた。しかし、死人の中からよみがえらされ、神の右に座するに至り、やがて栄光のうちにあらわれて世を審きたもう。ゆえに人々は悔い改めて、罪のゆるしのために洗礼を受けるべきである。これがケリグマの内容であった。

2021/8/1 週報メッセージ

クリスチャン生活の使命

朝位 真士 

  『新キリスト教ガイドブック』に標題の項目がありましたので、皆様方にお知らせいたします。

 クリスチャンにとって、この地上の生涯の目的は、ただ神の栄光を現すために生きることです。そして、人生はもはや自分のものではなく、その目的を果たすために、ある一定の期間、神から託されたものであると考えています。また、その究極のクリスチャン生活の使命は、福音を全世界に伝えるためにキリストの証人となることです。

 ①神の栄光を現すために生きる――クリスチャンの体は、聖霊の宮です。キリストの霊が内に住んでいるのです。これをキリストの内住ともいいます。この体は主のためにあるのです。人間的ないかなるものにも、体を支配させず、その体の働きをもって神の栄光を現すのです。

 ②恵みのよき管理人として生きる――人間の生命も、賜物も、金銭も、物質もすべて神から委託されているものです。この管理者である生き方は、人生の価値基準が、名誉や地位や物質にあるのではなく、神のご意志にこそあることを示しています。「人はパンのみで生きるのではなく、神の御意志によって生きるのだ」という真理がここに実践されるのです。

 ③キリストの証人として生きる――(Ⅱテモテ4・2、ローマ1・16)福音は、神の力です。この力は、ギリシャ語でデュナミスといい、ダイナマイトという言葉がここから来ました。クリスチャンは、この福音の力の証人として神に立てられた者です。神の栄光のためによき恵みの管理人として生きること。最大の事業、最大の遺産――クリスチャンにとって、福音宣教は人生の最大の事業です。あらゆる地上の職業、事業はすべてこの究極の目的に仕えるときに真に意義あるものとなるのです。み名によって生きよ(使徒3・4~6)。

「賜物の多様性」2021・8・1説教要旨

朝位 真士

今日は1コリント12・1~11節を通して聖書を学んで行きましょう。この12章は種々の霊の賜物。1つのからだにある多くの肢体。1~3回心前の偶像信仰と、聖霊による信仰告白。4~11 1つの御霊による種々の賜物。と分解出来ます。ナザレのイエスを主と呼び、神と信じるのは、(聖霊によらなければ)出来ないことでありましょう。(3)。真の信仰は聖霊の感化による。このように、聖霊は主を示されるばかりではなく、主を信ずる者に、種々の賜物を与えて奉仕させたもう。私達が救われたのは主に奉仕するためでありますが、有効的に主に仕えるには、聖霊の賜物が必要であります。これには伝道者と信徒の区別はありません。神は(全てのものの中に働いて全てのことをなさる神であります)(6)。(コロサイ1・29)。(賜物は種々)あり、したがってその務めや働きはいろいろあるが、その賜物の源である御霊。そのうちにいます主、その人のうちに働きかける神は同じである。ここに特に三位一体の神が示されていることに注意しなければなりません(4-6)。賜物とは、神に対する奉仕をさせるために与えられる霊的な才能で、あるいは御霊御自身の顕現とも言うべきもので、教会の徳を建て、(全体の益になるため)に与えられるものであります。(7)。その賜物は種々あっても、皆1つの御霊から出て、また御霊の(思いのままに各自に分け与えられる)ものであります(11)。神はひとりびとりに最もよく知り、人それぞれに最もふさわしい賜物を与えられるので、私達は自分の注文を捨て、与えられた賜物に従って忠実に奉仕することが大切です。

1コリ12・Ⅰ~11節を見て下さい。この12章1~31節は御霊の賜物と教会に一致が語られています。そして1~3節は御霊の本質です。コリント教会のキリスト者に注意を促したパウロは、まず2つの点を強調しています。1・人は生まれながらの状態では偶像礼拝に走らざるを得ないことであります。(2)。2・その人が偶像を捨てて、生ける神を拝するようになるには御霊の力によることであります。(3)。この2つの事を導くのは御霊の働きであり、賜物である。また、人の内に宿る霊は、その人の信仰告白によって、神からの霊(聖霊)であるか悪魔からの霊(悪霊)であるかを見極めることが出来るのであります。ここで私達が知っておくべき大切なことは、イエス・キリストを自分の主と告白するに至らせるのは自分の力ではなく、その人の内に働く御霊の力であるということです。キリストを信じる信仰は、すべて神の賜物であります。エペソ2・8引用してください。勿論その過程において

人の力が作用することは言うまででもないが、それらもせんじ詰めれば神が用いたものにすぎないのであります。したがって信仰は御霊の賜物なのであります。12・4~31は個と全体キリスト信仰は御霊の賜物であります。この賜物がなくては私達の信仰はありえないのです。そしてキリスト信仰の原動力は御霊の賜物である以上、それはまた信仰生活の全てにおける原動力であることは明らかであります。先ず御霊の賜物はそれぞれに違った現われ方をします。万物は神の霊によって創造された。詩篇33・6p863引用します。さて1コリ12・4~6節を見て下さい。神は御旨に従って私達にそれぞれにふさわしい御霊の賜物を与えられています。それは7節を見て下さい。個はただ全体のために存在し、全体な益のために働いて初めてその存在意義があります。すなわち相手を生かすことによって自分も生きられるのであります。そして個が集まって全体を構成し、全体と有機的に関係して働くこと、これが神の創造の目的であり、御旨なのであります。私達の体のことを考えてみましょう。神はむだなものは何1つ

造られない。各器官が実に便利に造られており、どれも欠くことができないものであります。

それは教会も同じで、1見役に立たないように見える人が実は教会に欠くことが出来ない重要な存在だったりする。その人に適した働きが必ず、そしてたくさんあるのです。

結び

もう1度1コリ12・1~11節を見て下さい。特に4~11節ここに種々の神の賜物が記載されています。このところにおけるパウロの狙いは、教会の本質的統一を強調するところにあります。教会はキリストの体であるが、健康なからだの特徴は、それぞれの部分が、全体のために、それぞれの役割を果たしているということであります。教会の中には、様々な役割がある。それらはことごとく同じ御霊から与えられたものであります。しかも、各人に栄光のためにではなく、全体の益になるように賜ったのであります。初代教会はこの生き生きとした力強い活動をしていたが、それはすべて、聖霊の働きであることをしていました。聖霊は、各人に、自分のためではなく、他者のために用いるように、それぞれの賜物を与えて下さったのであります。私達もそれぞれ聖霊の賜物が与えられていますので、これを教会のため、人のために用いようではありませんか。最後にローマ12・6~8を見て下さい。人はそれぞれ異なった賜物を神から頂いていますので、各人はそれに応じて預言、奉仕、教え、勧め、寄付、指導、慈善のような仕事を教会の中でさせて頂きましょう。桜ヶ丘教会が100周年を迎えるに当たって、2023年6月1日ですが、すべての教会員が、各自の受けた賜物に最もふさわしい務めに従い、働きにつくことが大切です。

お祈り致します。