榊原紀惠子 のすべての投稿

2021/12/19 週報メッセージ

61年目のクリスマスを迎えて

朝位 真士  

  私は、1961年12月24日(日)九州の北九州復興協会で山中日出刃牧師より受洗いたしました。当時、高校3年生で、友人の持田倫生君により教会に導かれました。高校生の特別集会があり、そのまま継続して教会に導かれて、受洗いたしました。キリスト教のことは、あまり深く勉強していませんでした。しかし、御言葉が深く心にとどまりました。ヨハネ3章16節(口語訳)「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」という御言葉です。当時は人生に悩み、人を信じられない状態でしたが、友人の優しい誘いによってキリスト教会に導かれて、毎週のように通うようになりました。今考えてみると大変純粋な青年であったと思います。教会での青年達の交わりが大変温かく、彼らは真面目な人々であり、教会の方々も信仰的で温かくて優しく、本当に心の底からの居場所でした。教会の青年会の活動や、清掃、夕拝、祈祷会等も積極的に参加して、日曜日の教会生活が大変充実していました。その後、商社に就職し、北九州、福岡(博多)、東京と転勤になりましたが、東京では淀橋教会で小原十三司先生、峯野龍弘先生の御指導を受けて、キリスト教の聖会等にも出席して、1971年、東京聖書学校に入学しました。

 4年の学びを経て、北九州復興教会で19年間、清水会堂と曽根会堂に仕え、1994年4月、家族4人で桜ヶ丘教会に赴任いたしました。その原点は、あの十代の青年の時、教会に導かれ、受洗したことです。受洗したクリスマスの想い出が、まるで昨日の如く感じます。伝道者となって四六年経過していますが、ますます主の僕として、生ける限りお仕えしたいと、毎日早天密室(デボーション)で神にお祈りしています。

 「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に。」(伝道の書12:1、口語訳)

2021/12/12 週報メッセージ

「信仰に生きる」説教準備に際して

朝位 真士 

 今日のⅡコリ4章1~18節を通して、聖書を学びました。米田師によれば、全体は福音に仕えるパウロの態度、1~2節、光の中の生涯、3~4節、福音の光の隠蔽、5節、彼の使命と宣言、6~7節、神の証明と奉仕の力、8~15節、迫害の中における確信と覚悟、16~18節、彼の望み、苦難と栄光の比較。

 竿代照夫先生は、1~6節、栄光を現す人と覆う人。5節の後半で「私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」と語り、三つの要素がバランス良く捕らえられていくことが伝道者にとって大切だとしました。①イエスのため――人間を喜ばせるのではなく、主の喜びを求めることが基本。②あなた方に仕える――自分を低くして、群のために仕える姿勢を示す。③僕――主人として支配せず、弟子の足を洗われたイエスに倣って仕える者となりきること。7~15節、土の器と宝物。16~18節、永遠の希望。人間の肉体は、土の器のように、もろく、弱く、はかない。しかし、活ける主との交わりを経験し、その方が永遠なるが故に、私達もそれにあやかって永遠的な存在とされた。私達は、やがて消えていくこの世の一時の感覚的な者ではなく、霊的な永遠の神の国に目を留めるべきである。

 ウイリアム・バークレーは、1~6節、くらませられた目で彼はまず自分自身について語る。大きな使命を意識している人は、驚くべきことをやりとげるものである。音楽的天才の創りだした偉大な作品の一つにヘンデルの「メサイヤ」がある。この楽曲はわずか22日間で書き上げられ、その間ヘンデルは食事も睡眠もほとんどとらなかったといわれている。偉大な仕事の持つ不思議な点は、それを遂行するには必要な力が同時に与えられるということである。7~15節、患難と勝利。16~18節、忍耐力の秘密。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。みえるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(4:18)

2021/12/5 週報メッセージ

「信仰に生きる」説教準備に際して

朝位 真士 

 今日のⅡコリ4章1~18節を通して、聖書を学びました。米田師によれば、全体は福音に仕えるパウロの態度、1~2節、光の中の生涯、3~4節、福音の光の隠蔽、5節、彼の使命と宣言、6~7節、神の証明と奉仕の力、8~15節、迫害の中における確信と覚悟、16~18節、彼の望み、苦難と栄光の比較。

 竿代照夫先生は、1~6節、栄光を現す人と覆う人。5節の後半で「私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」と語り、三つの要素がバランス良く捕らえられていくことが伝道者にとって大切だとしました。①イエスのため――人間を喜ばせるのではなく、主の喜びを求めることが基本。②あなた方に仕える――自分を低くして、群のために仕える姿勢を示す。③僕――主人として支配せず、弟子の足を洗われたイエスに倣って仕える者となりきること。7~15節、土の器と宝物。16~18節、永遠の希望。人間の肉体は、土の器のように、もろく、弱く、はかない。しかし、活ける主との交わりを経験し、その方が永遠なるが故に、私達もそれにあやかって永遠的な存在とされた。私達は、やがて消えていくこの世の一時の感覚的な者ではなく、霊的な永遠の神の国に目を留めるべきである。

 ウイリアム・バークレーは、1~6節、くらませられた目で彼はまず自分自身について語る。大きな使命を意識している人は、驚くべきことをやりとげるものである。音楽的天才の創りだした偉大な作品の一つにヘンデルの「メサイヤ」がある。この楽曲はわずか22日間で書き上げられ、その間ヘンデルは食事も睡眠もほとんどとらなかったといわれている。偉大な仕事の持つ不思議な点は、それを遂行するには必要な力が同時に与えられるということである。7~15節、患難と勝利。16~18節、忍耐力の秘密。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。みえるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(4:18)

2021/11/28 週報メッセージ

救いとは何か                                                        

朝位 真士  

  今回は、ジョン・ウェスレーの説教集にある島隆三牧師(前東京聖書学校校長・東調布教会牧師)の論文をご紹介させていただきます。

 聖書においても、救いは広い意味で用いられる重要なことばですが、キリスト教において大切なことは、救いが何よりも神との関係において考えられているということです。「苦しい時の神頼み」式の信仰は、例えば病気が治ったら、問題が解決したら、もうそれでよい、「私は救われた」ということでしょう。しかし、聖書は、そういう人にも「あなたは本当に救われていますか」と問いかけるのです。つまり、救いが人間本位でなく、神本位に考えられているということです。人は誰でも、生まれつき自分本位、自己中心ですから、「自分が救われたと思ったら、それでいい」と開き直るような所がありますが、聖書はそういう自己中心の人間を「生まれながらの怒りの子」(エフェソ2:3)と呼んでいます。「怒りの子」というのは、神の怒り(審き)の対象となるという意味で、そのままでは神の審きによって滅んでしまうということです。私たちは何よりもこの神の怒りから救われねばなりません。

 結論を急ぎましょう。救いも、神が提供して下さっているということです。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)神は、自己中心でどうしようもない私たちを救うために、ひとり子イエス・キリストをお与え下さり、その十字架の死と復活により救いの道を備えて下さったのです。ここにキリスト教の救いの根源があり、私たちは、その神の救いをただ信じて、お受けするほかに救いはないのです。エフェソ2・8にある通り、私たちは、ただイエス・キリストを信ずることによって神の怒りから救われるのです。『キリスト教神学辞典』の「救い」の項の一節を引用すると「この救いの経験の特徴を要約すれば、人間がそれによってその罪深い自我から生命の新しさと充満へと解放される神の恵みの行為のことである。すなわち救いとは、神の意思とわざとによって、人間のうちにまた人間のためになされる何かである。」「生命の新しさと充満へと解放される」という点を強調したのがジョン・ウェスレーです。

2021/11/21週報メッセージ

 クリスチャン・リーダーシップ                                            朝位 真士 

 最近、クリスチャン・リーダーシップについて考えていた時、『新キリスト教ガイドブック』の中に、聖書が説くリーダーシップについて適切なヒントがありましたので、ここにご紹介いたします。

 魂について熟慮する――聖書に出てくるリーダーシップのギリシャ語に「ヘーゲオマイ」、これは「心を理解する」「魂について熟慮する」という意味があります。相手の心を十分に理解することが必要です。旧約聖書、「主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、ご自分のひとみのように守られた。」(申命32:10)ヘブル語で「世話をする」という「ビーン」という言葉が、理解するという意味をもっています。神の教育も理解から始まるのです。リーダーシップをもつ人とは、相手と同じ立場に立ち、その心に触れることのできる人のことです。いいかえれば、心のスキンシップです。すべての人に求められる積極的人生の要素です。人々と関わって参りましょう。

 先に道を備える――リーダーシップを表す聖書の言葉に、もう一つ「プロイステーミ」があります。聖書のみことば、「指導する人は熱心に指導し(プロイスタメース)」(ローマ12:8)とは、熱心さにおいて先に道を備える。「あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し」(Ⅰテサ5・12)では、「主にあって」とありますように、敬虔さにおいて先んじることです。「この人は多くの人を助け」(ローマ16・2)とは、同情において先に道を備えることです。「それは神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです」(テトス3・8)では、善において人よりも先に道を備えることです。

 三つの特質――①明るくあること――明るさの源は、喜びにあります。この喜びは、信仰によって神から与えられる賜物です。②教えられやすさ――これは謙遜の現れです。③否定的精神をもたない――ネガティブ・スピリットをもたないことです。

 私たちはリーダーシップの精神をもって、積極的に人々と関わって参りましょう。