榊原紀惠子 のすべての投稿

2022/10/23  週報メッセージ

   深く息をつき

                   朝位 フミ子 

  主イエスが、耳も言葉も不自由な一人の人に、「エッファタ(開けよ)」とおっしゃいました。彼の耳と口を開いてくださいました(マルコ7章34~35節)。そこで主イエスは「深く息をつ」かれました。これは、元の言葉では、「ため息をおつきになった」あるいは「呻く」と訳すことができます。一般的には、人間がため息をつくのは、あまりよいしるしではありません。しかし、ここで主イエスが「深く息をつき」、ため息をつかれたのは、一人の、ただ一人の人の救いのためでした。この人の口が開かれる、賛美が歌われるために、そういう人生をこの人が生涯歩めるようにするために、主はご自分の全てをささげて、深く息をつき、ため息をついてくださいました。

 その「ため息」という言葉には、他にも「呻く」「悶え苦しむ」という意味があります。これは一体何を意味しているのでしょうか。それは、私たちのために担われた主の十字架の苦しみ、そのものを表しています。そのようにして、御自分の肉を裂き、血を流し給うて、主は私たちの心を、私たちの耳を、私たちの口を開き、御自身の十字架の恵みをも開いてくださいました。これ以上に確かな救いの出来事は他のどこにあるのでしょうか。私たちもこの主の十字架の苦しみによって、教会に確かに結ばれるように、罪赦されて救われていくように、神の国の民とされていくように、キリスト者とならせていただいています。

 主が私たちの確かな救いのために、十字架の上で悶え苦しんでまで、私たちに向かって「エッファタ、開け」と言われたのです。そして、神の力によって、私たちの閉ざされた耳が開かれ、主イエスの声が聞こえるようになるように、また、もつれた舌が解けて、隣人に救いの言葉を大胆に語り告げ、主を賛美することができるようにしてくださいました。その重みに、この確かな救いに、私たちはただただ感謝しかありません。十字架の主の満ち溢れる恵みに、礼拝をささげ、賛美していきましょう。

2022/10/16 週報メッセージ

 聖霊に満たされる                                                     

朝位 フミ子 

  私たちクリスチャンでも、この「聖霊に満たされて」という言葉や意味について、また聖霊に満たされるという出来事について、よく分からない所があるわけですが、使徒言行録の御言葉にはそのヒントが書かれています。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使徒4章20節)つまり、私たちが聖霊に満たされるという出来事は「見たことや聞いたことを話さないではいられなくなる出来事」なのです。また、私たちが大胆に御言葉を語るようになるという出来事も、「見たことや聞いたことを話さないではいられなくなる出来事」なのです。そう考えると、聖霊に満たされるという経験と、大胆に御言葉を語るように変えられるという経験は、自分が「見たことや聞いたこと以外の経験は話すことができない」ということになるのですから、とても身近に感じることができるのではないでしょうか。

 私たちの教会の使命である伝道、福音を地域の人に伝えるということは、私たちが見たこと、聞いたこと、経験したことを、黙っていられなくなるという心の働きによって起こるのです。私たちが、神様のこと、イエス様のこと、見たこと聞いたこと、とんでもない大きな恵みをいただいていることが分かれば、もう嬉しくなって、人に話さずにはいられなくなるのです。イエス様が、私たちのために命をささげてくれて、復活して、そして今、私たちを教会に導いておられる。本当に私たちと共におられて、見たこと聞いたことを話さないではいられない気持ちに私たちの心を動かしている。そういう気持ちにさせて、私たちを教会の働きへと、今、神様が私たちを導き動かしているのでしょう。私たちも、見たこと聞いたことを使徒のように大胆に話すことができるようにしてくださいと、神に祈り、隣人に伝えましょう。見たこと聞いたこと、イエス様の救いを経験したことを、大胆に語りましょう

2022/10/9 週報メッセージ

神の愛と赦しの眼差し

朝位 フミ子 

  福音書には、主イエスが徴税人のレビを弟子として選んだ召命物語があります。同時代のユダヤの人々から嫌われる仕事をしていた徴税人のレビを、主イエスが彼の過去や現在の姿を見たのではなく、レビの未来の姿を見て、将来弟子として頑張っている姿を期待して、弟子に選んでくださったのです。主イエスの「わたしに従いなさい」(マタイ9章9節)と言われた言葉に、レビは心の底から嬉しくなって、感動して、すぐに立ち上がってイエスに従っていくことができたのでした。

 10節には、その後のことが描かれています。ここには、罪人と一緒に食事をする主の姿が描かれています。「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。」(10節)実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのです。驚くことに、他の徴税人や罪人たちも大勢、イエス様の所に集まってきたのです。ある説教者は、主イエスには権威があり、雰囲気がよかったから、人々が大勢ついてきたのだと言います。イエス様はいい人だったから、皆がついてきたのだという人もいます。しかし、イエス様の雰囲気がよかったから、いい人だったから、徴税人や罪人がついてきたわけではありません。

  主イエスは、神様と同じ眼差しをしっかりと受け継がれています。神の眼差しは、人間の人を見る眼差しとは違います。神の眼差しは、その人の過去を見ないで、未来だけを見てくれるから、罪人や蔑まれている人も皆、喜んでイエス様についていきたいと思ったということです。主イエスの所に行くと、過去を見ない、ダメ出しをしない、人を裁かない、罪を咎めない。イエス様の所には、優しさがあり、愛があり、そこに罪を赦す神がいたからこそ、皆喜んで主イエスについていくことができたのです。私たちも礼拝の中で、神の愛と赦しに触れたいと思います。

2022/10/2 週報メッセージ

御言葉を聞くと、心が明るくなる

朝位 フミ子 

  出エジプト記6章で、神様はモーセとイスラエルの人々に、私は必ずイスラエルの人たちをエジプトの奴隷の中から救い出し助けると、力強く約束をしてくださいました。モーセはここで、神の言葉を聞くことができました。モーセは暗い心から、明るい心になりました。

 しかしモーセとは違って、イスラエルの人々の心の中は暗いままでした。彼らはエジプトの奴隷の苦しい生活の中で、生きる元気を失い、心の中が暗かったのです。だから、どんなに力強い神の御言葉が語りかけられても、それを聞くことをしませんでした。神様の御言葉を聞くことができなかったので、イスラエルの人たちに神様の力が与えられることはありませんでした。たしかに辛い生活の中にいたのだけれども、神様が一緒にいてくださるから大丈夫だ。神様がきっと助けてくださるから私は生きる希望を失ったりはしない。どんな大変な時も、神様に助けていただいて、神様についていく、とはならなかったということです。

 このことは、私たちにも本当によくわかることなのではないかと思います。上手くいかなくなると、私たちは元気を失い、今私たちを励まし、救いへと導くために語りかけてくださるのに、神の御言葉を聞くことができなくなってしまうことがあります。ところがです。今日の物語で、イスラエルの人々は神様の御言葉、神様のお話を聞くことができなかったのに、それにも関わらず神様は、「イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せ」(13節)と言われました。どんなに今、お前たちが私の話を聞くことができなくても、私は必ずお前たちを苦しみの中から助けるよ。神様がそう約束してくださったのです。私は必ずやるよ。お前たちを苦しみの中から助けて救うと、はっきりと約束して語りかけてくださったのです。

2022/9/25 週報メッセージ

荒れ野を旅する神の民である教会

朝位 フミ子 

  モーセの時代に、イスラエルの民がエジプトの奴隷の生活から神の導きによって救い出されます。イスラエルの民は、葦の海を渡り、エジプトから完全に逃げ切ることができました。しかし、神によって無事に海を渡り、救い出されたイスラエルの民がすぐに導かれた場所は、約束の地ではなく「荒れ野」でした。救われたイスラエルの民が奴隷の家から導き出された後、ただちに向かったのは40年間の荒れ野の旅でした。

 聖書の中では荒れ野には二重の意味があって、一つは死と滅びの世界の象徴です。荒れ野とは死の世界であり、苦しみの多い場所です。そこには乗り越えなければならない試練と誘惑のある世界です。特に、主イエスが試練に遭われるのは荒れ野です。それはサタンの世界だからです。荒れ野は、今私たちが現実に生活している場所です。相変わらず苦難があり、試練があり、サタンの誘惑の多い荒れ野です。今私たちは洗礼を受けて救われた神の民として、約束の地、神の国を目指している荒れ野を旅する神の民なのです。

 そして、荒れ野の二つ目の意味は、神の民が神様の救いを経験した場所だということです。エジプトから救い出されたイスラエルの民は、この荒れ野の40年の旅をして、約束の地カナン、乳と蜜の流れる地に入ります。荒れ野の40年こそ、死と滅びの世界でしたけれども、神様が共におられて、神様にしがみついて旅をして、神様との交わりを深めて、神との結びつきを強くすることができました。だから、荒れ野で信仰を飛躍させて、成長させることができました。荒れ野が、神様から離れたら生きてはいけない所だったからこそ、神様に必死にしがみついて、イスラエルの民は荒れ野で神と共に生きる経験をすることができたのでした。私たちも、この世の荒れ野を旅する神の民です。祈りと礼拝を大切にして、神との交わりを深めていきましょう。