榊原紀惠子 のすべての投稿

2022/8/21 週報メッセージ

 病と信仰                                                                 

朝位 フミ子 

 人間は、誰でも病を経験すると思います。生まれつき元気な人でも、病気がちの人でも、老いと病と死を経験します。病になると、誰でも、神に早く病が癒されることを必死で祈り、求めるのではないでしょうか?

 主イエスの癒しの御手と聖書の御言葉を考え、信仰的に神様と繋がるということを考えていく時に、よい助けになるのは、ヨハネ福音書15章です。主イエスと私たちが一つに繋がって生きていくことをとても分かりやすく書いています。主イエスがお話しになった、有名なブドウの木の譬えです。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

 主イエスに繋がっていく人生は、そこに主イエスとの命の交わりが生まれます。主イエスの愛を直接私たちの心と体の中に注ぎ込んでもらい、力をいただくことができるようになります。主イエスの体の中に流れている愛は、天の父なる神様の愛と同じ神の愛です。洗礼を受けた人は、これからも主イエスと一つに繋がって生きていくことができるので、神の愛を主イエスの体を通していっぱい自分の心と体の中にいただいて、神の力で癒していただきながら、良い実を結んで生きることができるのです。  主イエスと信仰の繋がりのある人は、たとえ今厳しい病の中、試練のどん底の中にいて、心が暗く、深く落ち込んでいたとしても、病との厳しい闘いの中にいても、人間関係の難しい状況の中にいても、神との生きた繋がり、生きた交わりがあるので、主イエスの光がそこに射してきて、神の力によって癒されて元気にされて生きることができるのです。神様との繋がりを固くすることができる場所は、毎週の礼拝と祈祷会ですから、これからも神と繋がる礼拝と祈りを大切にしていきたいと思います。            

2022/8/7 週報メッセージ

人が死んだらどうなるのか?

朝位 憲義 

  聖書の教えでは、キリスト御自身が、人が死んだら復活すると言っています。キリストはその言葉通りに実際に、イースターの祝いの時に、神の力によって、死人の中から本当に復活しました。復活は、キリスト教の信仰の中心なのです。

 人が死んだらどうなるのか、来世はあるのか、ということについては、色々な見方や考え方があります。死んだら無に帰ると考える人もあり、来世はあると考える人もあります。

 聖書は、死んだらどうなるのか、来世はあるのかということについては、あまり積極的には語っていないように思います。その理由は、来世があるかどうかはっきりしない、あいまいだからということではなくて、来世があるかないかということよりも、その根拠として、私たちに向けられている神の愛が、どれほど深く、確かなものなのか、ということを語ろうとするからであると思います。

 新約聖書のローマの信徒への手紙を書いた、使徒パウロも、その手紙の中で、私たちが死んだ後どうなるのか、ということについては、わずかに触れているに過ぎないように思います。それは、死んだらどうなるのかということが、よく分からないということではなくて、今、お話したように、何よりも、私たちをしっかりと捉えておられる神の愛を語る事に集中しているからです。使徒パウロの手紙を読んでいくと、死んだらどうなるのかということについて、使徒パウロに、心配や恐れ、疑いがあったとは思えません。

 私たちを創造された神は、私たちを救われる方、死の力に打ち勝って、主イエスを復活させた神の愛に、安心して、死の後のことはお任せすることができると考えていたのだと思います。それが、使徒パウロが、死後のことについて、多くを語らなかった一番の大きな理由であると思います。このことは、聖書全体に言えることであると思います。

2022/7/31 週報メッセージ

この世にはなくて、教会にあるもの

朝位 憲義 

  聖書の御言葉にこんな言葉があります。「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。」(イザヤ書8:22~23)これはイザヤ書の言葉です。この地上には人々の苦悩と暗闇が広がっていると告げています。暗闇は、世の中のあり方、人々の心の中の深い暗闇、深い罪がある事を表しています。イザヤの時代から、現代にいたるまで、世の中のあり様、人々の心の中に、自分よりも弱い者に対して、苦しみを与えていくような、心の闇、罪が広がっているのです。この世の闇、人々の心の罪の問題から、とても逃げ出す術がないように思います。私たち、キリスト者もこの時代、この世に住んでいます。私たちの心の中にも、この時代の精神に影響を受けて、この世のものが多く入ってきます。この世の様々な問題や課題が私たちの心の中にも入ってきます。私たちがこの世に生きているから仕方ないことです。しかし、同時に、私たちは教会で洗礼によって、イエス・キリストを通して、神と一つに結ばれ、神のものにされています。私たちは、神様のものとされてこの世に生きています。だから、私たちは、教会にはあるけれども、この世にないものがあることを知り、この世にないもので教会にあるものが与えられた人として生きなければなりません。それは、神のものとされた神様との深い繋がり、神様との命の繋がり、聖書の御言葉を聞き、祈り、賛美する生活、聖書の教え、福音の価値観によって、私たちが、神様によって救い出されて、神様のいる世界を知り、イエス様の福音の良い知らせによって、心を明るくされて、元気をいただいて、人生を明るく生きることができることを知り、世の中で、あるいは、今、自分が置かれている所に、色々な大変なことがあっても、望みを捨てないで、前向きに生きていくことができるという、この生き方こそが、この世にないものであり、教会には確かにあるものではないでしょうか。

2020/7/24 週報メッセージ

第32回 首都圏夏期聖会に出席して

朝位 フミ子 

  今年もコロナの感染の中、オンラインを中心として7月18日(月)午後に、2回聖会が開催されました。

 聖会Ⅰ、「神を見る生涯」マタイ5:8。説教は亀井拓也師(東調布教会)によって語られました。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5章8節)今回の主題は、黙示録4章1節の「見よ、開かれた門が天にあった。」パトモスで島流しされたヨハネが、神から直接に幻をいただき、神を見たのです。私たちの心は、神を見ているでしょうか。世の波に流されていませんか。それを解決してくださるのは、第一に、何を土台にするか。み言葉に聞き従ってゆく。第二は、聖霊を求める。聖霊が罪を示してくださっているのです。第三は、献げる。持っているものを献げる。1、献金。2、賜物を献げる。3、奉仕を献げる。4、あなたの人生を献げる。神様が共にいてくださると約束されています。神は何でもできるお方です。

 聖会Ⅱ、「開かれた天の門」黙示録4:1。説教は、深谷美歌子師(新宿西教会)によって語られました。黙示録は聖書の最後に位置しています。創世記から黙示録までで1冊の書物です。内容も様々です。黙示録はメシヤの再臨によって、新しい天と地が到来するという内容で完結しています。黙示という言葉は、秘密にされていたものが開かれるという意味です。「見よ、開かれた門が天にあった。」「ここに上ってきなさい」という言葉は、ヨハネに語られたとともに、兄弟姉妹にも語りかけられたのです。イエス様の血潮によって天の門が開かれ、罪の贖いを信じた者のみが入ることができる開かれた門です。そして今、私たちの世界も、黙示録が書かれた時代のように混沌としています。だから目を覚まして、御再臨を待っていましょう。

2022/7/17 週報メッセージ

 病気になって思うこと                                                     朝位 真士 

 病気になって、初めて健康の有難みが感じられました。今まで健康の時は気づきませんでした。元気な時は、御用を楽しくさせていただきました。できなくなって皆様方にご迷惑をおかけしています。現在は、検査の結果が出ないで待っている状況です。どうぞお祈りしてください。早く元気になって、皆様方にお会いしたいと願っています。

 民よ、どのような時にも神に信頼し

 御前に心を注ぎ出せ。

 神はわたしたちの避けどころ。(詩編62:9)                                                                  

  どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを

ささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神

の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(フィ リピ4:6~7)