榊原紀惠子 のすべての投稿

2023/1/1 週報メッセージ

やめさせてはならない!

朝位 フミ子 

  自分たちのやり方と違う人の言葉や行動が、気になる、我慢ならない、許せない、私たちの狭い心と、主イエスはいつも真剣に向き合って戦ってくださいます。「やめさせてはならない」(マルコ9:39)と。この言葉を言われた時に、主イエスは、エルサレムの道、十字架の道をまっすぐに歩いておられました。主イエスは、人と人との違いを受け入れられない狭い心の私たちのために、十字架に架かって死んでくださり、その愛によって狭い心を打ち砕いてくださいました。

 聖書では、主イエスの十字架の救いのイメージには、空間的な救いのイメージがあります。つまり、羊飼いが、普段は狭い囲いの中にいる羊が、狭い囲いの中でステイホームしすぎてストレスを溜めないように、時には囲いの外に出して、広い場所に連れ出してくれるのです。羊飼いは、狭い場所から広い場所に、羊を緑の草原に連れて行って草を食べさせ、川に連れて行って水を飲ませてくれます。つまり、救いとは、イエス様が私たちを狭い所から広い所へと連れ出してくださることなのです。

 隣人の言葉や行動が許せなくて、自分だけが幸せになればいい、自分たちだけが救われたらそれでいいと考えるような、狭い心、小さい心でしかない私たちに対して、イエス様は、あの人たちのやることを「やめさせてはならない」と言って、狭い所から広い所へと連れ出してくれます。視野を広く持つように、広い心で他の人の違いを受け止めて、共に生きられるように、主は十字架に架かって死に、神の愛に触れさせてくださいました。救いとは、いつもイエス様の広い心、愛の心に触れて、私たちも広い心を持って、隣人と共に生きていくことに尽きるのです。  桜ヶ丘教会の礼拝には、皆気の合う人ばかりではなく、色々と性格の違う方も来られます。皆が広い心で、温かい気持ちで、色んな人をお招きして、教会に歓迎しましょう。

2022/12/18 週報メッセージ

正しい人                                                                 

朝位 フミ子 

  イエス・キリストの誕生の話です。イエスの父はヨセフ、母はマリア。イエス・キリストの父と母になったヨセフとマリアの物語です。

 ユダヤ人であるイエスの父親ヨセフと母親マリアは婚約していました。ヨセフとマリアはまだ結婚前で性的な関係もないのに、婚約者のマリアのお腹の中に赤ちゃんがいることを知るのです。私たちの一般的な感覚では、マリアはヨセフの目を盗んで別の男性と肉体関係を持ち、妊娠したと考えるのが普通でしょう。ヨセフもこの時、そのように理解していました。当時のユダヤの法では、婚約関係は大変重いものでした。もし婚約中に他の人と肉体関係を持ち、子どもができれば、姦通罪が適用され、相手の婚約者が訴え出れば石打の刑(死刑)にすることもできました。

 ヨセフは婚約者マリアの裏切りに対して悩みました。しかし、ヨセフはマリアの裏切りに対して、悔しい気持ちを抑えて我慢しました。ヨセフはマリアに裏切られても、マリアが不幸になることを望まない人でした。ヨセフがマリアを愛していたこともあるでしょう。聖書では、ヨセフという人は「正しい人」であったと記されています。ヨセフが婚約者マリアに下そうとした決断は、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(マタイ1:19)というものでした。彼はマリアとひそかに離縁して、世間に表ざたにならないようにマリアの罪を許して、助けようと考えました。聖書が言う「ヨセフが正しい人」とは、単なる正義の人というだけではありません。ヨセフは神の心をよく知っている人だったのです。神の心とは「隣人を自分のように愛しなさい」、「敵を愛しなさい」。ヨセフは神の愛をよく聖書の中から学び、実践していた人です。「ヨセフは正しい人」とは、マリアの罪を許して助けるような「優しい人、愛の深い人、思いやりのある人」という意味です。

2022/12/11 週報メッセージ

思い悩むな

朝位 フミ子 

  マタイ6章では、主イエスは「思い悩むな」と私たちに呼びかけられます。私たちの心の中には、毎日生きていれば様々な声が聞こえてきます。その声の多くは、心を騒がせる思い悩み、心配事です。生活のこと、仕事のこと、経済的なこと、家族のこと、親子のこと、自分の健康、社会の問題、自分の将来のこと、コロナのこと、私たちは心を悩ませ、不安になり、自分の力で何とか解決しなければ駄目だと思い、心配事、思い煩いが増えていくのです。心の中が思い悩みや思い煩い、心配事でいっぱいになってしまうと、他のものが心の中に入り込む余地がなくなる訳ですから、私たちにとっては不幸なことであり、どんな時も不安な気持ちで生きなければならなくなるのです。

 だから、そんな私たちに主は「思い悩むな」、「思い煩うな」、「もう心配しなくても、大丈夫だよ」と呼びかけておられるのです。主イエスは、あなたをこんなにも大切に思っている、神に信頼しなさい、神様があなたのことを本当に愛し、慈しんでおられることを忘れないようにしなさい、ということなのです。それは、私たちが色々な事で心配している、思い悩んでいる時に、まるで神様が共におられないように、何でも自分の力でしなければならないと考えてはいけない、神様はあなた共におられ、あなたの重荷も一緒に担ってくださるのだから、心配しなくても大丈夫だよと、はっきりと言ってくださっているのです。

 ここで重要なのは、主は、神様のいることを忘れ、神様の御前にあることを忘れて、神がおられないような生き方をしてはいけないと言っているのであって、神様が共におられることに早く気づき、神様に励まされなさい、神様に慰められて、神様に癒されなさい、どこにも助けはないと一人で間違って思い込んで、自分の心と体を余計にすり減らして生きてはいけないよと、語りかけてくださるイエス様の言葉に信頼していくことです。

2022/12/4  週報メッセージ

クリスマスの礼拝を考える

朝位 フミ子 

  クリスマスは私たちにとって忙しい時です。私たちはそのような現実の中で、毎年決められたことをこなすのに精いっぱいで、本当にクリスマスを祝うというのはどういうことなのかをあらためて考えることができなくなっているかもしれません。そうだとするならば、この機会にちょっと立ち止まって、私たちのクリスマスの礼拝のあり方を考えてみたいですね。

 ご存じのようにクリスマス成立の事情は複雑です。クリスマスが祝われるようになったのは4世紀になってからで、12月25日も、そもそもは冬至に行われていたローマの太陽神の祭りであったものを、教会が強引にその日を降誕祭にしてしまったのです。そのためにクリスマスは主に冬至に関わるヨーロッパ各地の民族的な祭りに起源をもつ習慣や伝統を受け継ぐことになりました。教会はそのような習慣を聖書的に再解釈しようとしてきましたが、クリスマスがもつ祝祭的な雰囲気がそうした各地の祭りから来ていることは明らかです。私たちは必ずしもそのような祝祭的な要素を排除する必要はないでしょう。むしろ、世俗的な面をもっているが故に、クリスマスは多くの人が共に喜ぶことのできる楽しい祭りになったのかもしれません。

 キリスト者としてクリスマスを祝う私たちは、ただ雰囲気に流されるのではなく、クリスマスにおいて本当に大切な事柄が何であるかを問い続けなければいけません。主の降誕を祝うこの祭りが英語圏でキリストの礼拝と呼ばれるようになったのです。私たちは何よりも礼拝において主のご降誕を祝うのです。そうであるならば、礼拝そのものが本当に喜びに満ちたものになるよう努力をしたいと思います。

 「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。』」(ルカによる福音書2章10節)