聖書箇所 マルコによる福音書第5章35節~43節
説教題「ただ 信じなさい」
お話 朝位フミ子牧師
讃美歌 286番
聖歌 453番
聖書箇所 マルコによる福音書第5章35節~43節
説教題「ただ 信じなさい」
お話 朝位フミ子牧師
讃美歌 286番
聖歌 453番
恐れることはない。ただ信じなさい。
朝位 フミ子
「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」(ルカ8章50節)
恐れるな。これは、恐れるのは不信仰でだらしがないぞということではなくて、聖書では神が共におられることに気づかせる時の言葉です。天使や神様が共におられることを思い出せ、神があなたと共におられるからもう大丈夫だ、何も心配しないで行けということです。ヤイロの信仰が失われないように、主イエスがここで彼を励まし力づけたのです。
人間にはもうどうすることもできない絶望的な現実、死の現実を前にして、主イエスは、諦めるな、最後まで私と一緒に歩き続けなさい、どんなことが起こっても私から離れるな、私について来いと命じられたのです。人間の常識は、結論はもう出たので仕方がない、諦めようというものです。私たちも神の救いが待ちきれないで、すぐに自分の判断で結論を先に出そうとします。しかし人の常識に従うのではなく、主イエスの「私に最後まで従え」との御言葉に従って歩み出すのです。これが信仰というものです。信仰とは、人間が先走って自分の考えで結論を出したくなる時に、そこに踏みとどまって神に信頼し、神の救いを待つということなのです。私たちが、もう駄目だ、もう無理だ、もう何をしても無駄だから諦めようと思っている時に、主イエスは「私を信じる人は、もう駄目だということは絶対にないんだ」と強く呼びかけてくれます。
「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば救われる」ということは、どんなに悲しいことがあっても、恐ろしいことがあっても、心が落ち込んでいても、主イエスから離れないで、最後までイエスについて行くということです。イエスのお力を最後まで諦めないで信じて、お祈りして救いを待ち続けることです。この御言葉に従って神と共に歩んで行きたいと思います。
人を汚すもの
朝位 フミ子
主イエスは言われました。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(マルコ7章15節)ファリサイ派の人たちは、汚れたもの、悪いものは皆外にあって、自分の中、自分たちの内、心の中は清いと思っていました。しかしイエス様は、そうじゃない、外にあるものは皆清いものだ、お前たちの内側にあるものが汚れているんだ、あなたたちの内面、心の中が腐っているんだという話をしたのでした。イエス様は、外にあるものは全部清いものだ、神様がお造りになったものは最初から全部清いものなんだ、それなのに人から出て来るものが人を汚すんだとおっしゃいました。私たちは、いつの間にか、自分の心はきれいだと思っているところがあります。自分の方が正しくて、相手の方が悪いと思っています。しかし、イエス様は、悪いものは皆人間の心の中から出て来ると言われたのです。
ファリサイ派の人は、世間的には立派な人たちでした。自分の内側はきれいだと思っていて、自分はいつも正しいと思っていました。だから、バリバリに隣人のことを裁くのです。自分が神様の側に立って、いつも人を裁くのです。自分の心はきれいで、自分は正しいと思っている人ほど、神様の目から見たら本当に困った人なのです。そういう人に対して、イエス様は、あなたの内側が腐っている、あなたの心の中がどうしようもなく腐っているから、あなたの中に人を裁く心がある、本当に赦されなければならないのは、あなたのその腐った心の中なのだと言われます。
本当に努力しなければならない務めは、隣人を愛する務めです。その務めがズレている私たちは、外からイエス様を心の中にお迎えするのです。毎週の礼拝で、私たちの中にイエス様を迎える務めをしていきたいと思います。
聖書 ヨハネによる福音書第10章1節~11節
説教題「豊かないのちを求めて」
お 話 山本修一牧師
讃美歌 285番
聖 歌 609番
貧しくなると、豊かになる
朝位 フミ子
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリ八・九)
神が人になるために、キリストが神の豊かさを全部捨てて、貧しくなった出来事を伝えています。しかし、ある人はこのように言います。「キリストは神の子なんだから、ここで私たちを豊かにするために命を捨てて捧げても、何も困らないだろう。痛くも痒くもないだろう。神として当たり前のことだ。キリストは、そんなに大きな犠牲を払ってはいないのではないか。小さい犠牲なのではないか。キリストの豊かさは無限に、限りなくあるのではないか。」
でも、それは現代人の発想です。古代の人々は、そうは考えませんでした。古代の人々は、誰かが豊かになるときには、誰かが貧しくなると考えました。逆に、誰かが貧しくなると、誰かが豊かになると考えていましたから、聖書の時代に生きた人たちには、無限という考え方はなかったのです。だから、主が私たちを豊かにするために貧しくなられたということは、主が私たちを豊かにするために、限りある命を捨てられて、本当に貧しくなられたということになるのです。
キリストが自分の豊かさである命を無限に持っていたから捨てることができたのではなくて、キリストが私たちと同じ人間となって限りある命、限りある豊かさを全部捨てて、大きな犠牲を払ってご自分は貧しくなり、空っぽになってまで私たちを豊かにしたのです。主イエスは、ご自分を無にされ空にされて、ご自分の持っておられた恵みと命の全てを私たちにくださいました。私たちが豊かなのは、主イエスが空っぽになられたからです。主イエスの栄光とは、ご自分を空にして私たちと同じ貧しい人となり、私たちに全てをくださる恵み、私たちと一つになって私たちの死と滅び、罪を担い、私たちに神の子の栄光をくださる恵みなのです。
聖書箇所 マルコによる福音書 第2章2節~10節 説教題 主イエスの輝きを見る お 話 朝位フミ子 牧師 讃美歌 262番 聖 歌 480番 |
山上の変容 1
朝位 フミ子
「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(マルコ9:2~3)
高い山の上で3人の弟子たちは、イエス・キリストの姿が変わり光り輝いているのを見て、「これが神と一緒にいるときに経験することなんだ」と感じました。本当に、今自分たちと一緒におられる神様の姿を見ることができたわけです。だから、わざわざここでペトロが口をはさんでイエスに言ったのです。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。」(5節)ペトロは、この高い山の上に、この場所に、この先もずっといたいと思ったのです。ここに小屋を建てて、ずっとこの場所に住みたい。この場所から離れたくない。神様の臨在に触れることができて、神様と共にいることはこんなに嬉しいことなんだ、こんなに素晴らしいことなんだ、これ以上の喜びは他にないと、心の底から思ったのでした。
ペトロが実感を込めて言うような、神様の臨在に触れる場所、それは私たちにとってはこの桜ヶ丘教会です。桜ヶ丘教会の礼拝の中に神様がいます。神様の臨在に触れる場所がここにあるのです。私たちがここにいることは、本当に幸せなことです。このことは決して間違っていないのです。
私たちが今捧げている礼拝で、弟子たちのように、今ここで生きて働いておられる神様の臨在に触れるとき、そこにシャロームがあるのです。心の安息、平安、平和があるのです。そこに、感謝と喜びの満たしが確かにあるのです。私たちが、神の栄光が表されるこの礼拝の場所で、生きて働いておられる神の臨在に本当に触れたら、心が喜びで満たされ、心の中が温かくなる経験をしないはずはないわけです。
聖書箇所 エフェソの信徒への手紙 第2章4節~10節
説教題「恵みに答えて成長しよう」
お話 柏 明史 牧師
聖歌 229番
聖歌 581番
深く憐れまれた
朝位 フミ子
「イエスはこの12人を派遣するにあたり、次のように命じられた。」(マタイ10章5節)と書かれていますが、イエス様が弟子たちを生み出すときに、どんな思いで生み出したのか、次のように書かれています。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(9章36節)
イエス様の気持ちは「深く憐れまれた」という言葉に表れています。これは、単なる可哀そうという気持ちではありません。もっと強い意味の言葉で、人への同情から、内臓が締め付けられるような思いになる、その人のためにじっとしていられない気持ちになる、いてもたってもいられないような気持ちになる、その人を放っておけない気持ちになる、その人のために行動したい気持ちになるというものです。私たちに向けられている神様の愛、イエス様の愛の気持ちを、聖書は伝えています。
これと同じ言葉は、あの放蕩息子のたとえに出てきます。「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」放蕩息子のお父さんは、自分を裏切って見捨てて出て行ったこの放蕩息子を見つけると、過去の過ちや失敗を裁かず、罪を咎めないで、自分の所に帰って来てくれたことを素直に喜びました。息子を見かけると、当時身分の高い人が走ることははしたない行為と言われていたのに、なりふり構わず走り寄ってこの息子を抱きしめて、彼が自分の所に帰って来てくれたことに対して、何よりも嬉しい気持ち、喜びの気持ちを全身で表したのでした。
それと同じように、今日イエス様が私たちを弟子として選び、神様の仕事のためにこの世に遣わすときも、この放蕩息子のお父さんと同じ気持ちになって、深い憐れみの気持ちで私たちを迎えて喜び、弟子としてこの世界にお遣わしくださるのです。