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2023/5/21 週報メッセージ

「母さん、ありがとう」 (エフェソ 6:2-3)

 

  本日は、ご一緒に母の日礼拝をささげましょう。皆様は「お母さん」に対して、どんな思い出を持っておられることでしょうか。

 父にではなく、母にしか流せない涙があります。子を思う母の涙です。家族の救いのために母にしか出来ない愛の姿があります。私たちは母の祈りによって、涙によって育てられました。教会もこの母たちの涙の祈りに支えられているのです。

  この時代が急激に変化し、ものの見方・考え方・価値観が大きく変わってきています。家族観、夫婦観、母性観も揺らいでいます。

ところで聖書の教えるものは古い、時代とマッチしない…と考える人がいます。そうでしょうか。聖書はいつの時代であれ、変わらないもの、変えてはならないものがあることを伝えているのです。

 パウロは「父と母を敬うこと」は、すべての人間関係において、基本中の基本として「最初の掟」と考えたのでしょう。「父と母を敬う」こと、母の愛に感謝することは、いつの時代であれ、どこの国であれ不変な真実です。

 聖書の中には、わが子のために、涙ながらに祈る母が、何人も登場します。モーセの母ヨケベド、サムエルの母ハンナ、イエスの母マリア…これらの母親たちの信仰と祈りが、生きざまが、子どもに大きな良き影響を与えたと考えられるのです。

  歴史的に有名な母といえば、古代の神学者アウグスティヌスの母モニカでしょうか。手塩をかけて育てた息子が、キリスト教信仰に反発し、母の元を去り、放蕩生活をし、肉欲におぼれ、異端のマニ教に走ったのです。モニカはひたすら祈りました。日々涙の祈りをささげました。「現代のモニカ」にとって「涙の祈りはきかれる」(イザヤ38:5)という信仰、「涙の子は滅びない」という祈りを深く教えられるのです。       (5/14山本師 説教)

2023/5/14 週報メッセージ

「起き上がりなさい」 (ヨハネ書  5:1-18) 

  今週から、ふたたびヨハネ福音書から「七つのしるし」を学んでいきます。今回は三番目のしるしです38年間も病気で苦しんできた人が、イエスの命令によって起き上がったというしるしです。

  38年間病気だった人は、ベトザタ池の言い伝え(伝説)は信じていましたが、イエスを信じていたわけではありません。イエスに近づき、癒やしを求めたわけでもありません、癒やされたときも、祭の時であったとはいえ、イエスへの感謝の一言もありません。安息日の律法違反の罪を問われるとイエスに押しつけました。…どうみても自分のことしか見えない、非常識な人です。

  この第三のしるしでは、その人に信仰があったかどうかではなく、癒やし主がどのようなお方であったかに力点が置かれています。最初から最後まで、イエスが主導権を持って、この人に憐れみをそそがれました。ベトザタの池に行かれたのも、その男に近づき、声をかけられたのも、癒やされたのもすべてイエスの一方的な「憐れみ」によるものでした。この池が「ベトザト」(あわれみの家)という名前であったのもそのためでしょうか。

  私たちはしるしを求めることによって神を信じることができると思いやすいのですが、そうではなく、神の言葉を信じることによって、神のしるしを見ることができるのです。

  最後に、イエスから私たちに「良くなりたいか」「変えられたいか」と問うておられます。私たちの信仰生活がずっとかたちだけで、とどまっていることはないでしょうか。私たちは今一度、信仰生活が良くない状態にあるという自覚があるか、良くなりたいという願望があるか、本気で良くなりたいという意欲があるかを点検して見ましょう。

(5/7山本師説教)

2023/5/7  週報メッセージ

「あなたはわたしを愛するか」 (ヨハネ書 21:15-19

山本修一

  今週もヨハネ書21章から学びます。21章は、不思議な章です。ヨハネ書は20章の終わりの結びの言葉で完結し、21章でまた新しく始まっているようです。この謎は後世の人が編集加筆したものと考えられています。それにしても21章は、20章と並んで、ヨハネ書の中でもっとも重要な章といわれています。21章は、主イエスの復活は幻影・幻想ではなく、現実であったことを決定的に示すものとして付け加えられたと考えられているのです。

 主イエスの「あなたはわたしを愛するか」という質問が、なぜ三度もくり返されたのでしょうか。

ペトロは十字架前に、臆病で不信仰であったために、イエスを否認して、その場から逃亡しました。しかし彼の心は深く傷つき、痛みを味わっていました。主イエスは、ペトロが立ち上がり、羊の群れを牧するように、ペトロの悪夢のような記憶を癒やし、愛の呼びかけをなされたのです。ペトロは三度主を否定したのですが、主はペトロに三度も愛の応答をさせたのです。この神さまに対する愛の確認によって、ペトロの心は癒やされ、霊的に回復したのです。

ペトロは、その後、初代教会の指導者として、立派にその役割を果たしていくことになります。教会も、そこから大きく成長していくのです。(使徒2~5、10~12章)。

  私たちは、「目に見えない神さまを全力を尽くして愛する(マル12:30)ことなど、どうしてできるのか」と、初めから諦めてしまっていることはないでしょうか。将来のことではなく、過去のことでもなく、主イエスは「今」、私たちの気持ちはどうなのかと呼びかけておられるのです。(4/30 山本修一師 説教から)

2023/4/30  週報メッセージ

山本修一

「新しい時代に生きる」 (ヨハネ書 21:1-15)

  主イエスの復活によって、世界は、新しいキリスト教の時代に入りました。新しい時代に生きるとは、古い生き方、肉の生活、律法的な生き方にしばられることなく、イエス・キリストに結ばれて、日々、新しく創造されること(ガラ 6:15)なのです。ヨハネ21章を通して、復活の主との出会いから、弟子たちの信仰がどのように大きく変えられていったかを学びましょう。

第1は、七人の弟子たちは、「主がおられない現実」をひしひしと味わったことです。自らの経験と力で、夜通し、懸命に網を打ち続けたのですが、結局 一匹もとれませんでした。これは主イエスが「不在」だったことをあらわしています。イエス様と離れて生きることのむなしさ、無力さを徹底的に味わう時でした。

第2は、「何もとれなかった現実」です。私たちの信仰や伝道において、一 生懸命、努力したものの、何も結果が出ず、信仰のむなしさ、宣教の愚かさを感じる時があります。イエスさまのお言葉を聞き「舟の右の方に網を下ろす」と大漁でした。み言葉に従うときに、私たちの思いを超えて、「できない者」 が「できる者」とされていくのです。

第3は、「主の食卓に招かれる」体験です。復活の主は湖畔で、食事を用意し、招いて下さいました。寒く、むなしく、惨めだったのが、本当の主と共にある喜びを味わったのです。信仰とは、私たちが努力して主を食卓にお招きすることではなく、主が招いて下さる招きに応じることです。

最後に、私たちはだれも「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じ、……すばらしい喜びに満ちあふれている」(Ⅰペトロ 1:8-9)。私たちも復活の主との体験を重ねていきましょう。(4/23山本修一師説教から)

2023/4/23  週報メッセージ

「イエス様と呼ぼう」 (使徒言行録  4:5-14)

山本修一

  ペトロとヨハネが生まれながらに足の不自由な男を癒したことが知れ渡り、 エルサレム中が大騒ぎになりました。ユダヤの最高議会はペトロとヨハネを捕らえて「誰の名によって、何の権威によって、ああいうことをしたのか」と尋問しました。これに対してペトロは力強く答えました。「この人が癒されたのは、あなた方が十字架につけて殺し、神様が復活させられたイエス・キリストの名によるのです。ほかの誰によっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。ペトロは聖霊によって、主イエスの十字架が自分の身代わりの死であったことを知らされました。もし誰かが自分の身代わりになったら、その人は強く生きざるを得ません。ペトロは十字架と復活の恵みに押し出されて堂々と語りました。「私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか人間には与えられていない。」これはペトロ自身の救いの体験から発せられた信仰告白です。背き続ける私たちを滅ぼすのではなく、逆にご自身が私たちの罪を代わって負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さった神様。そんな神様は、このお方、イエス・キリストの他には絶対にいない。ペトロはそう断言しているのです。物事がうまく進んでいる時には、人間は様々な名によって生きることが出来ます。しかし八方塞りの中でも呼ぶことの出来る名は多くはありません。特に死に直面している時に、尚もそこで望みを託して呼ぶことの出来る名。それは死に打ち勝ったお方、イエス・キリストの名だけです。私たちは愛する人々に、この「イエス・キリストの名によって生きる生き方」をもっと力強く勧めていきたいと思います。どんな時も「イエス様と呼ぼう」と語り掛けていきたいと思います。(4/16 柏明史師 説教から)