聖書箇所 ローマ人への手紙第12章1節~8節
説教題「あなたがたのなすべき礼拝」
お話 山本修一 牧師
新聖歌 176番 338番
聖書箇所 ローマ人への手紙第12章1節~8節
説教題「あなたがたのなすべき礼拝」
お話 山本修一 牧師
新聖歌 176番 338番
「十字架の愛」(神の愛⑧)(Ⅰヨハネ 3:11-18)
説教者にとって、十字架を語ることは、普段以上に厳粛な気持ちに立たされるものです。それでも心の中は喜びに満ち、光栄に感じています。
十字架はキリスト教信仰にとってはなくてはならないものです。十字架のない教会もありません。では十字架信仰とは何でしょう。十字架信仰とは、人の罪を救済するために、御子イエスが十字架にかけられ、復活されたと信じる信仰です。
十字架は、ローマ帝国のおそるべき極刑でしたが、それ以上に主イエスの使命と目的に驚かされます。御子イエスのご降誕は、「自分の民を罪から救う」(マタイ1:21)ためであり、主の十字架はわたしたちの罪を赦すためでありました。これが十字架の意味です。
私たちは教会歴が長くなると、この驚くべき真理が、驚きを通過して何も感じなくなってしまう傾向があります。わたしたちの十字架信仰は、十字架についての知識を積むこと、学ぶことではありません。キリストの十字架は「我が罪のためなり」との一事を知ることであり、信じることであり、生涯を通して究めていくことであります。
十字架の愛のすばらしさは、たとえようがありません。十字架の愛は、第一に「与える愛」でした。それは犠牲の愛であり、徹底的に与える愛であり、いのちをささげる愛でした。第二は「赦しの愛」でした。私たちは人を赦すことができませんが、主イエスがいのちをささげて多くの罪を赦してくださったのですから、私たちも人の罪を赦すことができるのです。第三は、「最も崇高な愛」でした。十字架の愛は 言葉では表現できないほどの純粋で、高潔で、崇高であります。
この十字架の愛を慕い求める者には、その愛は注がれるのです。
最後に十字架の力です。それは物理的な力ではなく愛の力です。弟子たちは弱さから強さへ、恐れから勇気へ、疑うものから確信するものへ、大きく変えられました。十字架は人の人生を変える力があるのです。
(10/8 山本修一師説教)
聖書箇所 ヨハネによる福音書第8章1節~11節
説教題「ああ、救われた!」
お話 柏明史牧師
新聖歌 230番 105番
聖書箇所 ヨハネの手紙一 第3章11節~18節
説教題「十字架の愛」
お話 山本 修一牧師
新聖歌 230番 105番
「神の選びと愛」(神の愛⑦)(ローマ9:6-18)
私たちは、生まれてからこの方、数え切れない選択をしてきました。 「人は、毎日、小さなことから、大きなことまで1000個以上の決断をしている」「現在の私たちは過去の選択の結晶である」といわれているのです。
聖書の中には「選び」の言葉が多くあります。その「選び」が静かに、ときには激しく強調されています。「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」(15)。 これは創造主である神の被造物である人間に対する絶対的な主権を表現しています。
いくつかの「選び」を振り返ってみましょう。なぜ神は、弱小のイスラエル民族を神の民として選ばれたのか、なぜ最初の子イシュマエルではなく、二番目の子イサクが神の子として選ばれたのか。なぜ長男エサウがしりぞけられ、不正の手段をつくした次男ヤコブが選ばれることになったのか。なぜ神は敵対者・迫害者であるパウロを選ばれたのでしょうか。
では私たちはどうでしょうか。なぜ私たちは、洗礼を受け、この教会の会員になり、教会に奉仕をしているのでしょう。私たちが真面目で、従順で、優しく、優秀だから選ばれたのでしょうか。これが『神の選び』の問題です。
私たちは、自らの意思と選択で自由に振舞っているように見えますが、実は、神さまの大きな、一方的なご計画の中で生かされているに過ぎないのです。「神の選び」は、信じる者にとっては、「愛」であり、「恵み」なのです。
私たちは、神さまのご計画、御心は知ることはできません。なぜあの人は選ばれ、この人は選ばれなかったのか、なぜ救われる者と救われない者とが分けられるのか。なぜ世の初めに神さまは救いにあずかる者を選ばれていたのか。選びの問題は、人間の理解、見識を、そして民族や国や時代の壁を越えているのです。
私たちは、なぜを追求することより、神さまから「選ばれた事実」「選ばれた恵み」「選びの愛」を感謝して歩みましょう。
(10/1 山本修一師説教)
「愛と罪の赦し」(神の愛⑥)(コロサイ1:14,2:13)
私たちは人を赦すことは、ほんとうに難しいことを知っています。心の中で死んでも赦せない人をかかえている方もいらっしゃるかもしれません。
ペトロは、「兄弟が罪を犯した場合、何回赦すべきか」とイエスに尋ねました。イエスは「7回を70倍するまで」といわれました(マタイ18:21-22)。それは無限に赦すことを意味するものでした。
「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」 (マタイ6:14) ここでイエスは人を赦すことを、しかも無条件で赦すことを教えられます。私たちが天の父からどれほど多くの罪を赦されたか、何度も何度も赦されたかを知っているなら、人を赦すことができる、という意味なのです。
私たちは神さまから何を赦されるのでしょう。私たちの罪です。幼子イエスのご降臨の目的は「自分の民を罪から救うため」(マタイ1:21)といわれています。
改めて「罪とは何か」考えます。第一に、的外れです。的外れとは創造主から外れていること。創造主を忘れ、創造主から離れていることです。第二は、罪とは神の律法に反すること。第三は、生まれながらの罪、原罪です。原罪とは、あらゆる人間のうちに潜む、悪を選ぶ傾向のこと。原罪(心の性質)は、赦される問題ではなく、潔められるべき問題です
聖書が提供する「罪」の解決法は、キリストの十字架による赦ししかないのです。私たちのために十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを信じる者は、罪を赦されるのです。そしてキリスト者は、十字架の血潮によって「赦された」ものとして、互いに赦し合わなければならないのです。
キリストの福音の中心的メッセージがここにあります。キリスト教の救いとは「罪の赦し」でもあります。
(9/24 山本修一師説教)
聖書箇所 コロサイへの信徒への手紙 第1章14節 第2章13節
説教題「愛と罪の赦し」
お話 山本修一牧師
新聖歌 211番 266番
「放蕩息子を待つ父の愛」 (ルカ 15:11-32)
(神の愛⑤)
放蕩息子の物語は、だれもが一度は感動したことと思います。このお話は、「たとえ話の中の真珠」「福音の中の福音」とも呼ばれる有名な箇所です。
このたとえ話は、何を私たちに伝えているのでしょうか。第一に放蕩息子の帰還・悔い改め、第二に父の愛と赦し、第三に、義に生きる兄の不平と不満などのテーマが考えられます。
ところでルカ15章には三つのたとえ話があります。①「見失った羊」のたとえ、②「無くした銀貨」のたとえ、③「放蕩息子」のたとえです。この三つに共通する主題は「失われたもの」「回心」「喜び」です。そして迷った羊が見つかり、失った銀貨が戻り、放蕩息子が帰ったときの大きな喜びで結んでいます。
③では父親は財産を与えたばかりか、それを遊びで使い果たして帰ってきた弟息子を喜び、温かく迎え入れたのです。しかし③の兄は、弟の帰還を喜べず、家に入ることを拒んだのです。ここに兄の深刻な問題がありました。
兄は、父に多年忠実に仕え、言いつけに背くこともなかったのですが、その心は不平、不満がたまっていました。弟を赦せず、弟を無条件に赦す父をも受け入れられませんでした。兄は、父と一緒に住んでいても、弟以上に父の愛から遠かったのです。
私たちの中にも、神と共に歩むことをあかししながら、喜びも感謝も知らず、キリストの愛から離れている人はいないでしょうか。私たちは、今一度、十字架のイエスの元に帰り、罪の告白、人(家族、友人)との和解、ねたみと憎悪の除去、主と共にあることの恵みと豊かさの再発見を求めていきましょう。それが私たちのなすべき悔い改めのわざに他なりません。
(9/10 山本師説教)
聖書 イザヤ書46章1節~4節
説教題「主との二人旅」
お話 柏明史牧師
新聖歌 396番 355番
「善きサマリア人のたとえ」 (ルカ 10:25-37)
(神の愛④)
「善きサマリア人の物語」は、とても有名で、印象的で、感動的な聖書のお話です。
律法の専門家から「隣人とはだれか」と問われて、イエスはサマリア人のお話を展開します。
物語に登場する通行人が、祭司とレビ人、ユダヤ人の嫌うサマリア人の三人でした。強盗に襲われたユダヤ人の旅人が横たわっています。
祭司、レビ人は、瀕死の旅人の側に近づかず、向こう側を通って(避けて)過ぎ去りました。この「向こう側」との言葉に注目しましょう。「向こう側」とは、単に「道のあちら側のことではありません。それは「相手の立場に立つことなく、自分の立場に立つこと、すなわち自分の可能なことだけ、ただ自分のできる範囲だけで、人を愛するという立場に立つこと」です。彼らは旅人の痛み、苦しみを慮(おもんぱか)るのではなく、自分の立場ばかりを考えていました。やれ祭司服が汚れる、やれ仕事の帰りで疲れている。もし死んでいたら、一週間のきよめの儀式を行わなければならない、ぐずぐずしていたら別の強盗に襲われる可能性がある、などなどです。
このサマリア人の愛・親切は、国、宗教、敵・味方,親疎などすべての境界線・壁を超えるものでした。その愛の中心には、「憐れに思う心」(33)すなわち「はらわたを突き動かされる」「心を揺り動かされる」慈愛がありました。
愛とは、「だれが隣人か」と問うことではありません。「あなたも同じようにしなさい」(37)というイエスの言葉に従うのが愛です。すなわち私たちが愛の行為をすれば、その人は隣人となり、なんの行為をしなければ隣人にならないのです。主イエスは宗教的指導者に対して、「あなたたちは何をすべきかを(律法で)知っているのに、実行しようとはしない」「自分の可能なことだけをし、自分のできる範囲のことをしているだけでは、隣人を愛したことにはならない」と語るのです。厳しいイエスのお言葉ですが、私たちに向けられたメッセージでもあります。
(9/3 山本師説教)