聖書箇所 ヨハネによる福音書第8章1~11節
説教題「あなたを罪に定めない」
お話 山本修一牧師 (山本牧師のご都合により代読)
新聖歌 222番 182番
聖書箇所 ヨハネによる福音書第8章1~11節
説教題「あなたを罪に定めない」
お話 山本修一牧師 (山本牧師のご都合により代読)
新聖歌 222番 182番
聖書箇所 イザヤ書大11章1節~10節
説教題 「平和の主」
お話 柏 明史 牧師
新聖歌 303番 209番
「愛がなければ」(神の愛②)
(Ⅰコリント書 12:31~13:13)
Ⅰコリント13章は新約聖書全体を通して最もすばらしい「愛の章」「愛の賛歌」といわれるところです。コリント教会はそれほどすばらしい、理想的な教会だったのでしょうか。
パウロはコリントで長く滞在し、生活を共にしたのですが、伝道は困難を極めました。「神よりも悪魔が支配しているとさえ思われる」(カルヴァン)、欲望や自己中心が渦巻いているような教会でした。不一致、分裂、争い、訴訟、性的不品行、偶像への供え物、などの問題が絶えませんでした。日本の最悪といわれる教会よりひどかったかもしれません。信徒にはねたみがあり、高ぶりがあり、いらだちがあり、恨みもあるような状況だったのです。パウロは、愛の賛歌を格調高く歌い上げたものではなく、信徒を叱責し、戒め、勧告をしたものであります。
15の愛の定義(4)は、具体的な愛を提示するものです。「愛」を「神」に換えて読むと、改めて神の愛を理解できます。逆に「愛」を「私」に言い換えて読むことを勧めるのが作家の三浦綾子さんです。不思議にも自分の弱い、みじめな姿がよく見えてくるようになります。
「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(13)。コリント教会では信仰や希望の大切さの陰に隠れて、愛の問題がおろそかになっていました。現代の教会にも通じることです。
パウロは信仰と希望は愛の中に含まれている(7)というのです。私たちは主イエスの十字架を通して、愛を知りました。その神の愛に応えるのが信仰であり、この救いに希望を置くのがクリスチャンです。
私たちは神の愛をとことん知り、神を愛する者にとことん変えられて、始めて「生きる者」になるのです。私たちは この「愛がなければ」生きることは出来ないのです。
(8/13 山本師 説教)
「はかりしれない愛」 (エフェソ書 3:14-21)
ひとまず「ヨハネ福音書の七つのしるし」を終了し、今月から「愛」について、何回かにわたるシリーズで考えていきます。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハネ4:10)。「ここにある」神の愛は聖書を通して、十字架を通して知る愛です。人間の罪を救うために、御子イエスは地上に来られ、十字架にお架かりになりました。これが「神の愛」です。
とはいうものの「神の愛」「十字架の愛」とは、何のことか理解に苦しむものですが、一面、救いを信じる私たちの心に、気高さといたわりをもって迫るものでもあります。現代の社会において、「愛」という言葉が氾濫していますが、私たちキリスト者は「神の愛」に焦点を合わせて学んでいきましょう。
エフェソ書では、パウロは獄中から、元気をなくしたエフェソの教会の人々に手紙を書き、今一度奮い立って「愛に根ざし、愛に立つ」ようにと励ましています。パウロは「キリストの愛」は「人知をはるかに超えた愛」 (19)であり、その愛を「広さ」「長さ」「高さ」「深さ」の視点から表現しています。
パウロはエフェソの人たちのために祈ります。「内なる人が強められるように」「キリストが内住するように」「神の愛をもっと知るように」「霊にあって満たされるように(成熟するように)」。これは同時に私たちの祈りの目標です。
私たちは日々の忙しさ、この世の営みに心を奪われて「神の愛を知ること」がおろそかになっていないでしょうか。
(8/6 山本師 説教)
聖書 コリントの信徒への手紙一 第12章第31節~第13章1節~13節
説教題 「愛がなければ」
お話 山本修一牧師
新聖歌 220番 342番
聖書箇所 エフェソの信徒への手紙第3章14節~21節
説教題 「はかりしれない愛」
新聖歌 500番 216番
「有能な人より有益な人に」 (フィレモン 8-22)
パウロは、コロサイ教会の有力な信徒であるフィレモンの家から逃亡した奴隷のオネシモを赦して、主にある兄弟として受け入れて欲しいと、フィレモンに依頼しています。今やオネシモは役に立つ人、有益な人になったといっています。新約聖書の中で役に立つ人、有益な人として紹介されているのは、オネシモとマルコの二人だけです。しかし、この二人はいずれも、過去において大失敗をした人でした。しかしパウロやバルナバの愛の導きによって、役立たずの者から、役に立つ者へと変えられていったのです。聖書は、有能な人ではなくても、周りの人を慰め、励まし、温かく覆い包むような人となることを勧めています。その人の周りには、いつも平和があり幸せな空気が流れている。有益な人とはそういう人のことです。有能な人は自分の内側にあるものによって仕事をします。しかし有益な人とは、自分を超えたもの、神様から与えられるものによって仕事をします。神様にしっかりと繋がれて、神様の恵みの中で喜んで生きているならば、その人がそこにいるだけで周囲に慰めと励ましの輪が広がるのです。逃亡奴隷であったオネシモは、後にエフェソの教会の優れた監督として、多くの教会員から尊敬される者へと変えられていきました。当時、エフェソの教会においてパウロの手紙が集められ、書簡集として編纂されることになりました。フィレモンへの手紙には、オネシモが盗みを働いて主人の家から逃亡した奴隷であったということが記されています。オネシモにとっては、覆い隠したいような暗い過去の出来事です。それにも拘らず、オネシモはこの短い手紙を書簡集に是非加えたいと強く願いました。自分に注がれた神様の恵みの大きさをすべての人に知ってもらいたいと強く願ったからです。 (7/23 柏師説教から)
聖書箇所 ヨハネによる福音書第11章28節~44節
説教題「ラザロ出てきなさい」
お話 山本修一先生
新聖歌 202番 221番
聖書箇所 フィレモンへの手紙 8節~21節
説教題 「有能な人より有益な人に」
新聖歌 392番 233番
「神の業が現れるために(2)」(ヨハネ 9:13-41)
ヨハネ書9章の前半は、主イエスが生まれつき目の見えない人を癒やす話でしたが、後半では、もっと大切なこと、すなわち霊の目が開かれる話が展開されていきます。
その日は安息日でした。ファリサイ人たちは、盲人の目を癒やしたことはともかく、安息日を守らなかったことに腹を立て、怒ったのです。ファリサイ派の人たちは、形式的な律法解釈にこだわり、心がかたくなになり、神の業(神の栄光)が見えなくなっていました。ヨハネ書は「安息日にとらわれて、神の業を喜ばない」ファリサイ派の人たちのかたくなな罪を指摘しているのです(41)。
一方、盲人だった人は、執拗な、誘導的な尋問を通して、逆に目が開かれるように、イエスに対する認識が「人」から「神の子」へと変わっていったのです。
苛立ったファリサイ人たちは、癒された盲人を外に追い出します。彼を追放します。ユダヤ人社会から破門にします。もうシナゴーグで神を礼拝することはできません。正しいことを貫いたゆえに、このような辛い目にあうのです。しかしここから彼の新しい人生が始まるのです。
イエスは会堂から追放された盲人に会うために来られた。再会した盲人は、イエスを「主」と知り、ひざまずき、「主よ、信じます」と感謝を込めて信仰告白をしたのです。盲人だった人は肉体の目ではなく、霊の目も開かれ、主イエスに出会ったのです。
ヨハネ書は、七つのしるしの六番目のしるしを通して、霊の目が開かれることの大切さを強調しています。
私たちも霊的なことに対して無知で、鈍感で、盲目ではないでしょうか。いっそう謙遜になって目が開かれるよう祈っていきましょう。
(7/9 山本師説教から)