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2023/10/1 週報メッセージ

「愛と罪の赦し」(神の愛⑥)(コロサイ1:14,2:13) 

                 

私たちは人を赦すことは、ほんとうに難しいことを知っています。心の中で死んでも赦せない人をかかえている方もいらっしゃるかもしれません。

ペトロは、「兄弟が罪を犯した場合、何回赦すべきか」とイエスに尋ねました。イエスは「7回を70倍するまで」といわれました(マタイ18:21-22)。それは無限に赦すことを意味するものでした。

「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」 (マタイ6:14) ここでイエスは人を赦すことを、しかも無条件で赦すことを教えられます。私たちが天の父からどれほど多くの罪を赦されたか、何度も何度も赦されたかを知っているなら、人を赦すことができる、という意味なのです。

私たちは神さまから何を赦されるのでしょう。私たちの罪です。幼子イエスのご降臨の目的は「自分の民を罪から救うため」(マタイ1:21)といわれています。

改めて「罪とは何か」考えます。第一に、的外れです。的外れとは創造主から外れていること。創造主を忘れ、創造主から離れていることです。第二は、罪とは神の律法に反すること。第三は、生まれながらの罪、原罪です。原罪とは、あらゆる人間のうちに潜む、悪を選ぶ傾向のこと。原罪(心の性質)は、赦される問題ではなく、潔められるべき問題です

聖書が提供する「罪」の解決法は、キリストの十字架による赦ししかないのです。私たちのために十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを信じる者は、罪を赦されるのです。そしてキリスト者は、十字架の血潮によって「赦された」ものとして、互いに赦し合わなければならないのです。 

キリストの福音の中心的メッセージがここにあります。キリスト教の救いとは「罪の赦し」でもあります。

(9/24 山本修一師説教)

2023/9/17  週報メッセージ

「放蕩息子を待つ父の愛」 (ルカ 15:11-32) 

     (神の愛⑤)

放蕩息子の物語は、だれもが一度は感動したことと思います。このお話は、「たとえ話の中の真珠」「福音の中の福音」とも呼ばれる有名な箇所です。

このたとえ話は、何を私たちに伝えているのでしょうか。第一に放蕩息子の帰還・悔い改め、第二に父の愛と赦し、第三に、義に生きる兄の不平と不満などのテーマが考えられます。

ところでルカ15章には三つのたとえ話があります。①「見失った羊」のたとえ、②「無くした銀貨」のたとえ、③「放蕩息子」のたとえです。この三つに共通する主題は「失われたもの」「回心」「喜び」です。そして迷った羊が見つかり、失った銀貨が戻り、放蕩息子が帰ったときの大きな喜びで結んでいます。

③では父親は財産を与えたばかりか、それを遊びで使い果たして帰ってきた弟息子を喜び、温かく迎え入れたのです。しかし③の兄は、弟の帰還を喜べず、家に入ることを拒んだのです。ここに兄の深刻な問題がありました。

兄は、父に多年忠実に仕え、言いつけに背くこともなかったのですが、その心は不平、不満がたまっていました。弟を赦せず、弟を無条件に赦す父をも受け入れられませんでした。兄は、父と一緒に住んでいても、弟以上に父の愛から遠かったのです。

私たちの中にも、神と共に歩むことをあかししながら、喜びも感謝も知らず、キリストの愛から離れている人はいないでしょうか。私たちは、今一度、十字架のイエスの元に帰り、罪の告白、人(家族、友人)との和解、ねたみと憎悪の除去、主と共にあることの恵みと豊かさの再発見を求めていきましょう。それが私たちのなすべき悔い改めのわざに他なりません。

(9/10 山本師説教)

2023/9/10  週報メッセージ

「善きサマリア人のたとえ」 (ルカ 10:25-37) 

        (神の愛④)

「善きサマリア人の物語」は、とても有名で、印象的で、感動的な聖書のお話です。

律法の専門家から「隣人とはだれか」と問われて、イエスはサマリア人のお話を展開します。

物語に登場する通行人が、祭司とレビ人、ユダヤ人の嫌うサマリア人の三人でした。強盗に襲われたユダヤ人の旅人が横たわっています。

祭司、レビ人は、瀕死の旅人の側に近づかず、向こう側を通って(避けて)過ぎ去りました。この「向こう側」との言葉に注目しましょう。「向こう側」とは、単に「道のあちら側のことではありません。それは「相手の立場に立つことなく、自分の立場に立つこと、すなわち自分の可能なことだけ、ただ自分のできる範囲だけで、人を愛するという立場に立つこと」です。彼らは旅人の痛み、苦しみを慮(おもんぱか)るのではなく、自分の立場ばかりを考えていました。やれ祭司服が汚れる、やれ仕事の帰りで疲れている。もし死んでいたら、一週間のきよめの儀式を行わなければならない、ぐずぐずしていたら別の強盗に襲われる可能性がある、などなどです。

このサマリア人の愛・親切は、国、宗教、敵・味方,親疎などすべての境界線・壁を超えるものでした。その愛の中心には、「憐れに思う心」(33)すなわち「はらわたを突き動かされる」「心を揺り動かされる」慈愛がありました。

愛とは、「だれが隣人か」と問うことではありません。「あなたも同じようにしなさい」(37)というイエスの言葉に従うのが愛です。すなわち私たちが愛の行為をすれば、その人は隣人となり、なんの行為をしなければ隣人にならないのです。主イエスは宗教的指導者に対して、「あなたたちは何をすべきかを(律法で)知っているのに、実行しようとはしない」「自分の可能なことだけをし、自分のできる範囲のことをしているだけでは、隣人を愛したことにはならない」と語るのです。厳しいイエスのお言葉ですが、私たちに向けられたメッセージでもあります。

9/3 山本師説教)

2023/9/3 週報メッセージ

「あなたを罪に定めない」 (ヨハネ 8:1-11) 

      (神の愛③)山本修一

ファリサイ派の人たちは、現行犯で逮捕された姦淫の女を、イエスの前に連れてきました。イエスを試すためでした。

もしイエスが「この女を赦してあげなさい」と言われたら、イエスはモーセの律法にそむく者と非難したことでしょう。もしイエスが「この女を石で打ちなさい」と言われたら、日頃のイエスの愛の言動と矛盾すると非難したことでしょう。この女のいのちを救うにしても、女の処刑を肯定するにしても、いずれも窮地に立たされるところでしたが、主は威厳と知恵を持って勝利されました。『罪なき者が女を打て』。その言葉が宗教的指導者たちの心に突き刺さったとき、彼らは握りしめていた石を捨ててその場を去りました。

この印象的な物語は私たちに、罪と赦し、律法と裁き、愛と死など多くの真理を伝えるものですが、なお最後に、「自己吟味」を学びます。私たちは、他人の過ち、欠点、罪はよく見えても、自分自身のものはよく見えません。マタイ書でも人間の盲点(マタイ7:1-5)として取り上げられているところです。しかも自分の罪(欠点、弱点)は棚上げにして、他人の罪を責め、自分の義(正しさ)を押し通そうとする傾向があります。イエスの『罪なき者が打て』とのみ言葉が、彼らの良心を呼び覚まし、自分の罪と欠点に向き合うように強いたのです。

信仰の世界では聖書に照らしての自己吟味、自己点検、自己検査がとても大切です。私たち自身が罪人であること(ローマ3:23)、たえず神の恵みと憐れみが必要であることを自覚し、主の赦しを求めることに熱心でありたいものです(1ヨハネ1:9)。

         (8/27 代読 説教)