聖書箇所 テサロニケの手紙二 第4章13節~18節
説教題「再臨信仰と被弾圧」
お話 川﨑 理子 牧師
新聖歌 444番 464番
聖書箇所 テサロニケの手紙二 第4章13節~18節
説教題「再臨信仰と被弾圧」
お話 川﨑 理子 牧師
新聖歌 444番 464番
聖書箇所 ルカによる福音書第13章22節~30節
説教題「命に通じる門」
お話 川﨑 信二 牧師
新聖歌 211番 212番
新生、聖化、神癒、再臨
川﨑 信二
『四重の福音』と呼ばれるホーリネス系教会の信仰告白とも言える教義がある。6月は強調月間となっている。
信仰告白といえば、使徒信条やニカイア信条といった基本信条(世界信条)があるのに、何故4つだけピックアップして強調するのか。私には疑問である。むしろ、4つどころか、日本基督教団信仰告白に示されているように大事なことは更に多くあるはずなのに、わざわざ4つにまとめるとはどういうことか。他の告白(教義)はどうでもよい、というのか。それ故に「四重の福音」について分からない、というのが私の正直な気持ちだ。
これは決して「四重の福音」を否定しているのではなく、私の頭では理解できないという意味である。分かる日が来るよう祈り求め続けたいと願わされている。こんな者をこの群れに置いてくださる寛容さに感謝している。
私なりに思うのは「四重の福音」とは単なるピックアップではなく、「個人の救い」に関わる大事な事柄。
四重とあるように、4つは一体で切り離せない大切なもの。私たちの救いに直結する神のわざ(福音)、といえる。
新生は信仰義認、聖化は聖霊を受けて成長する、神癒は死からの復活。どれも福音の根幹である。この中で「再臨」は今後起きる未来の恵み。この再臨信仰こそ私たちの希望である。そしてこの再臨信仰が、かつての天皇制の下に行われた宗教弾圧のきっかけとなった教義である。
再臨信仰が、政治権力で抑えつけようとしても抑えきれないものであり、戦後復興した教会の姿はそれがどれほど大事なものか、を教会の歴史が物語っている。
もし「四重の福音」を「強調」することで他教派と歩めず、分裂や離脱することがあれば、何かが違っているように思う。「強調」より「協調」こそが今の日本基督教団に必要なものではないか。
日本基督教団に留まったホ群の使命は「違い」を強調し、「色」を鮮明にすることよりも「一致点」を見いだし、互いに愛し合う教団の姿こそが今後世に証するものではないか、と思わされている。
「見えない光」 (ヨハネ9:40-41)
川﨑 信二
ある日曜日の午後、教会の皆さんと礼拝堂にて上を見上げ、天窓から差す陽の光について語り合いました。
「夏は本当に暑いんだよね」とある信徒さん。
建物の中に燦々と日の光が注がれるのは有難いことですが、暑すぎると健康面や礼拝そのものにも支障が出るのかもしれません。私はまだ夏を経験していませんが。
聖書では天から注がれる光は「闇夜を照らすまことの光」(ヨハネ1:5)であり、独り子イエスの栄光です。私たちの罪を白くして救うところの神の愛が、この光に込められているのです。
一方で、光は神の審きとも言えます。隠れた罪を光の前にあぶり出し、晒すのです。使徒パウロはキリスト者を迫害していた時に主の光に打たれて地に倒れました(使徒9章)。
私たちは光に耐えられない生き物。神に直接会おうとしても眩しすぎて見ることさえできないのです。人の罪を審く神の義。そこに神の愛が注がれて初めて光は穏やかな光となる。
神の愛とは御子イエスを天から贈って下さる無償の愛です。故に私たちは光の子として歩むことが許されているのです。
時に、神は人を見えなくさせ、不自由にさせます。本当の光(真理)を見えるようにさせるために、です。
山口博子さん(ゴスペルシンガー)の歌で『時を忘れて』という曲があります。
目を閉じなければ見えない世界がある。
口を閉じなければ言えない言葉がある。
耳をふさがなければ聞こえない声がある。
歩み止めなければ会えない人がいる。
少しくらい遅れたとしても大切なものを
見つけたいから‥‥
道であり真理であり命である主に尋ね求める
時を忘れて‥‥♪
「わたしが選んだ器である」 (使徒9:15)
川﨑 理子
5月は父、息子、姪っ子そして自分の誕生日に加え、受洗記念日がある月で、「おめでとう」「ありがとう」とのメッセージを沢山受け取り、また伝える月だった。
上記の御言葉は35年前に受洗後の学び会で、開かれた箇所である。それこそ沢山の方々から「おめでとう」と受洗の祝福を頂いたのだが、聖書の学びをしてないのは不味いのではと思い、牧師に相談すると、「祈祷会へ来ているから大丈夫。でも、学んでみたい箇所があるなら」と言われ、私は「使徒行伝を学びたい」と伝えた。
新約聖書の「〇〇への手紙」の殆どはキリスト者を迫害していたパウロが著者だったので、パウロを知りたいと思った。自分で読んで気になる箇所を牧師に質問するという学びが始まった。9回目の学びで「なぜアナニアに幻の中で主はサウロのところへ行け、と言われたのかな」と牧師から質問されたので、「ダマスコにアナニアがいたから。」(使徒9:10)と答えた。「そうですね。もう一度理子さん、15節を読んで下さい」「すると、主は言われた。行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」
「この言葉でアナニアは兄弟サウルの為に主がわたしをお遣わしになったと知ったんだね。」と牧師。今思い返してみると普通の会話だ。しかし、質問されたのはあとにも先にもこの一回だけだった。この学びの最後に、「行け。わたしが選んだ器だ」に促されて受洗し牧師になり、今日在るを得ている。今鮮明にあの時の事が思い出されるのは、私を桜ヶ丘教会へ主がお遣わしくださったからだ。
「一人ひとり」そして「一同」と共に
川﨑 信二
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。Ⅱコリント13:13
パウロが書いた手紙の最後にある祈りの言葉です。礼拝においては頌栄の後に祈られる「祝福の祈り」、また「派遣の祈り」とも言われています。これは多くの教会で用いられている「使徒的祝祷」と呼ばれるもので、「三位一体の神からの祝福」を祈る形がとられています。
パウロはどの手紙でも相手の祝福を祈って手紙を書き、また相手の祝福を願って祝祷で手紙を閉じています。問題の多いコリント教会の兄姉たちが生活の中に三位一体の神の祝福を意識しながら歩むようにとの思いが込められています。父・子・聖霊はどの教会の祝祷も同じです。
「あなたがた」と「一同」という言葉。あなたがたは「一人ひとり」という意味です。礼拝の祝祷には牧師によって様々な言い方がありますが、聖書ではほとんどの翻訳が「あなたがた一同」となっています。文語訳では「なんぢら凡(すべ)ての者(もの)と偕(とも)にあらんことを。」、前田護郎訳では「皆さんとともにありますように。」となっています。「皆さん」だけではどうしても、皆「ひっくるめて」とか「一緒くたに」という、一括りの響きがあります。
「あなたがた」には、お一人一人のお顔を思い浮かべつつ、お一人一人を大切にする思いが込められています。また「一同」には教会が「ばらばら」にならないで一つになって歩むようにとの思いが込められているのではないでしょうか。
まさに今の状況。全員が礼拝堂に一同で会することのできない状況下にあって、場所は違えど、ばらばらではなく心を合わせる。一つの信仰が試されているような気がします。
私たちは聖日ごとに聖霊の息を吹きかけられて(ヨハネ20:22)それぞれの持ち場へと遣わされます。目に見えない聖霊の交わりの中に身を置くこと、それが最も大切なことであると改めて確認させて頂きたいと思います。
聖書箇所 ヨハネの手紙一 第2章20節~29節
説教題「信仰の道」
お話 川﨑信二 牧師
新聖歌 420番 446番
聖書箇所 マタイによる福音書第25章14節~29節
説教題「いのちを使う」
お話 川﨑信二牧師
新聖歌 135番 409番
聖書箇所 使徒言行録第2章1節~11節
説教題「聖霊は主の賜物」
お話 川﨑理子牧師
新聖歌 136番 132番
「だれでもわたしのもとに来なさい」
マタイ11:28 川﨑 理子
ゴールデンウイークの最中、星野富弘さんの訃報がテレビの報道で流れた。いのち溢れる詩人だった。
私の父は元銀行員。現役時代から詩を書いていた。ジャンルは現代詩らしい。星野さんのことを伝えると「情報を有り難う」と一言。
父は30年前、ホーリネス誌に中山倫子先生の後を引き継ぐ形で暫く詩を書いていた。2011年以降は自分のライフワークとして「震災詩」を書いている。『信徒の友』の教会紹介や、『こころの友』で父に似たような人がいるな(写真で)と思ったら父だった。そこで「震災詩人」との肩書を知った。正直今迄に父が書いていた作品はよく分からなかった(実家に凄い賞の数々が飾ってある)が、震災詩には父の信仰が見えて胸が熱くなった。
星野さんが一番初めに出会った御言葉は「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
私はイエス様の「だれでも」に愛を感じる。星野さんは「私がどんなに絶望しようが、どんなに生きたくないと思おうが、いのちというものが一生懸命生きようとしているのです」と、語っていた。
私の父も神が与えられた命を一生懸命生きている。私は毎日イエスさまのところに行く!そして休む!祈る!
何十年か振りに私はアパ・ルームを使用中。満たされるのは大事だ、と一ヶ月の新生活で改めて知らされた。