榊原紀惠子 のすべての投稿

2023/6/4 週報メッセージ

「霊的な救い」 (マルコ 5:1-:20) 

悪霊に取り憑かれ、正気を失っていた人を、主は救われました。主は悪霊を、この人から2000匹の豚の中に移したことで、悪霊から解放されました。悪霊はレギオンという名。大勢いた。たくさんの悪霊が一人の人を苦しめていたのです。

ここでいう「大勢」とは、豚2000匹の飼主、養豚で利益を得ている人、その税収入で支えられていた町全体を指します。また大勢とは国家のことであり、社会であり、この世の営みのことでしょう。彼らが生きるために、彼らの罪を一人の男に背負わせて世の隅っこに閉じ込めていました。

大勢の社会に馴染めない人がいます。また無理をして社会に合わせようとするために、自分らしさを失って病んでいる人がいます。「正気に戻る」とは、たとえ大勢の人とうまくやれなくても自分らしく生きられるようになった人のことではないでしょうか。99匹と迷子の1匹の羊のように主イエスは1匹の救いのために命を犠牲にされました。主イエスは大勢の人に捕らえられ十字架で死なれました。一緒に十字架にかけられて悔改めた罪人に対して「今日、あなたはわたしと共にパラダイスにいる」と語られました。神は個の救いをまず大事されます。

大勢の99匹だけでは欠けています。1匹のピースが嵌ってこそ100%(完全な救い)となります。自分らしさを失ったあなたが救われることを神は願っておられます。

その1匹を教会は迎え入れるのです。社会に馴染めない人も、教会に溶け込めない人もゆるく受け容れるのです。その1匹に大勢の罪を担わせ、追い出してはいけないのです。なぜなら、主イエスが全ての人を十字架で担い、全ての人の罪を赦して下さったからです。あなたの魂が、わたしの魂が主によって霊的に救われることが人生で最も大切なことではないでしょうか。

(5/28 川崎信二師 説教)

2023/5/28 週報メッセージ

「注がれる愛」 (エレミヤ 31:20、ホセア11:8) 

義なる神様は、ご自分に背き、異教の神々を礼拝するイスラエルの民を、裁かざるを得ません。そのことを怒り、そして深く嘆かれます。エレミヤ書は、1章からずっと、神様の怒りと裁きについて語っています。しかし31章に入りますと、今までの裁きの言葉が消えて、慰めに満ちた愛のメッセージが語られています。神様は、罪を犯し続けるイスラエルを、裁かなければならない。しかし、裁けば裁くほど、イスラエルに対する神様の思いは、更に深まるというのです。「彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられない」(31章20節)。この「胸は高鳴り」という言葉を、ある英語の聖書は「my heart is broken」 と訳しています。裁かれる者ではなく、裁く神様の方が、胸が張り裂けるばかりに苦しまれているのです。神様は、罪を犯して裁きを受けなければならない弱い私たちを、どうしても見捨てておくことが出来ないお方なのです。

ホセアという預言者も、イスラエルを裁かなくてはいけない神様の愛と苦しみを預言しました。ホセア書11章8節は、裁きの神が愛の神と戦われ、苦しまれているお姿を語っています。「憐れみに胸を焼かれる」という言葉を、ある英語の聖書は、「my love for you is too strong」と訳しています。「あなたに対する私の愛は、強すぎる」というのです。強すぎる愛の故に、神様は苦しまれるのです。心の向きを強引に変えて、裁きを愛に替えてくださったのです。この神様の愛と苦しみは、主イエスの十字架において、その頂点に達しています。主イエスの十字架は、神様が愛と裁きのジレンマの中で苦しまれた、その究極のお姿を示しています。十字架は、神様の怒りに神様の愛が勝利した場所なのです。十字架の苦しみ。それは、私たちのことを見捨てることができない、神様の激しいばかりの痛みなのです。

(5/21 柏明史師 説教)

2023/6/4  創立100周年記念      チャペルコンサート&記念日礼拝  岸義紘先生をお迎えして

聖書箇所 ルカによる福音書 第7章36節~50節

説教題 「事実・真実・メッセージ」(多く赦された人は多く愛する)

お話 岸義紘先生

新聖歌 188番 108番 434番 60番

※お詫び:本日の動画は、容量不足で途中で切れたり「その1からその3」まで3動画に分かれております。申し訳ございません。素晴らしいメッセージを3動画で御視聴ください。

2023/5/21 週報メッセージ

「母さん、ありがとう」 (エフェソ 6:2-3)

 

  本日は、ご一緒に母の日礼拝をささげましょう。皆様は「お母さん」に対して、どんな思い出を持っておられることでしょうか。

 父にではなく、母にしか流せない涙があります。子を思う母の涙です。家族の救いのために母にしか出来ない愛の姿があります。私たちは母の祈りによって、涙によって育てられました。教会もこの母たちの涙の祈りに支えられているのです。

  この時代が急激に変化し、ものの見方・考え方・価値観が大きく変わってきています。家族観、夫婦観、母性観も揺らいでいます。

ところで聖書の教えるものは古い、時代とマッチしない…と考える人がいます。そうでしょうか。聖書はいつの時代であれ、変わらないもの、変えてはならないものがあることを伝えているのです。

 パウロは「父と母を敬うこと」は、すべての人間関係において、基本中の基本として「最初の掟」と考えたのでしょう。「父と母を敬う」こと、母の愛に感謝することは、いつの時代であれ、どこの国であれ不変な真実です。

 聖書の中には、わが子のために、涙ながらに祈る母が、何人も登場します。モーセの母ヨケベド、サムエルの母ハンナ、イエスの母マリア…これらの母親たちの信仰と祈りが、生きざまが、子どもに大きな良き影響を与えたと考えられるのです。

  歴史的に有名な母といえば、古代の神学者アウグスティヌスの母モニカでしょうか。手塩をかけて育てた息子が、キリスト教信仰に反発し、母の元を去り、放蕩生活をし、肉欲におぼれ、異端のマニ教に走ったのです。モニカはひたすら祈りました。日々涙の祈りをささげました。「現代のモニカ」にとって「涙の祈りはきかれる」(イザヤ38:5)という信仰、「涙の子は滅びない」という祈りを深く教えられるのです。       (5/14山本師 説教)

2023/5/14 週報メッセージ

「起き上がりなさい」 (ヨハネ書  5:1-18) 

  今週から、ふたたびヨハネ福音書から「七つのしるし」を学んでいきます。今回は三番目のしるしです38年間も病気で苦しんできた人が、イエスの命令によって起き上がったというしるしです。

  38年間病気だった人は、ベトザタ池の言い伝え(伝説)は信じていましたが、イエスを信じていたわけではありません。イエスに近づき、癒やしを求めたわけでもありません、癒やされたときも、祭の時であったとはいえ、イエスへの感謝の一言もありません。安息日の律法違反の罪を問われるとイエスに押しつけました。…どうみても自分のことしか見えない、非常識な人です。

  この第三のしるしでは、その人に信仰があったかどうかではなく、癒やし主がどのようなお方であったかに力点が置かれています。最初から最後まで、イエスが主導権を持って、この人に憐れみをそそがれました。ベトザタの池に行かれたのも、その男に近づき、声をかけられたのも、癒やされたのもすべてイエスの一方的な「憐れみ」によるものでした。この池が「ベトザト」(あわれみの家)という名前であったのもそのためでしょうか。

  私たちはしるしを求めることによって神を信じることができると思いやすいのですが、そうではなく、神の言葉を信じることによって、神のしるしを見ることができるのです。

  最後に、イエスから私たちに「良くなりたいか」「変えられたいか」と問うておられます。私たちの信仰生活がずっとかたちだけで、とどまっていることはないでしょうか。私たちは今一度、信仰生活が良くない状態にあるという自覚があるか、良くなりたいという願望があるか、本気で良くなりたいという意欲があるかを点検して見ましょう。

(5/7山本師説教)

2023/5/7  週報メッセージ

「あなたはわたしを愛するか」 (ヨハネ書 21:15-19

山本修一

  今週もヨハネ書21章から学びます。21章は、不思議な章です。ヨハネ書は20章の終わりの結びの言葉で完結し、21章でまた新しく始まっているようです。この謎は後世の人が編集加筆したものと考えられています。それにしても21章は、20章と並んで、ヨハネ書の中でもっとも重要な章といわれています。21章は、主イエスの復活は幻影・幻想ではなく、現実であったことを決定的に示すものとして付け加えられたと考えられているのです。

 主イエスの「あなたはわたしを愛するか」という質問が、なぜ三度もくり返されたのでしょうか。

ペトロは十字架前に、臆病で不信仰であったために、イエスを否認して、その場から逃亡しました。しかし彼の心は深く傷つき、痛みを味わっていました。主イエスは、ペトロが立ち上がり、羊の群れを牧するように、ペトロの悪夢のような記憶を癒やし、愛の呼びかけをなされたのです。ペトロは三度主を否定したのですが、主はペトロに三度も愛の応答をさせたのです。この神さまに対する愛の確認によって、ペトロの心は癒やされ、霊的に回復したのです。

ペトロは、その後、初代教会の指導者として、立派にその役割を果たしていくことになります。教会も、そこから大きく成長していくのです。(使徒2~5、10~12章)。

  私たちは、「目に見えない神さまを全力を尽くして愛する(マル12:30)ことなど、どうしてできるのか」と、初めから諦めてしまっていることはないでしょうか。将来のことではなく、過去のことでもなく、主イエスは「今」、私たちの気持ちはどうなのかと呼びかけておられるのです。(4/30 山本修一師 説教から)