榊原紀惠子 のすべての投稿

2023/7/9 週報メッセージ

「神の業が現れるために(1)」 (ヨハネ 9:1-12) 

七つのしるしの6番目を学びます。この6番目と7番目は「七つのしるし」の中で特に大切なものです。

この6番目の物語は、生まれつきの盲人の目がいやされるというお話しですが、このテーマは「目が開かれること」です。目の見えない盲人が、肉眼のみならず、霊の目が開かれていく様子が詳細に語られています。

「この人が生まれつき目が見えないのはどうしてですか」との疑問は、弟子たちだけでなく、当時の人々の共通するものでした。因果応報という考えが支配していました。目の障害(結果)は、本人の罪か両親の罪が原因していると考えました。私たちの中にも、障害・災い・不幸があると、原因を追及したり、だれかを批判したり、環境のせいにしたりする傾向がないでしょうか。

イエスさまは、「だれの罪のせいでもないんだよ」と因果応報をきっぱりと否定されました。そうではなく「神の業が現れるため」と宣言され、即座にみ業を行われたのです。「神の業」とは「神の恵み、憐れみ、信仰、救い、いのち」です。この盲人は、生まれたときから、本人や両親に罪があるからと決めつけられ、神に見捨てられた罪人として、いわれなき苦しみを背負ってきました。主イエスの言葉は、思いもかけない、驚くべき言葉でした。

生まれながらの障害については、だれにもその原因はわかりません。神の目から見て、なぜこのような障害があるのか、神のみ業がどのように表れているかを考えていくことが求められています。星野富弘さん、レーナ・マリアさん、水野源三さんらは、重い障害を負いながら、なんと驚くべき豊かな人生を送られたことでしょう。すべて「神の業が現れるため」です。

最後に冒頭で、この物語のテーマは「目が開かれること」とお話しました。聖書は私たちの目が盲目であることをたびたび強調しています。私たちは霊の目が開かれるように日々、求めているでしょうか。 

(7/2  山本師説教から)

2023/7/2  週報メッセージ

「わたしだ。恐れることはない」 (ヨハネ 6:16-22) 

 

再び、ヨハネ書の「七つのしるし」を学んでいきます。今回は五つ目の「湖の上を歩くイエス」の話です。弟子たちを乗せた舟は逆風と高波のため進むことが出来ず、真っ暗な湖上で何時間も立ち往生していました。そこにイエスが湖の上を歩いてこられたという話です。

「こんな話はバカバカしい」「ありえない」と否定したり、軽視したり、飛ばしたりすることはないでしょうか。ついつい私たちは聖書の中の不可能、不可思議、不自然、疑問、神秘的と思われる出来事につまずきやすいのです。この「しるし」が,当時の人々に、そして現代の私たちに何を意味し、何を伝えようとしているかを読み取ることが大切です。

舟内には漁師の経験のある弟子たちも混じっていましたが、逆風と高波は彼らの経験、知恵、力をもってしても、なすすべがありません。コントロール不能の状態におちいっていました。不安でおびえ、助けを求める弟子たちに、主イエスは近づき、「わたしだ。恐れることはない」と呼びかけてくださいました。それは主の懐かしい、力強い言葉でした。イエスを舟に迎え入れると、嵐はやみ、平安と安心が与えられたのです。

私たちの人生においても、おしよせる困難を前にして、一歩も前に進めない、先の見通しが立たない、不安や焦り、悲観が覆うことがあります。こんな時こそ、その信仰が試され、鍛えられるときです。また主を近く感じるとき、主の恵みと御心を発見できるとき、主とお会いできるときなのです。「わたしだ。恐れることはない」とのみ言葉を待ちましょう。このみ言葉が、つねに私たちの信仰の支えとなるように記憶しましょう。 (6/25  山本修一説教から

2023/6/25 週報メッセージ

「神の言葉はつながれていない」 (Ⅱテモテ 2:1-13) 

 

1942年の6月26日の早朝、全国のホーリネス系諸教会の教職が、治安維持法違反の嫌疑をかけられ一斉に検挙されました。81年前のホーリネスの弾圧という出来事が、現代に生きる私たちにどのようなことを教えているのかを、テモテへの手紙二の御言葉から学びたいと思います。

殉教の死が迫っているパウロは、息子に遺書を書き残すような思いをもって愛弟子のテモテに「わたしの子よ、あなたは、キリスト・イエスにおける恵みによって、強くなりなさい」と語り掛けています。私は今、獄につながれている。テモテよ、お前はそのことの故に気弱になっているかも知れない。そのことを恥じているかも知れない。しかし、どうか恥じたりしないでほしい。なぜなら私は主によって捕らえられているのだから。弾圧に遭ったホーリネスの牧師は、決して華やかな英雄ではありません。苦しみ、悩み、涙し、時には恥ずかしい思いを忍びながら、必死に生き抜かれたのです。キリスト者の生き方は、世間から見て要領の良い、いわゆる得な生き方ではありません。馬鹿正直で損な生き方。時には不器用な生き方と見られるかもしれません。しかし、そんな生き方を恥じることはないのです。弾圧に遭った牧師たちは、極限状態にあっても御言葉の恵みに支えられて耐えることが出来ました。獄中にあっても御言葉は先生方を守り続け支え続けたのです。まさに神の言葉はつながれていなかったのです。家族から隔離されても、教会を奪われても、拷問を受けても、命の危険に晒されても、御言葉が与えられていたから耐えられたのです。米田豊牧師は「獄中の感」としてこういう言葉を残しています。「過去を思えば感謝。現在は平安。将来は信頼あるのみ」。この短い言葉に、神の言葉に生きる者の幸いのすべてが込められています。                             

(6/18 柏 明史師 説教から)

2023/6/18  週報メッセージ

「まさにこの人こそ」(七つのしるし④

                       (ルカ 6:1-15)

 

7つのしるしの4番目は、「五つのパンと二匹の魚」の物語です。この物語は4つの福音書すべてに登場する重要な物語です。

五千人の給食のしるしはどこでなされたのでしょう。共感福音書(マタイ・マルコ、ルカ)によれば「人里離れた所」であり、ヨハネによれば「山」でありました。「人里離れた所」とは、原語では「荒野」(エレーモス)です。主イエスが洗礼後、サタンの誘惑を受けられたところです。聖書のいう「荒野」とは、単なる自然の荒れ地をいうのではなく、「人に頼ることのできない、神にしか頼ることのできない場所」を意味しています。現代の私たちも、人に依存しない、神にのみ依存せざるを得ない「荒野」に立っていることを自覚したいものです。これは信仰の第一歩です。

この物語では主の弟子たちの不信仰が問われました。フィリポは、五千人以上のパンをまかなう店も、それを買う金もない(7)…、アンデレもたった五つのパンと二匹の魚ぐらいでは、焼け石に水だ…と思いました(10)。これは私たちの「見える世界」の合理的(常識的)な判断です。見える世界に支配されている人々は、その解決を見える方法の中に見出そうとします。しかしイエスのとられた方法は、「ことば」でした。ベトザタの池で38年間病気だった人を、王の役人の子どもを、癒やされたのは主のおことばによるものでした。

人々は、この大きなしるしを見て、イエスを何者ととらえたかがこの物語のテーマなのです。 人々はイエスを預言者だ(14)といい、政治的な王、民を満腹させてくれるメシヤに立てようとしました。人々はポイントがずれ、イエスを正しくとらえることはできませんでした。ヨハネは力説します。まさにこの人こそ、メシヤ、救い主である…と。

(6/11 山本修一師説教から) 

2023/6/11 週報メッセージ

「事実・真実・メッセージ」(ルカ 6:1-15) 

(多く赦された人は多く愛する

毎年、6月第一聖日の記念日礼拝に桜ヶ丘教会に招かれています。もう20数年にもなります。昨年も朝位真士先生は駐車場まで見送って下さり、「来年もお願いします」との申し出を受けました。それがどうしてこのようになった(朝位師の召天)のでしょうか。

この「罪深い女が涙でイエスの足を洗ったという物語」は、絵画史上では、美しい聖画として、イエスを愛する献身的女性の姿として描かれています。しかし理解に苦しみ、奇妙で、受け入れがたい事実でありました。決してそんなに美しい絵のごとき現実ではなかったのです。

この女性は多くの人々の突き刺すような視線と軽蔑を感じながら、イエスの足下に座りました。イエスはファリサイ派の人たちから歓迎されて家に入ったわけではなく、大きな陰謀の中で食卓に着いたのです。

私たちは信仰の心でこの話を受け止める必要があります。罪の女は、イエスによって罪が赦されることを知っており、イエスの前で涙を流しました。自分が犯した深い罪を赦していただくためにイエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐったのです。聖書は言います。「多くを赦された人は多く愛する」と。 私たちは事実の中に真実を見出し、真実の中から神さまのメッセージを聞くのです。

「私は高校受験に失敗し、やむなく失敗した生徒の集まる高校に入学しました。しかし理科と数学がさっぱり分からず、一学期と一日で退学しました。絶望的で、みっともない、情けない思いを引きずりつつ、必死に祈りました。あるとき主から恵みの雨が降り注ぎ、一週間続きました。後にも先にもない大きな恵みの経験でありました。このとき牧師になる決心がつきました。以来66年間、一度も後ろを振り返ることなく、主に仕えてきました。私は他のことは何も知らない人間ですが、そのつど教会の優秀な人々に支えられて来ました」

(6/4 岸義紘師説教  代筆山本)